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何も、もたず

作者: 西島地平

                 一




 夕暮れ時、親子が二人、手をつないで歩いている。お父さんと小学校の二、三年生ぐらいの女の子だ。女の子がお父さんに話しかけている。見上げながら話しているその仕草が、お父さんをいたわっているように見える。下を向いてうなずいているお父さんは、ちょっと頼りない感じがする。

 生活はきついけれど、それでも、今こうして二人で歩いていることがうれしい、そんな感じに見える。

 タカは、今までに何度もこんな親子を見た。そしていつも胸がいっぱいになる。こんな親子がいいなあと思う、こんな関係がいいなあと思った。

 道路の反対側の歩道を歩いてくる、その親子とすれ違った。タカは、歩きながら何度も振り返って、二人のうしろ姿を見た。


 東京の江戸川沿いの下町に、寿司・(しゅう)という店がある。この界隈では、繁盛している店だった。

 夜、店の前でタカは一人の男の人と話している。

「すみません、どうか、ここは勘弁してください」

 タカは、膝に手をつけて深く頭を下げた。

「いや、あんたが謝らなくてもいいんだよ」

「いいえ、私共の気配りが足りなかったんです、申し訳ありませんでした」

 男の人は、もういいというように手で止めて、くびすを返して歩いて行った。

「どうぞ、お気をつけてお帰りください」

 タカは、その後姿が見えなくなるまでそこに立っていた。

 道の反対の方から、カイが歩いてきた。

「大丈夫だったか」

「ああ、そっちは」

「大丈夫だ」

「そうか、そりゃあ、よかった」

 そう言って、お互い確かめ合うと、二人は裏から店に入った。

 店主が二人を見た。

「どうだった」

「はいっ、なんとか別々に帰ってもらいました」 タカが答えた。

「そうか、ご苦労さんだったな」

「いいえ」

 客同士の他愛もない喧嘩だった。

 二人は、同じ年に就職した。すぐに気があって、友だちになった。地方から出てきて、店の近くの同じアパートに住んでいた。

 回転寿司が流行っているときで、二人ともそれが性に合わなかった。お客と顔を見て、話をしながら仕事をしたかった。

 タカは、高校を卒業してから都会に出た。そんなにあこがれはなかった、ただ都会を見てみたかった、一度は住んでみようと思った。寿司屋に、住み込みで就職した。母親に送金するのを唯一の楽しみにして働いた。

 その日は、店主とタカが並んでカウンターに立っていた。前には、母親と男の子の二人連れが座っている。注文の料理を食べ終った男の子に、店主が話しかけた。

「ぼう、この兄ちゃんがな、お客の注文をまちがえて別なものをつくったんだ、わしは怒ろうとしたんだが、まてよ、この巻き寿司は、もしかしたら、ぼうが食べてくれるんじゃないかと思ったんだ、どうだい、もし、ぼうが食べてくれたら、この兄ちゃんは、わしから怒られなくてすむんだが、どうだい」

 男の子は、母親を見た。母親は、ほほ笑んでうなずいた。

「いいよ、おれ食べてあげる」

「そうかい、そりゃあよかった」

 そして、男の子の前に、ほいっと言って、さっきの巻き寿司を置いた。

「タカ、お前からも礼を言え」

 タカは、神妙な顔をして、男の子の前に来て、頭を下げて言った。

「ぼっちゃん、食べてもらってありがとうございます」

 そして、店主にも頭を下げた。

「おやっさん、すみませんでした」

「おうっ」 そう言って店主はぎこちないウインクをした。

 仕事場からアパートに帰りながら、カイは思い出し笑いをした。

「下手な芝居だったな」 と言って笑い出した。

「見てたか」

「まあ、見てたねえ」

「おれは、いきなり言われてびっくりしたよ」 タカも、そう言って笑った。

 店主が、注文もないのに巻き寿司をつくっていたのを変には思っていた。

「でも、何であんなことするんだろ」 カイが言った。

「おまえ、わからないか、おやじさんの肝っ玉」

「おまえ、わかるのか」

「わかる、たぶんまちがいないと思う」

 タカは、カイには気軽に何でも話せた。

「おやっさんは、お客の帰っていくときの顔や様子を必ず見てるだろう」

「食べずに残しているのも、よく見てる」

「おやじさんは、料理の良し悪しは二の次で、何よりもお客の気持ちを知ろうとしている。客はそれぞれ、いろんな事情をもってやってきている、どんな事情かはわからないが、おやじさんは店にいるひと時の時間を、ゆっくりしてもらうのを一番に考えている、気持ちよく帰ってもらっているかどうかを仕事の拠所にしていると思う」

