第一章 守人たち 一
※ご注意
この作品はフィクションです。
実在の人物、団体名、国名等とは一切関係ありません。
一部差別的、反社会的な表現を含みますが、作中人物の発言、思想、行動等は全て創作であり、作者個人の思想とは無関係です。
尚上記の理由により、人によっては気分を害される可能性があります。
観覧は自己責任でお願い致します。
一
「賢者様、この国には何故名前がないのですか?」
問いかけたのは、薄汚れた作業服に身を包んだ青年だった。緊張したように硬い表情を浮かべる彼の視線は、センターテーブルを挟んで向かい側のソファーに座った女へ注がれている。
柔らかな絨毯の敷き詰められた広い部屋には、革製のリビングセットとマホガニーのデスク。それから壁際に、ぎっしりと分厚い本が詰め込まれた書架しか置かれていないのだが、それでも乃木は威圧感を覚える。家具の一つ一つが大きいせいだろうか。
必要最低限のものしかない室内は、華美を好まない彼女の性格をそのまま表しているようだった。ただし政府の要人の執務室だから、流石に調度品は高級そうだ。
「必要がないからだよ、乃木一等兵」
応えた声は、硬直したまま微動だにしない乃木の様子とは対照的に、落ち着き払っていた。
「呼ぶ必要がないのさ。そもそも国という言葉さえ、不要だとは思わぬか?」
乃木は擦り傷だらけの顔をしかめて、首を捻った。よく日に焼けたベース型の顔は十五、六の少年のように見え、体格がいいせいか、体とのバランスが悪い。黒目がちな目と五分刈りの頭も相俟って、出来の悪い合成写真のようだった。少年のような顔立ちの彼だが、実年齢はとうに二十を超えている。
首を捻った乃木を見て、笹森千春は笑った。薄い唇に引かれた紅はやや黒い肌によく映え、艶やかな笑顔を口元のほくろが彩る。頭頂部に近い位置で結われた黒髪は、緩やかなウェーブを描きながら腰まで伸びていた。
「でも、呼ぶ時に不自由しませんか?」
千春は紫色の表着の襟を掴み、軽く引き寄せた。白い単衣と緋袴とのコントラストがあまりに鮮やかで、乃木は時折目が痛くなる。
「呼ばなくていい。この地球の陸から海、空までもが神の所有物なのだから。それに我々が、勝手に名前を付けると言うのかな? そもそも、名付け方も分からぬだろう」
神とはなんなのか、乃木はこの賢者に聞いた事があった。明確な答えは返ってこなかったが、神はこの出雲という島に住み、民と共に在るのだと、当たり前の事を言っていた。お友達だと思っていた子が神様かも知れないから、喧嘩をしてはいけないよと、幼い頃はよく言われたものだ。
この巨大な国の絶対的な統治者を、人は神と呼ぶ。遠い昔、この国が百以上の国に分かれていた頃、神という言葉は現在のような意味では使われていなかった。それを聞こうと、乃木は神とはなんなのかと千春に聞いたのだが、彼女はいつもまともに答えてはくれないのだ。
民の畏敬の念を一身に集める神は、この出雲という小さな首都に在り、出雲島民に紛れ、出雲島民として暮らしている。神が出雲に居て見守っていて下さるから、出雲は首都として、世界を守らなければならない。そんな責任感が島民達の中にあるせいか、この島でだけは、滅多に争いごとが起きない。
「子供の名前の付け方にだって、最初は迷ったのですよね?」
「ああ、大変だったと聞いているよ。それぞれが隣近所を見て適当に付けてみたら、今ではバラバラさ。親子でセカンドネームが違ったり、英系雨州民の名前がキースだったりね」
例えを出されても、他州の文化をよく知らない乃木には分からなかった。
ロストと呼ばれる天変地異が起きたのは、何百年前と習っただろうか。動植物に害はなかったが、人類は半数以上が死に、残りは言語を除く全ての記憶を失った。
