第二章 籠の鹿 五
五
「クッソ、なんでこんなに待たされなきゃなんねぇんだよ」
ぼやくキースは珍しく不機嫌そうに、踵を床へ小刻みに打ち付けていた。貧乏揺すりは困るが、無理もないだろうと芙由は思う。
政府の遣いとして来たのに州庁のロビーで待たされて、早一時間。買わされた喧嘩のせいでこんな待遇を受けては、さしもの彼もやりきれないだろう。確かに過剰防衛だったような気もするが。
「自業自得だ」
「俺が悪いってんですか」
「いつだってお前が全て悪い」
床を叩いていた足の動きを止め、キースは渋い顔をした。
「全否定ですか」
「肯定しようもないな」
悲しそうに溜息を吐き、キースは体を折り畳むようにして膝の上で頬杖をついた。気味の悪い格好だと、芙由は思う。
州庁には、ひっきりなしに人が出入りする。それでも役所というのは概ね静かなものであると芙由は思っていたのだが、ここはやけに騒がしかった。
私語が多いというよりは、市民の柄が悪い。何をしにきたのか、戦闘服を着た軍人の姿も時折見受けられる。任務以外の戦闘服での外出は、原則的に禁止されている筈なのだが。
警邏でも警備でもないのに、役所で何か仕事があるとも思えない。大体警邏や警備組は、基本的にスーツ型の常服しか着ない。
「いつまで待たなきゃなんねんですかね。二日酔いで頭痛ぇし」
「何だあれしきで二日酔いとは」
「実は下戸なんです」
「トシのせいだろう」
足を組み替え、芙由は視線を窓口へ移す。職員達の動きは妙にゆっくりしており、勤務中は機敏に動く出雲島民とは勤務態度が全く違う。これでは混んでも仕方ないだろう。
大きな欠伸を漏らし、キースは長椅子の背に上体を預ける。落ち着きのない男だ。彼はここに着いてからずっと、喫煙室とロビーを行ったり来たりしている。
キースの落ち着きのなさも問題だが、役所へ出入りする市民達の方が遥かに問題がありそうだ。中には婚姻届を提出しに来たような若い男女の姿も見受けられるが、大半が厳つい男なのだ。芙由はキースが席を外している間に何人かに声をかけられたが、言葉が分からない振りをしてやり過ごした。伊太男の軟派な所は全く変わらないのに、何故こうなってしまったのだろうと思う。
大体軍人やマフィアの構成員めいた男共が、真昼間から役所へ来る理由が、芙由には分からなかった。あまりいい想像は出来ない。こんな様子を使者に見せて、問題ないと思っているのだろうか。脅しのつもりなら、馬鹿げているとしか言いようがない。
そもそも問題を起こしたとはいえ、世界の中心たる大社から来た賓客を、こんなロビーで待たせる事自体間違っている。芙由も別段優遇を望んでいる訳でもないが、部屋ぐらい用意して然るべきではないのだろうか。出雲を馬鹿にしているとしか思えない。
考えれば考えるほど腹が立ってきた。隣で肘掛けを指先で叩くキースにも腹が立ち、芙由はそちらを睨む。
「ウェイト」
キースの動きが、ぴたりと止まった。
「……え、なんですか?」
「なんでもない」
少し楽しかったので、芙由は落ち着いた。代わりにキースが怪訝な顔をする。
「あんたも俺を犬扱いですか」
「犬だろう。私もな」
軍人が犬と馬鹿にされるのは、昔から変わらない。番犬のような仕事だから、あながち間違ってもいない。
「あんたはドーベルマンかなんかだろうが、俺はニューファンドランドですよ」
「そんな可愛いものじゃないだろう、ボクサーか何かだ。あの不細工な犬」
「……ええ、あの丸めて潰した段ボール紙みてえな顔の犬? そんな皺くちゃですか俺」
それはパグではないのだろうか。別にどちらでもいいが。
「聖女様、賢者様」
目の前に、黒いスーツの男が立っていた。いつ近付いてきたものか、周りが騒がしいので芙由は全く気付かなかった。
「大変お待たせ致しました。こちらへ」
「ああ待ったよ、待ちくたびれたよ全く。ケツが痛え」
大儀そうに立ち上がり、キースは欠伸を噛みころす。芙由も嫌味の一つぐらい言いたい気分だったが、流石にやめた。そんな事は知事に直接言えばいい。
