2-06 二人の距離
セリーヌの囚人としての生活は、想像していたよりも遥かに恵まれていた。
午前の数時間を聴取に協力すれば、後は牢に留め置かれるだけ。地下にある牢は日が差さないためジメついていたが、独房なので他者の存在に怯えずに済む。拷問などの身体的苦痛を与えられることもなかった。
(研究所に居た獣人たちとは比べ物にならない待遇ね……)
それを考えると、不満などあろうはずがない。それに――
「ほーりょーちゃん!」
聴取を受けた日から毎日、ケレンが牢を訪れ、セリーヌを外に連れ出すようになった。恐らく彼の独断だろう行動に、当初は、「許されるのだろうか」と戸惑ったが、ケレンは呆れるほどに堂々としている。
初めて外を歩いた日――連れ出されて初めて、セリーヌは自分がバイラートの王都、その内にある軍施設に収監されていることを知った――、案の定、セリーヌを連れたケレンは多くの者に見咎められた。
それでも、ケレンはどこ吹く風。挙句、セリーヌの膝を枕に転寝しだしたのだが、そこでとうとう静かに怒るジークに見つかった。「勝手に牢から出すな」と叱責を受けたケレンは、「分かった」と答え、漸くセリーヌを牢に戻した。
が、何を思ったのか、「分かった」と答えたはずの彼は、次の日もセリーヌを牢から連れ出した。
セリーヌの腰にロープを巻き、その先端を手に持って、「じゃあ、行こうか?」と告げたケレンに、セリーヌは前日以上に混乱した。彼曰く、「どうせ逃げられないんだから、ジークも本気ではない」、「だけど、体裁もあるから、一応、捕まえとくね?」ということだったが、何をどうすれば、そのような判断になるのか。ケレンの言葉を聞いた後も、セリーヌは理解が及ばずにいる。
「捕虜ちゃん、どうしたの?行くよ?」
セリーヌの腰に巻かれたロープが緩く引かれる。今日もまた、ケレンはセリーヌを連れ出そうとしていた。
「今日はどこ行こうか?そろそろ、第三の隊舎は全部見て回ったから……、あ、第三ってのはジークの隊のことね。他に、第一と第二があるんだけど、王都防衛のために場所が別れててね……」
ケレンのおしゃべりを聞きながら、セリーヌはハラハラしてしまう。その情報は虜囚に聞かせていいものなのか。得た情報をどうこうする術はセリーヌにないが、容易に漏らすべきではない気がする。だが、全く頓着しない様子のケレンに、セリーヌは黙って彼の後をついて歩いた。
白いロープ。強く引かれることのないそれが、二人の間で揺れている。
中庭に差し掛かった時、遠くからケレンを呼ぶ声が聞こえた。セリーヌは顔を上げ、声のした方へ視線を向ける。視界に、ここ何日かで見慣れた姿が映った。
「うわー、また見つかった……」
言葉ほど嫌そうではないケレンの声がする。それが彼女に届いたかどうか。近づいて来たのは、黒毛の美しい耳と尻尾を持つ猫獣人の少女だった。
「ケレン!あんた、またそんなことしてる!」
柳眉を逆立てる彼女に初めて遭遇したのは、ケレンに連れ出された初日。セリーヌを連れたケレンの姿に、最初、彼女は驚きに言葉を失って、それから、烈火のごとく怒り始めた。「何をしている」、「仕事をさぼるな」と激昂した彼女の怒りは、けれど、ケレンではなくセリーヌに向いていた。
ケレンが構うことが許せなかったのだろう。セリーヌを睨む眼差しには、熱く燃える嫉妬の炎が燃えていた。そうして、今も――
「その女を牢から出すなって、何度言ったらわかるの!?」
「ん?分かってるよ?分かってるから、逃げられないようにちゃんと繋いでるでしょう?」
「繋いでおけばいいなんて誰が言ったの!ジークは『牢から出すな』って言ったのよ!」
顔を赤く染めて怒る彼女に、ケレンはニコニコと笑って答える。
「うんうん。後で牢に戻しておくって。だから、問題なし」
「あるわよ!油断して逃げられたらどうするつもり!?」
「えー?俺がそんな失敗すると思う?……逃がさないよ、絶対」
