Hungry night… Holy night…
冬の夜は死を感じさせた。
比喩ではない。
空腹と寒さが死の予感となり、薄い皮膚に染み込んで、肉を黒く変色させていく。
電気が止められた部屋の中で、冬の夜はあまりにも長い。暗闇で全身が満たされると、呼吸は浅く、早くなる。ドブ川で酸素を求める鮒のように、間抜けな顔で口を動かしながら、俺は夜のもたらす死の予感から逃げ惑う。
その日も、俺は自分を取り巻く死の予感から目を逸らすため、薄汚れたダウンのファスナーを閉めると、夜の住宅街へと向かった。
宵の口の住宅街の換気扇からは、食べ物の匂いが漏れ出している。俺は溢れ出そうになる唾液を何度も飲み込みながら、残飯を探して彷徨う一匹のゴキブリのように、人通りの少ない道を歩いた。
窓から漏れる笑い声。
こいつらはきっと、本当の飢えを知ることもなく、歳を重ね、老いていくに違いない。
体の中心を蛆虫に食い散らかされるような、この暴力的な飢えの痛みに身悶える事なく、こいつらは大切な人に看取られながら、温かいベッドの上で死んでいくに違いない。
それにひきかえ俺の死に場所は、どうせあの暗いアパートか、公園のベンチか、その辺のアスファルトの上だろう。いずれにせよそこは、冷たく固い棺桶みたいなところだ。
何処からか、子供の歌うジングルベルが聴こえてくる。
そうだ、今日はクリスマス・イブだ。
繁華街に出て生ゴミを漁ろうかと思っていたが、今日くらいは暖かい部屋の中で空腹を満たし、ひと時の安らぎを感じたくなった。
俺だって子供の頃は、サンタクロースを信じていたし、聖夜には何かしらの奇跡が起こると信じたかった。
どこかの家に忍び込み、暖と食べ物を得よう。
俺は目についたアパートの、明かりのついていない一室の前に立った。
* * *
古いアパートの鍵は簡単に開いた。
今までも空腹に耐えかね、何度か空き巣に入った事がある。悪友から学んだこの技術は、義務教育で学んだ小難しい数式以上に、俺の命を長らえさせてくれた。
覗き見た室内は真っ暗だった。
狭い玄関に廊下の照明が漏れ入る。女物のパンプスやハイヒールが散らばっていて、足の踏み場もない。室内の音に耳を澄ませるが、人の気配は何一つ感じられなかった。
留守だ、そう俺は判断する。
玄関に体を滑り込ませ、静かにドアを閉める。
室内の空気密度が高まった気がした。夏場のTシャツのようなツンと鼻をつく臭いと、腐敗したタマネギの様なような臭いが充満している。
俺は眉を顰めるが、贅沢を言えるような立場ではない。
冷蔵庫の中にある何らかの食べ物をレンジアップし、貪り食うことができればそれで満足だ。
空腹はいよいよ耐え難いものとなり、俺は視界のチラつきを覚える。
「ーーだれ?」
それは、衣擦れのような微かな声だった。
ハイヒールを踏みつけ、上り框に片足をかけていた俺は、その状態のまま硬直する。
「‥‥さんた‥さん?」
その声は奥の居間から聞こえた。ヤスリがけしたガラス細工のような、ザラついた声だった。
人の気配などなかったはずだが、空腹が感覚を狂わせていたのかもしれない。俺は頭の中が赤く染まるのを感じた。
居間の中に目を凝らす。
薄いカーテンの隙間から、外の月明かりがほんの少しだけ射し込んでいる。その青白い光を浴びる様にして、小さなソファーの上に黒い塊が見えた。
黒い塊は微動だにせず、ただそこにあった。
隙間から入り込む月明かりが、雲に隠れて微かに弱まり、また戻る。その胎動のような光の強弱は、黒い塊に僅かな動きを生む。
「‥‥さんたさん?」
舌足らずの口調は子供を連想させた。しかしその声は、舞い落ちる雪の音にすらかき消されてしまいそうなほどに、弱々しかった。
「ーーそう、サンタだよ」
俺はそう答えていた。
子供に見つかったのなら、叫び声を上げられるのが一番厄介だった。しかし、相手が俺の事をサンタと誤解してくれているのなら、それに乗じて宥めすかして煙にまけばいい。
居間の中から感じる異様な空気感に気圧されながらも、俺は冷静にそう判断する。
「さんたさんーー」
ソファーの上に座った黒い塊は、短い呻き声を上げながら、芋虫のように体をくねらせる。
そして、投げ捨てられたゴミ袋のように硬く重たい音を鳴らして、床に転がり落ちた。
それは明らかに子供のするような動きではなかった。
少なくとも俺が想像する子供は、そんな不気味な挙動を見せるはずがない。
俺は何が起こっているのか理解できなかった。
理解できないまま、金縛りのように硬直した身体で、居間の床面に転がった黒い塊を見る。
「さんたさん、わたし、いいこにしてたよ‥‥」
黒い塊は枯れ枝のような細い腕で、床を這いずりながらゆっくりと、玄関へと近づいてくる。
「なかなかったし、しずかにしてたよ‥‥」
異様だった。
ここに居続けてはいけない。俺は後退り、後ろ手でドアノブを掴む。しかし、ドアは開かない。サムターンを何度も回すが、やはり開かない。
「めいわく、かけなかったよ‥‥」
再び部屋の方を見る。黒い塊は居間のドアを抜けすぐ側まで迫ってきていた。
それは確かに人間の姿形をしている。しかし人間にしてはあまりに小さく、細く、頭だけが異様に大きく見えた。
「だから、ぷれぜんと、ちょうだい‥‥」