窓口の内側にある職員用エレベーターに乗り込むと、案内係が階数ボタン脇のスリットに、カードキーを差し込む。ボタンにはない三十階の表示が点灯し、エレベーターが動き出した。厳重な事だと、芙由は思う。
大社は巨大だが警備の兵士が多いので、こういったビルよりはオープンだ。その代わり秘密主義が徹底しているから、職員でも上層部の役人の居場所は知らない。
だからアナログでも問題ないのだが、いっそ大社も機械化して、近衛師団に回す人員を減らして欲しいものだ。その分をいつでも人手不足の教導団に回せばいいものを、そうしないから役人の考える事は分からない。
「うちにも欲しいなァ、これ」
キースが羨ましそうに呟いた。米の州庁は横に大きい上、大社と同じく警備が厳重なので、普通のエレベーターしかない。芙由が以前来た時はこれも普通のエレベーターだったので、最近変えたのだろう。
「子供か」
短く突っ込んだ時、エレベーターが停止してドアが開いた。案内係が先に出て、脇で頭を下げたまま扉を押さえる。赤いカーペット敷きの廊下には、誰もいなかった。
一階の喧騒が嘘のように、静かな階だった。カーペット敷きの為足音も聞こえず、歩く際にスーツの生地が立てる、衣擦れの音だけが響く。訪問に慣れていない芙由よりも、キースの方が居心地悪そうに肩を竦めていた。
案内係が廊下の突き当たりの扉を開けたので、促されるまま中へ入った。部屋の中央には、いかにも伊太らしい金華山織りのソファーが二台、センターテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている。テーブルの大理石磨き上げの天板に、小振りなシャンデリアの光が反射して輝いていた。
この応接室には、芙由も昔、何度か通された事があった。窓の大きな開放感のある部屋には変わりないが、調度品が派手になっている。趣味は悪くないが、州庁の維持費は市民の税金で賄われているので、これも問題だろう。
ソファーに腰を下ろすと、見計らったかのようにトレーを持った事務員らしき女が入って来る。彼女がカップを二つそれぞれの前に置いて一礼した後、案内係が頭を下げた。
「こちらで少々お待ちください」
「は? また?」
芙由は発言したキースの足を、反射的に蹴った。ひ、と声が漏れたが、無視して案内係を見上げる。
「申し訳ないが、早めに頼む。こちらも暇ではないんだ」
「かしこまりました」
事務的な口調だった。本当に分かっているのかと掴み掛かりたくなるのをなんとか堪え、芙由は案内係の背を見送る。扉が閉まってから、キースが小さく舌打ちした。
「気に食わねえな」
いつの間に銜えたのか煙草に火を点けながら、彼はくぐもった声で吐き捨てる。
「全くだな。これだから一年中スーツの輩は嫌いなんだ。軍人なら尻をひっぱたけば、火がついたように飛び出して行くぞ」
「同意見ですがね、あんたも今はそのホワイトカラーですよ」
視線を落とすと、スラックスを穿いた自分の足が見えた。
「……知事が来たら一発ブチ込め。自己責任で」
「ヤー。責任取りますよ、もしあんたがは」
「対象もモノも違う。いい加減沈めるぞ」
言葉を遮って横目で睨むと、キースは肩を竦めて芙由から少し離れた。下水道にでも沈めてしまいたい。
不意に、ドアノブが音を立てた。勿体ぶるようにゆっくりと扉が開き、上等な白いスーツに身を包んだ女が現れる。美人だと、芙由は素直にそう思った。
皺一つない、白人特有の白い肌。豊かな胸と肉感的な足とはアンバランスな程、くびれた腰。肩口で少し広がったブロンドの髪はきついウェーブを描き、元々小振りな顔を更に小さく見せている。仇っぽい切れ長の目とサーモンピンクの唇には、艶やかな笑みが浮かべられていた。
横のキースが、心持ち身を乗り出した。彼の視線は、開いた襟元から覗く見事な胸の谷間に注がれている。これだから男は、とは思ったが、芙由は何も言わなかった。
「お待たせして申し訳ありません」
少し訛りのある出雲語だった。芙由が立ち上がると、伊太州知事、テオドラ・オルトラーニは優美な仕草で片手を差し出す。芙由がその手を軽く握ると、彼女はもう片方の手も添えて柔らかく握手した。
