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愛し方も知らずに  作者: リコピン
16/35

1-14 光明

「……凄い。あれだけの傷がもう……」


獣人女性を保護した日からちょうど一週間。獣人の治癒力は素晴らしく、食事をきちんと摂るようになった彼女の回復は早かった。


包帯の取れた女性が、セリーヌが明けた檻の扉から身を屈めて外に出る。


ふらつく様子もなく檻の外に立った彼女は、興味深げに研究室内をぐるりと見回した。その視線が、セリーヌの私室に続く扉で止まる。


「……どうぞ、こちらです」


セリーヌは、彼女を扉の奥へと誘う。黙って後に続いた女性が扉を潜り、部屋の中へと足を踏み入れた。その視線が、ベッドの上、虚空を見つめるケレンを捉える。一瞬にして強張った彼女の表情を見つめ、セリーヌは口を開いた。


「……如何でしょう?彼に見覚えはありますか?」


「いや……」


セリーヌの静かな問いに、彼女は首を横に振った。その答えに、セリーヌは胸の内の失望を隠し、「そうですか」と頷いて返す。確かに、ケレンの記憶世界に目の前の女性が現れたことはない。元より薄い望みではあったが、顔見知りであれば、ケレンのこの状態を改善する助けになるのではと思ったのだ。


沈黙の流れる部屋の中、ケレンをじっと観察していた女性が、セリーヌに視線を向ける。


「……この男は、軍人だと言ったな?」


「はい。本人は何もしゃべっていませんが、その可能性が高いと思います」


セリーヌの答えに頷いた女性は、ケレンに視線を戻す。彼を見下ろし、再び口を開いた。


「私は狼の獣人だ」


「狼……」


それは、彼女が初めて明かす情報だった。耳と尾を切られた彼女が何の獣人であるか。獣人でないセリーヌには判断がつかず、また、それを彼女に問うこともしなかった。なぜ今、それを明かしてくれたのか。彼女の言葉の続きを待つセリーヌに、彼女は自嘲の笑みを浮かべる。


「狼は誇り高き一族、その結束は固い。その中でも、私は特殊な一族に属している。……今や見る影もないがな」


「……」


自らを「誇り高い」と評した女性の瞳に映る絶望。セリーヌは何も言えずに立ち尽くす。セリーヌの同情など望んでいないだろう彼女は、淡々と言葉を続けた。


「同じ軍に所属しているとは言え、我らは一族での任務に従事する。よって、この男と直接の面識はない。ただ……」


言って、彼女は僅かに首を傾げた。


「以前に、山猫獣人の下士官の噂を聞いたことがある」


「っ!」


その言葉に、セリーヌはハッとして女性の横顔を見つめる。ケレンに視線を向けたままの彼女は、独り言のように呟いた。


「山猫の獣人というのは珍しい。しかも、士官となるほどの能力を持つ者はな。恐らく、国に帰れば、照会できるが……」


そこで言葉を切った女性の姿に、セリーヌは彼女の苦悩を垣間見た。彼女が死を望んだのはつい三日前のこと。ケレンの存在が一旦はその生を繋いだが、彼女は国に帰る――生き延びることを躊躇っている。


「お願いします……!」


セリーヌは頭を下げた。


「どうか、どうか彼を救ってください。このままでは、彼は……」


彼女に生を諦めて欲しくない。そして、同じくらい、ケレンにとってもこれは貴重なチャンスだと確信していた。


このままここで彼を囲い続けるのには限度がある。いずれ焦れたゾマーがケレンを取り戻そうとすることは明白。そうなった時、セリーヌには彼を守る力がなかった。


(出来れば、最後まで治療したい。けど……)


時間がない。であれば、何より優先されるのはケレンの命だった。


(後は彼自身の回復力を信じて、託すしかない……)


