1-09 回復の兆し
覚醒した意識、戻って来たいつもの光景に、セリーヌはフゥと小さく息をつく。
恐ろしいものを見た。
ケレンの過去は、セリーヌの想像を超える悲惨なものだった。セリーヌとて孤児だが、物心つく前に国に保護され、彼ほど過酷な子ども時代を過ごしていない。生きるために彼が選択した道を非道だと思うが、セリーヌにはそれを否定することができなかった。
(この世界は生きるのが難しい……)
犯罪然り、戦争然り。前世とは違う。少なくとも、前世のセリーヌが生きた国では、これほど容易く命を脅かされることはなかった。
(本当に恵まれていた。それなのに、私は……)
不意に沸き上がる後悔。胸を襲う苦しさに、セリーヌは、ケレンの左手を掴んでいた手を離した。胸元をギュッと握り締めて痛みをやり過ごす。
(……今、考えないといけないのはケレンのこと。自分のことじゃない)
抜け出せない苦しみから目を背け、セリーヌはベッドの上のケレンに視線を向ける。
いつもと変わらず、虚空を見つめる彼の瞳。その瞳をよく観察しようと、少し長めの彼の前髪に手を伸ばす。洗髪するようになってから柔らかさを取り戻したそれを顔から払おうとした、瞬間――
「キャアッ!?」
セリーヌは悲鳴を上げた。
手を弾かれたと思う間もなく、ケレンが上半身を起こし、強い力でセリーヌの両肩を掴んだ。セリーヌは抵抗することもできず、椅子から転げ落ちる。
「っ!」
強かに打ち付けた背中。痛みに呻いたセリーヌの身を、更なる衝撃が襲った。馬乗りになったケレンが、セリーヌの首筋に顔を埋める。そこに、鋭い痛みが走った。
噛まれている――
そう気づいたセリーヌは、ケレンの身体を押しのけようと両腕を突っ張る。
「止めて。止めて、ケレン……!」
「……」
必至の抵抗。抜け出そうともがくが、どこにそんな力があったのか、ケレンの力は弛まない。
「ケレン、お願い……!」
首筋が熱い。血が流れ落ちていくのを感じる。
唐突に、ケレンの力が弱まった。セリーヌの制止が聞こえたわけではないだろうが、クタリと力を失った彼の肢体が弛緩する。ケレンの身体の下から這い出したセリーヌは、首筋に手を当てた。
ハァハァと荒い息が口をつく。
床に座り込んだまま、セリーヌは目の前で横たわるケレンの姿を眺めた。一瞬の出来事。たった今、自分の身を襲った事態が何だったのか。それを理解したセリーヌの胸の内に沸き上がったのは、抑えようのない歓喜だった。
「……っ!」
ふらつく足で立ち上がったセリーヌは、ベッドの足元へと向かう。そこに置かれた記録球に手を伸ばした。ぬるつく感触、自身の手が血に汚れていることに気が付いたが、構わず、記録球を握り締める。
「治療三十二日目、ケレンの反応に変化あり。新たな記憶に接触後、覚醒。自発的行動を確認できました。……ああ、神様っ!」
感極まったセリーヌの声が震える。目に涙が溢れた。漏れそうになった嗚咽に、セリーヌは慌てて記録球を切る。途端、眩暈を感じて、未だ自身の血が流れ続けていることを思い出した。
床に転がったケレンが動かないことを確認して、セリーヌは私室を出る。研究室に移動し、首の治療をする間も、セリーヌの興奮は収まらなかった。
覗き込んだ鏡に映る傷口は深く、改めて、獣人であるケレンの強さを思い知る。彼が本調子であれば、動脈まで食いちぎられていただろう。
ケレンは、セリーヌを嚙み殺そうとした――
その事実に、セリーヌの身がブルリと震える。恐怖は、もちろんある。噛まれた傷は今も痛い。けれど、それ以上に、ケレンが意思らしきものを見せたことに対する喜びの方が大きかった。ゾマーによって自我を失うほどの虐待を受けた彼にとって、ここは敵地。目を覚ました時に目の前に居るセリーヌを敵と認識して攻撃を仕掛けたのは、「正しい」反応だろう。
(生存本能が刺激された……?これをきっかけに、完全に自我を取り戻してくれれば……)
期待に胸を膨らませつつ、セリーヌは自身の治療を終えた。セザの軟膏を塗った首に包帯を巻いた状態で、再び、私室の扉を開ける。中を覗くと、ケレンは先程と変わらぬ態勢で床に倒れていた。
セリーヌは、部屋の外から彼を観察する。また突然動き出すのではないかと暫く待ったが、ケレンは動かなかった。
セリーヌはそっと室内に足を踏み入れる。ケレンの傍に寄り、彼の顔を覗いた。閉じられた瞳、意識の無い彼にガッカリしながらも安堵して、その重い身体を持ち上げる。腕を掴み、背負うようにして、彼をベッドへ運んだ。ベッドの上に寝かせてみても、ケレンが目覚める様子はない。
(どうしよう……)
彼が再び目を覚ました時のことを考えると、彼を研究室の檻に移した方が良いだろう。そうでなくとも、拘束ぐらいはしておくべきか。けれど、彼がいつ目を覚ますかは分からない。思案するセリーヌの視界に、記録球が映った。
(そう言えば……)
セリーヌは記録球へと手を伸ばし、手にしたそれを壁に向かって掲げる。魔力を流すと、発光した記録球から伸びた光が、壁に映像を結んだ。
セリーヌは、ケレンが覚醒した瞬間を目にしていなかった。突然衝撃に襲われたかと思うと、床に投げ出されていたから、首筋に噛みつく彼の顔を見る余裕など無かった。
(見てみたい)
覚醒した彼の意思ある瞳を。
そう望んだセリーヌは、けれど、映し出された映像を見て、小さくため息をついた。
(駄目だ。まだ、何も見ていない……)
記録球が捉えた一瞬。セリーヌを押し倒す寸前のケレンの瞳は、変わらず焦点が危うい。そこに意思の輝きは見当たらなかった。
映像の再生を止めたセリーヌは、記録球を棚に戻す。倒れたままの椅子をベッドの傍へと寄せ、そこに腰かけた。そっと、ケレンの左手を取る。記憶に潜るためではなく、ただ、そうしたかったから。
セリーヌは焦がれる思いで、眠るケレンの顔を見つめた。彼の瞼が開かれる、その時への期待を捨てきれずに。