「伊太州知事のオルトラーニと申します。遠いところをご足労頂きまして、申し訳ありませんでした」
「戸守です。こちらは北米の……おいカークランド」
キースは煙草を銜えたまま、真顔でテオドラを見つめていた。芙由が語気を強めて呼ぶと、彼は煙草を灰皿に置いて立ち上がる。それと入れ替わりに、芙由はソファへ腰を下ろした。
「北米賢者のカークランドです。今日は護衛ですがね」
「お噂はかねがね。銃の腕は世界一だとか」
長身のキースを見上げる格好になったテオドラは、彼にも両手を差し出して笑みを深くする。その手を軽く握ってから、キースは彼女に笑って見せた。しかしその視線はやはり、胸の谷間に注がれている。
「自称ですがね。それにしても」
テオドラとほぼ同時に腰を落ち着け、キースは灰皿の上でくすぶる煙草に手を伸ばす。
「こいつァすげえキャノンボー……っぐ」
芙由の鋭い肘鉄が、失言しかけたキースの腹にめり込んだ。蛙が潰されたような声を漏らして、キースは体をくの字に折り曲げる。
一瞬の沈黙の後、芙由は姿勢を正した。
「失礼しました。この男は放っておいて下さい」
腹を押さえて呻くキースを無視して、芙由はテオドラと向き合ったままそう言った。テオドラは艶やかな笑みを崩さず、口元を掌で抑えて笑う。
「面白い方ですわね」
何一つ面白くなかった。芙由は顔をしかめそうになったが、一つ咳払いして誤魔化す。
「……州知事殿は、女帝と呼ばれているそうですね。どういう意味だか、お分かりに?」
「あだ名ですわ、聖女様。口の悪いマフィア達が、勝手に」
「そのマフィア共を取り締まるのが、あなたの役目では?」
テオドラの微笑が、僅かに引きつった。隣でキースが鼻を鳴らして笑う。逐一反応しないで欲しかった。
「その通りですわ。冗談のつもりだったのですけれど」
「それは失礼。生来真面目なもので」
さらりと嘯きながら、芙由はテーブルに置かれたコーヒーへ手を伸ばそうとする。しかし膝から手を動かした所で、キースの手がそれを制した。一瞬目が合ったが、すぐに逸らされる。
「賢者殿は、どこ行っちまったんです?」
言いながら、キースはさりげなく手を離した。
「嫌ですわ、総知事と英州におられるじゃありませんか」
「その英州から、最近何かと理由つけて、庁に顔出さねぇって言われてんですがね。知らないなら仕方ねえが」
嫌味のような口調だった。彼は相変わらず、何を考えているのかよく分からない。
「シーウェル総知事とパガニーニ補佐官はお忙しいでしょうから、仕方ありません」
芙由が発言すると、キースはゆっくりと煙を吐き出した。煙草の濃い臭いが、顔の周りを漂う。
テオドラは相変わらず微笑を浮かべていた。過ぎるほど完璧な笑顔だが、芙由は薄ら寒さすら覚える。出し抜けに引っかかってくれたのが、嘘のように思える程に。
「私共は今回、ローマがこのように荒れてしまった理由を伺いに参りました」
千春から必ず言えとしつこく言われていたのが、この台詞だった。出雲が事前になんと言っていたのか芙由は知らないが、テオドラの表情が僅かに硬くなる。些細な変化だったが、芙由も伊達に長生きはしていない。表情の変化ぐらいはすぐに分かる。
「このローマだけではありません。以前の伊太は、穏やかないい州でした。今のように軍人達が幅を利かせ、不安に満ちた州ではなかった」
「ええ、彼らは殺気立っております。何しろ、とうとう内戦が起こってしまったのですから」
口調と表情に憂いを滲ませ、テオドラは言う。なんとも白々しい発言だと芙由は思うが、指摘する事も出来ない。出雲と華州がついこの間まで刃を交えていた事は、紛れもない事実だからだ。
「そう、内戦が起きてたんですよ」
身を乗り出してきたキースが、唐突に口を挟んだ。芙由は驚いて彼を見る。
「そういやまだ報道させてないようですがね、華は蒙古から撤退したんです」
「まあ……それは」
「そりゃもうあちらさんは、グラム百円の豚肉みてえに細切れにされて、泣いて逃げ帰ったそうで」