人々が大いに混乱する中、唯一天と地と海の記憶を授かったのが神だ。永遠に死なず、永久に老いない彼はたった一人で世界を建て直し、人々が忘れた全てを、一から教え直した。そうしてある程度不自由せず生活出来るようになった頃、世界の調和を図って国境を撤廃し、代わりに州境とした。世界から争いを根絶すべくして、国というものをなくしたのだ。
けれどロスト以前と変わりない程度にまで体制が整った今になって、初めて内戦が勃発した。亜細亜大陸を統括する総知事の補佐官が謀反を起こし、州土を広げようと他州へ侵攻し始めたのだ。
大罪を犯した者への制裁を、神に直接願う術はない。神は今もこの出雲に存在しているが、その言葉を聞く事はおろか、顔を見る事さえ叶わない。何を思ってか隠遁した神とコンタクトを取る事を許されるのは、ただ一人、神主という最高役人だけだった。
神の言葉は神主の口から、あらゆる情報機器を通して世界中に伝えられる。神は間接的にしか、人と接しない。そんな神の在り方を、乃木は疑問に思う。
「神は、何故華州と伊太州に裁きを下さないのですか?」
千春の切れ長の目が細められるのを見て、乃木は思わず身を硬くした。
「裁くのは神だが、下すのは人だ。神は殺傷を好まぬ」
「でも、軍隊をお作りになられました」
「力でしか解決せぬ事もある。自衛軍が上手く機能しているお陰で、犯罪発生率はロスト以前の半数以下に留まっているだろう」
そう言われてしまうと、乃木も黙るしかなかった。
ロスト以前の世界を、乃木は見た事がない。地球上の歴史の全てを知る六賢者の一人である千春でさえ、ロスト以前の世界など目で見た事はないはずだ。
神が世界中に失われた記憶を伝え終えた頃、ロスト以前の記憶を授かった人々が現れた。南極を除く六つの大陸とこの出雲に一人ずつ出現した彼らは神と違い、全員がロスト以降に生まれた者達だ。
神は七人の賢者達を各大陸を治める総知事の補佐官と定め、出雲の賢者である千春を、そのまとめ役とした。現在六賢者と呼ばれているのは、南米大陸の賢者が逝去したからだ。
彼らは誰より智に秀でているが、知事や軍の指揮官を兼任してはならない。権力は分散されるべきであるとのことだが、各大陸のトップである総知事達でさえ神の小指一本で動くのに、それもないだろうと乃木は思う。
「軍がなきゃ、俺やお前みてえなバカの行き場がなくなっちまうだろ」
聞き覚えのある低いような高いような声に、乃木は思わず扉の方を見た。千春の視線も、そちらへ向いている。
後ろ手で扉を閉めながら入ってきたのは、黒いダブルの背広を着た長身の青年だった。髪も目も黒いが、肌の色と彫りの深い顔立ちで、白人と分かる。目深に被った白い軍帽の鍔の下から覗く鋭利な双眸は、野良犬のように淀んでいた。
「自衛海軍雨支部大佐カークランド、只今戻りましたよ。出雲賢者殿」
着崩された背広の袖で輝く四本のラインと、異常な数の記念章を見た瞬間、乃木は反射的に立ち上がって敬礼した。支部は違っても彼は上官だ。軍人というよりは、犯罪者と言った方が正しいような顔付きでも。
「ご苦労。だが私は北米賢者として、お前を濠州くんだりまで遣わした筈だがね。出雲島民の血税で」
「こちとら百年前から軍人なんですよ、スーツは性に合わねえ」
「地方公務員が何を言っている。さりげなく年齢を鯖読みするな」
「トシなんてもう、両舷灯点いた辺りから覚えてません。……乃木、飽きねぇなお前も。座ってろ」
キース・カークランドはいつの間にか取り出した煙草に火を点けながら、乃木の横へ腰を下ろした。彼が腰を落ち着けたのを確認してから、乃木は恐る恐る元の場所より肘掛けに近い位置へ座る。
