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愛し方も知らずに  作者: リコピン
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1-01 栗鼠獣人の少女

第五研究所襲撃の半年前――


セリーヌは、自身に与えられた研究室の一角、部屋の隅を占領する大型の檻の前で身を屈めた。途端、ガシャンと音を立てて檻が揺れる。それに動じることなく、セリーヌは檻の入口を小さく引き上げた。隙間からスープ皿とパンの乗った皿を差し入れ、そこで漸く、檻の奥へと視線を向ける。


「食事よ。……お願い、少しでもいいから食べて」


檻の奥、セリーヌから少しでも距離を取ろうと縮こまるのは、十代半ばに見える少女。セリーヌより二つ三つ年下であろう彼女の手足は、折れそうなほどに細い。少女の頭部に生える茶色の耳はピンと立ち上がり、ギラギラとした瞳は敵意に満ちている。栗鼠獣人である彼女の豊かな毛並みの尻尾は、警戒のために逆立っていた。


「毒も薬も入っていないから……」


そう言葉にしても、今の彼女にどこまで伝わっているかは分からない。果たして、セリーヌの言葉を、意味のある「言葉」として認識しているのかも。


セリアは、檻の中のパンに手を伸ばす。少女の目の前で、小さく千切ったパンの欠片を自らの口の中に放り込んだ。咀嚼し、嚥下して見せたが、少女はこちらを威嚇するだけ。食事に手を伸ばそうとはしない。


小さくため息をついたセリーヌは立ち上がり、檻の前を離れた。自分が居ては、彼女の警戒が弛むことはない。距離をとって見守ろうとしたセリーヌの耳に、廊下を小走りに駆けてくる足音が聞こえた。


扉の前で止まった足音、ノックも無しに扉が開かれる。細く開いた扉の隙間からするりと身を滑り込ませてきた男に、セリーヌは僅かに詰めていた息を吐き出す。


「……ロッシュ」


「セリーヌ様、お邪魔します。あの……」


そう言って、挨拶もそこそこに部屋に踏み入った男の視線は部屋の奥、栗鼠獣人の少女の入れられた檻へと向けられる。


「彼女は?何か食べましたか?」


少女の身を案じる男。衛兵の制服を身に纏い、まだ少年とも言える幼い顔に不安の表情を浮かべたロッシュが問う。セリーヌは首を横に振った。


「まだ無理ね。警戒されているわ」


「そうですか……」


セリーヌの言葉に表情を曇らせたロッシュは、視線を床に落とした。苦汁を滲ませた彼の横顔を、セリーヌはじっと見つめる。


彼の存在を知ったのは、つい二週間前のこと。廃棄寸前の獣人の少女を彼が匿おうとしているところにたまたま出くわしたのが始まりだった。


廃棄――


帝国では、獣人を人間以下の存在として位置づけ、道具として扱う。第五研究所では主に獣人に対する研究が行われており、敵対する彼らの能力を帝国の戦力とすることを主題として掲げている。


(……馬鹿らしい)


セリーヌには前世の記憶、現世(ここ)とは異なる世界の知識がある。


セリーヌにとって獣人は善き隣人であり、決して道具になどなりようがなかった。同じ言葉を話し、意思疎通のできる相手がヒトでないなどと、どうして思えるだろうか。姿かたちの違いが生む差別の愚かさを、セリーヌは知っていた。


そんなセリーヌが己の思想と反する第五研究所に所属することになったのは、偏に力がなかったため、その一言に尽きる。


声高に自らの主義を主張することもできず、生まれた環境を抜け出すこともできなかったセリーヌには、軍の徴収に逆らう術がなかった。親を知らぬ孤児として育ったセリーヌにとって、自らを育てた国の施設が世界の全て。そこで他者の持たざる稀有な能力を発現してしまったのは、運が良かったのか、悪かったのか――


「セリーヌ様?」


名を呼ばれ、セリーヌは我に返る。こちらを見下ろすロッシュの訝しげな視線。物思いに耽っていたセリーヌは、「なんでもない」と首を横に振った。


「……ロッシュの方は、上手くいきそうなの?」


口にした問いに、ロッシュの顔に僅かな喜色が浮かんだ。


「はい。どうにか繋ぎが取れました。上手くいけば、国境を越えることができそうです」


「そう……」


ロッシュの答えに、セリーヌは曖昧に頷く。彼の言う「繋ぎ」とは、帝国内で活動するバイラート国の獣人やその協力者のことだろう。帝国内にも、獣人に対する扱いに不満や反感を持つ者たちは少数だが存在する。そうした思想の持ち主たちに協力を得て、彼は獣人の少女を隣国バイラートへ逃すことを計画していた。だが、危険を伴う旅路を、セリーヌは手放しで喜ぶことができない。


セリーヌの不安を他所に、ロッシュが決意を込めた瞳で少女を見つめる。


「今夜、ここを出ます」


「今夜?……急ではない?」


「急ですが、今、逃げないと。彼女をここに匿っていることが噂になり始めているんです」


彼の言葉に、セリーヌは嘆息する。


少女を匿うことに限度があるのは承知していた。部屋を出る際は常に施錠しているが、マスターキーがあるため万全とは言えない。或いは、この部屋を訪れるロッシュの姿を目撃されていたら、不審は免れない。細心の注意を払っていても、互いに互いを監視し合う研究所において、下っ端研究員でしかないセリーヌが少女の存在を完全に隠し切るのは不可能だった。


