兄の心妹知らず…とか、剣護の受難のお話(後編)
とは、言ったものの………
用事があるから先に行っててくれ、と飯田に無線で告げ、俺は何となく勾陣隊舎の奥で書類を片付けていた。
「こらぁ!剣護!!!」
びくっとして振り返ると、藍が両手を腰に当てて立っている。
「何してんの、もう約束の時間でしょ!?」
「あ………ああ」
俺の手から書類を引ったくり、呆れ顔でため息をつく。
「これは私がやるから…もうあと5日しかないのよ?何とか形にしてあげなきゃ、飯田さん可哀想じゃない」
「…そりゃ、そうなんだけどさ」
件の、飯田という人物。
彼の剣術は、はっきり言って予想を上回っていた。
予想以上の…酷さ。
あれでよく士官学校を卒業できたものだし、天一隊に入れたものだと感心してしまう。
それだけなら、まだいい。
あの………覇気の無さは何なのだろう。
最初は緊張しているのかと思ったが、何日経っても、綺麗な礼一つ出来ないのだ。
何か言っても、はぁ、とか、まぁ、とか…歯切れの悪い返事しか返って来ない。
やる気あんのか!?と…怒鳴ってやりたいのは山々なのだが…
問題は…美咲。
彼女は毎日甲斐甲斐しく、飯田の応援にやってくるのだ。
あいつの手前、そう邪険な態度も取れないし…
正直、俺は困っていた。
藍も多分、同じことを感じているのだろう。
眉をしかめ、分かるけどさぁ…と声を潜める。
「彼なりに頑張ったなって所を見せれば、なんとか丸く収まるわよ。野村小隊長だって、まさか飯田さんが自分を打ち負かせるなんて、思ってないでしょ?」
「………そうだろう………か?」
『そうだろうな』は、今の俺の立場では到底言えないので、慌てて語尾を変えて答える。
もう、と口を尖らせて髪に手をやる藍。
「剣護も真面目だもんなぁ…優しいしさ」
「そんなこた…ねえけどよ」
よし分かった!ときっぱり言い放ち、彼女は俺の手を取った。
「私がびしっと言ってあげる!だから行こ。彼のことだもの、あんまり待たせると帰っちゃうかもしれないわよ?」
飯田の特訓には、笹倉道場を借りている。
彼の酷さをうちの隊士達に見せるのは、両方にとってあまり良くない気がして…
重い足を引きずるように、藍の後を歩いていく。
と…
誰かが向こうから走ってくるのが見える。
「…美咲!?」
「剣護くん…大変なの!!!」
彼女は俺の腕を掴み、今来た道を引き返していく。
「ど…どうしたんだよ?」
「いいから早く…一緒に来て!」
彼女は顔が若干青ざめていて、涙目になっているように見える。
何があったんだろう…一体。
道場に到着する。
事情は…瞬時に飲み込めた。
張り詰めた空気の道場。
汗だくでぼろぼろになって、冷たい木の床に転がっている飯田の姿。
そして、冷ややかな目でそれを見下ろしている…一夜。
俺達の後を追いかけてきた藍が、目の前の光景にはっと息を呑む。
かける言葉が見つからず黙り込んだ俺達に、一夜が冷たい目を向ける。
「あ、剣護…遅かったね」
「………ああ」
「一夜…あなた何やってるのよ!?」
もう、とつぶやいて藍は飯田に近づき、懐から出したハンカチで額の汗を拭う。
「大丈夫ですか?飯田さん………」
飯田は荒い息をしていて、うまく答えることが出来ないらしい。
「何って…剣護がなかなか来ないから、代わりに稽古つけてやっただけだけど?」
「あのねぇ!…こういうの、稽古じゃなくていじめっていうのよ!?」
やっとのことで上半身だけ起こした飯田が、怯えた瞳で一夜を見ている。
「もう…あなたって人は本当に、加減ってものがわかんないんだから…いきなり素人相手に勾陣隊みたいな稽古したって、出来る訳ないでしょ!?あなたは先生なんだから、誰にどのくらい手加減しなきゃいけないかくらい、わかりそうなものじゃない…」
一夜は、らしくない厳しい瞳で俺を見る。
