その魔女、猫
「で、取材をするのはいいけど、なんで猫の姿なの?」
王都のとあるお屋敷の庭に二人、いや二匹の猫がいた。魔法で猫に化けたミレイアとネルである。ミレイアは赤みがかった茶色の毛をした猫で、ネルは黒猫だ。屋敷の一室が見えるよう、木の上に登っている。
「怪しまれずに盗み見るには一番じゃないですか」
「それもそうだけど……」
二人は言葉を交わしているが、外から見れば猫が鳴いているようにしか見えない。鳴き声は魔法によって脳内で翻訳されており、変身解除の魔法をかけられない限り見破られることはなかった。ミレイアとネルが得意な魔法でもある。
ミレイアはぐっと体を伸ばしてから、ちょこんと座る。ネルは前足を舐めながら、窓の向こうを伺っていた。
(だいぶ猫が板に付いちゃって……さては、よくその恰好でうろついているわね)
ミレイアが自然と猫の仕草をしているネルをじっと見ていると、「あっ」とネルが舐めるのを止めて窓を毛並みのいい前足でさす。
「来ましたよ。この家のご令嬢と、家庭教師の先生です」
窓の向こうには机が見え、そこに一人の少女が座った。栗色の髪はふんわりと波を打っており、楽しそうに笑う横顔は可愛らしい。オレンジの瞳が目を引くご令嬢だった。少女の向こうに家庭教師と思われる青年が立っていて、茶色く艶のある髪は首元で切りそろえられており、優しそうな目元をしていた。
「二人は同じ子爵よね」
「はい。家の格で言えば、ご令嬢の方が上ですね。家同士に繋がりがあって、家庭教師を頼まれたようです」
「ふ~ん。じゃ、のぞき見させてもらいましょうか」
ある程度の背景をネルから聞き、ミレイアは集中して自分に魔法をかける。猫の状態なら、人間の時より耳も目もいいが、さらに強化すれば側で見ているかのようになる。ネルも同様の魔法をかけていて、二人は聞こえてきた会話に耳を傾けた。
「先生。今日もよろしくお願いします」
少女は鈴が転がるような可愛らしい声で、声も弾んでいる。爽やかな若葉色のワンピースドレスを着ていた。
「お嬢様。こちらこそよろしくお願いします」
対する家庭教師は少女より5歳は年上に見え、大人の落ち着いた雰囲気が感じられる。少し高めのきれいな声で、ミレイアは「いい相手役」と呟いて、いつの間にか出していたネタ帳に書き留めていた。ネルが横目で見て、「何で猫の手でペンが持てるんですか」とでも言いたそうな顔をしたが、無言で視線を少女たちに戻した。
授業が始まれば、家庭教師はわかりやすく教え、少女はまじめにノートを取っていく。しばらく何ということもない時間が流れて、ミレイアとネルはくわぁと欠伸をした。ネルは飽きてきたのか毛づくろいをはじめ、ミレイアも退屈になってきてしっぽを揺らす。
「お嬢様、ここの文なのっ……」
「せんせっ……」
とその時、二人の声がかぶさって途切れる。
(あらまぁ)
一部始終を見ていたミレイアは目を細めて、舌なめずりをした。教科書を指さそうとした家庭教師の手が、先生に質問をしようとして動いたお嬢様の手に触れたのだ。二人は動揺からか顔が赤くなっており、おいしいシチュエーションにペンが走る。
「も、申し訳ありません。お嬢様」
「い、いえ。こちらこそ、驚いてしまって」
二人はちらりと互いの顔を伺うも、すぐに視線をそらす。そのぎこちなさが、たまらない純粋さを感じさせ、ミレイアは「あぁぁぁ、最高」と目をギラギラとさせていた。その反応、その表情だけで二人が思い合っているのは確実だ。
そしてその確信は、授業が終わった後でさらに深まる。教科書を鞄に入れ、帰り支度をしている先生の顔をちらちらと見る少女。そのオレンジ色の瞳は言いたいことがあるとはっきり書いてあって、ミレイアは「じれったいわねぇ」としっぽを打ち鳴らした。
「あのっ……先生」
「どうしましたか、お嬢様」
