29.追いかけられるのは嫌いです
二人が微笑みあったその時、ふいに強い風が吹いた。
「あっ!」
フローラが小さく叫ぶ。ふわりと風に乗せられ、白い帽子が飛ばされたからだ。
「待って!」
慌てて立ち上がり、フローラが帽子を追いかける。けれども二度三度、再び風に舞い上がってしまい、なかなか捕まえることができない。
あっちにあわあわ。こっちにあわあわ帽子を追いかけるフローラに、やがてマージェリーも立ち上がった。
「大丈夫ですか? あ、ほら! 今度はそちらに!」
「ぜ、全然捕まえられないです〜っ」
情けない声をあげて、フローラはよたよたと帽子を追いかける。それがなんだか可愛くて、やれやれと苦笑しながらマージェリーも追いかけた。
「仕方ありませんわね。ほら、また風で飛ばされますわよ! 走って、走って」
「は、はい〜っ」
――そんなことを繰り返していたからか。いつの間にか二人とも森の中に入ってしまっていた。といっても、木々の向こうにはうっすら鏡池がみえている。戻ろうとすれば、すぐに帰れる距離。
そこでようやく帽子を捕まえたフローラは、ほっとしたように肩を落とした。
「やっと捕まえました……! すみません、マージェリー様。あちこち走らせちゃって」
「こんなの走ったうちに入りませんわ。それより池に戻りましょう。私たちがいなくなったと、陛下たちを驚かせてしまうかもしれませんし」
笑って足を踏み出そうとしたところで、マージェリーははたと立ち止まった。
慌てて振り返るが、あるのは静謐な森の木々だけ。聞き間違えだろうか。念のため耳を凝らしていると、フローラが首を傾げた。
「マージェリー様? どうしたんですか?」
「いえ。なんだか、獣の唸り声のようなものが聞こえた気がして」
「獣?」
その時だった。
ザザザザッ!と木の葉が擦れる音が響く。直後、二人の目の前に大きな黒い影が落ちた。
「きゃあ!」
悲鳴をあげて、フローラがマージェリーに飛びつく。それを受け止めながら、マージェリーは目を丸くした。
「アーニャ!?」
猫のようにしなやかに木々の合間から飛び降り、身を低くして身構える人物。それは、ノエル家がつけた侍女兼用心棒、アーニャだ。
ユリウス王と王弟のお忍び会談ということもあり、ユリウスもセルジュも警護を伴わず、念のためアーニャだけが警戒に当たっていた。そのよく効く目と耳を生かし、アーニャは木の上から異常がないか見守っていたのだが。
こちらには背を向けたまま、アーニャがキッと前を――先ほど唸り声が聞こえた森の奥を見据える。
「申し訳ありません、お嬢様。連中、急に射程内に現れました」
「何が来たって言うの?」
答える代わりに、アーニャがぱっとスカートを跳ね上げる。ふわりと舞った布の下から、両脚に巻き付けられた革のベルトがあらわになる。そこから素早く小刀を抜くと、木立に向かって容赦なく投げつけた。
途端、木々の間から飛び出した禍々しい何かが、「ギャン!」と叫んで転がった。
「きゃ!?」
「魔獣!?」
フローラを庇いながら、マージェリーは仰天した。小刀に額を貫かれて地面で震えるのは、狐のような魔獣だ。
なぜこんなところに魔獣が。この森は王家が所用する憩いの地。この森に魔獣が出るなんて聞いたこともないのに。
目を丸くするマージェリーの腕を、アーニャが掴んだ。
「まだ来ます! お嬢様、こちらに!!」
葉が擦れる音に紛れて、細く高い声が聞こえた気がした。
目を瞬かせたセルジュが、言葉を飲み込んで後ろを振り返る。
「今、何か聞こえませんでしたか?」
「……ああ」
赤い目を細め、ユリウスは彼岸に注意を向ける。そして、すぐに形の良い眉を顰めた。
「マージェリーがいない。フローラ・エルメイア嬢もだ」
「え? あれ、本当ですね」
さっきまでそこにいたのに、と。対岸を見ながら、セルジュが首を傾げる。
妙だ。胸がやたらとざわつく。
マージェリーが連れている、用心棒を兼ねているという侍女。彼女は相当の手練だ。毎朝一緒に走っていても、アーニャというあの侍女の身のこなしには舌を巻くものがある。
だから、ちょっとやそっとの事態なら、こんなに不安を覚える必要もないはずなのに。
口の中で、古の呪文を解く。途端、ふわりと魔力波が下から上へと駆け巡り、ユリウスを真の姿へと変える。
唐突に『オオカミ王』の姿となったユリウス。初めてその姿を見たセルジュは、敬愛と感激とが入り混じる目をしてぐっと喉を詰まらせた。
「兄上、そのお姿は……!」
「静かに」
片手で制して、ユリウスは切れ長の目を閉じる。
オオカミ王の姿を取っている間、ユリウスの魔力、身体能力は共にあがる。特に聴力、および第六感とも言うべき空間感知能力は飛躍的に向上する。
黒い耳を立て、彼は感覚を研ぎ澄ました。
風が葉を揺らす音に誘われて、森の輪郭が徐々に浮かび上がる。ちゃぽりと魚が水を跳ねる音、さわさわと擦れる草。連れてきた馬が落ち着きなく地面を蹴る音、木々の間を駆ける疾風。
パキリ、と。勢いよく踏み出した足が、細い小枝を二つに割る音。
『お嬢様! こちらです。こちらに早く!!』
『わーーっ!? さっきより魔獣が増えてますー!』
『なんで!? なんでこんなところに魔獣がいるのよ!』
慌ただしく駆ける3人の少女と、その後を追いかける荒い息遣い。獲物を追いかける興奮に呼吸を乱すソレらは、獰猛な牙をチラつかせ、木々の間を縫うように走る。
狐に近い形をした魔獣。群れで生息し、集団で獲物を追い詰める狩の熟練者。
--この森には、決しているはずのないモノ。
浮かび上がったのは、それら魔獣の群れからマージェリーたちが必死に逃げる姿だった。
「マージェリーが危ない」
「……え?」
低く唸るように呟くと、セルジュが表情を強張らせた。真剣に食い入るような見つめる空色の瞳に、ユリウスは鋭く叫んだ。
「お前の婚約者もだ。着いてこい、セルジュ!」
「はい!」
言うが早いか、ユリウスは『視えた』方角に向かって勢いよく走り出したのだった。




