2-02 不調 Side K
ケレンがバーナードの診察を受けたのは、ジークとエリスに受診を約束した三日後のことだった。
結果は良好。体力の回復も著しいとのお墨付きをもらい、ケレンはその場で戦場への復帰許可を得た。ただ、記憶の欠陥については、原因も治療法も不明。バーナードをして、「どうすることもできない」との結論に、ケレンは以降、失った記憶を諦めた。
元より、然程気にしていたわけではない。僅かに、あの時感じた寂寥が何だったのか気になりはしたが、それも今は些末な問題だった。ケレンが戦場に復帰した直後、バイラート王国軍は、宿敵グラスト帝国に対して最後の攻勢に打って出た。
全軍を持っての侵攻。ケレンは、所属する第三隊の精鋭と共に、国の要所の一つである帝国第五研究所を目指して進軍した。そうして、もう明日にも、その因縁の場所へ王手をかけんとする、その夜――
(やっぱ、駄目か……)
野営地の天幕の一つで、ケレンはまんじりともせずに、夜の闇を見つめていた。身体は疲労を訴えている。けれど、眠れない。
その内、闇を見つめることにも飽きたケレンは天幕を出た。周囲には同じような天幕がいくつも立ち並ぶ。人目を避けた行軍だが、人里離れた丘の上に人の気配はなく、どことなく弛んだ空気が漂う。どこかの天幕から酒盛りの声が聞こえた。
何となく歩き出したケレンは、野営地から離れて丘の上まで上る。眼下の闇を見下ろす内、背後に人の気配を感じた。振り向くと、足音も立てずに近づいてきた男がケレンの隣に並ぶ。
「……ジーク、珍しいね。あんたがこんな時間に起きてるなんて」
ケレンの軽口に、暗闇の中、ジークの黒の瞳が光った。
「お前こそ。……まだ眠れないのか?」
「んー?まぁ、そんなとこかなぁ」
答えたケレンに、ジークが心配そうに告げる。
「ここは敵地だからな。そう簡単に、『娼館にでも行ってこい』とは言ってやれん」
真面目な顔でそんなことを言い出す上司に、ケレンは思わず噴き出した。
「何それ……!」
笑うケレンを尻目に、ジークは淡々と続ける。
「お前が女を抱かねば寝れんと言うならやむを得んだろう。……隊の者に手を出すことは許さんが」
「えー?なんか、すごく語弊があるなぁ」
ケレンの笑いが苦笑に変わる。
病室で目覚めて以来、ケレンは一人では眠れなくなった。薬を試しても駄目、魔術を用いても駄目。そんな中、少しは効果があったのが、ある特定の「匂い」を持つ温もりを抱き締めて眠ることだった。
それが判明してから、ケレンはその匂いを纏わせた娼婦を抱いて寝るようになった。それでも、安眠というにはほど遠く、浅い眠りを繰り返すような有様。それに、娼婦を抱くのは文字通りの「抱く」であって、女を食い散らかしているわけではない。
(まぁ、一々説明するのもね……)
心地よい夜風に吹かれて、ケレンは目を細めた。今宵もどうせ眠れはしないのだ。このまま隊に先行して目的地に乗り込むのも有りかと検討し始めたところで、ジークのため息を耳が拾う。
「……エリスが心配していた」
「あー……」
ジークの言葉に、ケレンは何とも言えない返事を返した。
「エリスは進軍への従事を希望していた。それを止めたのはお前だろう?」
ケレンの脳裏に、出立前、自身の部屋に現れた少女の姿が浮かぶ。まさに、一世一代といった風情で、「ケレンのためについていく」と告げたエリス。暗に、「抱かれても良い」と告げた彼女の好意を拒絶したのは、確かに自分だ。
(いやー、だって、まぁ、流石に無しでしょう?)
大した貞操観念を持ち合わせていない自覚はあるが、隊の仲間、それも自身に好意を寄せる相手に劣情を抱くような面倒なことはしない。だから、エリスには真実を明かした。必要なのは女ではなく匂いなのだと。それでも最後まで納得しない彼女を説得するのはとても骨が折れた。
小さく嘆息したケレンを、ジークがじっと見つめる。
「ケレン、エリスと番うつもりはないのか?隊の風紀を乱す真似は許さんが、お前が本気でエリスを望むのなら……」
ジークの言葉に、ケレンは黙って首を横に振る。ジークが顔を顰めるのが分かった。
「なぜだ。目覚めて直ぐ、お前はエリスを求めたのだろう?意識を取り戻したのも、エリスの呼びかけがあったからではないのか?」
「ああ。それね……」
何やら盛大に勘違いしているらしいジークに、ケレンはたった一言、「そういうんじゃないから」と告げる。困惑した様子の上司に、けれど、ケレンはそれ以上を明かすつもりはなかった。
(抱きしめたのも、目が覚めたのも、『匂い』のせい、なんてね……)
我ながら、中々に偏執的な嗜好だと思うから、口にはしない。おまけに、自身を眠りに誘うのも同じ匂いなのだから、いよいよもって倒錯している。
(セザの葉、傷薬の軟膏の匂いに安らぐ日が来るとは……)
これは、自分は思った以上に壊れているのかもしれない。
ただ、エリスを抱き締めた時も、娼婦を抱く時も、何かが違うことは感じていた。違和感がある。どうにもしっくり来ないのだ。
(とは言っても、何がどう違うのかなんて分かんないしね……)
ケレンの口から零れたため息が、夜の闇に溶けて消えた。




