2-01 覚醒 Side K
ずっと何かを探していた。
ぼんやりとした世界。見えるもの、聞こえるもの、全てが遠い。分厚い膜の向こうで、意味を成さない音が聞こえる。これが死後の世界であろうかと、ケレンの脳は緩慢にそう判断した。
その死後の世界でさえ、ケレンは何かを探している。
――全く、いつまで寝ているつもりなの……!
ケレンの優れた耳が誰かの声を拾った。けれど、言葉の意味までは分からない。
――勝手に突っ走って、みんなに心配かけて……
声が近づいてくる。耳元近くで聞こえた音に、ケレンの耳はピクリとも動かなかった。その代わり、目の前の「何か」が発する匂いに、ケレンの心が惹かれる。
――……さっさと目を覚ましなさいよ。みんな待ってるんだから。
言葉と同時、匂いが遠ざかっていく気配に、動かぬはずのケレンの身体が動いた。
「えっ!?」
(見つけ、た……)
「キャアッ!ちょっと、ケレン……!」
ケレンは、目の前の温もりを抱き締める。抵抗するソレを逃がさぬよう、腕に力を込めた。
強くなる匂い。その匂いに包まれる安堵に、ケレンの意識が遠のいていく。暗い暗い闇の中。けれど、見つけた「何か」が腕の中にある限り、ケレンにとって、闇は恐ろしいものではない。沈む意識の向こうで、「何か」がケレンの名を呼ぶのが聞こえた。
「……全く、お前という奴は。目覚めてそうそう、コレか?」
ケレンが再び意識を取り戻したのは、それから間もなくのことだった。
動かぬケレンを看病していた黒猫獣人の少女――エリスが中々戻ってこないことを心配した同僚がケレンの病室を訪ねたところ、当のエレンは、腰に抱き着くケレンを前に途方にくれていたらしい。意識がないくせに、ケレンがエリスを離さない。業を煮やした同僚は、ケレンを力づくで引き剝がし、弾みで意識を取り戻したケレンのために、その上司を病室へと呼んだ。
上司である狼獣人の青年――ジークにそこまでの説明を受けて、ケレンはヘラリと笑う。
「ごめんごめん。何か、すっごくいい匂いがした気がしてさぁ。……思わず?」
「『思わず』、ではない。お前に節操を求めようとは思わんが、少なくとも、隊内の風紀は乱すな」
渋面のジュークの言葉に、「はいはい」と軽く答えるケレン。視線を、部屋の隅で不機嫌を露わにする少女へと向けた。
「エリスも、ごめんね。なんか、随分、お世話になっちゃったみたいで。ありがと」
「別に……。病人の世話するのが私の仕事だから、お礼は要らない」
ぶっきらぼうな言葉。衛生兵であるエリスの照れ隠しに、ケレンの口元に揶揄いの笑みが浮かぶ。ニヤニヤと笑うケレンに対して、エリスは真っ黒な尻尾の毛を逆立てた。いつものじゃれ合いに、ジークが「何をやっているんだ」とあきれたように嘆息する。
ケレンがジークへと視線を戻す。
「それで?俺は今どういう状況でここにいる?」
僅かに細められた瞳に、一瞬で空気が変わる。ピリとした緊張の中、ジークが口を開いた。
「お前がどこまで覚えているか分からんが、俺たちがお前を帝国の研究所から救出したのが二週間前だ」
「研究所……?」
「ああ。救出からここまで、お前の意識はほとんどなかった。目を開けていても、こちらの言葉が聞こえているのかどうか。反応がないままここまで連れてきて、後は今日まで目を覚まさなかった」
「へぇ……?」
自身の状態を説明されても、ケレンはあまりピンと来ない。自身の身に何が起きたのか。改めて思い出そうとしたケレンは、気付いた事実に「ん?」と間の抜けた声を上げた。
「ケレン?」
案ずるようなジークの声。ケレンは「あー」と呻いて宙を睨む。暫しの沈黙の後、ハァと小さくため息をついた。
「ヤバいなぁ、コレ。俺、何にも覚えてないみたい」
「何も覚えていない……?」
ジークは驚きに目を見開く。彼の表情を見て、ケレンは苦笑した。
「研究所に潜入する辺りからの記憶がない。そこだけ、まるっと抜け落ちてる。俺の感覚からすると、『研究所の障壁越えてやったぜ』って調子に乗って、気付いたらここで寝かされてたって感じ」
「……そんなことがあり得るのか?」
「あり得るってか、実際そうなんだよなぁ。……どうなってんだろうね?」
ケレンの言葉に、ジークが渋面を浮かべる。一歩離れた場所で成り行きを見守っていたエリスも表情を曇らせた。そんな二人の反応に、ケレンは軽く肩を竦めて見せる。
「まぁ、無いものは無いでしょうがない。問題あるとしたら、研究所の侵入経路がちょっと曖昧になったってことくらいで。後は……」
「バーナード先生を呼ぶわ」
ケレンの言葉を遮るようにして、エリスが隊に所属する軍医の名を上げた。
「ケレン。あなた、もう一度、バーナード先生に見てもらうべきよ」
「んー?別にどこか悪いって感じはしないし、あのおっさんも忙しいよね?態々診てもらう必要はないかな」
医師の手を煩わせるほどのことではない。そう判断したケレンの言葉に、エリスが柳眉を逆立てる。
「何言ってるの!あなた、自分のことちゃんと分かってるの!?記憶がないなんて、絶対、どこかおかしいに決まってるじゃない!」
