15.うちのズレてるお嬢様
うちのお嬢様は、どっかズレてる。
初めて会った時から、アーニャはそんな感想を抱いていた。
星々の輝きを閉じ込めたような銀の髪に、深遠な海の底のように美しく知的な蒼の瞳。パッと見は文句のつけようもない令嬢で、10歳の時には既に、侯爵令嬢の風格を身につけていた。
なのに、どっかがおかしい。不思議に思ったのは、まさに出会った瞬間だ。
宰相ジョルダン・デュ・ノエル自らが捜査に乗り出し、壊滅させた裏路地の犯罪組織。アーニャはかつて、20人ほどいた孤児らと一緒にその下っ端だった。
宰相が偉かったのは、犯罪組織を解体した後、行き場をなくした孤児らをまとめて面倒見たことだ。ロワーレ城の下働きに雇い入れたり、職人工房に弟子として振り分けたり、下男や侍女見習いとして貴族に紹介したり。
そんな中、彼自身はアーニャを屋敷に雇い入れた。
「彼女はアーニャ。今日から我が家の侍女見習いだよ」
宰相ジョルダン――旦那様は、マージェリーとアーニャを引き合わせた。
当時10歳だったマージェリーは妖精のように可愛くて、同じ人間と思えなかった。そのくせ貴族としての気品はびっちり身につけていて、一目でアーニャは今後を覚悟した。
路地裏から表の世界を覗いてきたから知っている。こういったタイプの子供は、一丁前に血筋にプライドを持っている。その裏返しで、アーニャたち最下層の人間を馬鹿にするのだ。
終わったわ。私の人生。
旦那様には悪いが、こっそりアーニャはため息をついた。こんな子供にいびられたところで痛くも痒くもないが、快適な毎日といかないことだけは確かだ。
そんな風に達観している間にも、旦那様はさくさく話を進める。アーニャが路地裏の出であること。侍女見習いとして、主にマージェリーの身の回りの世話を行うこと。そんなことを、娘に言って聞かせている。
やめてやれよ、と。アーニャはげんなりした。路地裏は犯罪者のたまり場だ。そこの出身の者がまともなわけがない。10歳の子供だって知っている事実だ。
マージェリーは泣くか、怒り出すだろう。こんな得体のしれない人間、近くに置きたくないと喚くだろう。
――そう思ったのに。
「あなた、お風呂ははいったの?」
「はい?」
蒼い瞳でまっすぐに問われ、一瞬意味がわからなかった。そもそもマージェリーが話しかけてきたことから驚きだ。戸惑いつつ、アーニャはこくりと頷く。
「拾っていただいてからは、毎日身を清めています」
「ほんとね。石鹸の匂いがするわ」
身を寄せてくんくんと嗅いできたマージェリーに、アーニャはぎょっとした。
唖然とするアーニャをよそに、マージェリーは満足したように鼻を鳴らす。そして、銀の髪をふわりと揺らしてくるりと身を翻した。
「はやく部屋に入って。お出かけするためのお洋服を選んでる最中なんだから!」
さっさと自室に招き入れようとするマージェリーに、目と耳を疑った。
身綺麗であればどうでもいいのか。もっとこう、ほかにないのか。別に嫌われたかったわけじゃないが、無抵抗に受け入れられると逆に戸惑ってしまう。
それからも、小さな主の奇行はたびたびあった。
普段は完璧なテーブルマナーで美しく食事をとっているのに、アーニャをお供にこっそりと街に抜け出しては広場でジャンクフードにかぶりついてみたり。
高尚な詩や戯曲の一節をすらすらとそらんじて周りを感心させたかと思えば、目を輝かせてアーニャに布教するのは庶民が好むような大衆娯楽だったり。
ある時なんか大変だ。屋敷に来ていたよその家の子が、アーニャに砂をかけて揶揄ったことがある。するとマージェリーは、近くにいた庭師からバケツをひったくり、中に入っていた土を相手にまるごとぶっかけたのだ。
「新しいお作法かと思いまして」なんて涼しい顔ではぐらかしていたが、アーニャのために仕返ししたのは明らかである。素直に嬉しかったが、およそ侯爵令嬢らしからぬふるまいだ。