 カイも、タカには遠慮なく話せた。

「そうか、商売は二の次ってことか。そうだとしたら、ほんとに肝っ玉の、太っ腹だ」

「若いおれたちには、できない芸当だ」

「そうだな」 

 タカもカイも、何軒か仕事場を転々としていた、そして口には出さないが、いまの店主をいい人間だと思い始めていた。いっしょに店にいて、よくわかる。店主は、人間を見ている。贅沢とは思いながらも、何かいいことがあって奮発してきた人なんかわかるものだった。そんな人や連れを見つけると、目いっぱいの料理を出している。

 にぎり寿しの並が注文されると、テーブルや座敷に自分から聞きに行く。

「お客さん、好きな魚があったら言ってください」

「なんでも好きです」 お客が答える。

「そうですか、それじゃあ、今日限りの魚で、はけない分があるもんで、それで余分につくりますから、どうぞ食べてください」

そんな具合だった。相手に不愉快な気持ちをさせないで、さらっと歯切れのいい会話で丸め込む、おやっさんだからできると思った。

タカはいつからか、何事に対しても、次を考える癖がついていた。例えば、スポーツ選手が試合で勝っても優勝しても、次がみえた。だから、その人の歓喜の表情や態度にも共感を覚えない、逆に次が心配になる。

 おれは、勝った人は見ない、負けた人を見る。そして、負けた人に心の中で話しかける。

(次にあなたが勝つんです、最後にあなたが勝てるんです)

 長い競技生活を考えれば、わかることだ。同じように、人の一生も、長い道のりを考えれば、わかるはずだ。

 タカはすぐ、悲しんでいる人や苦しんでいる人を見つけてしまう。そして、いっしょに悲しんでしまう、苦しんでしまう。肩を落として歩いている人、頭を垂れて公園のベンチに座っている人、不安な顔であわてて走っていく人、そんな人を見たら、同情してしまう。そして、心の中でつぶやく、がんばれ、大丈夫だ、いつかきっとうまくいくからと。

 子どもの頃、母親がよく絵本を読んでくれた。その中で、盗みが天才的にうまいおじさんの話をよく覚えている。熊三郎というおじさんが、目にも止まらないすばやさで、何でも盗んでしまう。歩いている人の財布はもちろん、子どもが食べているお菓子でさえ、いつとられたかわからないように盗んでしまう。そして、あるとき熊三郎は悲しんでいる人の悲しみも、苦しんでいる人の苦しみも盗んでしまった。盗もうとは思わなくても、盗むのが上手だからつい盗んでしまう、そんな話だった。

 熊三郎は、最後にどうなったのかは覚えていない。他人の悲しみや苦しみを、たくさん自分の中にしまい込んで、どうなったんだろうか。

(おれは、熊三郎になりそうだ) タカは苦笑いをしてしまう。




                 二




 タカは、長崎県の五島という島の出身だった。だから、子どもの頃から新鮮な魚を食べて、そのうまさを知っていた。釣ったばかりの魚の刺身は、ほのかな甘みがある、どの魚もそうだ、それがうまい。だから、いくら島の鮮魚店の魚でも、釣ってから時間が経っているから、比べたら味が落ちる。漁師や釣り人しか食べられない、一番贅沢な味をタカは知っていた。

 にぎり寿しでは、生のまま使うすしダネはほとんどない。一見、生に見えるものでも塩でしめるなど、何らかの下ごしらえをしている。このうまさにも、タカは驚いた。そして、その下ごしらえの手間とていねいさにやりがいをもった。

