第二章 籠の鹿 二
二
市内一と評されるホテルの最上階にある、最高級のスイートルーム。広い部屋に置かれた調度品は全て白を基調としており、高級ながら華美になりすぎない、品のある空間に仕上げている。一人で宿泊するには勿体無いほど広いこの部屋では、数年前から一人の少女が暮らしていた。
寝ても覚めても、彼女は一人。訪れるのは近衛師団から警護の為に派遣された、軍人だけだ。それを本人がどう思っているものか、毎日顔を付き合わせる護衛の兵士でさえ掴めない。例え苦しいと思っていたとしても、彼女が顔に出す事はないし、不平も不満も口にしないからだ。
「キアーラ、この州は大丈夫なのかしら」
見た目の割に、しっかりとした声だった。小鳥がさえずるように愛らしい声に振り返って、キアラ・ベルガメリは少女の後ろ姿へ視線を移す。キアラは未だに不思議に思うのだが、窓辺に頬杖をついているあの少女こそが、この欧州大陸の賢者なのだ。
キアラは、この賢者の護衛だった。賢者の身辺警護は凡そ軍人達から有り難がられる役職ではないが、彼女にとっては、軍に入ってからずっと望んでいた大役だ。責任を持って果たそうとは思っているが、時折心苦しくもなる。
「大丈夫ではないから、女狐がのさばっているのでしょう。最早伊太州は、落ちる所まで落ちてしまいました」
女にしては低い声を聞くと、アーシア・パガニーニは窓を向いたまま小首を傾げる。その姿を見て、キアラは痛みを堪えるように僅かに視線を落とした。そのまま意味もなく、革靴を履いた自分の足を見る。
キアラは燃えるような赤毛の、背の高い女だった。背中を覆い隠す髪は真っ直ぐで、中央で分けられた前髪の隙間から覗く額は、少し狭い。今は赤毛の特徴であるそばかすは目立たないが、その肌はやはり青白く見える。猫のような淡いグリーンの目はややつり上がり、細い面と薄い唇とのバランスを保っていた。
彼女は自衛陸軍の伊太支部に所属する、軍人だ。賢者と州の為に軍に入り、最初に志した通り、近衛師団に配属された。不満があると言ったら、贅沢になるだろう。それでもキアラは、軍部に憤りを感じずにはいられなかった。
「大陸の長たる総知事はたかが州知事の傀儡と成り下がり、伊太支部は女帝の駒と化してしまいました。大丈夫ではありません」
「でも、あなたは違うでしょう? 副知事だって、ちゃんと私に謝ってくれたわ」
体ごとキアラに向き直ったアーシアは、愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて見せた。豊かなプラチナブロンドはウェーブを描きながら彼女の背中まで伸びており、窓からの光を受けてきらきらと輝く。見開けば飛び出してしまいそうな程大きな、澄んだブルーの目と、淡い桃色の小さな唇。ふっくらとした頬は仄かに赤く染まり、彼女の顔立ちを更に幼く見せている。
キアラは彼女の笑顔を見る度に、胸が痛くなる。幾ら自分より遥かに長い年月を生きてきていると言っても、アーシアは今なお、十歳程度の少女にしか見えない。それがこんなところに一人で軟禁されて、政治介入出来ないように拘束されているのだから、哀れに思わない方が間違っている。
「私はあなたの為の軍人です。駒になる気はありません」
「あなたになる気がなくても、いずれそうなってしまうわ。女帝はすごいもの」
大人びた口調でそう言ってから、アーシアは再び窓の外を見る。下界の喧騒はここまで届きはしないが、彼女は毎日こうしてベッドの上で窓の外を眺めながら、痛ましげに眉をひそめるのだ。
この賢者は数年前から、このホテルの一室に軟禁されている。外部との接触を一切断たれ、自由に外を歩き回る事も出来ない。他州に助けを求める術もなく、警護という名の見張りをつけられ、一日中この部屋で過ごしている。
キアラは何度も、彼女を逃がそうと思った。けれどもその度に賢者本人がやんわりと制止するから、結局出来ずじまいのまま、こうして悶々とした日々を送っている。
アーシアには、逃げる気がない訳でもなさそうだった。けれど彼女は恐らく、キアラの身を案じている。賢者を逃がしたとあらば、キアラの処罰は免れないだろう。護衛をつける事で、伊太知事は心優しいアーシアが逃げられないように檻を作っている。その事実が、キアラを何よりも苦しめていた。
「なりたくは……ありません」
俯いたまま呟くと、アーシアの笑い声が聞こえた。
「キアーラは偉いわね。立派だわ」
窓枠にもたれて、アーシアは子供を褒めるような調子でそう言った。キアラは複雑な心境のまま、ベッド脇のチェアーに腰を下ろす。
「今ここの軍隊はね、自分の為にしか動かないの。神の為の、国の為の軍隊なのに、自分のことしか考えられなくなってしまったのよ」
「知事が……そのように?」
「ひいては、そうね。みんなね、州が変わったから変わってしまったんだわ」