彼を仲間の元に帰すことができれば、自我を取り戻すきっかけになるかもしれない。


頭を下げ続けるセリーヌの頭上で、小さなため息が聞こえた。セリーヌは顔を上げて、目の前の女性(ひと)を見上げる。青い瞳と目が合った。


「……なぜ、人間であるお前が頭を下げる?この男だけはない、私のこともだ。なぜ、助けようとする?」


その問いに、セリーヌは僅かに顔を伏せる。床に視線を落として、答えを口にした。


「私は、自分のことを治療師だと思っています」


「治療師?」


「はい。こんな、『非道な研究を行う組織に属していながら何を』、と思われるかもしれませんが……」


それでも、セリーヌは治療師でありたいと願っている。かつての自分が受け取ったもの。それを誰かに渡せる人間になりたい。


「私にとって、貴女やケレンは私の患者です。だから、治します」


「……相手が獣人でもか?」


「ええ。獣人であろうと人間であろうと。私は、患者の助けになりたい。……あなた達に、生き延びてほしい」


この国でそれを望むのは難しいと分かっているけれど。セリーヌは心からの願いを口にして、女性を見つめた。彼女の顔が苦しげに歪む。


「生き延びろ、か。……傲慢だな」


冷たい怒りを孕んだ言葉が紡がれる。


「お前たちの手により、私は一族の誇りを失った。それでもまだ、私に生きろと言うのか?穢されたこの身で仲間の元へ帰り、恥辱に耐え続けろと?」


怒りだけではない。どうしようもない悲しみ、苦しみがひしひしと伝わってきて、セリーヌは唇を噛んだ。両の手を強く握り締め、青い瞳を見上げる。


「……それでも、です」


「……」


「それでも、私はあなたに生きてほしい。……だって、私は後悔したから……」


セリーヌの声が震えた。


「貴女には、貴女の帰りを待つ人がいるのではありませんか?強い結束を持つという貴女の一族は、決して貴女を失いたくないはず……」


セリーヌは自身の目の奥が熱くなるのを感じた。泣きたくないのに。堪えきれなかった涙が溢れ出す。


「私は……、私が貴女の家族だったら、どんな貴女でもいい、帰ってきてほしいと願い続けます。貴女に、傍に居てほしい、一緒にいてほしい。……生きて、傍に……」


それは、前世のセリーヌが母からもらった言葉だった。「どんな貴女でもいい」と、「生きてほしい」と願った母の言葉を覚えている。けれど、セリーヌは自身の選択を変えることが出来なかった。そしてその選択を、生まれ変わった今、悔いていた。


苦しみを終わらせたつもりが、待っていたのは別の苦しみ。愛した人達が誰もいない。もう二度と、彼らに会うことの出来ない世界。


辛い、悲しい、寂しい――


そうしてそれが、セリーヌが置いてきた世界、セリーヌの居ない世界を生きる彼らに与えたのと同じ苦しみだと理解した時、セリーヌは自身の選択を心から悔やんだ。


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――!


泣いて、謝って。そうしてどうにか、この世界での贖罪を見つけ、セリーヌは今世の生に折り合いをつけて生きている。


漏れそうになる嗚咽を堪えて俯いたセリーヌの耳に、女性の深いため息が聞こえた。


「お前に我が一族の何が分かる」


「……」


「……そう突っぱねたところで、この男をこのまま捨て置くわけにはいかんからな」


セリーヌが顔を上げた先、彼女が「仕方ない」と呟いた。


「私一人では、この男を連れ帰ることは出来ん。一度国に帰り、仲間を連れて戻る」


「っ!」


セリーヌの目に、新たな涙が浮かぶ。


「必ず助けに戻る。それまで、この男、……ケレンを頼む」


「はい!……必ず、必ず守ってみせます!」


生き延びること――国へ帰ることを決意した女性に、セリーヌの胸の内に喜びが膨れ上がる。と同時に、迷いが生まれた。その迷いに答えを見つける代わり、セリーヌは一つの問いを口にする。


「……もし、ここを発つ前にあなたの記憶を消すことが出来るとしたら、どうしますか?」


「記憶を消す?」


訝しげな視線に、セリーヌは「はい」と答える。


「あなたの失った耳や尾を取り戻すことはできません。けれど、忌まわしい記憶を消し去ることは出来る。……それは、あなたの誇りを取り戻す助けになりますか?」


セリーヌの言葉に、女性はじっと考え込んだ。真意を問うようにセリーヌを見つめ続け、やがて、フッと力が抜けたように笑う。


「不要だな」


「不要、ですか……?」


「ああ。記憶が消えたとて、身に受けた屈辱が消えるわけではない。ならば、私はこの怒りを抱えて生きる」


彼女の答えに、セリーヌは安堵した。それがどんな記憶であろうと、人の記憶を消すのは怖い。例え頼まれた上でも、結果の見えぬ行為は恐ろしかった。彼女に断られて良かった。けれど――であれば――、栗鼠獣人の少女への行いは本当に正しかったのか。


安堵と後悔。グチャグチャな思考に心をかき乱され、セリーヌは泣きながら笑う。


その夜、狼獣人の女性は第五研究所を抜け出した。


最後に自らの名を告げようとした女性に、セリーヌは首を振って答えた。知らない方が良い。知らなければ――例えセリーヌの身に何が起きようと――、セリーヌが彼女の名を明かすことはない。


その意図が通じたのかどうか。結局、名を明かすことのなかった彼女は、一人、闇夜に消えていった。






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