「剣護も…そう思う?」
「え………?」
「勾陣の門を叩いて、笹倉道場を借りて稽古するっていうんだから…それなりの教育をしてやらなきゃ失礼だと思うんだけど、俺…」
「だってそれは、美咲さんが…」
「彼女が知らなくても、飯田くんは知ってる筈だよね?」
一夜の言葉に、藍は俯いて黙り込んでしまう。
だいたいさ…と、一夜はしゃがみこんで飯田の顔をじっと見る。
目を逸らそうとする彼の首を、ぐい、と自分の方に向け、また低い声で話し出す。
「お前さん本当に、あのでかいのに勝たなきゃいけないって思ってる?」
「……………」
「剣術の基本は?剣護に何て教わった?」
「………こころ」
荒い息を整え、やっとのことで答える彼に、一夜は大きく頷く。
「そう、心!強い心を持って無きゃ、どんなに弱い奴にだって勝てないんだぜ?だから…生半可な気持ちで稽古に臨んで欲しくない。俺が言いたかったのは、それだけだよ」
「………はい」
「よし!じゃあ今日はここまで。また明日…で、いいかな剣護?」
「あ…ああ」
その時。
背後で黙って俺達のやり取りを見ていた美咲が、つかつかと一夜に歩み寄った。
そして…
パシン!という音が道場に響く。
彼女は一夜の頬を力いっぱい、ひっぱたいたのだ。
そして、泣き出しそうなのを堪えるように、唇を噛んで踵を返す。
「飯田さん、行きましょう」
「…うん………」
何か…言わなければ。
大きく一つ、深呼吸する。
「…飯田」
「…はい」
「今日は遅くなってすまなかった。明日はちゃんと時間通りに来るから…」
「……………」
「道場で…待ってるからな」
「………はい」
道場の縁側に並んで腰掛ける。
「…お見事でした」
何が?と問う私に、嬉しそうに目を細める一夜。
「『稽古が厳し過ぎる』なんて、剣護には言えないでしょ?」
「…そうねえ」
「だから、藍が言ったんでしょ?」
「うーん………バレたか」
勾陣の稽古が厳しいのは勿論だし、笹倉道場に通う子供達だって、歯を食いしばって厳しい稽古に耐えているのだ。師範代の一夜に『稽古が生ぬるい』なんて言われたら、剣護はまず、言い返すことは出来ないだろう。
彼らの世界はそういう世界だ。
だけど、飯田さんと…何よりあんなに心配してた美咲さんの手前、誰かが一言物申してあげなくては。そう思ったのだけど………
まさか彼女自身が抗議に出るとは。
痛かったでしょ、と尋ねると、へへへ…と弱々しく笑う。
「女の子にぶたれたことってあんまりないから…ちょっと気持ちが萎えちゃうよね」
…ほんとかなぁ。
「何であんなことしたの?今まではずっと見て見ぬ振りしてたじゃない」
そうだなぁ、とつぶやいて、一夜は空を仰ぐ。
「剣護がイライラしてるみたいだったから」
「…剣護?」
「そ。けどあいつさ、昔の彼女の目があるから、あんまり強くは言えないだろ?」
そうそう、と大きく頷く。
だからこそ私も、びしっと言ってあげる!って、啖呵切ったのだし。
「勾陣に居た頃、あいつはいつも憎まれ役買ってくれてたからね…こんな時くらい、俺が代わってあげてもいいのかなって思ってさ。それに」
やっぱりあんな甘っちょろい稽古は気に食わなかったのだと、一夜はいつになく真面目な顔でつぶやいた。
思わず噴出しそうになって、必死に堪える。
いいとこあるじゃん。
それに………こういうことだけは頑固なんだから。
少し赤くなっている頬を、指先で撫でる。
何?と少し不満そうにつぶやく一夜。
「別に、何でもないわよ」
笑顔でそう答えて…頬にキス。
「?」
きょとんとした目をした一夜を横目で見て、勢い良く立ち上がる。
「じゃ、私隊舎に戻るね!また後でっ」
無性に照れくさくなって、何か言いたげなその視線を避け、私はくるっと背を向けた。
「藍~?」
「ばいばい、一夜!」
あいつ…ちゃんと来るだろうか?
