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愛し方も知らずに  作者: リコピン
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1-03 山猫獣人の青年

(どうしよう、かしら……?)


報告会議でのやり取りを経て、ゾマーの元で被験体として扱われていた青年を何とか保護することができた。が、青年を荷台に乗せてやってきた衛兵は、彼をセリーヌの研究室に放り込むと、無言でその場を去った。


床に転がされた青年を見て、セリーヌはため息をつく。


セリーヌより頭一つ分は大きい身体。筋力が衰えているとはいえ、かなりの重量がある彼は、運ぶだけでも一苦労だ。栗鼠獣人の少女の場合は、彼女自身の身の安全のためにも檻の中で生活してもらっていたが、彼の場合はそうもいかない。寝たきりの彼を、檻の中という狭い空間で世話をするのには限度がある。


散々迷った末、セリーヌは彼を自身の私室へと運び込んだ。


下級研究員でしかないセリーヌに与えらえた私室はあってないようなもの。研究室に隣接するその部屋には、簡素なベッドが一つ置かれているだけ。部屋で調理をすることがなく、大した服も持たないセリーヌにとってはそれで十分だったのだが、流石に、成人男性がベッドを占領していると部屋が狭く感じられる。


(まさか、同じベッドで寝る、というわけにはいかないし)


ここでも迷った末、セリーヌは研究室の檻の中に敷き詰めてあったクッションをかき集めた。それを持って私室へと戻り、ベッドの下に自分用の就寝スペースを作る。


(これで何とか……)


青年の治療体制は整ったと言えるだろう。


セリーヌは、ベッドの上に横たわったまま虚空を見つめる青年へと近づいた。


(目を開けているということは、覚醒はしている?……だけど、意思疎通はとれない)


彼がどういう状態なのか、専門の知識を学んでいないセリーヌに正確なところは分からない。ゾマーが行った投薬や魔術を用いての実験はあまりに出鱈目で、何がどう作用して彼がこのような状態に陥ったのか、ゾマー自身も理解していないようだった。


(その方面からアプローチしていくのは無理……)


そう判断したセリーヌは、青年のオレンジ色の前髪にそっと触れた。顔にかかっていた前髪を払うと、新緑の瞳がよく見える。その上で軽く手を振ってみるも、瞳はチラとも揺れなかった。


(……取りあえず、本格的な治療は明日からね)


セリーヌは、ベッドの傍を離れる。そのまま私室を出て研究室へと戻り、暖炉に火を入れた。


先ずは、彼の身を清めることから始めよう。


どうやら最低限の世話しかされていなかったらしい彼の身体には汚れが目立ち、触れた髪はゴワついていた。度重なる虐待で受けた外傷も完全には治癒していない。元々、国の施設で薬学を仕込まれていたセリーヌは、ある程度、治療の心得があった。


(食事は流動食で……)


少量で栄養価のあるものを摂らせなければ。


獣人の身体は頑強だが、青年の肉の落ちた身体を見るに、このままでは衰弱死しかねない。


「……」


セリーヌは、暖炉に掛けた大鍋をじっと見つめる。やがて鍋の中の湯が湯気を立て始めるまで、セリーヌの胸の内を、先行きの見えない不安がグルグルと渦巻いていた。






◇◇◇


「……治療一日目、患者の意識は混濁している模様。こちらの問いかけに応答がないため、意思確認とれず。……記憶への接触を試みます」


薄暗い部屋の中、セリーヌは音声を吹き込んだ記録球を台の上に置く。ベッドの足元に設置した台の上で、画角的にベッド全体が映る位置を調整し、録画を開始した。


部屋の隅では、香が焚かれている。いつぞやと違い、今日焚いているのはハルナスの香。獣人の嗅覚を鈍くさせるためのものだ。今の彼がどこまで匂いを感知しているかは不明だが、セリーヌはできるだけ自分の存在を感じさせぬよう注意を払っていた。


彼にとって、セリーヌは異物。観察者として彼の記憶に居座るためには、彼の記憶に弾かれないようにしなければならない。記憶を消してしまうのではなく、寄り添うため。


セリーヌは、ベッド脇に置いた椅子に腰を下ろし、目を開けたまま横たわる青年の手を取った。


(……冷たい手)


カサついて力のない彼の左手。それを両手で包み込み、セリーヌは目を閉じる。繋いだ手に意識を集中すると、馴染んだ感覚に襲われた。眠りにつく前のような、意識を失う感覚が過ぎ去った後、セリーヌは真っ暗な闇の中に立っていた。周囲を見回すも、何も見えない。


(……これは、どういうこと?)