 ある日、仕事場の先輩が、タカのアパートを訪ねてきた。

「田舎で親が商売をしているんだが、少しの間だけお金の工面ができなくてね、二ヵ月後には入金があるからそれまで貸してくれないか」

「いくら要るんですか」 タカが尋ねた。

「できるだけ多いほうがいいんだが、100万円貸してもらえないか」

「そんなお金はもってません」

「そうか、いくらあるんだ」

「25万円なら」

「それでいいから頼む、いまからできないか、今日中に必要なんだ」

 タカが銀行に行くのに着いてきて、何度も同じことを言った。

「それから、このことは内緒にしてくれないか、誰にも言わないでくれ」

 一ヶ月して同じように頼まれた、来月にはまとめて必ず返せるからと。タカはまた25万円貸した。

 しばらくして、その先輩は事情ができたと家に帰った。落ち着いたら帰ってくるということだったが、ひと月過ぎても音沙汰がなかった。

 店主も、他の誰もが辞めたんだと思った。何人かがお金を貸したことを言い合った。誰がいくら貸したかわかってきた。

 カイが、タカも貸したのを知って怒った。

「おれにも借りに来たが、おれはあいつが鼻から返すつもりはないとわかったから、断った」

 ことばが荒々しくなっていった。

「あいつはうさんくさかった、おまえ、わからなかったか」

「ああ」 タカはうやむやな返事をした。

「おまえは、だまされたんだ」

「おれは、馬鹿にされたんじゃなく、だまされたんなら構わない。だまされたんだったら、おれにも落ち度があったんだろう」

「だまされたのと、馬鹿にされたのは、どこが違うんだ」

「いまは、その話はいい」

 タカは、うまく説明できないだろうと思った。頭に血がのぼっているカイには、なおさら無理だと思った。

「だましたと思っているんだったら、そうせざるおえない理由があったんだろう、そうだとしたら、それはあいつのせいばかりじゃないだろう」

 かわいそうと思うべきかもしれない、タカはそう思った。

 タカの落ち着いたようすに、カイは気づいた。

「おまえ、わかっていたのか」

「わかってた」 

「おまえ・・」

「おれが断ったら、あいつはどうしようもなくなるだろうと思った」

(おれは、目先のことを聞きながら、そいつの人間として生きる力が、どれだけ残っているかを見極めようとする。切羽詰っていないか、ぎりぎりの状態かどうか)

 相手をよく見ればわかる、言っていることをよく考えればわかると思った。

(おれは裁かない、おれは批判しない) タカは、そう自分に言いきかせる。

 その人のことは何も知らないに等しいんだ、その人のこれまでの人生を知らないんだ。おれが知っている、たった一つや二つのことで判断なんかできない。

 誰かに教えてもらったわけではないが、そんな考えをもつようになった。

 あいつにも家族がある、両親がいる、兄弟も親戚もいるかもしれない、その家族や親戚まで責めることはできない。

 そんなふうにも思うようになった。テレビや新聞で報道される容疑者に対しても、そう思った。

 人間の社会は、だまし合い、裏切り合いだ。その大きい小さいがあるだけで、一方がだまし裏切り、片方がだまされ裏切られる。ただ、命まではとられない、だまされた方が正しい、裏切られた方がいいんだ。

 少数の人たちが、だまし、裏切って、いくらかの富を得て勝者だと思っている。しかし、多数の敗者と思われている人たちが、本当の人間なんだ、正しい生き方をしているんだ。

 だまし裏切ったと思っていても、それが悪いことだとわかっていても、いくらかはしかたがないと思っているんだ。

「みんな、自分が正しいと思って生きている。それまでの自分の生き方を肯定している。そうでないと、生きていけないんだ。だとしたら、その生き方を責めることはできない。もし間違っていると責めたら、その人は生きていけない」

 カイは、すっかり気持ちが静まっていた。

「おれは、そんなことはできない、人の生きる力までなくさせるようなことはできない、そんな重荷はもてない」

 一つ二つ悪いことをしたからといって、もしくは、ある時期悪い人間だったからといって、一人の人間の一生を台無しになんかできない。

(正しい道に戻るのは、自分の意思でしかできない、それまで待ってやるべきだ) タカは、そう思った。

 カイはあきれた顔をした。しかし、それは喜びを隠すような表情だった。

「おまえは、人間の格が違うようだ、うまく言えないが、スポーツ選手のプロとアマチヤのレベルが違うみたいにな」

「よせやい」

「たいしたもんだ、恐れいりやす」 カイは、神妙に頭を下げた。半分照れ隠しだったが、半分は本気でそう思った。

 タカは、江戸川の河川敷を歩いた。夕日がきれいに輝いて教えている、――あしたがあると。

 お金をだましとられたのは、半分わかっててしたんだからしかたがないと思う。でも、そうすっきり割り切れない気持ちもあった。歩きながら、そんな自分をみつめていた。

 数年前、タカの田舎の親戚が、五人集まって総合レストランを始める計画をした。タカもそこで働いてもらいたいという話だった。タカはそのとき地元の寿司屋で働いていた。母親は、土地と家を担保に保証人になった。事業の計画には、母親が出席したが、知識もなくよくわからなかった。それでも、長い付き合いの親戚だから任せてもいいと思った。