隣に座っている男は確かに上司であり、大陸の宝とされる賢者なのだが、どうしてもそうは思えない。見た目で人を判断してはいけないとは分かっているのだが、乃木は千春の執務室でたまに顔を合わせる彼が苦手だった。
特にこれといって理由がある訳でもない。敢えて言うなら、彼の雰囲気が苦手だった。刺々しい訳でもないし、雨州民らしく気さくな男なのだが、それでも何故だか駄目なのだ。馬が合わないとでも言おうか。何より乃木は自分の童顔にコンプレックスを持っているから、単純に顔のいい同性が苦手だ。
「……いや、そういう事を言っているのじゃあない。お前が何を着ようとどうでもいい」
「そりゃすいません」
咎められて悪びれる風もなく、キースは軽く肩を竦めてから、センターテーブルの上に置かれた灰皿を引き寄せる。確かに普通のスーツよりはこちらの方が似合ってはいると、乃木は思う。キースのスーツ姿など見た事もないし、制服を着崩すのもどうかと思うが。
柳眉を顰め、千春は小さく溜息を吐いた。困るなら遣いに出さなければいいだろうにと乃木は思うが、濠州なら大洋賢者の所へ行っていたのかも知れない。
賢者は総知事の補佐役だから、代わりの者がいない。多忙な千春は出雲から離れられないから、いつもこうしてキースが代わりに遣いに出ている。
とはいえ彼も、本来なら北米総知事の補佐役を勤めなければならない立場にある。しかし彼は賢者となる前から軍人だった為、デスクワークに向かない。軍人でいるか補佐官になるか選べと言ったら迷わず軍人を取ったのだと、千春から聞いたことがある。
「大洋は平和でしたよ。昼間っから娼婦がその辺ウロウロしてら」
「それを平和と呼ぶなら、出雲は天国だよ。賢者の様子は?」
「相変わらず脳天気なオッサンだった。土産にカンガルー持ってけってんで、断って逃げ帰って来ました」
脳天気というならキースもそうだろう。雨の州民性なのか、千春と真面目な話をしていても全くそう聞こえない。だから乃木がいても問題ないのかも知れないが。
千春は鼻で笑って、ソファーの上で足を組み替えた。大振りなリビングセットより、畳を敷き詰めた和室が似合いそうな女性だ。
「五十匹程貰ってきて、小隊を組ませれば良かっただろうに。下手な兵より役に立つ」
「銃もヤリも剣もナシの、原始的な肉弾戦限定ですがね。今も充分原始的だが……」
そこで言葉を止め、キースは背中を丸めて灰皿へ煙草を押し付ける。間髪容れずに新しい煙草に火を点ける彼を、乃木は忙しなく思う。乃木に限らず、出雲島民は概ねのんびりしている。
「片っ端からジャーキーにされて、兵糧の足しになっちまうのがオチだ。敵に塩送るようなモンですよ」
食べ物の話をされると、腹が減っている訳でもないのに唾液が出てくるのは何故なのだろう。乃木は二人に気付かれないように、静かに唾を飲み込む。
「缶飯よりは美味そうだな」
「ありゃ食いモンじゃねえ、投げるモンだ」
「五十年ほど前に、大分マシなのが出来ただろうに……お前はカンガルー小隊の話をしに来たのかい?」
「平和だって言いたかったんですよ、笹森補佐官。あんたの頭もね」
皮肉っぽい台詞だったが、千春は笑った。失言を気にするたちではないから付き合い易いのだが、段々話が脱線して行ってしまうのが玉に瑕だ。
お陰で聞きたい事が殆ど聞けないまま、時間だと言って帰されてしまうこともままある。乃木は暇を見つけては質問しに来るから呆れられているのかも知れないが、それなら冗談ばかり言って誤魔化さなければいいだろうにと思う。
「名前通りさ、浮かれているんだよ」
「浮かれている場合じゃ、ないと思うのですが……」
思わず口を挟むと、二人の視線が同時に乃木へ向いた。反射的に背中を丸めて小さくなった乃木を見て、彼らは顔を見合わせて肩を竦める。
