1-10 新たな患者
半ば覚悟していたことではあるが、やがて目を覚ましたケレンの瞳は、セリーヌの待ちわびたものではなかった。じっと虚空を見つめる彼に、セリーヌは小さく自嘲する。
(焦り過ぎ……)
一度、彼が動いたことで、多くを望み過ぎてしまった。そこから一気に回復する可能性もあったが、セリーヌの見た限り、彼の記憶は完全には戻っていない。十代半ば以降の記憶から今まで。恐らく、二十代前半であろう彼に至るまでの記憶は欠如したままだ。
(まだ、先は長い。けど、前進はしてる……)
少なくとも、心の中、記憶に関する部分で言うのなら、ケレンは回復に向かっている。一時的とはいえ、それが彼の覚醒に繋がったと信じて、セリーヌは自身にできることを続けるしかなかった。
改めてそう治療方針を固めたセリーヌだったが、思わぬ形で、ケレンに変化が訪れた。
「……ケレン?」
「……」
呼びかけに、ケレンが反応を示すようになったのだ。
言葉は発さない、自発的に動くこともない。けれど、名を呼べば、視線がセリーヌを向く。今まで口の中に流し込むだけだった食事も、声をかけながらであれば、自ら口を動かし嚥下するようになった。
「……自分で食べてみる?」
「……」
上半身を起こしたケレンに、セリーヌはスープ皿とスプーンを持たせてみる。が、彼の手は力なく置かれたまま。凪いだ眼差し、何も映していないように見える彼の瞳が、じっとセリーヌを見つめる。
「……もう少し、食べる?」
諦めて、再び口元にスプーンを運んでやると、ケレンの口が小さく開かれる。零れそうになるスープを押し込んで、口からはみ出た汚れを拭いてやる。雛鳥のようだと思いつつ、セリーヌは彼の世話に喜びを感じ始めた。
今までとは違い、ケレンの反応が見られる。固形物を食べられるようになったおかげで、体力が徐々に回復していくのも分かる。新鮮な喜びに、セリーヌは次第にケレンの治療にのめり込んでいった。
そうして、ケレンの治療を開始してからおよそ半年が過ぎた頃、彼はベッドを下り、手を引かれながらであれば、歩行できるまでに回復していた。ただ、未だ言葉を発することはなく、自発的に動くこともない。
(何か、きっかけさえあれば……)
研究室へ続く回廊を歩きながら、セリーヌは思案する。
定期報告会を終えた帰り道、報告会では、当然、ケレンの現状については触れなかった。彼が回復傾向にあることがバレてしまえば、これ幸いと連れ去られてしまうことは確実。そうしてまた、彼は実験体として扱われることになるだろう。
(そんなこと、絶対にさせない)
だからこそ、どれほど行き詰ろうと、セリーヌは他の研究員の助力を得ることを考えなかった。報告会では、「経過観察中」の一点張りで通している。
(ただ、それもそろそろ危ないかもしれない……)
何の成果も見られないセリーヌの研究報告に痺れを切らし始めているゾマーの顔が浮かぶ。彼のネチネチとした嫌味をのらりくらりと交わしているが、存外、ケレンの回復を期待しているらしい男は、追及の手を緩めようとしない。その執拗さが、セリーヌには怖かった。
(……思ったより、時間がない)
ゾマーがケレンの回復に気付く前に治療を終えなくては。
知識も助言もない中で、セリーヌなりに導き出したのは、「何かしらの刺激が足りないのでは?」という推論だった。ケレンがセリーヌに噛みついた一件。彼の記憶が蘇り始めた時のような刺激があれば、更なる回復が見込めるかもしれない。
記憶世界では、ケレンは既に今の彼と変わらぬ姿にまで成長している。裏社会を抜け出した彼、彼はバイラートの王国軍から勧誘を受けて軍人となり、そこで漸く自分の居場所を見つけたようだった。「今までとやってることは変わらない」、「ただの人殺しだよ」と嘯く彼が、友人や仲間――影ではなく、はっきりとした「顔」を持つ人々に囲まれている姿に、セリーヌはどこかホッとした。彼の過去を否定したくないとは思うが、今の彼の瞳の方がよほど好ましいと思うし、感情のままに表情を変える彼が好きだった。
廊下を歩きながら、ケレンが仲間に見せる悪戯げな笑みを思い出し、セリーヌの口が思わず綻ぶ。しかし、それも一瞬のこと。進行方向に立つ人影に気付いたセリーヌは、身を固くして足を止めた。
(衛兵?どうして、こんな場所に?)
ここから先は、下級研究員の研究室が並ぶ通路。上級研究員の研究室がある本棟と違い、身辺警護や機密保持の必要のない場所に衛兵の姿があるのは珍しい。もしや、監視か何かかと警戒したセリーヌの目に、衛兵の足元に置かれたものが映る。
(あれは……!)
