8.尻尾は口ほどにモノを言うようです(前半)
聖ルグラン王国、王城。ロワーレ城。ロワーレ川を渡った先にある、要塞としての機能も兼ね備えたこの城には、一方で見事な庭園がある。
緑の芝が整えられたそこには一年中何かしらの花が咲き、さらには眼前には豊かな渓谷を望むことが出来る。
その最奥にある、渓谷と庭園の両方を見渡せる、眺めのいいテラス。諸外国の要人をも唸らせる見事な光景を前にしておきながら、マージェリーは手放しに喜ぶことは出来なかった。
原因はもちろん、目の前で微笑むこの男。
「ゆっくり話せればと思っていたんだが、君も同じ考えでよかった」
ティーカップを手に、上機嫌にうそぶくユリウス王。二人きりになった途端、オオカミ耳と尻尾の生えた獣人姿になっている。彼曰く、そっちの姿が本来の姿で、気を張らずに楽だという。
絶景の中で優雅に茶を嗜む姿が、絵にならないわけがない。しかも、前世でどきゅんと胸を射抜かれたワンコ耳スタイルである。本人は無自覚なのだろうが、そんなところも小憎らしい。
(なんだか、うまく丸め込まれちゃったな)
自身も紅茶に口をつけながら、マージェリーは溜息をつく。けれども、あのまま父も同席の上話を進めるのは、マージェリーの身が持たなかった。結果的に王と二人きりでお茶をする羽目になったが、これはやむを得ないと諦めるべきだろう。
今生の父、ジョルダン・デュ・ノエル。間違いなくイケオジの部類に入る紳士であり、母との仲も羨ましくなるくらい睦まじい。そんな自慢の父親なのだが、彼はマージェリーを愛しすぎるという弱点を持つ。
小説でも、マージェリーがユリウスの婚約者として第二部に返り咲いたのは、ジョルダンが裏で動いたことが大きい。「うちの娘を泣かせやがって」と、セルジュ殿下への当てつけを込めた采配だったらしい。
(陛下に初体験奪われちゃいましたっ☆、なんて言ったら、お父様どんな顔するかしら)
最悪の事態を考えて、マージェリーは震え上がる。責任取れと結婚を迫るだけで済めばいい。最悪、小説の流れと関係なしに、最短ルートで破滅ルートに突き進む可能性だって――。
「……ジェリー。マージェリー!」
呼ばれて、はっと我に返った。慌てて目を瞬かせると、鼻がくっついてしまいそうなほど近くに、ユリウス王の美麗な顔がある。視界いっぱいの美しい顔に、文字通りマージェリーは飛び上がった。
どことなく不機嫌そうにユリウスは顔をしかめた。
「先ほどから何を考えている。せっかく二人きりになれたのに、王をほったらかして考え事とはいい度胸だな」
「も、申し訳ございません、陛下」
二人きり云々は置いといて、王の前で上の空というのは確かに問題だ。そう考えて、マージェリーは素直に謝る。だというのに、ユリウスはますます不機嫌そうな顔をした。
「ユーリだ」
「はい?」
「そう呼んでいいといってるだろう。……ここには、誰もいないのだし」
じっと赤い瞳で見つめられ、マージェリーは「うっ」と言葉に詰まった。こちらを見つめる彼は、妙に頑なである。これは素直に呼ぶまで許してくれそうない。
散々迷ってから、マージェリーは仕方なく、言われた通りにその名を呼んだ。
「……ユーリ、様」
「っ!」
渋々呼んだだけなのに、ユリウスは切れ長の目をはっとしたように見開いた。それから彼は、急にひどく上機嫌になった。
「本当は様もいらないんだけどな。許そう、及第点だ。これからは必ず、そう呼ぶように」
ふふん、と。満足げに王が鼻を鳴らす。そんな澄ました仕草に反して、視界の隅でぶんぶんと勢いよく振られるふわふわの尻尾。
「…………」
思わず尻尾を凝視し、マージェリーは沈黙した。
(……あれ? 陛下、大喜びでは? 澄ました顔して、内心めちゃくちゃ大喜びでは?)