芙由は嘘を吐くなと言いたかったが、流石に堪えた。テオドラの表情が、ここへ来て初めて曇る。何を考えているものか、芙由には読めない。
「ただね、あっちもそろそろ、銃器の生産を始めちまいそうな状況でして」
こちらが何を言いたいのかも、芙由には読めなかった。キースが乗ってきたら任せろとは言われたが、些か不安になる。ただ、テオドラの顔から笑みが消えて行くのを見るのだけは、少し愉快だった。
「おたくの兵士は正しいですよ。一度露と出雲に負けた華がいつこっちに来るか、分かりゃしねえんですから。いや、ウチも見習わねえとな」
にやけたキースが、初めて頼もしく思えた。笑みの消えたテオドラの顔が、ようやく年相応のものに見える。
「……気を引き締めておきますわ」
「そうそう、まずはごろつきみてえな犬共をしつけ直すトコから始めた方がいい。出雲の教育部隊の受け入れを考えといて下さい」
テオドラの顔色が変わった。率直に言われる方が応えるようだ。
「つい昨日、国宝に噛み付いて来やがったバカがいたもんでね。軍部は総大将に任せといたらいけませんよ。軍人は犬だが、頭のいい犬だ。頭使ってしつけてやらねぇと」
「心得ました」
テオドラの返答を受けてキースが頷くのを見て、芙由は腕時計を確認した。
「時間です。そろそろお暇致します」
かなり待たされたせいで殆ど話せなかったが、テオドラの人物像は大体結べた。後は出雲賢者に任せればいいだろう。
芙由が立ち上がるのを見ながら、キースは煙草の火を消す。テオドラはくすぶる火に視線を落とした後、ゆっくりと立ち上がった。少しはこたえただろうかと、芙由は思う。
「州の事を、もう少しよくお考え下さい。知事は州と民の為にあります。放し飼いにするのが良策とは言えない」
「リードをもうちょっと、短くしといて下さいよ」
扉はキースが開けた。テオドラは二人に深く一礼して見送る。
「神に仕える者として、精一杯尽くさせて頂きます。ごきげんよう」
芙由は目礼だけして、その場を後にした。これ以上、何も言う事はない。
役所の外へ出ると、一気に空腹が襲ってきた。あの場にいた時は何も感じなかったが、自分も緊張していたのだろう。それが少し、腹立たしい。
「結構時間経ってましたね」
冬の空はもう、日を落としかけていた。ぼやいたキースは不揃いな前髪をかき上げ、州庁を振り返る。
「待ち時間が長かったからな。……コーヒーに何か入っていたか?」
視線だけで芙由を見下ろし、キースは彼女の背を軽く押した。促されるまま、芙由は歩き出す。
「隙見せちゃいけませんよ。余裕なら良かったが、あんたちょっと石地蔵みてえになってた」
自覚がなかったので、芙由は眉を顰めてキースを見上げる。
「あんな回りくどい言い方したってダメですよ、ああいうのは。ありゃ娼婦の目だ」
「娼婦?」
問い返すと、キースはばつが悪そうな顔をした。つい口から出てしまったのだろう。ジッパーでもあれば楽だろうにと、芙由は思う。
「……まあいいが、お前ははっきり言い過ぎだ。冷や冷やした」
「スイマセン。今度は出来る限り餃子の皮に包みます」
「にんにくは控え目にな。まあ……」
口元を緩めると、キースが目を見張って立ち止まった。芙由は彼を見上げたまま、目を細めて笑う。
「お陰ですっきりした」
昨日なら、彼に普通に笑いかけようとは思わなかっただろう。芙由は基本的に無愛想だし、キースの事も嫌いだった。ただ今は、見直した部分もある。
暫く黙り込んでいたキースが、瞬きと共にゆっくりと口を開く。芙由はとっくに笑みを消していた。
「……芙由さ」
「近付くな」
制止の言葉を口にしたのは、近付いてきたキースの顔面に掌を叩き付けた後だった。ばちんと小気味良い音がして、キースの全身が竦む。反応がいい。
「とにかく飯だ。食べたら出雲に報告した後、ここを発つ」
「は、早くないですか。もうちょっとこう……」
「お前も暇じゃないだろう。行くぞ」
キースは顔を叩かれたせいか涙目になったまま、それでも黙って芙由に着いて行く。芙由は金輪際彼に甘い顔をするものかと、心に誓った。