重い足取りで笹倉道場に向かう。
あの怯えたような目…
覇気がない、というのとはまた違って…なんつーか…良くない感じだった。
今までの雰囲気から察するに、今日来るか来ないかは…正直半々って所だと思う。
けど………
あいつ…なんだよな。
そう、あいつは…
美咲が選んだ男だ。
ヤキモチとか、未練があるとか、そういうんじゃないんだ。
でも…願わくは、失望させないで欲しい。
あいつには…幸せになってほしいと思ってるんだ。
だから…
飯田は一足先に来て、道場で正座して俺を待っていた。
「あれ…今日は彼女は来てないのか?」
いつも飯田の稽古を真剣な眼差しで見つめていた、美咲の姿がない。
彼は珍しく強い口調で言う。
「帰らせました」
「………え?」
「あいつが見てると片桐隊長…本気で僕のこと、叱れないのかなって思ったので」
「………まあ…なぁ」
それと、と彼は俺の方に向き直る。
「隊には、3日休暇を貰ってきました」
「………はぁ?」
俺を見つめる彼の目は、今までのそれとは全く異なっていた。
気合の入った…光のある、良い目をしている。
「残る3日みっちり稽古して、試合に挑もうと思っています」
「そりゃ…いい心がけだけど………」
急変ぶりにこっちがうろたえてしまう。
「3日も休むなんて…隊に迷惑かからないのか?」
「無論、迷惑はかけてしまうと思います。でも、今日やれる限りの仕事は片付けてきましたから…最小限には留められると」
「高瀬隊長…何て言ってるんだ?」
「詳しい事情は話してませんが、大事な用事だと言ったら快諾してくださいました」
「それに…お前がいくら空いてても、俺は仕事があるんだぞ???」
あ…とつぶやいて、飯田は気まずそうに笑いながら頭を掻く。
「そうですよね…でも、素振りでも何でも、一人で出来ることは沢山あるし」
「それなら心配無用だよ!」
突然の声に振り向くと、一夜が楽しそうに笑いながら立っていた。
「剣護が忙しい時は俺が面倒看てあげよう!…とは言っても、時間帯によっては道場のちびっ子達と一緒になっちゃうけど…それでよければ」
昨日さんざん叩きのめされた相手なのに…飯田はお願いします!と即座に頭を下げた。
「…一体、どうしたんだ?お前………」
「僕…昨日あの後、考えたんです」
一夜の『心が足りない』という言葉が、深く心に刺さったのだという。
確かに一朝一夕の稽古で、あの屈強そうな兄上を倒すことは不可能かもしれない。
でも、不可能だと思ったら、どんなに頑張ったって勝てるわけがないのだ。
そう考えたら…今までの自分はどうだ。
心構えがなっていなかったのではないか。
形だけやってみせて、適当にお茶を濁して見逃してもらおうという気持ちが、一片もなかったと言い切ることが出来るだろうか。
そんな気持ちでは、こんなに時間も労力も割いて、一生懸命稽古をつけてくれている、片桐隊長に対して失礼ではないか。
『残りの時間やれる限りのことを精一杯やって、絶対に兄上を打ち負かしてやる』
それが考え抜いた結果、彼が出した答えだ。
感嘆のため息をついて、彼の前にしゃがみこむ。
「やるんだな?本当に…」
「はい!」
今まで萎縮してしまってたけど…根はこういう奴なんだな。
正直、そう思った。
「相手は名うての剣術遣いだ…正直厳しいぞ?」
「でも…片桐隊長の方が、お強いですよね?」
思わずふきだしてしまい、傍に立っている一夜を見上げる。
どう思う?と目で訊くと、一夜は当たり前だろ、と笑って返した。
…よっしゃ、やるか。
ぐっと右手を差し出す。
「俺のことは剣護でいい。よろしくな!」
にっこり笑って、彼はその手を強く握り締めた。
「よろしくお願いします!!!」
隊舎で一人留守番をしていると、紙束を抱えた剣護が現れた。
「頼みがあるんだけど…」
書類の整理をして欲しいという。
「まだ約束の時間までは大分あるんだけどさ…あいつがあんだけ頑張ってんのに、俺も少しは時間削って協力してやらなきゃ…と思ってな。頼めるか?」
「いいわよ…別に」
感心するのと呆れるのとで、思わず小さくため息をつく。
「本当優しいのねぇ、剣護って!」
「別に…優しかねぇけどよ………優しいのは…飯田のほうだ」
うーん………
「ねえ、剣護?」
「…何だよ?」
ちょっと迷ったが、言うことにする。
「私だったら嫌だな」
「…何が?」
「何って…その………私のために仕事を犠牲にする男」
はぁ?と剣護は怪訝そうな顔をする。
「急に何言い出すんだお前?」
「………だって」
美咲さんの為に仕事も自分も投げ打つことが出来るか出来ないか…
剣護と飯田さんを分けたのは…そこでしょ?
