1-06 抜け出すために
治療三日目、セリーヌは朝からケレンの記憶に潜っていた。
現れたのは前日と同じ、ケレンが追われる場面。セリーヌは、白い影の前に立ち塞がった。前日と同じく無茶な介入だが、試してみる価値はある。セリーヌは、ケレンを背中に庇った。
人影が迫る。振り下ろされる棒にセリーヌが目を瞑った瞬間、瞼の向こうで世界が白に染まった。
(これも失敗……)
目を開けたセリーヌは、ベッドの横でケレンの手を握っていた。
(やっぱり、直接の介入は難しい。あの場にケレンとあの男以外の存在は認められない……)
彼の記憶世界の中で、セリーヌは初日と変わらずローブを纏いフードを被っている。「個」を消した「誰か」として介入しているのだが、ケレンの記憶世界は第三者の存在を拒んでいた。
「……再度、記憶への接触を試みます」
記録球を意識してそう口にしたセリーヌは、再びケレンの記憶に潜る。ほどなくして現れた記憶場面。聞こえて来たケレンの足音に、セリーヌは光の中へと足を踏み入れた。
(片っ端に、やれることをやってみるしかない……)
どうすれば記憶から弾かれずにすむのか。どうすれば彼をこの場面から解放できるのか。セリーヌにも正解は分からない。ただ、彼が前に進むため、新たな記憶を取り戻すためには、彼をこの閉じた世界から救い出さねばならないことは分かっていた。
光の中に足を踏み入れたセリーヌは、駆けて来るケレンを抱きとめようと両手を広げる。ケレンの身体がセリーヌをすり抜けていった。世界が白に染まっていく。
(……駄目、か)
気付くと、セリーヌは自室のベッド脇に戻っていた。それでも諦めることなく、セリーヌは再び目を閉じ、彼の記憶へと戻る。そうやって、何回目かの試行の後――ケレンを痛めつけようとした男の腕を止めるのに失敗したところで、一つの変化が訪れた。
(……弾かれなかった?)
まだ、ケレンを救い出せたわけではない。再び繰り返される彼への暴行を、成す術もなく見守っている。けれど、彼の記憶世界から弾き出されることはなかった。
(……っ!)
セリーヌの胸が高鳴る。傍観者――彼の過去に「居たかもしれない」存在として、この場に居ることが僅かに認められた気がした。
セリーヌは再びケレンに手を伸ばす。
痛めつけられ、動けなくなった彼に触れようとしたが、小さな身体は蹲ったまま掻き消えていった。
「……ケレン」
呼んだ名に応えはなく、再び誰もいなくなった路地裏にセリーヌだけが取り残された。
そうして、僅かな変化はあったものの、それ以上の取っ掛かりが掴めぬまま、三日が過ぎた。
治療開始から六日目。セリーヌはこの日もまた、痛めつけられて蹲るケレンへ手を伸ばす。
「……ケレン」
呼びかけて、その小さな背に触れる。この三日で、彼が消えてしまうまでの時間が僅かに伸びた。消えてしまわぬよう、セリーヌは慎重に意識の無い体を抱き上げる。
(温かい……)
抱えた身体をそっと抱きしめる。
本来なら、意識を失った彼がその間の出来事を記憶しているはずがない。だからこれは、ケレンの脳が作り出した幻の時間。気を失ってから意識を取り戻すまでの間、彼の身にあったかもしれない空想の世界が続いている。
額から血を流す幼い顔を覗き込んだセリーヌは、「手当をしたい」と望んだ。途端、目の前に傷薬と包帯が転がり出る。ケレンを抱えたままのセリーヌがそれらに手を伸ばそうとした瞬間、腕の中のケレンが掻き消えた。傷薬も包帯も見当たらない。
(なるほど……)
ケレンが治療を受けるのはあり得ないこと。
一人取り残されたセリーヌの耳に、遠くから、嫌というほど聞きなれた足音が聞こえてくる。
黙って立ち上がったセリーヌは暗闇の向こうに視線を向けた。わき目も振らずに走ってくるケレンがセリーヌの存在に気付く気付く様子はない。
終わらない悪夢に、セリーヌは自身の拳をギュッと握り締めた。