2-07 醜い羨望
「ちゃんと寝るならベッドの上がいいよね」という主張とともに、その日初めて、ケレンはセリーヌを彼の私室に連れ込んだ。
それまで、彼がセリーヌを連れ回すのは人目のある場所に限られており、昼寝でさえ、中庭に寝転ぶだけだった。初めての閉ざされた空間。男女二人きりという状況に、けれど、セリーヌは異を唱えなかった。
私室のベッドの上。膝を貸していたのが、いつの間にか添い寝に代わり、過ごす時間が、一時間から二時間、三時間へと延びても、セリーヌは黙って彼の傍に居た。
欲を言うのならば、彼の記憶に触れ、不眠の原因を探りたかったが――
「うーん。捕虜ちゃんのおかげで、最近、調子いいなぁ」
屈託なく「ありがとう」と礼を言うケレンに、セリーヌは疑問を口にする。
「……数時間の睡眠で問題はないのですか?」
「うん。全然平気。元から、あんまり寝ないから」
彼の言葉に「そうですか」と頷いて、セリーヌは在りし日の彼を思う。あの頃の彼は、一日の大半を寝て過ごしていた。それもまた――当たり前ではあるが――、異常だったのだなと振り返る。
そんな風にケレンの部屋で彼と過ごすようになって暫く、セリーヌは周囲の変化を敏感に感じ取っていた。
元より、ケレンに連れ回されるセリーヌを快く思わない者は多い。彼と歩くと、様々な思惑のこもった視線を向けられる、或いは、遠くで何かしらを囁かれることが多かった。それが今では、直接、ケレンに抗議する者が現れ、セリーヌにも悪意をぶつけてくるようになった。
「身体で取り入った」、「売国奴」、「淫売」という、総じてセリーヌがケレンに取り入ったという誹りを、セリーヌは甘んじて受け入れた。ケレンが貶められているわけではない。ならば、彼が「はいはい」と聞き流している内は、セリーヌが気にする必要はなかった。
傍から見てどうであるかはさておき、セリーヌにとっては心安らかな日々。やがて来る別れの前に、セリーヌはケレンと過ごす一時の至福に溺れていた。
そんなある日、セリーヌの元を予期せぬ人物が訪れる。
もう二度と会うことはないと思っていた女性の訪問に、セリーヌは動揺した。かつて、セリーヌの醜い内面を暴いた彼女は、再会した今もまた、セリーヌの内に醜い嫉妬を呼び起こす。
「お久しぶりです。私のことを覚えていますか?」
そう言って、セリーヌの独房に入って来た金髪に碧い瞳の少女。バイラートの青い軍服を身に纏い、屈強な護衛騎士を従える彼女には、獣の耳も尾もない。
「バイラート王国軍第一隊隊長、将軍補佐のアンジェリカと言います。……あなたは私のことなど覚えていないかもしれませんが、私はあなたのことをはっきり覚えています」
冷めた視線がセリーヌを一瞥する。
「今日、私はあなたの悪行を正すためにここに来ました」
その物言いに、セリーヌは彼女の目的を理解した。彼女が言っているのはケレンとの関係だと。
ここ最近、セリーヌは何度も同じような「忠告」を受けている。黙って視線を落とし、彼女の言葉の続きを待った。
コツリと、一歩前に出た少女の軍靴が視界に映る。
「近頃、私の下にあなたに関する嘆願が多く届いています。……セリーヌさん、即刻、不品行を改め、獣人との接触を止めてください。あなたの行動が、多くの獣人を怒らせ、傷つけています」
やはり、その話だった。セリーヌは、身体の前で組んだ両手をギュッと握り締める。彼女の要請――命令には従えない。
「……申し訳ありません。ですが、私にそれを決める権利はありません」
セリーヌの答えに、少女が一瞬、押し黙る。それから、ため息と共に小さく吐き捨てた。
「全く。第三隊の首脳陣は、一体、何を考えているのでしょう……」