だからあなたは、そんなに落ち込んでるんじゃないの?
と………
言いかけたが…やめた。
「まあいいわ…書類、そこに置いといて。別に急ぎじゃないんでしょ?」
「ああ!助かるぜ」
置かれた書類に視線を落とす。
「なあ、藍?」
何?と再び顔を上げると、剣護は隊舎の入り口で、何だか真面目な顔で私を見ていた。
「ありがとな………ちょっと嬉しかった」
………まったく。
いい年した大人の男が、何かわいい事言ってんだか。
「いいから…早く行きなさい!」
「…ほーい」
「高瀬隊長!」
隊長室がノックされ、どうぞ、という返事と同時に飛び込んできた五色は、珍しくうきうきした様子だった。
「なんだい?随分楽しそうじゃないか」
「いよいよ…今日ですね!」
…今日?
「何のこと?」
「ご存知なかったんですか!?飯田のことですよ」
彼の話に、思わず目を丸くしてしまう。
重要な用事だとは聞いていた。でも…そんなことだったとは。
野村小隊長というと相当な強敵だが…果たして。
「見に行きませんか!?」
「…え?」
「行きましょうよ!飯田の一生を左右する、大事な試合なんですから」
「そう…だなぁ」
時計を見る。
次の講義まで、まだ余裕はありそうだ。
よし。
「じゃ…行くか」
五色は、いつになくきらきらした目で、はい!と頷いた。
道場はしんと静まり返り、只ならぬ緊張感に包まれていた。
胴着を着け、面を手にした飯田さんの傍らで、何か耳打ちをする剣護さん。
頷く飯田さんは、今まで見たことがないくらい真剣な、強い目をしている。
黙って目をつぶり、正座をして精神統一している様子の野村小隊長。
強張った顔で二人を見つめる美咲さんの肩に、藍さんが優しく手を置く。
「…三日月さん」
「大丈夫よ!信じましょ、彼を」
小さく頷くが、やはり不安を拭い去ることは出来ない様子。
彼女の両手は、祈るように硬く握り締められている。
道場の奥から一夜さんが出てくる。
「じゃ、始めましょうか?」
すっと音も無く立ち上がる、野村小隊長と、大きく一つ深呼吸をして歩き出す飯田さん。
人の気配を感じて振り返ると、蒼玉隊長が不思議そうな顔で立っていた。
「あれ?どうしたんですか、今日は…」
藍さんが尋ねると、いや、と気まずそうに首を捻る。
「古泉にな…用があるからと呼びつけられたのだが」
「一夜が?」
一夜さんは何食わぬ顔で、二人にルールの説明をしている。
「せっかくだから一緒に見ていかないか?なかなか面白い試合になると思うんだけど」
蒼玉隊長の背後にいた高瀬隊長がにっこり微笑む。
「高瀬隊長と桐生伍長は、応援にいらっしゃったんですか?」
「うん。うちの隊士の一大事みたいだからね」
そして…
一夜さんの凛とした声が、試合開始を告げた。
次の瞬間。
野村が…道場全体を揺るがすような太い声で、吼えた。
おそらく、こうやって自分に気合を入れるのが、彼の流儀なのだろう。
が………
飯田は一瞬、小さく飛び上がったように見えた。
…姿勢がおかしい。
明らかに、逃げ腰になってしまっている。
「どうした!?しゃんとしろ、飯田!」
俺の声も、混乱した彼にはどうやら届かないらしい。
竹刀を上段に構えた大柄な野村の姿と、飢えた獣を重ねてしまっているのかもしれない。小さくなった背中は、震えているようにすら見える。
「飯田さん!」
横で藍も叫んでいるが…
野村は怒鳴るような大声を出し、竹刀を振るう。
その先端は、正確に飯田の面を捉えた。
「一本!」
内心面白くなさそうに、一夜が手を挙げる。
そして、元の位置に戻されるが…萎縮してしまった飯田はうまく動くことが出来ない。
「おい、しっかりしろ!」
俺の声に応えようと、背筋をぐいっと伸ばす。
が。
ダン!と床を蹴る音にまた硬直してしまい、続けざまに…もう一本。
「あーあ………」
藍が小さくため息をつく。
恫喝するような行動ならば、注意のし様もあるのだが、いかんせん野村は元々声もでかければ図体もでかい。ちょっと静かに動いてくださいなんて、審判が言うことではないし…
あっさり二本、取られてしまった。
がくっと床に膝をつく飯田。
面と取ると、野村は高らかに笑い、彼を見下ろす。
「どうだ?稽古を積んだようだが、こんなものとはな…」
………飯田。
その時だ。
「あれ?どうしたんですかお二方とも…」
きょとんとした瞳で、一夜が二人の顔を見る。
