第二章 籠の鹿 三
三
清潔感のある白で統一された部屋は、凪の夜の海のように静かだった。窓から見えるライトアップされた夜景は、中々に趣がある。芙由はなんともいい気分で、片手に持ったグラスを揺らす。立ち上る白ワインの柔らかな香りが、鼻先を擽った。
答えの出ない考え事をするには、質の良いアルコールがあるといい。悩んで悩んで体中の糖分を使い切って腹が減る前に、ぱったりと眠ってしまえるからだ。駐屯地にいては中々出来ない贅沢だろう。仕事で来てはいるものの、こういう時間だけはゆっくりしていたいものだと彼女は思う。
ローマの美しい町並みは変わらない。夜の喧騒も、ここまでは届かない。少なくとも、戦場にいた頃よりは落ち着いている。自宅でくつろぐ程の安らぎは得られないものの、この穏やかな時間は有難かった。そもそもここ数年、自宅へは帰っていない。
副師団長が死んだのは、出雲へ戻る輸送機の中だった。当たり所が悪かった為かひどく熱を出し、すみません、と何度もうわ言のように呟きながら、彼は死んで行った。芙由はやっぱり泣かなかったが、溝口の死は砂漠の乾いた風よりずっと、彼女の胸に沁みた。
あそこで周の申し出を断っていたら、恐らく芙由は今も戦場にいただろう。犠牲ばかりが無為に増え、悲しむ人はもっと増えていただろう。だから、あの決断は間違いではなかったと、芙由は信じている。
それでもやっぱり、悔しかった。戦場で戦って死ぬのとは違う。たった一つの銃弾でいとも簡単に命を奪われた事が、何よりも悔しかった。溝口に最後の最後まで部隊を案じさせ、あまつさえ謝らせてしまった自分自身が、憎かった。
人の命は、簡単に奪われるべきものではない。戦ったことは若くして死んで行った兵士達が最後に灯した火であり、大火にはならずとも精一杯燃やし尽くしたと、誇る事も出来る。最期まで戦ったというその事実が、軍人として神に仕え、死んで行った者達が、唯一誇れる事だ。戦場に在る兵士にとっては、戦うことこそが即ち生きることだった。
けれど銃は、生きる事をも一瞬にして葬り去った。溝口少将は最期までしっかり生きたと、芙由は胸を張って言える。けれど彼にとっては、どうだろうか。
済みませんと謝った彼のその言葉に、全てが詰まっていたような気がした。上官を庇って死んだのだ。彼は寧ろ死のその瞬間まで、芙由を守ったことを誇れる筈であった。
けれど、彼はそうしなかった。死にたくないとも言わず、家族の名を呼ぶ事もせず、ただ芙由に謝りながら死んで行った。苦しいだけの、最期だった。
だから彼女は、あの鉄の塊がどうしても許せない。たとえ必要であったとしても。自分自身が手にしなければならない事態に、陥ってしまったとしても。
芙由は揺らしていたグラスの縁に唇をつけ、中身を少し口に含んだ。林檎の蜜のように瑞々しい香りが口一杯に広がり、鼻から抜けて行く。赤の渋みはあまり好きではないが、白は口当たりの良いものが多いので、たまにこうしてゆっくりと飲む。
大きく息を吐いた時、ドアの外から話し声が聞こえた。ややあって扉が開き、キースが顔を出す。千春に怒られていた筈なのだが、何故か機嫌が良さそうに見えた。
「案外早かったな」
電話が置いてあるロビーでは、我慢していたのだろう。煙草に火を点けながら、キースはティーテーブルを挟んだ向かいのアームソファーへ腰を下ろした。重たそうなガラスの灰皿を引き寄せ、彼は一口目を惜しむようにゆっくりと煙を吐き出す。
「向こうも忙しいですからね。散々嫌味言われて、一方的に叩き切られましたよ」
言いながら、彼は持っていた書類を芙由に差し出した。出雲からのファックスだろう。
「それは良かった」
「良かねえよ。あんたは俺が怒られてる間に、呑気に飲んでたんですか」
芙由は紙面に視線を落としたまま、ベッドの脇に置いてある小型のワインセラーを指差した。その上のグラススタンドには、整然と華奢なワイングラスが並べられている。キースは芙由の指とグラスを交互に見た後、億劫そうに立ち上がった。
「付き合わせて頂けるとは思いませんでしたよ」
「このボトルが空いたら、自分の部屋に戻れよ」
「はいはい」
A四の紙三枚分に渡って書かれた報告は、伊太州知事からの返答が曖昧なものである事を示していた。既に遣いが州内にいるというのに、知事は未だに濁した答えしか返して来ないようだ。これでは知事に会えるかどうかも怪しい。
ここまで来てどちらともと会えなかったら、来た意味が無い。知事と会って話すというのも重要な目的だったが、それよりも、千春は全く表に出て来なくなった賢者の安否を心配していた。