「危機感を持つ事は大事だよ。蒙古からいつ応援要請が来るか分からぬ、気を引き締めていなさい」
乃木は複雑な表情で頷いた。
「本部は派遣やら教育やらで頭数が少ねえからな。向こうの指揮官は誰です?」
「今は戸守中将だ。駒不足で戦況が芳しくなくてね」
ヘエ、と大袈裟に声を上げ、キースは心持ち身を乗り出した。
「あのダイナマイトか、そりゃいい。俺も混ぜてもらいてえな」
「混ざるなら勝手にすればいいがね。胸の大きさで女を見るのはやめた方がいいと思うぞ、カークランド」
この男は駄目だ。乃木は一気に脱力しかけるが、姿勢を崩す訳にも行かない。何故に彼が北米の賢者なのかと、時折疑問に思う。
何故もなにも、賢者は神でさえ知り得ない所で勝手にそうなったようだから、選ばれた理由は誰にも分からない。たまたま自分が記憶を与えられただけだと千春は言っていたし、亜細亜の賢者などは首都出雲に反旗を翻し、神の国から独立しようと画策している。そこから考えるに、本当にただ偶然記憶を与えられた人間が、賢者と呼ばれるようになっただけなのかも知れない。
「娯楽なんてそのぐらいですよ。いい加減体も鈍ってきたし、ウチに応援要請しちゃくれませんかね」
「いや、お前にはまだ頼みたい事がある」
煙草の火を消したキースが、あからさまに顔をしかめた。また使いに出されるのだろうと、乃木は思う。彼はよく、千春の代わりに他州へ使いに出されている。
「次は埃州だ。頼むぞ」
「クレオパトラにバラと真珠を届けて来いって?」
乃木には賢者達の吐くこの手の冗談が理解出来ない。クレオパトラというのが阿弗利加大陸の賢者の愛称だということは知っているが、何故そう呼ばれているのかは分からなかった。
キースは億劫そうに立ち上がり、白い軍帽を被り直した。開いた背広の胸元から、銀色のドッグタグが覗く。
「乃木、そろそろいい時間だ。上官殿を正門までお送りしなさい」
見るでもなくキースを眺めていた乃木は、呼ばれて反射的に立ち上がった。
「あ、はい!」
「あ、はいらねえ、返事は了解だ」
「り、了解」
唇の端を上げて笑うキースの視線は、乃木の頭上にあった。根っから軍人だという割に姿勢が悪いので座っていると分かりづらいが、立ち上がって隣に並ぶと、その長身に驚く。
乃木が気圧されて身を引くと、キースは肩を竦めて千春へ向き直った。
「今日は休ませて貰います。流石に疲れた」
「明朝迎えを遣る。穏便に頼むぞ」
「オーライ、雄鶏に添い寝を頼んどきますよ」
調子良くそう言って、キースは千春に背を向ける。先に部屋を出て扉を押さえていた乃木と目が合うと、渋い顔をして見せた。乃木は思わず噴き出す。
執務室を出ると、右手側に長い廊下が続いている。乃木は赤い絨毯を踏みしめながら、つい一年前まではここに辿り着くのにも苦労していた事を思い返す。今では大分慣れたが、未だに他の部屋が何なのか知らない。役人達の執務室である事には間違いないのだが。
大社と呼ばれるこの巨大な建物では、神からこの世界の政治を任された役人達が働いている。入ろうと思えば誰でも自由に館内を歩き回れるのだが、用もないのに窓口のない役所へ来るような物好きは少ない。
更にこの大社は、神を除けば世界で一番尊い立場にある神主が御坐す聖域だ。ここへ通勤する役人か他州からの遣い、または乃木のように賢者に用がある者でなければ、敷地内に入る事さえしないだろう。ただし天丼が安くて美味い食堂があるので、そこでだけはたまに一般市民を見かける。
「お前も毎回よく通うな」
見上げたキースの顔は、どこか楽しそうに見えた。賢者としても軍人としてもろくに仕事をしないふざけた男だし、苦手ではあるが、尊敬はしている。賢者だからという理由ではない。軍人として、彼には憧れる。