軍議がある日以外は自宅から真っ直ぐここへ通勤しているキアラに、今の伊太支部の内情は分からない。変わってしまったローマの人々も伊太の軍人達も、見たくはなかった。
州知事が交代したのは、キアラが十を数えた頃だっただろうか。当時のローマは平和とは言えないまでも、それなりに豊かだった。まだ幼かったキアラも家族に囲まれて満たされていたし、誰もが陽気で、温かかった。それがたった十五年で、こんな硝煙と罵声に満たされた街になってしまうなどと、誰が予想しただろう。
前州知事のことを、キアラは知らない。今の知事に交代したのがそもそも彼女が年端も行かない頃だったから、覚えている筈もない。それでも、今よりはマシだっただろうと思う。
「みんな変わってしまうの。神は不変を望まれたけど、人はそうは行かないの」
アーシアの声は、どこか寂しそうに聞こえた。キアラは膝の上で組んだ手を握り締め、唇を引き結ぶ。
ローマは、変わってしまった。知事は確実に州を弱体化させ、軍に全てをつぎ込んでいる。彼女が何を為さんとして動いているのかは、末端兵士に過ぎないキアラにさえ分かりきっていた。
知事は後の事など何も考えてはいない。知略に長けた女狐だが、州が独立した後どのように街を復興するかは、まるで考えていないように思えた。伊太の民は独立など望んではいないだろうし、キアラもそうだ。けれど女帝の駒となった軍部が恐ろしくて、誰も逆らえはしない。
知事が実際の所、何故内戦を望んでいるのかは、誰にも分からない。アーシアなどは理解しているような節があるが、キアラに話したりはしない。彼女がキアラに話す事といえば、世界中の御伽噺や、昔のローマの話ばかりだ。それ以外には、お気に入りの菓子屋の話。この話をするのはキアラに土産を買って来て欲しい時なのだが、それも大分、話し尽くしてしまったようだ。
「同じところを、ぐるぐると回っているだけのような気がするのです」
「犬が自分の尻尾を追ってぐるぐる回るのと一緒よ。一人遊びなの。退屈で堪らないんだわ、進歩することが出来ないんだもの」
「退屈だから、軍を?」
アーシアはベッドに両手をついて、跳ねるようにして体の向きを変えた。それからベッドの端に座り直し、キアラを見上げる。
「それとは、ちょっと違うわ。満たされてしまったから、更に上を望んでいるのよ」
「州が一度満たされたから、独立を望んでいる?」
「独立というか、神が欲しいのよ、テオドラは」
聞けば聞くほど、知事の意図が読めなくなってきた。キアラが答えられないでいると、アーシアは小鹿のように細い足をふらふらと動かす。
「神を崇拝したいの。テオドラは神を愛しているのよ」
「意味が……よく」
「キアーラったら。そのまんまの意味よ、真面目なんだから」
そう言われても、分からないものは分からないのだ。
神とは世界を作り直した、いわば創造主だ。記憶を失い戸惑う人々を導き、世界を混乱から救った。今も首都である出雲列島のどこかにいると言うが、その所在を知る者は神主のみだ。それをどうやって手に入れるのか、キアラには分からない。
首都出雲に頼る事は出来ない。頼れば力を貸してはくれるだろうが、それ以前の問題だ。どんなに頼りたくとも、キアラもアーシアも、出雲への通信手段を持たない。ローマ市内での通話記録は片っ端から知事の下へ送られ、不審なものがあれば、軍に呼び出されて尋問される。
今の伊太支部は、腐りきっている。民間人に銃を向ける軍人も少なくないし、権力を笠に着て、市民から搾取している。市民を守る為の兵士が、市を害しているのだ。被害に遭った市民は泣き寝入りするしかなく、誰にも助けては貰えない。
「テオドラの信仰心がそんな方向へ行かなかったら、この州はとてもいい州になっていたんでしょうね」
アーシアの澄んだ目は、どこか大人びた光を宿している。人の良い部分も醜い部分も全て見てきた彼女の目は、見た目の年齢からは想像もつかない程静かだった。
「州を守るべきである筈の軍人が、州民から搾取しているのが現状です。知事がああでさえなければ、昔のように平穏無事に過ごせていたのに」
「あなたも」
伸ばされた手が、キアラの頬に触れた。体温の高い子供の手だが、彼女を見上げるアーシアの表情は、母が浮かべるそれのように慈愛に満ちていた。
「傷つかずに済んだのにね」
思わず顔をしかめると、アーシアはキアラの頬を撫でた。視界の端に、薄紅色に染まった指先が映りこむ。
「昔はそんな事なかったのに。女性兵士が……」
「もう忘れたんです、賢者様」
言葉を遮るように、キアラは語気を強めた。アーシアの眉尻が、悲しそうに下がる。
「私は自分の意思で軍に入りました。私が入った頃には既に腐敗しきっていましたから、何があっても後悔はしないと、そう誓ったのです。だから」
長い指が、アーシアの手に触れる。体温の高い手が、小さな手を包み込むように握った。キアラは泣き出しそうな表情を浮かべるアーシアに、笑いかけて見せる。