「お嬢様、変わっているって言われません?」
何度か、本人に言ってみたことがある。だがマージェリーは自覚がないらしく「そう?」と首を傾げるばかり。なにが「そう?」だ。こっちが聞きたいくらいだ。
他にも数え上げればキリがない。淑女の仮面でばっちり隠しているが、マージェリーはズレている。けれどもそうした『ズレ』が、彼女の隠れた魅力であるのは間違いない。
なんにせよアーニャは、この小さく誇り高い、時々妙ちくりんな主人が好きになった。
マージェリーの奇行がいよいよ決定的になったのは、王立学院の入学式の日。
式を終えて屋敷に戻ってきた彼女は、今まで以上に様子がおかしかった。
「な、ななな、なんとか『フローラ』の友達になれたわ……。ていうかいいのよね? 破滅ルートの回避、この方法で間違ってないわよね?」
ぶつぶつと呟きながら馬車を降りたマージェリー。使用人たちが次々に贈る祝いの言葉すら、彼女の耳に届いていないらしい。
彼女は入学祝いの豪華な夕食にもほとんど手をつけず、自室にこもってしまった。
さすがに心配になって、アーニャはこっそり部屋を覗きに行った。するとマージェリーは、机に齧り付いて何やら熱心に書き殴っている。
時折「あー」だの「うー」だの声を漏らしながら、彼女は必死に何かを思い出そうとしているようだ。床には、くしゃりと丸められた紙がいくつも散らばっている。
しばらく見守っていると、マージェリーは急に高笑いしはじめた。
「いける。いけるじゃない!!」
「目指すわよ、脱☆破滅フラグ!」
こぶしを突き上げる背中に思った。お嬢様、ついにぶっ壊れたぞと。
けれどもなぜか、マージェリーは生き生きしてみえた。謎の爛々としたやる気に満ち溢れ、強大な敵に立ち向かわんとする気迫を感じた。
今の彼女には、あの時と同じ煌めきがある。
「……やはり、ユリウス様の愛され計画にはセルジュ様の協力が不可欠……。あと使えそうなものは……」
学院に入ってすぐの頃。……否。入学後たびたび目撃したのと同じ、延々と呟きながら机に齧り付くマージェリーの後ろ姿。
このところは見なくなった懐かしい光景を、アーニャは感慨深く眺める。
困ったものだ。お嬢様はまた、何か厄介ごとを拾ってきたらしい。
ふっと笑って、アーニャは晴れやかに肩を竦めた。
前回は何が何やらさっぱりわからなかったが、今回は十中八九ユリウス王絡みだ。そしてアーニャは、マージェリーのために一肌脱ぐのもやぶさかでない。
むしろ、その逆で。
(……お嬢様のことです。放っておいたら、策に溺れてドツボにはまりそうですしね)
誰にするでもなく、心の中で言い訳をひとつ。
そしてアーニャは、相変わらずぶつぶつと独り言を垂れ流すマージェリーの背中に近づくと、ぽんとその肩を叩く。
驚いて見上げるマージェリーの綺麗な瞳に、アーニャはにっこりと微笑みかけた。
「どうしましたか、お嬢様? よければ、このアーニャがお力になりますよ?」
「あ、アーニャ?」
「ご存知かと思いますが、私、結構使えますよ。お嬢様のためになりますよ」
ぱちくりと瞬きをするマージェリー。家の外では完璧な彼女の、こんな無防備な一面を知る数少ないひとりだということに、アーニャは人知れず優越感を抱く。
もっとも、ロワーレ城の黒きオオカミには、じきに知られてしまうかもしれないが。
マージェリーはしばらく悩んでいるようだった。けれども彼女は、ややあって嬉しそうに表情を緩めた。
「そうね。アーニャに手伝って欲しいことがあるわ」
「ええ、なんなりと。作戦を教えていただけますか」
身を屈めるアーニャの耳に、マージェリーが身を寄せる。忠実な番犬よろしく答えを待つアーニャに、マージェリーは真剣な顔で囁いた。
「あのね。ユリウス陛下を、みんなに愛されるモフモフ属性ヒーローにしたいんだけど」
「ルグラン語でお願いできますか、お嬢様」
――こうして、ロワーレ城の夜は更けていった。