能力が発動している感覚から、ここが彼の心の内、彼の記憶を元に作り出された世界だということは分かる。けれど、そこはセリーヌが今までに見たどんな記憶の世界とも異なっていた。


(全く何も見えないなんて……)


途方に暮れたセリーヌは、もう一度周囲を見回した。


「あ……!」


遠くに小さな灯りが見える。


暗闇で見つけたたった一つの灯りに引き寄せられ、セリーヌは歩き出した。近づいてみると、そこだけスポットライトが当たったように明るく照らされた空間が広がる。光と闇の境界線に立ったセリーヌは、それがどこかの店の路地裏であることに気付く。


数メートルの円形の灯りの中にだけ存在する世界(ろじうら)。その真ん中に、三歳ほどの幼児が膝を抱えて蹲っていた。


彼だ――


オレンジの髪、そこから覗く猫の耳がアンバランスに大きい。足元に丸まる尻尾はフサフサの毛並みで、横向きに黒の縞模様が入っている。幼さ故か、今の彼よりも幾分獣性が濃く見えるその姿は、前世のサーバルキャットを思わせた。


暗闇に佇み、セリーヌはじっと彼を観察する。


セリーヌが見ることのできる他者の記憶は、純然たる記憶とは異なる。記憶を元に、記憶の持ち主の脳が作り出した箱庭の世界。だからこそ、セリーヌは記憶の持ち主である彼を第三者の目線で眺めることができた。


セリーヌは、彼が動き出すのを待った。だが、どれほど時間が経とうと、蹲ったままの子どもはピクリとも動かない。


(おかしい……)


セリーヌは、改めて周囲を見回す。


けれどやはり、この空間には彼と自分しかおらず、彼が動く気配は全く感じられない。セリーヌの経験上、記憶の世界は常に動きがあるものだ。箱庭の中では時間が流れ、次から次に、場面が切り替わるようにして様々な記憶が現れては消えていく。


通常は、記憶の中に登場する人物の動きが場面転換のきっかけとなるのだが、青年の記憶は驚くほどに静かで何もない。静止画のような光景に、セリーヌの脳裏を恐ろしい考えがよぎる。


(まさか……)


記憶がないのだろうか。今のこの光景以外、彼の記憶には何も残されていない――?


言い知れぬ恐怖に駆られ、セリーヌは咄嗟に一歩を踏み出す。


その動きに、灯りの中の子どもが初めて反応を見せた。伏せていた顔を上げ、セリーヌに視線を向ける。緊張の数瞬、緑の瞳と見つめ合ったセリーヌが動けずにいると、不意に視線が逸らされた。彼は再び顔を伏せ、そうしてまた、静止画のような光景に戻る。


セリーヌは大きく息をついた。


(弾かれなかった……)


記憶世界において、そこに存在し得ないセリーヌは、「個」として認識されると、異物として空間から弾きだされる。少なくとも、今までの経験上はそうだった。


それが今、第三者の居ない――セリーヌが背景として溶け込むことができない場面で、彼の記憶はセリーヌを拒絶しなかった。それは即ち、彼の記憶自体が曖昧であるということ。これが幼年の記憶であるとしても、異常な事態だった。


(どうしよう……)


彼の世界は完結してしまっている。このままでは、記憶は閉ざされたままだ。「何とかしたい」と願うセリーヌは、スポットライトの中の光景を眺める。


(……もし、この場面を動かすことが出来たら)


それをきっかけに、今は見えない記憶が蘇る可能性はある。悩んだ末、セリーヌは自らがその「きっかけ」になることを決めた。


「そのために」とセリーヌは自身の姿を確認する。


今のセリーヌは、部屋にいた時と同じ格好をしていた。ありふれたワンピース姿に問題はないが、顔を曝したままでは「個」として認識される恐れがある。そう考えた瞬間、セリーヌの纏う服が、フード付きのローブへと変わった。フードによって、背中まである焦げ茶の髪が隠される。更に深くフードを下ろして、セリーヌは顔を隠した。


一見して性別まで分からなくなった姿に満足し、セリーヌは彼の居る灯りへ向かって歩き出す。彼にとっての見知らぬ誰か。遠い記憶の片隅に、居たかもしれない誰かとして。






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