 ある日、ビルを建てる場所が変わったことを他人から聞いた。それまで母親にもタカにも知らされてはいなかった。タカは、自分から聞きには行かなかった。日にちが経つにつれ、孤立していくのがわかった。そしてビルの起工式の日が決まっても、何の連絡もなかった。

 親戚がみんなまとまっていた、話し合っていたのかどうか知らないが、仲よさそうに話している。それを見ていて、タカは歯をくいしばって耐えた、黙って何も言わなかった。もう事は進んでいる以上、どうすることもできないことはわかった。一言口を開けば、言い争いになるのはわかった。

 タカは喧嘩しようとも思ったが、母親がこの土地にいるから、それはできないと思いなおした。母親がどんなことをされるかもしれない、またいつどんな世話になるかもしれないと思った。それで、黙って自分が身をひくしかないと決めた。

 そして、ビルは完成し華々しく開業した。タカは、働いていた店を辞めて都会に引っ越した。

 だまされ裏切られて悔しかった。なぜこんなにされたか、理由もわからなかった。悔しくて悔しくてたまらなかった。ずっとそれが頭から消えなかった。あいつらは、平気な顔をしていた、何の言い訳もせず笑っていた、なぜなんだ、タカはそう思った。二年過ぎた頃だろうか、あるときふっと、おれたちが馬鹿にされたんだと思った。

 あいつらは、だましたり裏切ったとは思っていないんだ、馬鹿にしたんだ、だから自分たちが悪いことをしたとは思っていないんだ。おれとおふくろは馬鹿だから、何もわからない人間だから、かまわないと思っているんだ。

 そう思ったら、頭の中が変わった、何か思いついた。ことばにできないが、何か頭の中にある。しばらく待った、じっとそれを待った、――ダイジョウブダ。

 このことばがうかんだ。そして、気持ちが楽になってきた、やさしい気持ちになってくる、――だいじょうぶだ、――大丈夫だ。

 そうか、おれは間違っていないんだ。そうだ、おれの方が正しいんだ。素直な気持ちで、そう思えた。おれが馬鹿にされたんだったら、おれを馬鹿にした方がまちがっている。そっちが、真実を知らないんだ。

 ――あなたが悩んでいるのだったら、あなたが苦しんでいるのだったら、あなたの方が正しいんです。そんなことばも、頭にうかんできた。

 その思いつきがあってから、タカは心が騒がしいとき、怒りや憎しみを覚えたとき、もの言わぬ自然を見た。じっと耐えている植物を見た、動物を見た。目で見えなくても、心の中でみた。黙ってじっと耐えていることが同じだと思った。

 そうして、タカは思った。おれが見ているんじゃない、自然がおれを見ているんだと。鳥が、雲が、空が、おれを見ている。そして、おれに教えてくれる、大丈夫だと。

 おれは呪文を唱える、――ダイジョウブダ、だいじょうぶだ、大丈夫だ。おれは、正しいことを知っている、おれは、すばらしいことを知っている、おれは、生きる目標をもっている。

 仕事が休みのとき、タカとカイはどちらかの部屋でゆっくり過ごした。二人とも趣味もとくになかった。

 タカは、カイに話した。

「ある時、おれは雑誌でアフリカの飢餓の子どもたちの写真を見た。それは生まれて初めて見た、人間の極度にやせた姿だった。おれは打ちのめされた、こんなにまで、こんなにも・・・」

 おれは、そのことを知らなかった、おれは自分のことだけを考えていた。自分の好き嫌いや幸不幸だけしか考えていなかった。この世界に、いまの世界に、こんなになるまで食べ物が食べれない子どもたちがいるというのにだ。