エリスの剣幕に対し、ケレンは「えー?」と不満の声を上げる。ジークが二人の間に割って入った。
「ケレン、エリスの言う通りだ。大人しくバーナードの診察を受けろ」
「やだね。面倒くさい」
「面倒くさがるな。……お前の意識がない間に一応、診察は受けされている。その時は何の問題もなかった。だが……」
言い淀んだジークに、ケレンはその先を促す。
「……だが、帝国の研究所はろくなもんじゃない。お前は、獣人に対する人体実験を平気で行うような奴らに囚われていたんだ」
不快そうに吐き捨てるジークの言葉に、ケレンは「そう言えば」と疑問を口にする。
「救助って言うけど、一体、どうやって中に入ったの?意識ない俺を連れ出すなんて、相当、大変だったと思うんだけど?」
そもそもが、第五研究所は堅牢で知られた施設。得られる情報も少なく、正攻法での攻略が難しい。だからこそ、ケレンは単独で動いた。そんな場所に救助に向かうのは自殺行為。最悪、共倒れになっていた可能性もある。
ケレンの疑問に、ジークが深く頷いて答えた。
「出入りの業者を装って侵入した。……アンジェリカ様がご助力くださったんだ」
「え、なんで……?」
出された名に、ケレンは驚く。バイラートにおいて、その名を知らぬ者は少ない。グラスト出身でありながら獣人との共存を望み、王国軍将軍――熊獣人であるディーデリヒ・ブラウアーの番となった人間の少女。かの少女が、グラストとの戦争、獣人解放における旗頭となり、自ら先頭に立つことを厭わぬ人物だとは聞いていたが――
「……よく、将軍閣下が許したよね、それ」
呟くケレンに、ジークの眉間に皺が寄る。
「閣下ご自身も、救助隊に参加された」
「え、なんで……?」
ケレンはもう一度同じ言葉を呟いた。
人を殺す能力にそこそこ自信があるとは言え、ケレンはただの下士官。軍の最高指揮官が危険を冒してまで救助に赴くほどの価値は無い。蛮勇とも言える救出作戦だったことに、ケレンは呆れのため息をついた。
その不遜な態度に、ジークが片眉を上げて不快を示す。
「お前が生きているという情報を持ってきてくださったのが将軍閣下だったんだ。……その場にアンジェリカ様が同席されたため、彼の方の指揮下で動くことになった」
「うーん、意味が分かんない。なんで閣下が俺の情報持ってるの」
面識があるにはあるが、ケレンは彼の直属の部下ではない。ケレンの疑問にジークが答える。
「どうやら、紅牙の一族から情報の提供があったらしい。……彼の一族がどうやってお前の存在を知り得たのかは不明だ」
「うわー、ますます意味分かんない」
何故、ここで紅牙が出て来る――?
彼の一族は王国軍において特殊な立場にあり、国王にさえその膝を折らぬ当主が治める一族は隠密と暗殺に長ける。そう話には聞くが、ケレンは未だ彼らの実態を知らず、その姿を垣間見たこともない。そんな彼らがなぜ、自分を知るのか。欠けた記憶のどこかで接触でもしたのかと、ケレンはもう一度自身の記憶を呼び起こしてみる。
(第五研究所の存在を知ったのは、現地の諜報員に報告を受けたから。『障壁が邪魔だ』って話で、だったら、先行して内部から破壊しようと単独行動に出た。それで……?)
研究所に侵入した記憶ははっきりと残っている。何なら、もう一度やれと言われれば、もう一度侵入する自信もあった。ただ、そこから先、研究所の内部に関する記憶が全く浮かんでこない。
その後に続く記憶。思い出せるのは――
(……何だ?)
不意に、ケレンの胸によぎった不安。微かなそれに、ケレンは思わず自身の胸に手を当てた。馴染みのない感覚。何かが足りない。足りなくて辛い、寂しい。
(寂しい……?)
まさか、自分が――?
とうの昔に無くしたはずの感情に襲われ、ケレンは唖然とする。何かに執着し、望むことなど、もう二度とないと思っていた。今更、自分が「何か」を必要とするなど――
「……ケレン、どうしたの?大丈夫?」
エリスに名を呼ばれ、ケレンはハッとする。顔を上げると、瞳に不安を滲ませる彼女と目があった。どうやら、また心配をかけたらしい。ケレンは緩く笑った。
「ああ、うん、大丈夫。気にしないで」
ケレンの適当な答えに、ジークが口を挟む。
「ケレン、やはり、バーナードの診察を受けろ、これは上官命令だ」
「えー?」
ケレンの不満に、ジークの瞳が陰った。
「……脅すつもりはないが、お前を捕らえていた人間が言っていた。『病原体がお前の脳を侵している』と。身体に異常はなくとも、脳に影響が出ているのかもしれん」
「脳に、ねぇ……?」
ジークの言葉を半信半疑で繰り返したケレンに、エリスがズイと身を寄せる。
「ジークの命令に逆らうつもり?絶対に診てもらうのよ。いい?分かった?」
有無を言わせぬすエリスの勢いに、ケレンは内心のため息を隠して頷いた。面倒だが、それで二人が納得するなら、それでいい。
(まぁ、診せたところで、どうにもならない気がするけど……)
それは確信に近い予感。ケレンは、自身の失ったものがもう二度と戻らないことを受け入れた。その時感じた寂寥が何なのかは分からない。ケレンは、自身が何を失ったのかさえ覚えていないのだから。