神と同じく老いず、半永久的に死なない彼は、そうなる前から軍人として働いていた。それだけ長い間あの犯罪多発地域で取り締まりに勤しんでいたというだけで、尊敬に値する。
「知りたくなると、いてもたってもいられないんです」
「出雲の軍は暇だね。犯罪発生率はうちの半分以下だもんな」
「出雲の犯罪発生率は、世界中で最低ですから」
「ここには神がいるからな。たまには出張して来て欲しいモンだ、そうすりゃバカ共も、ちょっとは大人しくなるのによ」
いつの間にか、キースの方が先を歩いていた。見送りというより、出口まで案内されているようだ。
「そちらは、やっぱり大変なんですか?」
さりげなく問い掛けると、キースは首を捻って耳の裏を掻いた。考えごとをする時の、彼の癖だ。
「どうだかな、ウチはこれが当たり前なんでね。有事の時はそっちの方が忙しいんじゃねえか?」
「それも最近になってから、ですよね?」
どういう反応なのかふうんと鼻を鳴らして、キースは観音開きの戸を開ける。両方開け放てば、人が四人並んでも悠々と通れそうな程大きな扉を見て、やっと出口だと乃木は思う。千春の執務室は入り口から遠いのだ。
扉の外には、左右を竹林に囲まれた石畳が続いている。建物の入り口から門までは結構な距離があるのだが、車両の進入は門前までと定められていた。
「最近っちゃ最近だな。その前から内紛だなんだと色々あったが……ロスト以前と同程度まで体制が整ったのが、六、七十年前か?」
高校の現代史でそう習った筈だ。首を縦に振って肯定の意を示すと、キースも頷く。
「お前が産まれた頃にはもう、亜細亜の賢者がキングコングみてえに暴れてたろ」
「キングコングってなんですか?」
「……あー」
キースは渋い表情を浮かべて、乃木から目を逸らした。説明するのが面倒だったのかも知れない。どうでもいい事はべらべらと喋るくせに、こちらが質問すると言葉に詰まるのだ。これでは確かに、賢者の仕事も務まらないだろう。
賢者の仕事は端的に言えば質問箱で、千春もたまに出雲島内の大学へ講義しに行っている。賢者の知識は世間一般に広められるべきものであり、それ自体が国の宝だとされている。謁見室を一般に解放し、未来ある若者に正しい歴史を伝えよと、神が宣言した為だ。乃木は大学に行けなかったので、千春の講義を聞いた事はないが。
「……連隊長が、昔は良かったのにと嘆いておられました」
何がおかしかったのか、キースは声を上げて笑った。
「ロスト以前はな、軍人の仕事っつったら戦争することだったんだよ。大昔に戻ったってこった」
「大昔と今とは違います。争い事なんて起こすべきじゃありません」
「争うべきじゃなくても、人なんて勝手にどつきあってんのさ。神の目の届かない所でな」
堅固な門扉は、槍を構えた衛兵が開けてくれた。門の両脇に立った彼らは直立不動で胸を張り、こちらへ向かって敬礼する。自分がされた訳ではないのに、背筋が伸びる思いがした。
門の外では、黒塗りのベンツが待っていた。軍人の場合は本来なら将以上の階級の者しか乗れないのだが、賢者の迎えとして千春が遣わしたのだろう。
ウィンドウには目隠しの為か、カーテンが掛けられている。傍らに立って待っていた運転手の白い手袋が、乃木にはやけに眩しく見えた。黒塗りの車というだけで圧倒される乃木は、思わず息を呑む。
「じゃあな大将。精進しろよ」
運転手が開けたドアから車へ乗り込みながら、キースは乃木を見上げてそう言った。乃木は怪訝に片眉を寄せる。
「大将?」
「大先輩さ。もっと勉強しな」
意味が分からなかった。キースは困惑して立ち尽くす乃木に向かって、軍帽の鍔を摘んで軽く持ち上げる。慌てて挙手敬礼した時には、もうドアは閉まっていた。