「おれは、すぐにでも食べ物を持って、そこに飛んで行きたかった。その子たちに食べ物をやりたかった。でも、そんなことはできはしない」

 おれはどう考えても納得がいかなかった。片方で飢えていて、もう片方では食べ物が余っている、これはどう理屈を考えてもわからない、正しいことではない。月に人間が降り立つ時代に、これだけ便利な機械や物が発明されているのにだ。

「おれは、居ても立ってもいられず、その雑誌を持って汽車に乗った。知らない土地に行って、考えるだけ考えてみた。まあ、おれの頭じゃ、高が知れているとも思ったが、考えられるだけ考えたんだ」

 そして、一番最後に思いついたのは、──何も、もたない、ということだった。それで、とりあえずおれは自分に妥協した。

 ──何も、もたない、これがおれの正義のより所だ。ぎりぎり妥協できる、生きていく支えだ。これを失くしたら、おれは生きていけない、あの子たちに会わせる顔がない。だまされたり、裏切られることなんか、何でもなくなった。

 偉くなって、金持ちになって、あの子たちを助けるんだったら、意味がある。ただ自分のためだけだったら、何も意味がない、おれはそんなのはへとも思わない。

 タカは、話した。

「おれは腹が減っているときに、あの子たちのことを考える。じっと思い浮かべるんだ、そうしたら、腹がおさまる、空腹がなくなる、不思議だなと思うよ」

 カイは、タカの話を真剣に聞いた。いい話だと思った、タカはいい奴だと思った。だが、性分でつい茶化してしまう、照れ隠しかもしれない。

「おれは腹が立ったときなら、めしなど入らない」

「ハハハ、おれもご同様だ」

 タカは、カイがわかってくれていると思った。

「おれはよく想像するんだ。おれはいつかアフリカに行く、そしてあの子たちの所に行って、うまいものを作って食べさせるんだ。おれが料理して、そばで子どもたちがうまいって顔をして食べている。そんな場面を思い浮かべるんだ。子どもたちが、ニコニコして腹いっぱい食べているんだ。おれは、それを見ながらどんどん作っていく。おれは、その日がくるのを、楽しみに待っているんだ」

 タカは、話しながら涙声になっていった。それでも最後まで話し終えた、そしてうしろを向いた。

「おまえって奴は・・・」 カイは、タカの泣いている背中を見て、目頭が熱くなった。

 タカの頭の中で、飢餓にある子どもたちの姿と、島から出てきた自分の姿がつながった。

 子どもたちの数も、あの雑誌で知った。でも、おれはその膨大な数の子どもたちを想像できない。おれは、写真や記事だけでしか知らない。しかし、おれは考えている、考え続けている。そして思う、人間はまちがっていると。

 自分は余っている物を貯えていて、あの子たちに食べ物を与えないのは、あの子たちを、馬鹿にしている、無視していることなんだ。馬鹿にされることが、無視されることが、どんなにつらいことか。




               三




 東京の下町には、自然が残っている。いや、残されているんではない、がんばって生きているんだ。田舎の自然とは違う、力強さを感じる。草木は緑を、空は青さを、風はさわやかさを、がんばって残してくれている。

 カイは、図書館で自然を撮った写真集をよく見た。日本や世界の美しく壮大な自然や、たくさんの野生動物たち、いつまで残っていてくれるんだろうと思う。

 タカが小学五年生のときだった、友だちと工事現場のコンクリート・ミキサーの中に入って遊んでいた。休みの日で、大人の人は誰もいなかった。急にミキサーの電源が入って動き出した、タカはとっさに頭から飛び出たが、片足が残って回ってしまった。砕けた足は病院で手術したが、傷がひどくて化膿が治らず高熱が続いた。医者が足を切断しなければいけないと話した。母親は、それは待ってくださいと頼んだ、もう一日もう一日と拝むように頼み続けた。

 タカは、独り言のように話した。

「おふくろは、大好きなお茶を断った、他に贅沢なものや好きなことはなかった。ベッドの横でご飯を食べた後、水や湯ざましを飲んだ。かあちゃん、そんなしなくていいよ、おれがそう言うと、こんなこと何でもないんだよ、おまえの足が治ってくれたら、かあちゃんががまんすることなんか、へでもないんだよ、そう言って笑った」

 タカがいる病室の窓から、一本の大きなイチョウの木が見えた。黄色くなった葉がきれいだった。北風が吹くようになり、その木の葉っぱが散っていった。タカはベッドに寝たっきりで、その木をずっと見ていた。ある晴れた日曜日、一人の看護婦さんが、こっそりとタカを移動用のベッドに乗せて外に連れ出した。いつも見ているイチョウの木の下に着いた。若い看護婦さんはその木を見上げながら話した。