動揺した様子で、野村が言い返す。
「どうしたって…試合は」
「誰が三本勝負だなんて言いましたっけ?」
「………はぁ???」
「藍、聞いてた?」
皆が藍の顔を見る。
彼女は突如集まった周囲の視線に、困惑気味に口を開く。
「いえ…確かに………どうやって勝敗を決めるとか…そういう話はしてなかったと思うけど………」
「…何だと!?」
「だから………何で誰も聞かないのかなぁって、私………」
もじもじしている藍から視線を離し、野村は不敵に笑う。
「ま…まあ、それも良いだろう。五本勝負というのなら、あと一本とれば仕舞いだからな」
「だぁから、五本とも俺は言ってませんってば」
なぁ剣護、と今度は俺に話を振ってくる。
「…お…俺か???」
頷いて、さも当然というように、一夜は両手を広げてみせる。
「普通にやったら野村小隊長が勝つの、当然でしょ!?今回の試合はハンデマッチ、十本やって、一本でも飯田さんが取れたら、飯田さんの勝ちですよ」
「…な」
「何だと!!??」
おちょくられて爆発寸前の野村と、どよめく野次馬達。
そこに、こほん…という咳払いが一つ。
場は水を打ったように静まり返った。
「………右京?」
「僕もそれがいいと思います」
右京は真っ赤な顔で睨みつける野村に、穏やかな表情で語りかける。
「そもそも真っ向勝負で飯田さんが野村小隊長に勝つか負けるか…なんて、試合を設定するほうが間違ってます。野村小隊長の剣術の腕前は一流、そんな試合自体失礼に当たるとは思いませんか?」
「ま………まあ…そうかもしれんが」
こんな風に煽てられて、気分の悪い奴はいないだろう。
いいだろう、と吐き捨てるように言って、彼は再度面を着ける。
「とんだ茶番だが…ここまで来たんだ、付き合ってやろうではないか」
…今のうち。
飯田に駆け寄って、耳打ちする。
「チャンスだ、飯田!」
「………チャンス???」
「あいつ今、相当動揺してる。狙うなら今だってことだよっ」
「でも…剣護さん………僕」
大丈夫だ!と強く言って背中を叩く。
「お前はこの、紺青一厳しいって言われてる、笹倉道場の特訓に今日まで耐えてきたんだぞ!?一矢報いることくらい、容易いことじゃねえか」
「………そんなこと」
大きく一つ、息を吸い込む。
「飯田………剣術の基本は、何だ?」
はっとした表情をする、飯田。
目に光が戻ってくる。
「心…です」
「そうだ。やれるな、飯田!?」
「はい!!!」
立ち上がった彼に、迷いは無かった。
よし………
今度こそ。
だが…物事はそう簡単には運ばない。
野村の剣術は聞いていた以上のものだった。
綺麗な竹刀さばきで次々に勝利を積み重ねていく。
しかし、飯田も相当なものだった。
軽い足さばきで、大柄な野村を左右から牽制する。
隙を見つけて斬り込もうとする姿勢は、さっきまでの怯えたそれとは全く異なっていた。
持久力が限界に近づいてきた野村は、今までのような余裕のある勝ち方が出来なくなって来ている。よって…打たれた方のダメージも大きくなる。
九本目。
苦しそうな息をしながらも軽快に動き回っていた飯田が、足を滑らせて転んだ。
「あっ!」
すかさず打ち込んだ野村を一夜が制するが。
立ち上がった飯田は右足を引きずっている。どこか痛めてしまったのだろうか。
それでも…
彼は勝ちを諦めない。
動きが多少鈍くなるが、まだまだ動く。
が………
打ち込もうと前に出た飯田を野村の竹刀が捉え、小気味良い音が道場に響き渡る。
これで九本…か。
美咲が立ち上がろうとするので、慌ててその腕を掴む。
「おい…どこ行くんだ?」
「だって………」
これ以上見ていられない、彼女の潤んだ瞳はそう告げていた。
美咲を再び座らせ、肩に手を置く。
「信じろ」
「……………」
「お前が…見込んだ男だろ?」
彼女は目をはっと見開き、滲んだ涙を袖で拭った。
「………うん」
そして、最終局面。
飯田が仕掛ける。
野村は肩で息をしながら、やっとと言った風にそれをかわす。
また、斬り込むが…回避される。
そして、もう一度…
ぐっと踏み込んだ右足が…ぐらっと揺れた。
「飯田!!!」
体勢は立て直すものの、そこは野村の目の前だ。
パシン!という音。
上段から振り下ろされた竹刀は、飯田の面の中心を捉えていた。
「………一本」
乾いた声でそう言い、一夜が手を挙げる。
がくっと膝をつく両者。
道場は、大きなため息に包まれる。