ただ名前を呼んだだけなのに、こんなに喜ばれる理由がさっぱりわからない。いや、意味がわからないという意味では、今の状況が既に謎だ。
うっかり一夜を共にするなんてトラブルが起きるまで、ユリウスとはまともに会話したことがなかった。だというのに、必ず君を手に入れるなんて宣言してみたり、日を置かずに城に呼び出してみたり。
これではまるで。まるで本当に。
(陛下が、私を好きみたいじゃない)
一瞬頭に浮かんだ考えを、マージェリーは慌てて頭から追い出した。なにせ彼は王だ。しかも、こんなにも魅力的なのだ。あまり人を寄せ付けない孤高の王とはいえ、一晩一緒に過ごしただけのマージェリーに本気になるほど、女に困ってはいないはずだ。
ではなぜ、ユリウスがこんなにマージェリーを構うのか。それはひとえに、マージェリーが優良物件だからだろう。
自分で言うのもなんだが、マージェリーは美人だ。王妃になっても見栄えがする。おまけに教養があって、貴族の中を生き抜く強かさもある。そして極め付けは、宰相ジョルダンの娘だ。セルジュ殿下の婚約者候補を外れたいま、ユリウスが手駒に加えようとするのも納得なステータスである。
けれども。
(落ち着くのよ、マージェリー……。なんであれ、陛下との婚約だけは絶対なし! 今生こそ、長生きしておばあちゃんになって大勢の孫に見送られながら大往生するためにも、そこだけは絶対譲れないんだからね!)
胸に手を当てて、深呼吸をする。そのように自分を戒めてから、改めてマージェリーはこほんと咳払いをした。
「ところで、へい……ユーリ様。勅令書を拝見いたしましたわ。私に城に上がり、セルジュ殿下の婚約者、フローラ・エルメイア様のサポート係をせよとのことですが」
「正確には、お目付役兼、相談役といったところだ」
涼しい顔で答えながら、王はことりとカップをソーサーに戻した。
「フローラ・エルメイアは、元は教会の拾い子らしいな。彼女は近々城に入り、妃教育を受ける手筈になっているが、生まれのせいで色々と苦労もすることも多いだろう。そんなことを考えていたときに、ふと、君の顔が瞼に浮かんでな」
よくもぬけぬけと。そう呆れるマージェリーをよそに、王は続ける。
「君とフローラ嬢は、王立学院で仲が良かったそうだな。しかも、君はノエル家の令嬢だ。宰相の娘である君が傍にいれば誰もフローラ嬢を害そうとはしないだろうし、彼女も何かと相談できて心強いはずだ。そういうわけで、引き受けてくれるな?」
「謹んでお断りいたします」
間髪入れず、マージェリーは頭を下げる。
――近々城に入る、弟の婚約者を気遣って。そんなことを言っているが、真っ赤な嘘だ。本当の狙いは間違いなく、マージェリーを城に呼び寄せること。必ず君を手に入れる。その宣言の通り、傍に置いてじわじわと外堀を埋めていくつもりなのだろう。
その証拠に、この話題になってから見え隠れしている、ユリウス王の目の奥に光る愉快気な色といったら! 完全に、獲物を追い詰めて楽しむ肉食獣の目をしている。
けれども。
(舐めてもらったら困るわ。このまま簡単に、捕まってなるものですか!)
俯いたまま、マージェリーはごくりと息を呑みこむ。だてに三年間、破滅フラグを折り続けてきたわけじゃない。これしきのピンチ、幾度も潜り抜けてきたのだ。今回だって、きっと破滅の未来から逃げおおせてみせる。
さあ、反撃のときだ! そのように己に喝を入れる。
そうしてマージェリーは、声を詰まらせて涙をぬぐった。
「……私、もう限界なのですわ」
「……ふむ?」
しおらしく涙目で見上げれば、ユリウス王がぴくりと眉を動かした。よしよし。いい感じに食いついてきたぞ。そのようにほくそ笑みつつ、マージェリーは迫真の演技を続ける。
「私、実は、セルジュ殿下をお慕いしておりましたの」
「君が? 弟を?」
「セルジュ様は立派な方ですもの。誰にでもお優しく、誰にでも誠実で……。ですが、フローラ様もまた私の大事なお方。だから私、自分の気持ちを押し殺して、お二人を応援してまいりました。けれども、それがどんなに辛かったか……!」
ここでもう一度声を詰まらせ、肩を震わせる。そうやって十分に悲壮感を醸し出してから、マージェリーはぎゅっと手を握り合わせた。
「卒業をしたとき、ほっとしたのです。これでしばらく、お二人に会わずに済む。軋むこの心と、ゆっくり向き合うことが出来るのだと。……後生ですから、私にフローラ様に仕えよなどと仰らないでください。この痛みが消えるまで、そっとしておいていただきたいのです」
どうだ!と。わっと両手で顔を覆った下で、マージェリーはにやりと笑った。
マージェリーは王命を蹴ったのだ。それも「恋敵に仕えるのが嫌だから」という幼稚な理由で。しかも失恋相手は、よりによってユリウスと微妙な間柄の異母兄弟。これにはユリウス王も、二重も三重もマージェリーに失望しただろう。
(さあ、陛下。さっさと私に失望してください。そして、私と結婚しようなどという考えは、早くぽいと投げ捨ててください!)
――そのように念じて、マージェリーはちらりと王を盗み見たのだが。