「あなたは、この木の葉っぱが落ちるのをずっと見ていたでしょう。そして、いま一枚残らず落ちてしまって、自分も同じだと気落ちしたでしょう。でも、よく見て、葉が落ちた後に小さい蕾が出てるのを。わかる、ちっちゃいけれど、わかるでしょう、ねっ、風に吹き飛ばされたんじゃないの、自分で落として、蕾を出したのよ」

 タカは、どんなにうれしかったか、幼い心でもその話の意味はしっかりわかった。

「おふくろが、もうだめだと思った朝、おれの熱が下がった。そして、足を切断しなくてすんだ。おふくろは、どんなに喜んだことか、そして、こんなにありがたいことはないと、それからもお茶は飲まなかった」

 そこで話は終わった。カイはずっと黙って聞いていた。

 子どもの頃の思い出は、よく覚えている、何度思い出しても胸がいっぱいになる。純粋で、一本気で、甘えん坊で、泣き虫で、そしてお父さんとお母さんにいつもくっついていた。

「おれはすまないと思った、かあちゃんを・・・」 そこまで言って、タカは話をやめた。感情が高ぶってきたのに気づいた。

 その日は、休みの前の晩で、仕事が終わって久しぶりに二人で酒を飲んだ。

 店主が、仕事帰りに自分でつくったにぎり寿しを二人に渡した。

「これで一杯やってくれ」 そう言って日本酒も一本添えてくれた。

「味を勉強しながら食べろなんぞ、無粋なことは言わないぜ、気楽に食べるのが一番だ」 そうして、へたなウィンクをした。

 アパートの部屋で飲みながら、カイが思い出して笑った。

「おやっさんのウィンクは、笑えるなあ」

「おれは、思わずウィンクを返してやろうかと思ったよ」 タカが言った。

「おいおい」 二人は声を出して笑った

「いいおやじさんだな」

「ああ、おれはときどき、実の親みたいに思うときがあるよ」

「歳も、それだけ違うからな」

 そんな話から、昔話に続いていった。タカの大切な思い出なんだろう、よどむことなく静かに話し続けた。

「かあちゃんを・・・」 その後を、タカはことばには出さなかったが、あのとき、タカは、母親を仏様のように思った。

 しばらくして、タカはにっこり笑って、カイのコップに酒を注いだ、そしてまた話し始めた。

「おれも願かけたんだ、──おれのお供えは、何も、もたないと」

「願かけたって、おまえ、それ、いつ終わるんだ」

「わかんねえ」

「わかんねえって、おまえ、終わらないだろうに、・・・馬鹿だなあ、おまえは、ほんと、頭が下がるよ」

 このとおりだ、と言って頭を下げた。

「よせやい」 そう言ってタカが笑った。

 カイも笑った。

 カイは知っていた、タカが給料をもらったら、まっ先に寄付しに行っているのを、銀行か郵便局に振込みに行くんだろう、うれしそうに、いい顔をして飛び出していく。

 おれには、持ち物はない、使っている物があるだけだ。タカは、そう思っている。おれは、この生き方しかできない、他のことには、喜びも幸せも考えることはできない。おれは、あの子たちのことを考えているときが、一番心が満たされる。

 ──おれは、願かけるくらいしかできない。今は自分で、たった一人の子も助けてやることはできないが、いつかできるチャンスがくるかもしれない。

(待ってろよ、おれが助けにいくからな、ひもじくても、つらくても、がんばっていろよ) タカは心の中でつぶやいた。



                四




 夕方、店を開けてすぐ、カウンターの端に一人のおばあさんが座った。

「いらっしゃいませ」 カイが前に立った。

「ここで、おじいさんと待ち合わせをしているんですよ」 おばあさんは、うれしそうな顔をして言った。

「そうですか、それじゃあ、お二人様で、わかりました」 カイも、笑顔で応えた。

 おばあさんは、ゆっくりお手拭を使って、お茶をおいしそうに飲んだ。

「料理は、旦那さんがお着きになってからにしましょうか」

「そうですね、そうします」

 15分ぐらい時間が過ぎた。

「お連れさん、まだですねえ」 カイがやさしい口調で言った。

「そうですね」 おばあさんは、少し心配そうに言った。

「こっちは、いっこうに構いませんから、どうぞ、ゆっくりしといてくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 そうして、30分過ぎてしまった。