独り言のような愚痴を吐露した少女は、しかし、直ぐに気持ちを入れ替えたらしく、再びセリーヌに鋭い視線を向ける。
「セリーヌさん。私は、一応あなたと同じ人間ですが、心は獣人です。ですから、仲間の獣人が困っていれば、必ず助けます」
迷いなく言い切る少女に、セリーヌの胸の内がチリと焼かれる。沈黙するセリーヌに、少女が苛立ったように声を荒げた。
「あなたみたいに平気で獣人を虐げる人に、私の気持ちは分からないでしょうね!ですが、彼ら獣人も人間と同じ、何も変わらないんです!彼らにだって、ちゃんとした心がある!」
ジャリと足音を立てて一歩を詰めた少女に、セリーヌは身を固くする。
「あなた、ケレンという獣人に何をしたんですか?」
「私は、何も……」
「そんなはずはありません!嘆願書には、『ケレンは変わった』、『ケレンがおかしくなった』という訴えがいくつもあるんですよ?」
少女の勢いに、セリーヌは気圧される。
彼女は正義だ。圧倒的な正義。セリーヌから見ても、彼女は正しく、セリーヌのちっぽけな正義では到底太刀打ちできない。けれど、少なくとも、セリーヌは自身を悪だとは思いたくなかった。
「……私がケレンに施したのは治療です」
自己を弁護するセリーヌの言葉を、少女は切り捨てる。
「嘘つき……!」
「……」
「私は、あなたが獣人に対して何をしたかを知っています。彼らをゴミのように捨てたあなたを、私は決して許さない!」
ギラギラとした彼女の眼差しを、セリーヌは真っすぐに受け止め、口を開く。
「……私の言葉が信じられないのでしたら、どうか、ジーク隊長に確認をとってください。彼にはすべて話してあります。私が嘘を言っていないことも、彼なら証明してくれるはずです」
セリーヌの言葉に、少女の顔からスッと表情が抜け落ちた。
「……あなたは、ジーク隊長にも取り入ったんですか?」
「っ!違います。そうではなく……!」
セリーヌの否定が気に入らなかったのだろう。少女が不快げに顔を歪めた。
「……私、知っているんです。ケレンが、セザの薬がないと眠れなくなってしまったこと」
「セザ……?」
彼女の口にした薬の名に、セリーヌは虚を突かれた。確かに、ケレンは「薬がないと眠れない」と言っていたが、セザは傷薬、睡眠の作用はない。戸惑うセリーヌに、少女はますます苛立ちを見せる。
「あなたが彼をおかしくしたんでしょう!?セザの匂いがないと眠れないなんて……!あなたが彼で人体実験なんてしたから!」
「それは……!」
違うと言いかけて、セリーヌは口を閉じる。
果たして、絶対に「ない」と言えるだろうか。セザの葉はセリーヌの実験室に常備されており、ケレンの怪我の治療にも使用した。彼の嗅覚はハルナスの香で鈍らせていたが、記憶に潜る治療のどこかで記憶とセザの匂いが結びついてしまった可能性はある。
答えに窮するセリーヌに、少女が指を突き付けた。
「獣人にとって嗅覚がどれほど大切なものか、あなたには分からないんでしょうね!ケレンはあなたの実験の被害者です!」
(被害者……)
彼女の言葉が、セリーヌの胸に突き刺さる。
「彼には、彼を想い、支えてくれる仲間がいます!ちゃんとした、獣人の仲間が!」
だから、と少女は続ける。
「セリーヌさん、あなたは必要ありません。この国にも、ケレンの傍にも。……だからどうか、処罰が下されるその時まで、分を弁え、身を慎んでください」
それだけ言うと、アンジェリカはセリーヌにクルリと背を向けた。「話は終わった」、そう言わんばかりの迷いのない足取りで扉を潜り、部屋を後にする。
一人残された暗がりで、セリーヌはグッと拳を握り締めた。
「……それでも、私はあなたの指示には従えない」
言えなかった言葉を、彼女の消えた扉に向かって呟く。その声が、酷く頼りなげに聞こえた。




