31.あの日、君が心に焼き付いた
非常識な娘だ。正直、第一印象はそれだった。
「お父さまにしかられます~っ。おねがいですから、家にだけはつれてかえらないでください~~~っ」
馬車の向かいを占領し、ぐだぐだと半泣きになってくだを巻く娘。それを前にして、ユリウスはもう何度目かわからない溜息を吐いた。
事の発端は、王立学院の中庭に倒れている彼女を見つけたこと。ほんの少しの情け心を出し、声を掛けたのが運の尽きだった。あれよあれよのうちに娘のペースに呑まれ、気が付けば彼女を馬車にのせ、家に向かってやっている。
マージェリー・デュ・ノエル。それが、目の前の酔っ払いの名である。
(あの宰相の娘だからと安請け合いしたが、判断を誤ったな)
いまだに「いえはだめです~~」「おとうさまにしかられる~~」とうねうねと訴えるマージェリーに、ユリウスは頬杖をついて顔をしかめた。
発見した時点で相当酔いが回っているとは思ったが、ここまで面倒くさいことになるとは思わなかった。今となっては学院に戻って押し付けてきたいほどだ。
「わかった、わかった。私からうまく言ってやる。だから案ずるな」
ひらりと手を振り、適当にあしらう。そして彼は、興味を無くして窓の外に視線をやった。
完璧な淑女、か。学院長の言葉に、ユリウスは眉根を寄せる。
フローラ・エルメイアのことで話を聞いたとき、学院長が誉めそやしていた令嬢は、目の前の彼女のはずだ。
慈愛に満ち、常に俯瞰した眼差しを持ち、皆をよりよい方向へと導く女神。
(……コレが女神か?)
どうも頭の中でうまく像が結びつかない。完璧な淑女どころか、彼女は酔いが回るあまり、目の前で渋面を浮かべる男が誰かもよくわかっていないようだが。
しばらく考えてから、ユリウスは諦めた。別にどうだっていい。彼女が何を喚こうが、馬車はノエル家に向かうだけ。あの腹の内がよめないタヌキ宰相に娘を押し付け、恩の一つでも売れれば万々歳だ。
そう割り切ろうとしているのに、目の前の娘は相変わらずうるさくて。
「あーっ。あの木! わたくし、わかりますわよっ。わかってしまいましたよっ。この道、わが家へにむかってますわね?」
「…………」
「いやです、いやです。うちにかえるのは、いやなんです〜!」
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
無視するのを諦めて、ユリウスは怒った。だが、少女は綺麗な顔をほわんと酒に酔わせて、とろんとこちらを見つめるだけ。無防備な眼差しは色香を漂わせ、警戒心の強いユリウスをしてもうっと喉を詰まらせた。
(これじゃ襲ってくれと言ってるようなものだぞ……)
一瞬浮かんでしまった邪な考えを追いやるために、ぐしゃぐしゃと髪をかく。
そうでなくても美しい娘なのだ。さらりとした銀色の髪は星々を閉じ込めたように輝き、とろんとした大きな瞳は吸い込まれてしまいそうに蒼い。学院で縋りつかれた時は、ふわりと甘い香りすらした。
娘に外で深酒をさせるなと、宰相に注意してやる。半分は恨めしさ、半分は親切心でユリウスは固く胸に誓いつつ、大きく嘆息をした。
「……大体、私と一緒に城に戻ってみろ。あらぬ噂を立てられて、迷惑するのは君だぞ」
「へ??」
「オオカミ王に深く関わるな。君は、セルジュ側の人間だろう」
きょとんと、娘が首を傾げる。その表情は、相変わらずユリウスが誰かわかっていないようで。
若干の苛立ちを覚えつつ、ユリウスはかすかに自嘲めいた笑みを浮かべた。
それはそうだ。この娘がこんなに無邪気でいられるのは、目の前にいるのがオオカミ王であると露ほどにも思っていないから。
真実を知ったなら彼女は青ざめ、逃げるように口を閉ざしてしまうだろう。
皆そうだ。王につくか。王弟につくか。顔色を伺い、局面を伺い、互いの出方を伺っている。
その中で、彼女が選んだのはセルジュだ。自分じゃない。
自分と――ユリウスと関わるのは、失策だ。
――その時、娘がむくりと起き上がった。そして、ユリウスの予想に反して、なぜか彼女はこんなことを詰問してきた。
「あなた、ユリウスさまがきらいなんですか?」
「……は?」
「ユリウスさまがきらいなんですね!?」