「…駄目…だったか」
藍がつぶやく。
最初から分かりきっていたことだ。
でも………一縷の望みに賭けてきたってのに。
その時だ。
竹刀を自分の目の前に置いた飯田が、面も取らずに姿勢をただし、頭を下げた。
「もう一回…お願いします!」
皆はっと息を呑み、静まり返る道場。
「貴様…気は確かか?」
「私は、負ける訳にはいかないんです!!!」
この通り、と飯田は土下座の格好になって、床に頭をつける。
その様子を、しばし無言で見つめていた野村は…
静かに面を取り、立ち上がった。
「野村小隊長!」
「今日はここまでだ…それは変えられぬ」
「…どうか」
「私はもう動けぬ、と言っておるのだ」
彼は飯田に背を向け、道場を出て行こうとする。
「貴様がまだ動ける…というのなら、次の勝負は貴様の勝ちであろう」
「……………」
「………兄になる男に…恥をかかせるものではないぞ」
呆然としている飯田に、野村は初めて、優しい顔で笑いかけた。
「…見事であった」
「やったあああ!!!」
道場の端っこで黙って試合を見ていた杏が堪り兼ねて、両手を挙げて飛び上がる。
それと同時に、観客から大きな拍手が沸き起こった。
「飯田さん!よかったですね!!!」
右京が笑って飯田の肩を叩く。
面を取った彼は、釈然としないといった表情でつぶやく。
「本当に…良かったんでしょうか?」
良かったの!と一夜も笑う。
「だいたいさぁ、もう何十年も毎日のように竹刀握ってる奴が相手だぜ?十日やそこら必死で稽古したくらいで、勝てるなんて思うほうがどうかしてるよ!」
「………一夜さん」
「ま、とどのつまり、合格点ってことさ!…よかったね」
その言葉に、飯田は初めて、ほっとしたように笑った。
「………はい」
ふと見ると、美咲は目に涙を溜めて俺をじっと見つめていた。
心臓が高鳴る。
剣護くん…彼女は小さく俺の名を呼ぶ。
昔の記憶が蘇ってきて………
思わず美咲から視線を逸らす。
「ありがとう…本当に…感謝してもしきれないくらい」
「………ああ…まあな」
「………あのね」
あなたに出会えたこと、本当に良かったと思ってるのよ…彼女は小さくそうささやいた。
胸にこみ上げてくるものをぐっと堪え…立ち上がる。
「あのさ…」
「…何?」
一つ小さく、深呼吸。
「結婚式には…呼ぶなよ」
「………え?」
「だから…俺も色々忙しいんだよ」
その時、傍にいた藍があっ!と叫んで俺の肩を掴む。
「片桐隊長!お時間が…」
「は?」
「だから、会議の時間ですってば!早く行かなきゃ遅刻しちゃいます」
ぐいっと俺の腕を引っ張って、道場の外へ走っていく。
「美咲さん、飯田さん、ごめんなさい!またゆっくりお祝いしましょ!」
「…はい!」
「ありがとうございました!」
外に出ると、空は藍色に染まり始めていた。
「藍…」
呼ぶと、照れくさそうに髪をかき上げる。
「…いいわよ、言わなくて」
会議の予定なんて、本当は入ってないのだ。
…つくづく空気の読める奴。
「これからだね…あの二人」
「…そうだな」
「うまく…いくよね?」
当たり前だよ、と俺は笑って答えた。
「美咲のことだ…絶対良い夫婦になるさ」
「碧…ちょっといいか?」
蒼に呼ばれて隊舎を出ると、外は暗くなり始めていた。
何だ?と訊いても、曖昧な返事しかしてくれない。
こんなはっきりしない蒼も…珍しい。
仕方がないので黙ってついて行くと、庭の大きな木の下に人影が見えた。
…六合隊の隊士だ。
顔が強張っていて、何やら緊張した面持ち。
蒼は彼に、待たせたな、と声をかける。
そして、晴れ晴れとした表情で振り返り、私を見た。
「彼が…お前に話があるそうだ」
「………話?」
ぽん、と彼の肩を叩き、私の頭をぐいっと撫でる。
「…しっかりな」
そう言ってにっこり笑うと、蒼はその場を離れていった。
愁、と呼ばれて振り返る。
「…孝志郎はん?」
最近では珍しく、一人だった。
「何してはるん?こんな所で…」
散歩だ、と言う。一ノ瀬邸は近くなので、城の周囲は良い散歩コースになるのだろう。
「お前は仕事か?」
「ああ…また南に行って来たんで、その報告」
「そうか…大変だな」
孝志郎に労われると、やっぱりちょっと嬉しい。
彼の散歩に付き合おうと、一緒に歩き出したその時。
「浅倉隊長!!!」
城から走ってくる、霧江様と霞様の姿。
…何だろう。
忘れ物でもしただろうか?