黒い大きな袋。人一人が中に入る大きさの袋は膨らんでいて、遠目にも、中身が空でないことが分かる。いつぞや、ロッシュが運んでいたものと同じ。あの時と違うのは、袋が衛兵の足元に転がされているということ。袋を後生大事に運んでいたロッシュとは違う。
不意に、衛兵が片足を大きく上げて袋を強く踏みつけた。
「っ!何をしているのっ!?」
「っ!?」
咄嗟に叫んだセリーヌの声に、男が驚いたように動きを止める。周囲を彷徨った男の視線が、セリーヌに向けられた。セリーヌは足早に男へ近づき、問い質す。
「これはどういうことかしら?あなたは今、何をしていたの?」
「ああ、えっと、勘違いしないでください。これは廃棄予定のモノでして……」
第五研究所においては、衛兵よりも研究員の権限が強い。下級研究員とは言え、衛兵がセリーヌを蔑ろにすることは許されない。怒りを見せるセリーヌの姿に、男が怯んだ。
怯んだ男が、言い訳を口にする。
「その、申し訳ありません。処理業者に引き渡すため運搬中だったのですが、どうにも重くて、つい……」
「つい」で袋を足蹴にした男が、袋の中身を知らぬわけがない。ギリと奥歯を噛んだセリーヌは、チラリと視線を袋に落とす。袋には、小さなタグがつけられていた。
殺処分予定――
その文字に、セリーヌの頭が怒りで沸騰する。怒りのまま、衛兵に告げた。
「この人を、私の研究室まで運んでください」
「え?あの、ですが、こいつ、死にかけですよ?研究の役に立つとは思えないんですが……」
訝しげに眉根を寄せた男に、セリーヌはピシャリと告げる。
「それを決めるのは、あなたではなく私です」
言い切ったセリーヌに男は渋い顔をしたが、それ以上は何も言わず、袋を担ぎ上げた。先導するセリーヌの後ろを、男が黙ってついて来る。物言わぬ男の機嫌の悪さを察して、セリーヌの鼓動が今更のように速くなった。
(軽率だったわ……)
怒りに駆られていたとは言え、袋の中身を思えば、もっと冷静に対処すべきだった。安易に引き取るような発言をしたのも失敗だ。男は、セリーヌが研究材料として袋の中身を望んだと受け取ったようだが、それでも、あまり疑われるような行動は慎むべきだ。特に、私室にケレンを匿う今は。
男を研究室へ招き入れたセリーヌは、一瞬だけ、私室に繋がる扉に視線を向ける。それから、何食わぬ顔で男に告げた。
「……助かりました。それは檻の中に入れてください」
セリーヌの言葉に、男は部屋の隅にある檻の中へ袋を投げ込んだ。セリーヌの内に再び怒りが沸き上がる。けれど、今度はそれを押し殺し、セリーヌは平静を装った。
「ありがとう。後は自分でします」
そう礼を口にして、男を研究室から追い出す。最後まで何か言いたそうにしていた男は、最後に一度、セリーヌをジロリと睨んでから、研究室を後にした。
男の消えた扉を見つめ、セリーヌは小さく息をつく。
(何か勘づかれてしまったかも……)
例え何も気づかれていないとしても、男の不興を買ったことは間違いない。立場上セリーヌが上とは言え、歳下の下っ端研究員に使われたことが、男のプライドを傷つけた。或いは、今回の件をゾマーに報告するくらいの報復は受けるかもしれない。
「……まぁ、なるようにしかならない、か」
諦念と共にそう呟く。
セリーヌは、放ったままにしておいた檻の中へ視線を向け、その中に足を踏み入れた。檻の扉を潜り、黒い袋の傍に膝をつく。袋の上部を縛る紐をほどいて袋を開けた。途端、鼻をつく匂いが強くなる。袋の中の惨状を想像して、セリーヌの眉間に小さな皺が寄った。
上部から剥ぎ取るようにして開いた袋の内を見て、セリーヌは驚きに目を見開く。
現れたのは、裸で手足を縛られた四十代の黒髪の女性。その女性には、獣人の特徴たる獣の耳も尾もなかった。
(……獣人でなく、人間?)
廃棄予定という言葉から、袋の中は獣人だと思い込んでいたセリーヌは驚いた。
何故、「人間」が廃棄されることになったのか。困惑のまま、女性の姿をよく確かめようとしたセリーヌは、漏れそうになる悲鳴を飲み込む。
(ああ!何てことをっ……!)
意識のない女性の頭部。切り刻まれた黒髪の間から覗く地肌に、大きな傷跡が見えた。未だ完治していない二つの傷跡。血の滲むそれは、獣人の証である獣の耳が切り取られた痕だった。