そう承知していて、それでも、セリーヌは彼女を匿った。どうしても見過ごせなかったからだ。


二週間前、ロッシュが脱走を図った際、少女は今よりずっと重篤で、今にも息絶えそうな有様だった。国境を越えて逃げるなど不可能に近い。そう判断したセリーヌは、逃げ出す寸前のロッシュを引き留めた。


当初、ロッシュはセリーヌを殺そうとしていたように思う。彼は、自身が世話をすることになった少女の境遇に同情し、彼女に心を寄せていた。そして、彼女をあらゆる手段で痛めつけた研究所の人間を憎悪している。まだ幼い少女が心を失うほどの傷。直接関わっていないセリーヌは彼女がどんな扱いを受けたかを知らなかったが、彼女の状態から、その非道さは容易に想像できた。


加えて、自身の能力で彼女の身に実際に何が起きたのかを知ったセリーヌは、胃の腑のものを全て吐き出ことになった。


だからむしろ、今の彼女の状態、セリーヌやロッシュに怯え、威嚇するまでに彼女が回復したことは喜ばしいと言える。目下の問題は、警戒のあまり、彼女が食事をとらなくなってしまったこと。それも、いずれ時間が経てばと思っていたが、最早、その猶予は残されていない。


セリーヌは隣に立つロッシュを見上げる。少女に向けられる真っすぐな視線。覚悟を決めた瞳に、セリーヌは小さく息をついた。


「……分かった。夜までに、彼女の記憶を消しておくわ」


「お願いします」


躊躇なく頷いた彼の言葉に、セリーヌの胸の内に苦い思いが込み上げる。


セリーヌは、人の記憶に触れ、ある程度なら意図的に操作できる。それが判明して以来、セリーヌはその力を対象者の同意なしに使用したことがなかった。ここに来る前、国の施設で治療師の真似事をしていた時は勿論、ここで研究者になった後もずっと。


それは彼女にとっての禁忌、越えてはならない最後の一線だった。けれど、今、セリーヌは自らの意思でその禁忌を破ろうとしている。


「……以前にも言ったけれど、記憶を消せば、彼女はあなたのことも忘れてしまうわ」


言って、セリーヌはロッシュの横顔を窺う。


「記憶を虫食いのようにところどころ消すことは不可能なの。消すとしたら、関連する記憶は全て消すことになる。……彼女の場合、ここに来てからの記憶を全て失う」


ロッシュによると、少女がこうなる前、彼女はロッシュの用意する食事には手をつけていたという。言葉も交わしていたというから、二人の間には何かしらの関係が築かれていたのだろう。それが消えてしまうことに恐れはないのだろうか。


セリーヌが見上げた先、顔をクシャリと歪めたロッシュが泣きそうな顔で笑う。


「僕は、彼女を助けることができませんでした」


身体の横で握られた彼の拳が震えている。


「卑怯かもしれない。けど、彼女には全部忘れて欲しい。あんなこと、彼女の身に起きちゃいけなかったんだ!絶対に……!」


ロッシュの言葉に、セリーヌは込み上げたものをグッと飲み込む。人として、女性としての尊厳を奪い尽くす下劣な行為。それを行った連中の「仲間」である自分が酷く情けなく、腹立たしかった。


「……セリーヌ様、僕、彼女の名前も知らないんです。彼女に、教えてもらえなかったから」


嗚咽交じりのロッシュの声。セリーヌは黙って耳を傾ける。


「望むのは許されないって分かってるんです。けど、彼女には、全部、忘れてほしい。全部忘れて、一から始めさせてくれたら……!」


(……一から、か)


ロッシュの言葉に、セリーヌは迷いを捨てる。


彼は諦めていない。ここから脱け出した先、二人で生きる未来を。


「……分かったわ」


だったら、罪は自身が背負おう。どのみち、残された選択肢は二つ。生か死か。ならば、飲み込むしかない。


「日が落ちたら迎えに来て。それまでに終わらせておくわ」


「はい」


頷いて、ロッシュは来た時同様、静かに部屋を出ていった。その背を見送って、セリーヌは再び檻の前に立つ。


「……聞こえていたかしら?」


檻の中の少女に問いかけた。


獣人には、聴覚の優れた者が多い。潜めていたとは言え、ロッシュとの会話が彼女の耳にも届いていたかもしれない。


「私は、あなたの記憶を消す。この研究所に関する記憶を全て」


セリーヌの言葉に、少女は反応を示さない。警戒したまま、じっとセリーヌを見つめる。


(……ごめんなさい)


許してくれとは言えない。ただ、これが彼女にとっての最善だと、そう自分に言い聞かせるしかなかった。


立ち上がったセリーヌは、香炉を取る。中に入れるのは、睡眠作用のある香。匂いに敏感な獣人には、強力な眠り薬となる。


円錐の香の先端、灯った火を吹き消したセリーヌは立ち(のぼ)る白煙を確かめた。揺れる煙の甘い香りに息を止め、香炉を檻の前に置く。檻がガシャンと音を立てた。檻の中、怯える少女の瞳から目を逸らし、セリーヌは研究室を出る。背後で、檻がガシャガシャと激しい音を立てた。


部屋の外、閉じられた扉に背を預けたセリーヌは、そのままズルズルとしゃがみ込む。


賽は投げられた。もう、後戻りはできない。






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