1-07 迷い悩む
治療開始から一月が過ぎた頃。その頃にはもう、私室どころか、研究室やセリーヌの衣服にもハルナスの香の匂いが染みついていた。セリーヌ自身、匂いに慣れきってしまい、ふとした瞬間に強く香るそれに苦笑が漏れる。獣人にとっては嗅覚を鈍らせる香だが、甘やかで華やいだ匂いは香としての価値も高い。セリーヌには似合わぬもの。纏う香りと言えば薬草の匂いだった自らの変化に、セリーヌは「皮肉なものだ」と自嘲する。
その変化と共に、ゆっくりとではあるが、ケレンの記憶世界も変化し続けていた。彼が追われ、暴行を受ける場面は変わらない。けれど、意識を失った彼が掻き消えてしまうまでの時間は随分と伸びた。その伸びた時間、セリーヌはケレンを腕に抱き、一心に語り掛ける。
彼の名を呼び、「もう痛くはない」と暗示のように繰り返す。或いは、その日の天気、研究所に咲く植物や訪れる鳥の声を語る。セリーヌ自身の話題に触れることなく一方的に話し続けることに限度はあったが、それでも、セリーヌは「ケレン」と彼の名を呼び、語ることを止めなかった。意識の無い彼を呼び戻すために。
そして終に、セリーヌの呼びかけにケレンが反応を示した。彼の両の瞼がピクリと動く。
「……ケレン?」
見下ろす少年の顔。薄い瞼が震える。
息を呑み、その瞬間を待ち続けたセリーヌの目に、鮮やかな新緑が映った。一度、二度、瞬いた瞳が、セリーヌの姿をしっかりと捉える。ケレンの瞳に移るフード姿の自分を見て、セリーヌは更に息を詰めた。
この瞬間が壊れてしまわないように。
身を捩ったケレンが、セリーヌの両腕から抜け出す。弾みで地に転がったが、彼はふらつきながらも自力で立ち上がった。よろよろと歩き出した彼を、セリーヌは黙って見送る。動けなかった。
左腕を庇うように抑え、右足を引きずってゆっくりと去っていく後姿。細く、小さく、頼りなげな背中を、セリーヌは静かに見守る。彼の背が闇に消えたところで、漸く息をついた。同時に、世界が白に染まり始める。彼の記憶から押し出される感覚に、セリーヌは身を委ねた。
数瞬の後、両目を開けたセリーヌの視界には、いつもと変わらぬ光景が映る。
直ぐにケレンの様子を観察したが、変化は見当たらない。期待していた分、セリーヌの心は僅かに折れかけた。が、直ぐに気を取り直す。ケレン自身に変化は見受けられなくとも、記憶の中で彼は意識を取り戻した。だけでなく、あの場面から自らの足で抜け出したのだ。
セリーヌは立ち上がり、記録球を手にした。
「……ケレンの記憶に変化あり。気絶後、覚醒にまで至る。ループから抜け出す兆候が見られます」
彼が目を覚ましたということは、そこから先は彼の記憶。実際に目を覚ました彼の傍に誰かがいたかどうかはともかく、彼はあの路地裏で命を落とすことなく生還した。「あの場から立ち去ることができた」という記憶に繋がった。
(恐らく、記憶世界に何らかの変化が生まれるはず……)
記録球を切ったセリーヌは、ケレンを見つめる。
これでループを抜け出せていなければ、流石に辛い。記憶に潜り続けるのに体力的な負担はないが、精神的な負担は大きい。何度も繰り返される暴力に、セリーヌの心は疲弊していた。
ふぅと小さくため息をついて、セリーヌは自室を後にする。研究室に戻り、机の上に広げておいた治療記録をつけ始めた。記録球だけでは残しておけない記録を綴る内、セリーヌの手がふと止まる。
新たな記憶の顕在化は嬉しい変化だ。しかし、それは果たしてケレンの望むものなのだろうか。もし、繋がった先が、彼に新たな苦痛をもたらす記憶だとしたら――?
脳裏をよぎった可能性に、セリーヌはペンを放り出して両目を閉じた。机の上で組んだ両手に額を押し付ける。浮かぶのは前世の自分、そして、自分を支えてくれた精神科医の姿だった。
セリーヌは、前世で、自分一人では越えられない痛みに直面した。自分の身を襲った暴力に、その相手が法的に処罰された後も、恐怖と不安に襲われ、眠れない日々が続いた。外出もできず、食事もままならない。そんなセリーヌを守ろうとしてくれた家族に連れられての病院通い。浮き沈みのある自分に根気強く付き合ってくれた医師は、前世のセリーヌにとって、救いの一つだった。けれど、結局――
セリーヌはハァと大きく息をつく。
生まれ変わった世界で自身のスキルが発現した時、セリーヌは純粋に喜んだ。この力があれば、自分も彼女――前世の医師のように誰かの心に寄り添うことができるかもしれない。手段は異なるが、確かに救われたあの時を、他の誰かに返せるのではと期待した。
そうして、セリーヌが国の施設で始めた能力を用いての治療行為は、一定の成功を収めたと思う。一人で抱えきれない患者の記憶に寄り添い、「気持ちが楽になった」と感謝されれば、セリーヌ自身も慰撫された。前世の後悔さえ、僅かに薄まる気がした。
(ただ、スキルのせいでここに連れて来られたのは失敗だった……)
セリーヌは自ら望んで第五研究所に居るわけではない。セリーヌの能力を有用と判断した国による強制徴集。こんな場所、抜け出せるなら抜け出したいと、セリーヌは切に願っている。
それでもどうにか、セリーヌがここで精神の均衡を失わずに済んでいるのは――皮肉なことに――、所長であるゾマーがセリーヌの能力を重要視していないからだった。彼に期待されていないセリーヌは、第五研究所の主題――獣人に対する実験に関わることがない。
(私は研究者ではなく治療師……)
だから、治療はしても実験には手を貸さない。それが、セリーヌにとって最後の砦だった。だが――
(本人の同意なしに記憶に潜るのは治療と言える……?)
意思確認のとれないケレンはまだ言い訳が立つかもしれない。けれど、先日の栗鼠獣人の少女に至っては、彼女の同意を取ることさえしなかった。あの日の判断を、セリーヌは未だ迷い続けている。
(……それでも、何もせずにはいられない)
セリーヌは、私室のベッドで眠るケレンの姿を思う。
自我を失った彼を治したい。ゾマーの記録映像で見た彼の、強い意思を宿した瞳を取り戻したい。そのためにセリーヌが出来ることは、彼を彼たらしめる記憶を蘇らせることだけ。
それが治療行為として正しいのかどうか。答えは出ないまま、セリーヌは再びペンを取った。