「そんなお顔を、なさらないで下さい」
アーシアはきゅっと唇を引き結んだ後、左右に首を振った。何かを振り払うようなその仕草を見て、キアラは彼女の手を離す。アーシアの髪からは、春の陽光のような匂いがした。
「ごめんね、キアーラ。私がここにいるから、あなたは出雲へ行けないのよね」
微苦笑を浮かべたアーシアの言葉に、キアラは目を伏せる。
基本的に軍人は、生まれた地域の支部で勤務するべきであるとされている。けれど出雲本部へ行くという場合は、話は別だ。
世界中で一番軍備や体制が整っているのは出雲本部だし、教育部隊の数も他州の比ではない。一番人員が必要なのも、出雲の本部だ。本人の希望さえあれば、勉強に行ってそのまま出雲の部隊に配属してもらえる。
何より出雲の軍は、どこよりも穏やかだ。軍人同士の衝突など滅多に起きないと言うし、女性兵士が冷遇される事もない。キアラも実際、合同演習の時に彼らの働き振りを見たが、誰もが真面目で冷静だった。島民性でもあるのかも知れない。
それでもキアラは、伊太支部を離れる気にはなれなかった。キアラが軍人になったのは賢者の為に働きたいと思ったからだし、出雲へ行く事は、逃げであると思っている。我が身かわいさに一人だけ逃げられるほど、キアラの州への想いは浅くない。
「私がここにいたいから、ここに居るんです。あなたのせいではありません」
「ねえ、キアーラ。悪いことは言わないわ。お願いだから、出雲に行ってちょうだい。私、あなたが大好きなのよ。こんな所で終わって欲しくないの」
何度、同じことを言われただろう。母のように姉のように、アーシアはキアラを心配している。彼女は欧州大陸に暮らす、己が導くべき全ての人々を、ひいては欧州大陸を、心から愛しているのだ。
それはキアラも同じだ。この街を、この街を正す為に尽力する賢者を、何よりも想っている。だからどんなに危険であろうと、この街からは離れたくない。
「賢者様、私の我が儘である事は分かっています。それでも私はこの州を、あなたを守る盾でありたい」
「……キアーラ」
溜息混じりに呟いて、アーシアはキアラを抱き締めた。抱きついた、と言った方が、正しいかも知れない。身を乗り出したせいで不安定な体勢になった彼女を、キアラは慌てて両手で支える。
形の良い胸に顔を埋め、アーシアは大きく息を吸い込んだ。彼女の行動は唐突すぎて、キアラは時折戸惑う。
「あなたはいい匂いがするわ」
「そう……ですか?」
「ええ。一生懸命生きている人の匂いよ」
どう返したらいいか分からず、キアラは視線を室内でさまよわせる。視界に時計が入り、彼女は思わず声を上げた。アーシアは怪訝に顔を上げる。
「時間です。帰らないと」
「もう? 寂しいわ」
背中に回された腕に、力が篭もった。キアラは宥めるように、アーシアの頭を撫でる。
「明日も来ます。ビスコッティを買ってきますよ。あなたの好きな、アーモンドがたくさん入ったのを」
「まあ。それじゃあ、とってもお腹を空かせておかないと」
目を輝かせながらそう言って、アーシアはようやくキアラから離れた。チェアーから立ち上がって一礼し、キアラは微笑む。
「おやすみなさい、アーシア様」
「おやすみ、キアーラ。素敵な夢を」
部屋から出てドアへ向き直ると、アーシアは満面の笑みで手を振っていた。思わず口元を綻ばせ、キアラは扉を閉める。
廊下へ視線を移すと、向こうから男が一人、歩いて来るのが見えた。顔立ちと格好から察するに、伊太州民ではないだろう。遠目に見ても中々の二枚目だが、表情が疲れきっている。
キアラは眉根を寄せ、その場で立ち止まった。見た事があるような気がしたのだ。知り合いなら挨拶をしようと思ったのだが、名前が思い出せない。よくよく考えてみれば、キアラには他州の人間に知り合いもいない。
誰だっただろうか。記憶の糸を手繰りながら青年を眺めていると、彼は不意に顔を上げた。キアラと目が合うと、口角を上げて笑う。
「ご苦労さん」
民間人にしては訛りのない、きれいな出雲語だった。軍人は出雲本部の軍人と接する機会が多い為、徹底的に公用語である出雲語を覚え込まされるが、民間人の場合は碌に喋れない者もいる。出雲語は難しいのだ。
声をかけられてやっと我に返り、キアラは慌てて頭を下げる。誰だろうと、凝視するのは流石に失礼だっただろう。
顔を上げると、男が目を細めているのが見えた。しかしそれも一瞬で、彼はすぐに笑顔を浮かべる。気のせいだったのかも知れない。
「……あの」
青年が扉に手を掛けたので、キアラは慌てて声を掛けてそれを引き止めた。彼は怪訝にキアラを見下ろす。見れば見るほど忘れようのない顔だと思うのだが、誰だったのか、全く思い出せない。
「どこかで、お会いしましたか?」
黒髪の男は驚いたように目を丸くした後、下を向いて笑った。
「さてね」
どちらとも取れる答えだった。キアラが戸惑っている間に、彼はドアの向こうへ消えた。