怪訝に思いながら彼女達に近づくと、二人はどことなくもじもじして、譲り合うようにお互いを突きあっている。
「あの…何か?」
僕が訊くと、あの、と意を決した表情の霞様が言う。
「お願いがあるのですが…」
孝志郎も一緒だと都合がいい…とまた、奇妙なことを言う。
「…何でしょうか?」
孝志郎が尋ねると、二人はにっこり笑って声を揃えた。
「お二人のこと…お兄様ってお呼びしても、よろしいですか!?」
「…お………」
「…お兄様………?」
だって、と幼い少女のように頬を赤らめ、霧江様が言う。
「お二人は私達のお兄様ですもの!愁兄様、孝志郎兄様って…お呼びしたいなって、お姉様と二人でずっと、話してたんです」
「………で…でも………」
突然のことに頭が真っ白になる。
かあっと全身が熱くなって…
混乱して孝志郎を見ると、彼は優しい笑みを浮かべ、勿論、と答えている。
「私などでよければ…光栄なこと、この上ありません」
そうですか…とほっとした表情で霞様はつぶやき、僕を見た。
「愁兄様は?よろしいですか!?」
「…えっ………と………」
「…いけませんか?」
「…いやっ………その………あの………」
今日は本当に、良いものをみせてもらった。
満足感と若干の緊張を秘め、天后隊の病院に向かう。
あの野村という男…妹の婚約者の真摯な姿勢に打たれたのに違いない。
そう。
真摯な姿勢が見られれば、納得も出来るのだ…多分。
無線で連絡してあった通り、彼は病院の門の所に立っていた。
ども、と頭を下げる宇治原伍長。
気持ちを落ち着かせようと、深呼吸する。
「何です?話って…」
「いや…大したことじゃないんだが…」
「…はぁ」
「………いや…大事なことだ!」
思い切って彼の目を見る。
「お前、咲良のこと、どう思ってるんだ!?」
「……………」
ぽかんとした表情の宇治原。
「だから…思うところを…その…忌憚なく聞かせてほしいって、そう言ってるんだ!」
「………はぁ」
困ったように頭を掻いて、彼はじっと僕の顔を見た。
「…どうだ?」
「………あの」
いつになく、真剣な表情。
年甲斐も無く…ドキドキしてしまう。
しばしの沈黙。
そして、彼は口を開いた。
「…そろそろ良い相手見つけんと、売れ残ってまうんやないかなって…思てますけど」
「………は?」
「けど…あの人、深窓のお嬢みたいな外見と内面がかけ離れてるから、本性バレたらしゃあないのかなぁとか…いやそれでも、物好きの一人や二人はいるやろ?とか…」
強張っていた体から、急激に力が抜けていく。
「けど源隊長って面食いやないですか?…ほんま、いい加減贅沢言わんと現実見たら…て………あれ?」
僕の表情が強張っていることに…彼もようやく気づいたらしい。
「あの…高瀬隊長、どうされましたん?」
「………失礼する」
「え?………ちょっと」
「もういい、今日僕が聞いたことは忘れてくれ!」
「ちょ…待ってくださいよ」
「あーもう!いいからついて来るな!!!」
もうすっかり暗くなった空には、暢気な月がぽっかりと浮かんでいる。