「お客さん、お腹は大丈夫ですか、よろしかったら、少し腹の足しにつまみませんか」

 カイは、そう言って鉢と皿を前に置いた。いま、目の前でつくったものだ。

「いえね、あっしはまだ半人前で、修業だけの料理があるんです、それをいまこしらえましてね、嫌いでなければ、ちょっと味見をしていただこうと思いましてね」

 おばあさんは、その料理の手さばきを見ていました。決して半人前とは思いませんでした。

「そうですか、そうでしたら、喜んでいただきます」

 アジのたたきと、うねり串焼きが入っていた。

「ありがとうごさいます、口に合わなかったら、どうぞ残してください。小さい魚が練習用にはもってこいでして、このアジなんか、それにぴったしなんです」

「おいしい」 一口食べてから、おばあさんは言った。

「ありがとうございます、お世辞でもうれしいです」

「いいえ、お世辞ではありません、ほんとうにおいしいですよ」

「わたしは、岩手の出身で、雫石という山村で育ちました。それでかどうか、中学生になった頃から海にあこがれましてね、そうしてこの仕事を選んだんです」

 おばあさんは、カイの話を何度もうなずいて聞いていました。自分のことは話しませんでした。

「東京はすごいですね、人の多さにびっくりしました、始めて上野に着いたときには、お祭りがあっているんだと思ってしまって、うれしくなって神輿を探しましたよ」 そう言って照れ笑いをした。

 1時間が過ぎて、おばあさんの顔がかなしみの表情に変わってきた。カイはできるだけ話をしようと思った。タカがそばに来て、小さい声でカイに耳打ちした。

「おやっさんが、他はいいから、おばあさんの相手をしろって」 そうして、にぎり用の切り身をいくつか置いて行った。

 カイは、黙って小さくうなずいた。

「お客さん、調子にのってまたつくりました、これも、よかったら味をみてもらえますか」

 そう言って、ちらし寿司を前に置いた。おばあさんは、びっくりした。

「まだ、にぎり寿しは修業中なんです、刺身を切るのもまだなもんで、どうぞ半人前のもので申し訳ないんですが」

「よろしいんですか」 おばあさんは、戸惑いました。

「いま、練習用にもってきてもらったんです、端っこばかりでして、こっちがお願いします」

おばあさんは、おじぎをして箸をつけた。そして、ゆっくりかみしめながら味わいながら食べた。

 カイは、食べてもらってうれしかった。

「何か吸い物を出しましょうか、きょうは鯛の吸い物がありますが」

「それをいただきます」

「はいっ、ありがとうございます」

「鯛の吸い物をひとつーー」 調理場に声をかけた。

 おばあさんは、残さずきれいに食べ終わった。かなしい表情もきれいになくなった。

「それでは、わたしはこれで帰ります、おいしゅうございました」

「ありがとうございました」 

 そう言って、カイは会計の場所に行った。何も考えることもなく、からだがそんなに動いていた。

「ご会計、三百円いただきます」 カイはおばあさんを見て、いっぱいの気持ちを込めて言った。おばあさんは、黙って頭を下げた。

「それでは、これで」 と言って、財布から百円玉を3つ出して受け皿に置いた。

 おばあさんの顔は、やさしいほほ笑みをたたえていた。それが、カイにはたまらなかった。目頭が熱くなって、一生懸命こらえた。

 おばあさんは、店のまん中に向かって深く礼をした。店主とタカは、それに応えて頭を下げた。カイも頭を下げた。

「またいらっしてください」 そう言ってカイは玄関の戸を閉めた。


 夕暮れ時、街中を母親と男の子が二人並んで歩いている。男の子は九才か十才ぐらいだろうか、しっかりとした足どりで歩いている。

 男の子は、母親を見て言った。

「かあちゃん、おれが大きくなったら、いっぱいお金を稼いで、うまいもんをいっぱい食わせてやるからな」

 母親は、黙ってうなずいた。疲れているんだろうか、歩いている姿が弱々しい感じがする。男の子は、母親をいたわるように言った。

「かあちゃん、それまでがんばれな」


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