だったら、どうしたと。とっさに突っ込めないほど、ユリウスは呆気に取られていた。
この時のことを、ユリウスは生涯忘れることが出来ないだろう。先ほどまで酔い潰れて倒れていたとは思えないほど真剣に、娘がこちらを見つめていたから。
ルビーのような赤い瞳をぱちくりとさせる彼に、娘は――マージェリーは、ずいと身を乗り出した。
「いいですか? みなさん、ユリウスさまをこわいとか、つめたいとかおっしゃいますけど、全部まちがっているんです。あのかたはとっても繊細で、不器用な方なんです!」
「は? え……、いや、」
「自分の存在が王国を混乱させてしまったことを憂いて。でも、王として生まれた責務を果たすため、真摯に国に向き合われて。――敵が多いのだって、先王陛下がすすめようとしていた周辺国への侵略策をひっくり返したからですわ。皇后様が陛下をよく思っていないのをいいことに、侵略派が喚いているにすぎません」
辛辣な、けれども的を射た指摘に、思わずユリウスは息を呑んだ。先代が周辺国への軍事侵略を企てていたというのは、一般には知られていないが事実だ。ユリウスに反発する大臣、諸侯の中に侵略派がまぎれているというのも同様。
だが、少し考えて首を振った。彼女はノエル家令嬢で、宰相ジョルダン・デュ・ノエルの愛娘。王国の内情をある程度知っていてもおかしくはない。
とはいえ彼女の聡明さを示すには十分すぎる。そう表情を引き締めるユリウスに、マージェリーはまっすぐに告げた。
「王国を、平和を守ろうとするあの方の強さを、私は尊敬します。どこのどなたか存じませんが、私の前でユリウス陛下を侮辱なさるなら許しませんわ」
その眼差しの強さに、ユリウスはたじろいだ。
尊敬? 尊敬、といったのか。混乱して、頭を振る。
君はセルジュ側の人間だろう。義弟側についた人間だろう。ユリウスを庇う必要なんかない。媚びる必要もない。
……まるで、心の底から思っているみたいに言う必要なんて。
「父親に言われたのか?」
嬉しい。そう思っているはずなのに、臆病な心が向けられた好意から目を逸らさせる。震える声で、ユリウスは拒絶をした。
「君は義弟の婚約者候補だった、そうだろう。義弟が別の娘と婚約したからか? 義弟への意趣返しか? 義弟を見返すため、王に近づけと父親に言われたのか?」
けれどもマージェリーは鼻で笑った。ユリウスの怯えを、恐れを吹き飛ばすがごとく、軽やかに笑ってみせた。
「おかしなことを仰いますのね。意趣返しなど望んでいません。だって私、お二人に幸せになっていただくのが望みだったんですもの」
それに、と。マージェリーは胸に手を当てる。まるで演者のように優雅に小首を傾げておきながら、彼女はひどくおかしそうに、不敵に、はっとするほど美しく狡猾に微笑んだ。
「私の心は私のもの。慕う心は、誰にも指図できませんわ」
その時の気持ちを、なんと表現すればいいのだろうか。
蒼い瞳に囚われてしまったように、ユリウスはしばらく身じろぎひとつ出来なかった。
微笑む彼女は、なんと気高いのだろう。凛とした眼差しは、なんとまっすぐなのだろう。
眩しい。眩しい。眩しい。
彼女が、欲しい。
気づいたときには、彼女に手を重ねていた。酔っているからか、彼女の手は赤子のように温い。
その温もりを逃さないように、ユリウスは祈るように尋ねた。
「君は、オオカミ王が好きなのか」
再び酒に呑まれたのだろうか。先程の気迫が嘘のように、マージェリーはふにゃりとえみ崩れた。
「すきですよ? だいすきです」
推しですし、と。付け足された言葉は、浮かれる彼の心には届かなかった。
どきどきと、飛び出てしまいそうなほどに胸が高鳴る。
自分でもおかしいと思う。彼女とは出会ったばかりで。自分のことも彼女のことも、互いにまだ知らないことだらけで。
けれども、そんなことどうでも良くなるくらい彼女は鮮烈だった。眩しくて強烈で、どうしようもなく鮮やかに心に焼き付いた。
彼女が欲しい。誰にも渡したくない。その想いに突き動かされて、自然と唇が紡いだ。
「……王が、王も君を好きだと言ったら、君は笑うだろうか」
するとマージェリーはけらけらと笑った。
「えー。ないですって。ありえないですよー」
「噓じゃない。本当だ」