恐怖が、全身の毛を痛いくらいに逆立たせた。
先程まで感じていた寒さや空腹感は、どす黒い恐怖感で塗りつぶされていた。
俺は玄関の電気をつけるために、手探りで壁のスイッチを探す。
「ごはん‥‥、ごはんを、ちょうだい‥‥」
塊はすぐ目前まで迫っていた。
乱れた長い髪の隙間から、落ち窪んだ大きな目が、薄明かりを反射し小さく光った。
そして、無造作に切り裂かれた傷口のような唇を、大きく開いた。
俺の手が、壁の照明スイッチを探し当てる。
「おかあさん‥‥おなかすいたーー」
玄関の照明がついた。
角膜に流れ込む光の洪水に思わず目を瞑りーーそして、ゆっくりと瞼を開く。
足元まで迫っていた黒い塊は、忽然と姿を消していた。
* * *
何の音も聞こえない、静かな夜だ。
俺は乱れた息を整えると、再び上り框に足をかけた。
玄関の明かりが照らす先、居間の中央に置かれた小さなソファーに、何かが倒れている。
そこは、途方もない無秩序で溢れているように見えた。転がったおもちゃ、ビニール包装、お菓子の空箱、飲み物の瓶、調味料の空容器、紙屑‥‥。
短い廊下を抜けて、ゆっくりと居間の入り口に立つ。地獄の底のような雰囲気は、照明のスイッチ一つで浄化され、散らかった一室へと成り下がる。
そして、ソファーの上には、痩せこけた少女の死体が横たわっていた。
少女の手元には破れた犬のぬいぐるみが転がっている。少女の口の端からは、ぬいぐるみから引きちぎって口に含んだであろう、白い綿が見えた。
俺はそんな少女を見下ろしていた。
ここには食べ物などない。
あるはずがない。
両足に耐え難い疲れを感じて、俺はその場所に座り込んだ。スウェットの尻で踏みつけられた包装紙が、小さな悲鳴を上げる。眠るように死んでいる少女の目線から見たこの部屋は、無駄に広く、寂しく感じられた。
眠っていた空腹が再び目を覚ます。
「ハラ、減ったな‥‥」
俺はフラフラと立ち上がり、部屋を出る。
近所を歩き回り、何軒目かのコンビニで、ゴミ箱に捨てられた食べかけの菓子パンを発見する。それを懐に仕舞い込んだ俺は、再びあの部屋へと戻る。
時間が止まったかのように、少女はそのままの姿でそこに居た。
小さなソーセージパンを半分千切り、少女の顔の前に置く。
「メリークリスマス」
この言葉を呟いたのは、何年ぶりだろうか。
* * *
今回のお出かけはちょっとだけ長引いてしまった。
ダイチと二人きりの時間は本当にあっという間だった。夜景が見渡せるホテルも素敵だったし、ご馳走してもらった高級フレンチも美味しかった。
もちろん、ダイチの部屋で過ごすまったりした時間も幸せ。何度も愛してるって言ってもらえた。二人一緒なら、たとえコンビニ弁当だとしても、私は文句なんて言わない。だって、私達は運命の赤い糸で結ばれているのだから。
ダイチが嫌がるから、マナにはお留守番してもらっている。
泣いたり部屋の外に出たりしたらダメだよってキツく言っておいたし、いい子にしてたらサンタさんがプレゼントを持ってきてくれるって言ったら喜んでたから、きっと大丈夫。
食べ物も冷蔵庫におにぎりを3個入れておいた。ポテトチップも、クッキーもあった。
それに、人間は食べ物がなくても2ヶ月間は生きられるってダイチが言ってた。だから1ヶ月ぐらいお留守番してもらっても、大丈夫に違いない。
カバンの奥底にしまっていたカギを取り出して、アパートの鍵穴に差し込む。
ドア開けると、まだ夕方くらいなのに部屋は真っ暗だった。マナは電気も付けず、昼寝でもしているのだろうか。
「マナ、いい子にしてた?」
返事はなかった。やっぱり寝ているのだろう。
靴を脱いで玄関に上がる。
その瞬間、頭の後ろで何かが爆発したような感じがしてーーそこからの記憶がない。
* * *
目を覚ますと、目の前に男がいた。
痩せ細って無精髭を生やした、陰気な表情の気持ち悪い男だった。
逃げようとしたが、体が動かない。両手両足が椅子にキツく縛り付けられていて、口には布が詰め込まれている。
常夜灯のオレンジの光が室内をうっすらと照らす。かなり散らかっていたけど、ここは私の部屋だった。
首すらも固定されているため、目の動きだけで一生懸命周囲を見渡した。お気に入りの小さなソファーに、人形のような小さな塊が横たわっている。
マナだった。
痩せて、黒ずみ、嫌な臭いがするけど、それはお留守番をさせていたマナだった。
マナになんてひどい事をーー
叫ぼうとしたけれども、口に詰められた布で声が出ない。涙目になりながら私は何度も唸り声をあげる。
男はそんなマナと私を交互に見てから、私の傍にしゃがみ込み、耳元で囁いた。
生臭い息に私は顔を顰める。
「いい子にしてな」
男の声は粘ついていて、薄暗く濁っていた。
「いい子にしてれば、次のクリスマスには、サンタがプレゼントを持ってきてくれるかもしれない」
そう言い残し男は部屋を出て行く。
私の唸り声は、アパートの扉で遮られる。
暗い部屋にたった一人。
他には、絶望しかなかった。
虐待、育児放棄のニュースを見るたびに、なんともやるせない気持ちになる自分がいます。この世界で一番許せなくて、大嫌いな問題をテーマに書きました。全ての子供が、幸せなクリスマスを過ごして欲しいと切に願います。