スッと細められた瞳。ケレンの酷薄な笑みが、セリーヌに向けられた。その冷たさに、セリーヌだけでなく、黒猫獣人の少女もぎこちなく沈黙する。
彼女の緊張に、ケレンがパッと表情を変えた。
「でもまぁ、ありがとう。エリスは俺のこと心配してくれたんだよね?」
「別に、心配ってわけじゃ……」
そっぽを向いて告げる彼女の頬が赤い。その表情に、ケレンが喉の奥で笑った。
「大丈夫だから安心して。失敗してジークに殺されるようなことにはならないって」
「……もし、その女に怪我させられたらどうすんのよ」
エリスの言葉に、彼は今度は「あはは」と声を上げて笑う。
「無い無い!そんなの絶対、無いって!」
「っ!分かんないでしょう!あんたが、そうやって、その女に甘い顔してたら……!」
顔を赤くするエリスに、ケレンは笑い続ける。
午後の明るい陽射しの中、気心知れた二人の会話に、セリーヌは知らず胸が苦しくなるのを感じていた。
ケレンの弾けるような笑い声。セリーヌがずっとずっと夢見ていたもの。明るく希望に満ちた彼らの世界。同じ場所に立ちながら、セリーヌと彼らは違う世界に立っている。
眩しい――
そう感じた途端、セリーヌの膝から力が抜ける。ふらついた身体は、けれど、倒れる前に強い力で抱き留められた。
「……大丈夫?」
覗き込む新緑の瞳に、セリーヌはぎこちなく頷いて返す。震える膝を叱咤し、何とか自力で立ち上がった。
エリスが、不機嫌に「ふん」と鼻を鳴らす。
「疲れてるんじゃない、その人?あんたが毎日毎日連れ回すから」
その言葉に、ケレンは軽く瞠目し、セリーヌの顔をじっと観察する。
「うーん、そう言われると顔色が悪いかも?今日はもう、地下牢に戻る?」
セリーヌは何も言わずに彼の言葉に頷く。ケレンの「ハァ」というため息が聞こえた。
「あー、残念。今日は、捕虜ちゃんとのお昼寝は無しかぁ」
その言葉に、エリスがギョッとしたように目を見開いた。
「ちょっと、ケレン!昼寝って、あんたまさかこの人とっ!?」
血の気が引いた顔。悲鳴のような彼女の言葉に、ケレンは「違う違う」と首を横に振る。
「誤解しないでよ。俺と捕虜ちゃんは至って健全な仲。膝枕してもらってるだけ。……本当は、抱き枕の方がいいんだけど」
最後にボソリと呟かれた言葉に、エリスが信じられないと言わんばかりに首を横に振る。
「何で……?何で、人間の女なんかと……」
「うーん、何でって聞かれても。……捕虜ちゃん抱いてると眠れるから?」
「っ!そんなの、この女じゃなくてもいいじゃない!」
エリスの叫びに、ケレンが首を横に振る。
「それがさ、捕虜ちゃんが一番しっくり来るんだよね。薬がなくても、捕虜ちゃんならイケる」
「っ!」
ケレンの言葉に、エリスの顔が歪む。泣きそうな顔で何かを言おうとした彼女は、結局、何も言わずに唇を噛んだ。無言でセリーヌを一瞥した後、背を向けて走り出すエリス。去っていく彼女の背中を見送って、セリーヌはケレンを振り返った。
「……眠れないんですか?」
「うん。全然、寝れない。薬使って、女の人抱いて、まぁ、何とか?」
彼の返事に、ゾワリとした不安がセリーヌの胸の内を撫で上げた。
思い出すのは、救助される直前のケレンの行動。彼は、夢遊病のようにベッドを抜け出しては、セリーヌの隣で眠っていた。薬を使わなければ眠れないということは、あの時よりも、症状が悪化している。もし、回復の過程に何か問題があったのだとしたら――
「これでも結構、助かってるんだよねぇ。捕虜ちゃんがいてくれて」
「……」
「正直、しんどかったからさぁ」
日の当たる場所、ポツリと零された彼の言葉が、セリーヌの心を揺らした。波紋が、徐々に広がっていく。侵食されるセリーヌの思考、抑えきれない欲に飲み込まれる。
「……お付き合いします」
「ん?」
「お昼寝、ですよね。……お付き合いします」
繰り返したセリーヌの言葉に、ケレンは一瞬キョトンとして、それから、満面の笑みを浮かべた。その笑みの眩しさに目を細めたセリーヌは、手を引かれるまま、彼の後について歩き出す。