「えー?」
信じてくれ。お願いだ。そう必死に言いつのると、マージェリーはゆらゆらと体を揺らした。やがて彼女は、てへっと赤い舌をのぞかせた。
「ありえませんけど……。オオカミ姿を見せてくれたら、信じちゃうかもです」
「わかった」
間髪入れず、ユリウスは頷く。まるで跪く騎士のように、彼はマージェリーを見つめた。
「その願い、叶えよう」
そうして彼は、彼女を誘った。
おとぎ話のように抱き上げて運べば、マージェリーはくすぐったそうに笑った。鈴のような声も、楽しげな笑みも、何もかもが愛おしかった。
「どうだ。これが、君の望んだものだ」
ベッドに横たわった彼女が、きらきらした目でこちらを見上げている。その上に覆いかぶさりながら、ユリウスは見せつけるようにゆらりと尻尾を揺らした。
「夢みたい……。ほんとうに、夢みたい……」
何が嬉しいのやら。彼女はほんのりと頬をピンクに染めて、そればかりを繰り返す。そういう彼女があんまり幸せそうで、ユリウスも苦笑をした。
「君はおかしいな。こんな姿を、そんなに見たかっただなんて」
「おかしくなんかないです。ずっと、夢だったんですから」
「夢、か。大袈裟だな」
軽く笑ってみせたが、悪い気はしなかった。ずっと厭っていた姿だが、彼女を喜ばせることが出来るなら構わない。これからはいくらでも、この姿を見せてやろう。
そろりと。マージェリーが迷うように、白魚のような手をユリウスに伸ばした。
「その……。さわっても、いいですか?」
「かまわない。君が望むなら、好きなだけ」
彼女が触れやすいように、ユリウスは身を屈めてやる。細い手が、指が、控えめに彼の耳に触れた。遊ぶように触れる彼女の指は、くすぐったくて甘い。甘えるように、ユリウスは切れ長の目を閉じる。
次に瞼を開いたとき、赤い瞳にはゆらゆらとした熱が灯っていた。
「マージェリー。私も、君に許可が欲しい」
無邪気に見上げる視線に、ユリウスは乞う。
「君の頬に。肌に。唇に。君に触れたい。君のすべてに、俺を刻みたい」
そっと彼女の頬に触れる。その熱が自分のものなのか彼女のものなのか、もはやユリウスにはわらからなかった。
「――マージェリー。君を愛してるんだ」
シーツがこすれる音が響く。引き合うように、溶け合うように。ユリウスは彼女に唇を重ねようとした――――。
その唇から、「すーーーっ」と、心地よさそうな寝息が漏れた。
「は?」
一瞬、頭がフリーズした。慌てて体を起こせば、白いシーツに体を沈めて、すやすやと眠るマージェリーの姿。夢でも見ているのか、口をむにゃむにゃとさせながら、気持ちよさそうに眠りこけている。
「マージェリー? おい、マージェリー?」
ゆさゆさと肩をゆするが、返ってくるのは幸せそうな寝息ばかり。
それで彼は悟った。彼女は目覚めない。朝までぐっすりだ。
「嘘、だろ……」
脱力した。心の底から脱力した。
ふらりとよろめいた彼は、そのまま隣に倒れこむ。
そして片手を額に置きながら、諦めたように天蓋の裏を見上げた。
……まあ、考えようによってはよかったのかもしれない。キスの目前で眠るくらいだ。せっかく体を繋げても、明日には覚えていなかったかもしれない。下手すれば、馬車での会話すら記憶にない可能性すらある。
(だが、恨むからな……)
幸せそうな寝顔を、じとりと睨む。夢の中でもまた飲んでいるのか、「もう、のめましぇん」などと寝言を言っているのがさらに憎らしい。
「こいつめ。こいつめ」
ぷにぷにと頬をつつけば、マージェリーは「ふふっ」とくすぐったそうに身をよじった。それでも起きる気配はなく、だんだんとユリウスは毒気が抜かれてしまった。
まあ、いい。眠りこける想い人を見守りながら、彼は眉を下げる。
覚えていようが、覚えていまいが。彼女は決して逃がさない。茨が這うようにがんじがらめに結い留めて、必ず自分のものにしてくれる。
手始めに、明日の朝はせいぜい驚かせてやろう。大分衝撃を与えるかもしれないが、これも仕返しだ。なにせ彼女は、散々自分の心を搔き乱してくれたのだから。
それに言ったじゃないか。君も、私を好きなのだと。
免罪符のように口の中で転がしてから、彼もまた、ゆっくりと微睡みの中へと意識を手放したのだった。