2-13 執着 Side K
(……とは言ったものの、紅牙の本部なんて知らないんだよねぇ。……直接、あのおっさんの家に乗り込むか)
紅牙の長ヴァルター・キルヒマンは国の要人。公的な身分が何なのかは知らないが、王都にそれなりの私邸を持つはずだ。一面識もない下っ端下士官が尋ねたところで門戸が開かれる可能性は低いが、会って話をしなければならない。
さて、ではどうやって忍び込むかと思案するケレンの視界に、嫌な光景が飛び込んできた。
第三隊の隊舎から外へ続く門の近く、落ちかけた日に照らされるのは、先程、ケレンの怒りを最高潮にまで高めてくれた女――第一隊長のアンジェリカと、見慣れた黒猫獣人の組み合わせだった。
「……何やってんの、こんなところで?」
「つ!?」
ケレンの登場に、エリスがギクリと身を竦ませる。アンジェリカに何かを手渡していたらしい彼女は、その手を素早く引っ込めた。
エリスの「後ろめたい」と言わんばかりの反応とは裏腹に、アンジェリカは手にしたものを仕舞うと、愛想のいい笑いを浮かべる。
「あら、ケレン。どこかに出かけるの?」
「……質問に答えてよ。何してたの?」
「何でもないわ。……ねぇ、ケレン。そんな攻撃的な態度をとらないで。エリスが怯えてしまうでしょう?」
そう口にして、アンジェリカは苦笑する。
「……本当に、すっかり洗脳されてしまっているのね」
「だから、違うって言ってるでしょ」
主張を曲げない女のしつこさに、ケレンは舌打ちする。
「そうね。今のあなたにとっとは、きっとそれが真実なのね。……でも、覚えていて、ケレン」
「……」
「私は、必ずあなたを救ってみせるわ」
そう言って、アンジェリカはエリスへ視線を向ける。彼女に向かって力強く頷くと、クルリと背を向けて、その場から立ち去った。
第三隊の敷地から出ていく背中を腹立たしい思いで見送って、ケレンはエリスへ視線を向ける。
「あの女に、何を渡したの?」
「っ!」
再び身を竦ませたエリスが目を逸らす。ケレンの胸の内に苛立ちが募ったが、ここで力尽くという訳にもいかない。「まぁいいや」と嘆息し、ケレンは歩き出した。
途端、エリスの「ケレン!」という声に呼び止められる。
「待って!こんな時間から、どこに行くつもりなの?」
「……ちょっと出てくるだけだよ。気にしないで」
適当に流して歩き出したケレンの腕に、エリスの細い指が絡みついた。
「誤魔化さないで。ねぇ、本当にどこに行くの?まさか、あの女を逃がすつもりじゃ……?」
「しないしない、そんなこと」
まだ刑の確定していない現状、セリーヌを脱獄させる前にすべきことがある。連れて逃げるのは最後の手段だ。
「……まぁ、そういうことだから。エリスは気にしないで」
ケレンはヘラリと笑って、彼女の拘束から抜け出す。門を出ようとした背中に、エリスの声が掛けられた。
「ケレン!今夜、私の部屋に来て!」
思い詰めたような声。足を止めたケレンは、「面倒だな」と思いながら振り返る。視線が合ったエリスの顔は羞恥で赤く染まっていた。
「いい?待ってるから、絶対に来てよ!」
「えー……?」
「っ!?来てくれたら、さっきのこと教えてあげる。知りたいんでしょ?私がアンジェリカ様に渡したもの!」
エリスの言葉に、ケレンの顔から知らず表情が消える。「夜でなく、今すぐこの場で吐け」と口を開きかけたケレンだったが、不機嫌を敏感に感じ取ったエリスは、すかさずこちらから距離を取る。
「いい?約束だからねっ!」
そう捨て台詞を残して走り去っていく彼女の背中に、ケレンは今日もう何度目になるか分からない舌打ちをする。
深夜、月が中天を越えた頃に、ケレンは第三隊の隊舎に戻ってきた。目的のヴァルターは捕まえ損ねたが、代わりに中々面白いものを見つけた。気分は上々。このまま自室へ引き上げたい。そう考えたが、やはり、情報は少しでも多い方がいいと考え直し、ケレンはエリスの部屋へ足の向きを変える。
(まぁ、こんな時間だから寝てる可能性の方が高いし。寝てたら寝てたってことで……)
仮に起きていたとしても、こちらの目的を果たしたら、さっさと部屋を出る。エリスの期待するような展開にはならない。そう軽く考えていたケレンは、エリスの部屋の扉が開かれた瞬間に後悔した。
「……来てくれたんだ。入って」
「……」
エリスは寝ていなかった。どころか、彼女の着ている服からは並々ならぬ思いが伝わってくる。ケレンは不快に顔を歪めた。
「……どうしたの、その服?」
「これは、その、借りたんだよ。彼女から。」
「……」
エリスの纏うローブから微かに香るのは、間違いようのないセリーヌの匂い。だいぶ薄まっているが、ケレンの鼻は敏感にその匂いを感じ取った。
「ねぇ、ケレン。これなら、ちゃんと寝られるでしょう?だから……」
