17.オオカミ陛下は寝不足です
ふくぁ、と。ユリウス王は欠伸を噛み殺す。
時刻は穏やかな日差しが照りつける昼過ぎ。たしかに眠気を誘いやすい時間帯ではあるが、彼が欠伸をするのは珍しい。
「いかがなさいましたか」
ちょうど書類を届けにきたジョルダン宰相が、王の様子に目敏く気づいて声を掛けた。
「お疲れでしたら、ご署名は後で問題ありませんが」
「いや。いま済ましてしまおう」
こめかみを揉んでから、王は書類に羽ペンを滑らせる。見事な達筆でサインを入れながら、ユリウスは深く考えずに続けた。
「体調が悪いわけじゃない。少し寝不足なのと、筋肉痛なだけで」
「筋肉痛とは珍しい。陛下は日頃から鍛えておいでなのに」
「私もそう思っていたんだが、鍛え方が甘かったらしい」
羽ペンを置いて、軽く伸びをする。そのまま、彼はぽろりと口を滑らせた。
「全部マージェリーのせいだな……」
その時、宰相がピシリと凍り付いたのに、ユリウスは気づかない。「寝不足で……? 筋肉痛……?」と宰相が不穏な空気を纏い始めたのをよそに、王はここ最近のことを思い返して、ふっと笑みを漏らした。
――早朝トレーニングが始まってから、早半月。最初の宣言の通り、マージェリーによる特訓は毎日欠かさず行われている。
初めはきつかったランニングも、だいぶあのペースに慣れた。ユリウスに余裕が出たのを見抜いたのだろう。最近ではランニングの後に、簡単な筋トレも加わった。
その後は想定会話集の読み合わせ。こちらが鬼門で、マージェリーにびしばししごかれている。
(ていうか、確実に半分はいらなかったろう、あの想定会話集……)
内容を思い出し、ユリウスは苦笑をする。
シチュエーションに合わせて組まれた300通りの会話。マージェリーが得意げに胸を張ったように、中は『向こうから訪ねてきた場合』や『式典に一緒に参加する場合』など、確かにありそうな場面で組まれている。
だが、中には『トイレでばったり会った場合』や『セルジュ様とフローラ様のデートをうっかり邪魔してしまった場合』など、「これは本当にいるか……?」と首を傾げるようなものも混じっている。
極めつけは『お風呂が一緒になった時』だ。せっかくなので兄弟で背中を流しあうこと。会話集にはそう注釈が付けてあったが、なんだ、背中を流しあうって。ルグラン国にはない文化に、ユリウスの頭の中は疑問符でいっぱいになった。
とまあ、よくよく読み込めば、突っ込みどころ満載な会話集。けれども、なかなかどうして、愛おしくてたまらない。
〝さすがに骨が折れましたが、これだけのシチュエーションで想定すれば漏れはないでしょう。よかったですねえ、ユーリ様。私があなたの味方で〟
誇らしげに胸を張り、微笑むマージェリー。
努力の方向が若干間違っている気がしなくもないが、彼女がユリウスのためにと、これを作ってくれたのは抗いようのない事実で。
すっかり見慣れた、規則正しく並ぶ几帳面な文字たち。
これを書きながら、彼女は何度、自分のことを思い浮かべてくれたのだろう。どれほどの時間、自分のことだけを考え続けてくれたんだろう。
(……きっと、大真面目にアレを書き上げたんだろうな)
ユリウスの頬は自然とほころんでしまう。
――マージェリーの言う通り、ユリウスは自信がない。
なにより自分が嫌いだ。それほどに、オオカミ王の力を憎んできた。
王にお手付きされた侍女の息子。そんな彼でも平和に暮らせる可能性はあった。事実、当初母は王家から小さな家を与えられ、そこで静かにユリウスを生んだ。
だが、ユリウスが黒髪だったことで状況は一変した。赤子は母から引き離され、王により厳重に隠された。王妃、つまり現王太后やその周囲に、黒髪の赤子の存在を悟らせないためだ。
そしてユリウスが5歳になった時。彼の存在は公にされた。その時、王妃の腹には宿ったばかりのセルジュがいた。
〝私の子も男の子です。なのに、なぜ! なぜ!! なぜ!!!!〟
セルジュが生まれた後、王妃の半狂乱な悲鳴を何度となく耳にした。初代王の力がどうとか。王国の習わしであるとか。父王は、一辺倒に答えていた気がする。
嘆き、衰弱し、それでも憎しみの籠った目で、王妃はユリウスを睨んだ。
あの子さえいなければ。あの子さえ生まれてこなければ。
望んで生まれたわけじゃないと。幼いユリウスは、血がにじむほど唇を嚙みしめた。
自分を生まなければ、産みの母は体を弱らせ死ぬことはなかった。自分が生まれなければ、王妃は憎悪に苦しむことはなかった。
……せめて初代王の力がなければ。普通の、なんの変哲もない男児であったなら。
王家には目を付けられず、落とし子として真っ当に暮らせたのかもしれない。そしたら母も、子を王に奪われず、産後の不調をこじらせることはなかったかもしれない。
存在したかもしれない、優しく穏やかな世界。
こんな、力がなければ。
そうやって自分を呪ってばかりいたからだろうか。マージュリー・デュ・ノエルという少女は、ユリウスにはとてもまぶしかった。
ところどころ抜けているくせに、決してへこたれず。打ちのめされたかと思えば、胸を張って立ち上がって。羨ましくなるほどに心の底から前向きで。
彼女は夜道を示す明星のようだ。そう思った。
そんな少女が、自分のためを思ってくれている。頭を悩ませ、知恵を絞り、手を差し伸べてくれている。それだけで、こんなにも心が満たされるなんて。
相変わらず自分が嫌いだ。けれども彼女に恥じない程度には、足を踏み出してみてもいいのかもしれない。初めて、そんな風に思えたのだ。
(君は本当に、私の明星なのかもしれないな)
自然と笑みがこぼれた、その時だった。
「陛下」
がしりと、肩が摑まれる。見れば、完全に目が据わった宰相が、ゴゴゴゴとすごい気迫を纏って、ユリウスを見ていた。
「寝不足とはどういう意味でしょう。筋肉痛とはどういうことでしょう。全部マージェリーのせいとは、一体どういうことでしょう??」
(……ん?)
何か勘違いをさせたか。ユリウスがそう思い至った時、宰相は血走った眼でさらに詰め寄った
「今日という今日ははっきりさせていただきます。さあ、陛下。私の可愛いマージェリーに何をしたんです!?」
「誤解だ、宰相。むしろ私は、彼女のいいなりというか」
「うちの子から陛下に迫ったと!?!?」
「いや、だからそうじゃなくて」
ちなみにノエル宰相の誤解は、半泣きで執務室を飛び出していった先で娘に叱られるまで、解けることはなかったのだった。