芙由も何度か欧州賢者に会った事はあるが、かなりのお節介焼きだったから、伊太州がこんな状態になっているのに何の手も打たないということがまず有り得ない。どこかで生きてはいるものと思われるが、何しろ欧州は遠い。賢者と連絡がつかなくなって初めて、出雲はその不在に気付いたという有様だ。居場所が分かる筈も無い。
欧州賢者が補佐する総知事の動向も、実際の所はよく分からない。本来なら英州にいる筈なのだが、英州知事に聞けば、最近は州庁にも滅多に顔を出さないという。今どこで何をしているのか、それすらも掴めない状態だ。
どうしようもないとしか、言いようがない。だから今回こうして全ての元凶とも言うべき伊太に来たのだが、目的が果たせるかどうかも疑わしかった。
戻って来たキースは、既に三分の一ほど減ったボトルの中身をグラスに注ぎ、一気に飲み干した。芙由は呆れた目でそれを見た後、溜息を吐きながら書類をテーブルに置く。残りは新任の副師団長からのだらだらとした報告だけだったので、読む気が失せた。
「ワインぐらいゆっくり飲めないのかお前は」
「酔えればいいじゃないですか。ちょっと甘いな」
「文句を言うなら飲むな、部屋に戻れ」
興醒めだ。こんな事なら誘わなければ良かったと、芙由は後悔する。そもそも何故誘う気になったのか、自分でも分からない。
「まあまあ。いい女が目の前にいりゃ、どんな酒でも美味いんですよ」
調子に乗った発言を、芙由は無視した。これでよく、ころりと死なないものだと思う。
「……女帝はどうだって言ってます?」
無言の間を断ち切るように、キースはそう聞いた。ファックスは見なかったのだろうか。
「賢者との面会については、ごねているそうだ。州知事とは会えそうだがな」
「バンビと総知事は、どこ行っちまったのかねえ」
呑気な声だった。芙由は思わず脱力する。
法律こそ同じくしているものの、政治は大陸ごとに任せてある。総知事を差し置いて州知事と面談というのも妙な話だが、全ての元凶が伊太州知事だったので、それも仕方なかった。
州知事に賢者との面会を求めるというのも、また妙なのだ。千春が何を考えているのかさっぱり判らないが、それについての返答が曖昧ながらもあるということは、間違ってはいないのだろう。そうなると、賢者も総知事も、この伊太にいる可能性が高い。
伊太州知事が何を企んでいるのか、芙由は知らない。芙由がここへ来た理由はそんな事を知る為ではないし、例え知ったとしてどうする事も出来ない。その辺りの事は、千春を筆頭とする政治家達に任せておけばいいのだ。百年以上前から軍人の芙由は、威圧こそすれ相手を丸め込むことなど出来はしない。
「ここにはいるだろうな。英州も、総知事と賢者の行方が分からん以上、伊太知事に操作されている可能性がなくはない」
「よくやるね女狐も。そんだけの労力を治安維持に使えば、相当富裕な州になる筈ですがね」
「州を豊かにしようとしている訳ではないのだろう。内戦さえ起きなければいいという話でもないな。軍人は腐っているし」
毒吐いてから、芙由はワインを喉に流し込む。そう酒に強い訳ではないので、少し暑くなってきた。
武力はいついかなる時も、交渉が行き詰まった時の最終手段だと言える。チンピラの喧嘩とは違う。向こうが目的を明確にしてこない以上、内戦が勃発する事はないと思われた。
逆に言えば、伊太側が出雲への要求を提示して来たら、それは内戦の前兆だと言える。独立か、はたまた州土か。どんなものだったとしても、出雲が易々と呑めるような希望ではない筈だ。伊太は元々肥沃な土地にあるから、金銭的な問題でもないだろう。
「なんで、銃はダメなんです?」
つまみのチーズを口に運びかけていた手を止め、芙由は眉を顰めた。ついさっきまでそれで悩んでいたというのに、蒸し返されたくない。キースに話す気も起きなかったし、説明しても彼は納得しないだろうと思った。
彼は銃があったから、まだ混沌としていた当時の雨州で生きて来られた。今も愛用している銃が一丁と身一つで、彼は生き抜いてきたのだ。そんな彼に何を言っても、芙由の言葉は伝わらないだろう。誰かに分かって欲しいとも思わない。
「嫌いだからだ」
「好き嫌いの問題なんですか?」
「そういう事にしておけ」
ふうん、と鼻を鳴らして、キースは背もたれに頭を預けた。彼は身長が高いので、相当浅く腰掛けていないと頭は乗らない。正面から見ると首から上がないように見えて、気味が悪かった。
彼のその姿に首から上のない遺体が思い起こされ、芙由は気分が悪くなる。自分でやった事とはいえ、あそこまでやる必要はなかっただろうと思う。あの時は、確かにどうかしていた。久々に戦って熱くなっていたこともあるが、頭に血が上っていたのだろう。
無為に歳を重ねただけで、自分もまだまだ甘い。そう考えながら、芙由はチーズを一欠け口に放り込む。強い塩気に、クラッカーが欲しいと思う。