恥じらうような上目遣い。闇夜に濡れる瞳で見つめられ、ケレンは深く脱力する。口から、魂を吐き出すようなため息が漏れた。
「あーもー、意味わかんない。借りたって、絶対嘘でしょ、そんなの。無理やり剥ぎ取ったの?」
「ち、違う!そんなこと……!」
「ああ、まぁ、いいや、別に。で?あんたは、ソレで何がしたいわけ?」
ケレンの冷え切った声に、一瞬怯んだエリスがグッと両の拳を握る。
「わ、私は!あんたが可哀そうだと思って!あんたがあの女を庇うのは、あいつがいないと眠れないからでしょう?だから、私が代わりに……!」
「……別に、睡眠確保のためにやってるわけじゃないんだけど」
「っ!じゃあ、何で!?やっぱり、洗脳されて……!」
アンジェリカと同じ。堂々巡りしそうな気配に、ケレンは早々に反論を放棄する。代わりに、ここに来た目的を口にした。
「それよりさぁ、昼間の話。あの女に渡したのって何?何の話してたの?」
「っ!」
ケレンの一言に、エリスの目に涙が盛り上がる。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、こんなことになっちゃったんだろう……」
俯き、ポタリと涙を零したエリスに、ケレンは辛うじてため息を飲み込んだ。沈黙するケレンに、彼女は「どうして」と繰り返す。
「……昔のケレンは、そんなに冷たい人じゃなかった」
「……」
「お願い。前のケレンに戻ってよ……!」
顔を上げて訴えかけてくるエリスに、ケレンは今度こそため息を零した。
「前の俺って何?別に、俺はどこも変わってない」
「ううん。変わった。ケレンが自分で気づけないのは、やっぱり洗脳されてるから……」
「ハァ。もう、鬱陶しい。一回、その洗脳ってのから離れて」
うんざりという思いを隠さずに告げると、エリスの目から再び涙が溢れ出す。それをどこか醒めた思いで眺めがら、ケレンは「あのさ」と言葉を続ける。
「俺、他人って割とどうでもいいんだよね」
「え……?」
「何言われようが、何されようが、大して気にならない。だから、いつも適当にしてられんの」
気付いてた?と尋ねるケレンに、エリスは瞠目で答える。
「エリスの前でもそうだったでしょ?俺がエリス相手に本気で怒ったり、不機嫌になったりすることってないよね?」
「それは……、ケレンが優しいから。いつも、笑ってくれるし……」
「そりゃあ、笑って流すよ。大体のこと、どうでもいいから。その方が楽だし」
ケレンにだってそれなりの処世術はある。エリスに対して――と言うよりも、第三隊の隊員に対しては、これでもかなり気を遣っている方だ。だが、それは決して優しさではない。
「……ただ、俺も最近気づいたことがあってさ」
そう口にして、ケレンは自嘲の笑みを浮かべる。
「俺、どうでもよくないことには、結構イラつくし、キレやすいみたい」
ケレンの言葉に、エリスの唇が震えた。
「それって……、それって、あの人のこと……?」
「うん」
「どうして……」
震える声で零したエリスが、イヤイヤという風に首を横に振る。
「何でっ……!?だって、私の方がずっと一緒に居たのに……!私の方がずっとケレンのこと……!」
子どもの駄々のような叫びに、ケレンは小さく首を傾げる。
「じゃあ、聞くけど、エリスは俺がイラついてもブチ切れても、傍に居てくれる?」
「居るよ!これまでだって、ずっと居たじゃない!」
「本当に……?」
尋ねるケレンの口元が、歪に持ち上がる。
「……俺さぁ、どうでもよくない相手には結構、振り切れちゃうみたいなんだよねぇ。逃がさないようロープで縛るし、知らない男と会ってたら見張るし、ブチ切れたら、服引き裂いて裸に剥くよ?」
「っ!?」
ケレンの言葉に、エリスが唖然とした表情を浮かべる。それを眺めながら、ケレンは自分自身の言葉に得心した。
(あー、うん、やっぱ、そういうこと、だよねぇ……)
ケレンの中で、セリーヌは最初から特別だった。どうでもいい存在になど成りようがない。居なくなったら自分を見失うくらい重要で、誰にも奪われたくないくらい大切な存在。
(……何で今更、そんな面倒なもの見つけちゃったかなぁ)
自嘲して、諦めて、ケレンは不敵に笑った。
「……うん。まぁ、そういうわけだから。もし、俺から奪おうとするなら、邪魔するやつ全部殺して攫っちゃうかもね」
それは、例え相手があの熊であろうと変わらない。正面きっての勝負は不利でも、闇討ちならケレンにいくらか分がある。それに、例え殺せなくても、奪って逃げるだけなら簡単だ。
(……まぁ、その前に、やれるだけのことはやるけど)
ケレンがチラリと視線を向けた先で、エリスが静かに涙を流している。こうなればもう、彼女から話を聞き出すのは無理だろう。
ケレンはエリスに背を向けた。来た時同様、そっと開けた扉から抜け出し、その場を去る。
エリスがケレンを呼び止めることはなかった。