優しく甘い笑み。それだけで少女は恥ずかし気に視線を下に向けた。膝の上で手を重ね、「えっと」と、なんとか最初の一言を口にしようとしているのが、またかわいいのだ。
「もうすぐ……デビュッタントなんです」
デビュッタントは、貴族の少女が社交界にデビューをすることで、一人の淑女として見られることになる。めでたいことであり、彼は「もうですか」と嬉しそうで、どことなく寂し気な表情で微笑んだ。
「はい、それで……お父様が最近婚約者の話をするようになって」
「婚約者、ですか」
その一言で、先生の顔色が変わる。少女の視線から外れた表情に、一瞬苦しさが滲んだのだ。それを見逃すミレイアではない。固くなった声音に少女が顔を上げ、「あはは」と引きつった笑みを作る。
「びっくりしちゃいますよね。まだ子どもなのに、婚約者だなんて……結婚するなんて」
最後の方は声に力が無くなり、しぼんでいった。少女は不安げで、潤んだ瞳を先生に向けていた。
「私、まだ先生に勉強を教えてもらいたんです。……まだ」
肩を落として俯く少女に、先生は眉尻を下げ、右手を浮かした。手を伸ばそうとしたのに、迷いがあるのか宙に浮いたままだ。
「けど、思ったんです。先生だって、今はこうして教えてくれているけど、いつか誰かと結婚して、違う道を歩いていくんだなって」
「お嬢……様」
先生が伸ばしていた手を握りしめ、膝におく。彼は子爵と言っても三男であり、格上の少女に結婚を申し込める立場ではない。そして少女も、自分の将来を自分で決めることはできず、翻弄されていた。
揺れる心は思い通りになんてならず、少女と先生の声にならない想いは、物書きのミレイアにはしっかり伝わっていた。ミレイアは心を描く。人々が幸せになる物語を紡ぐ。とんだ夢物語だ。だからこそ、現実はそう簡単にいかないことをよく知っている。
「少しだけなんだから……」
そう呟いたミレイアは、右前足の肉球を顔の前で上に向けた。
「ミレイア様?」
ネルが小首を傾げると同時に、ミレイアはふっと息を吹きかける。その空気は窓から少女の部屋へと入り、先生の下へと届く。ちょっとした、勇気の出る香りを運んだのだ。
ふわりと自分を纏った香りに気づいた先生は、少し窓の外に視線を飛ばしてから、少女に熱っぽい瞳を向けた。ゆっくり握りしめていた手がほどかれ、伸ばされた手は少女のものに重なる。
「先生?」
手を重ねられると思っていなかった少女は、目を丸くしている。先生は気恥ずかしそうな表情で、「その」と口を開いた。
「お嬢様……いえ、セーニャ様。私は、お嬢様の幸せを願っております。いつまでも、あなたのお側で」
家庭教師をしている青年が伝えられる、精一杯の言葉。本当は「自分が幸せにする」「結婚したい」と言いたいはずなのに、身分と立場が邪魔をする。それでも、今の少女にはその言葉で十分だった。
「先生、ありがとう。私、デビュッタントが終わっても、いい淑女になるためにたくさん勉強するわ。先生と一緒に」
「はい……精一杯、力になります」
二人は自然と手を取り合っていて、温かさがミレイアにも伝わってくるようだった。二人の甘い時間は、メイドがお茶とケーキを持ってきたことで終わりを告げる。その後のティータイムは、穏やかな表情で、小さな幸せを噛みしめているようにも見えた。たっぷり取材したミレイアは、「行きましょ」とネルに声をかけて木から飛び降りる。
「ミレイア様、いかがでした?」
ネルもすぐに追いつき、そう尋ねた。ミレイアは真剣な表情で、屋敷を振り返る。
「素敵な二人ね。幸せにしたくなったわ」
二人を見ていると、次々とシチュエーションや結末、甘い言葉が浮かんできた。きゅんきゅんと、幼い頃に恋愛小説を読んで感じた胸の高鳴りがあった。この胸に迫って来る感情を文にしたいと、急き立てられるようだ。
「それでは、さっそく王宮へ戻りましょうか」
「えぇ。濃いコーヒーをお願い。今日は書くわよ~!」