「人を守るには、奇麗事を忘れなきゃなんねえ事もありますよ」
どきりとした。キースの骨張った手が、上を向いた顔に煙草を近付ける。
「どんなに頑張っても、ヤリじゃ守れねえもんもある」
反った首に浮いた喉仏が、彼が喋る度に上下する。見るでもなくそれを眺めながら、芙由は眉をつり上げた。
「何が言いたい」
吐き出された煙が、天井へ向かって行く。強い脂の臭いに、ワインの香りが掻き消された。
「死ななきゃわかんねえバカもいるってこった」
「死んだら何も分からん」
力なく笑って、キースは頭を起こした。その顔は笑っていない。
「冗談を言ってるんじゃない」
グラスの底に残っていた中身を飲み干して、芙由はワインを注ぐ。飲まなければ話していられなかった。
キースの言う事も分かるが、自分の考えを改める気もない。だからといって、彼を納得させられるだけの弁舌を持ってはいないし、その気もなかった。
賛同者など欲しくはない。自分の思った道を進み、自分に出来る事をしたかった。高貴な身分だと言っても、芙由は娘でしかない。人前に出られない神主の代理であって、それ以上ではない。それでは、何も出来ないのだ。
「私が守るのは世界だ。自分の思想でも、出雲に住む人でもない。それを含めた、全てなんだ」
上を向くように首を傾け、キースは目を細めた。彼の目は、光に当たると青みがかったグレーに見える。怒った犬のそれのような色だった。
「……軍人が守るのは、州じゃなかったですね。そういえば」
言いながら煙草の火を消し、新しいものに火を点ける。吸っていないと落ち着かないのかも知れない。
濃い色の煙に霞み、キースの顔が見えなくなる。別段見たい訳でもなかったので、芙由は黙ってグラスの中身を口に含む。赤を選ばなくて良かったと思う。
「どうして国を守ろうと思ったんです?」
「神主の娘だからだ」
間髪容れずに答えると、キースは思案するように視線を流した。
「神主の仕事は、国を守る事じゃないでしょう」
「お前に教える義理はない」
「水臭いですね」
「お前と仲良くなった覚えはない」
キースがあからさまに顔をしかめた。仲良くなったつもりでいたのだろうか。そういう問題でもないだろう。
彼が何を聞き出したいのか、芙由にはよく分からなかった。気を遣わなくていい分話すのが苦になる事はないが、彼の意図は読めない。軽い調子につられて、言わなくていいような事まで言ってしまいそうで、少し怖かった。
「大義もいいですがね、その為の犠牲は付き物ですよ」
「犠牲になるのなら自分でいい。銃は使いたくない」
虚を突かれたように目を丸くして、キースはまじまじと芙由を見た。見詰め合っているのも不愉快だったので、視線を落としてワインの表面を見つめる。揺れる水面には、何も映らなかった。
はは、と小さな笑い声が聞こえた。馬鹿にしている風でも呆れた風でもない、納得したような声だった。
「それじゃあ俺はあんたが犠牲にならないように、あんたを守ります」
今度は芙由が驚いた。キースは普段通りの表情で笑っている。元々何を考えているのかよく分からない男だが、今日は輪をかけて分からない。しかし。
「臭い」
思ったままそう言うと、キースは肩から脱力した。雨州民は何故こうも芝居がかった台詞が好きなのだろうと、芙由は思う。
「言われ慣れてらっしゃるんですね」
嫌味のようにも取れた。慣れていたら臭いとは思わないような気もする。
「慣れている訳ないだろう。私は処女だ」
グラスに口をつけていたキースが噴いた。彼が動揺する所を見たのは、初めてかも知れない。
これだけ長く二人で顔を突き合わせて話すのも、思えば初めてだった。機会がなかったせいもあるが、声を聞くだけで腹が立つので、あまり話したくなかったのもある。丸一日行動を共にして、それが解消されてしまったのもまた不愉快だ。
何度か大きく咳き込んだキースは、咳が落ち着いてから、目を見開いて身を乗り出した。
「そ、そんなあんた、とっくに百超えたババァがヴァージンとか言っても」
「出雲湾と大西洋と印度洋、どこがいい?」
「あんたの頭の中には、俺を海の藻屑にするって選択肢しかないんですか」
「ミシシッピ川でもいいぞ」
「だから良くねえよ」
グラスの中身を飲み干してキースがワインを注ぐと、丁度ボトルが空になった。あれを飲みきったら追い払おうと考えながら、芙由はワイシャツの袖を捲る。
キースは煙草を銜えたまま、複雑な表情で芙由を見ていた。何を言わんとしているか、今ならなんとなく分かる。分かりたくもなかった。
「あの、ホントにヴァ」
「どっちでもいいだろう。どうせお前には関係ない」
「……ですよね」
キースが悲しそうに吐いた溜息には、気付かない振りをした。