第八十三話「最高の王様」
第八十三話「最高の王様」
交渉が始まった二日後。
今度はグロスハイムの商船が、またもやノイエフレーリヒ沖を通っていった。
あららと、グレーテと二人遠くのそれを見送る。
「もう交渉がまとまったのかなあ」
「でもお嬢様、それにしては早すぎませんか?」
「だよねえ。捕虜だけ先に送れとか……」
どちらにしても、待つしかない。
でもその日、ノイエフレーリヒに伝令は来なかった。
「領主様、昨日のフネが!」
ところが翌日早朝、昨日の船がフレールスハイムへの航路を西に向かっていて、私達を驚かせた。
さらにしばらく、今度は王宮の騎士が駆けてくる。
「男爵閣下!」
「騎士エアハルト!」
「まもなく、陛下が参られます!」
「えっ!? すぐに用意を致します!」
騎士エアハルトは伝令じゃなくて先触れだったけど……って、のんびりしてはいられない。
ヨハンさんとクリスタさんには領主の館の準備を頼み、グレーテには私の代わりに船の修理のお手伝いへと行って貰う。
「クリストフ!」
「なに、姉ちゃん?」
「あんたはヨハンさん達を手伝ってから、うちの門衛やって!」
「うん、分かった!」
応援に便乗してやってきたクリストフは、なし崩し的に我が家の従僕扱いとなっていた。
ノイエフレーリヒじゃ、私の幼なじみというだけで、大抵の無茶は通るのである。
悪用する気はないけど、この忙しい折、ほんと助かってるよ……。
▽▽▽
ほぼ半月ぶりにお会いしたローレンツ様は、かなりお疲れのご様子だった。
ご指示通り、謁見形式ではなく、テーブルを挟んで向かい合う。
朝ごはんは食べていらしたようで、茶杯に添えられているのは炒ったキュルビス――かぼちゃの種だった。
「捕虜の様子を聞き取りたかったこともあるけれど、リディに相談しながら、今後の方策をまとめようかと思ってね」
メルヒオル様はフレールスハイムを離れられないし、暴風のハンスことリンデルマン閣下はフラウエンロープ号で航海の途上にある。
アンスヘルム様は軍のトップで、油断の出来ないこの状況じゃ護衛にも海の警戒にも気を張らなきゃならない上、メルヒオル様不在で動きが鈍った王政府の問題事さえ、その手元に持ち込まれているそうで……。
私とローレンツ様がお話している間は、護衛を私に引き継いだら仮眠してくれと許可が出されているぐらいお忙しかった。
「リディ、先にこれを読んでくれるかい?」
「はい。……失礼致します」
アンスヘルム様が置いていった書類鞄を示された私は、中身を改めた。
表紙の題字を見れば、メルヒオル様の書かれた交渉の報告書だ。昨日の船便で届いたものだろう。
「もう、交渉がまとまったのですね。……って、え!?」
「……うん、そういうわけなんだ」
一枚めくれば、『フレールスハイムの割譲と王国への併合について』と記されていた。
……もう、初っ端から滅茶苦茶だ。
そりゃあ、ローレンツ様もお疲れになるはずである。
先を読み進めれば、この戦役に『南海辺境戦役』と名前が付けられたことや、割譲は来月で、サトウキビ関連の権利譲渡や市民の帰属先選択、元総督の国外追放処分などの項目が並んでいた。
他にも細々と附則があったけど、一見して怪しい内容は見当たらないかな。
とはいうものの、フレールスハイムの割譲に加えて、対等に近い譲歩ってのが、そもそもおかしいんだけどね。
フレールスハイムは人口一万の大都市で、メルヒオル様が占領までしちゃってたけど、そのままレシュフェルトに譲りますってのが納得いかない。
故事にある『トロイの木馬』ぐらいは、私だって知ってる。
勝って油断してる相手のご機嫌を取るフリをして、兵士が中に隠れた木馬を贈って奇襲するって作戦だ。
「……」
「グロスハイムの態度が、気になるかい?」
「えっと、はい」
ローレンツ様曰く、添えられていたメルヒオル様の手紙に、フレールスハイムの割譲を含む平和条約は、奇策ではあっても正しくグロスハイムに利益を導いていると、交渉の様子や私的な分析が書かれてあったそうだ。
「実際、メルヒオルは大国を相手によくやってくれたと思うよ。……少なくとも、大きな戦争に発展することはなくなったと見ていい」
ただ、フレールスハイムをそのまま受け入れるにしても、レシュフェルトには大きすぎるってだけの話で……。
期待していた賠償金はゼロ、加えて準備期間一ヶ月で、人口一万人の都市を食べさせていかなくちゃいけない。
ちなみにフレールスハイム総督府の資金は、戦費に使われてほとんど底をついていた。
いやほんと、どうしよう?
私は御前にて大変な無礼ながら、本気で頭を抱えたくなった。
「まずは、直近の対応だけど……下手をすると夏を迎える前に、王国が破綻する。引継ぎ前から国庫は酷い状況だったからね、今更かな」
「……はい」
この南海辺境戦役は、せっかく生まれつつあった国庫の余裕を奪い去っていた。
どうやって返済しようかと頭を悩ませながら毎日計算していたので、大体は把握している。
最低限とは言いながら、捕虜一人あたりの食費は毎日だいたい八ペニヒ、これが一千人で八千ペニヒになった。
食料品の緊急輸入は思ったよりも高くついてしまったけど、これは仕方がない。
ミレやその他の雑穀も買い入れたけど、小麦の比率が高くならざるを得なかった。
それから、看守や見回りの他、漁、伐採など、国内各所から応援として来て貰っている人々のお給金と食費が一人頭四十ペニヒ計算で、百二十人分を合計すると四千八百ペニヒになる。
たまに、蒸留酒じゃない方のミレ酒を差し入れたりもしているけれど、もうちょっとフォローしておきたいぐらい、皆さん頑張ってくれていた。
ノイエフレーリヒの領民は、申し訳ないけれど戦役からこちら、ずっと総動員の上ただ働きである。
『この状況じゃ、文句は言わねえよ。海賊時代を思い出して楽しいぐらいだぜ!』
『安心おし。領主様が体を張ってここを守ってくれたのは、みんな知ってるさね』
非公式ながら、イゾルデさんとファルコさんには『本年度の人頭税徴収済み』と、お詫びの一筆を入れておいた。
もちろん食費の八ペニヒはこの状況下、領主家が負担しているので、二百人なら千六百ペニヒとなる。
つまり捕虜収容所が存在するだけで、毎日一万五千ペニヒほどが垂れ流されていくのだ。
加えてリンテレンからの職人招聘に船舶材の調達費用を含む船の修理費が最初の一隻だけで千グルデン、無人王領にある雑木林への入会料、足りない食料を運んでくる船賃など、これらが日々積み重なって昨日までの合算で五百グルデン少々。
諸々あわせ、フロイデンシュタット家は、約二千グルデンの出費を王政府に願い出ている形になっていた。
特に船の修理費はとても痛いけれど、軍艦の修理には上等の木材を使うし、当然それは価格に跳ね返ってくる。
後で売るか、貸し出すか、自前で使うかはともかく、戦利品の中でも稼ぎ頭なので、文句は口にしないでおく。
もちろん当初の約束通り全額を王政府に負担して貰っているけれど、王政府の出費はそれ以外にもあって、フレールスハイムでの交渉や情報収集、王都と連絡するのに必要な船の運行費用が大きく嵩んでいた。
ヨハンさんの提案で、私が回収した戦利品の中から貢納金の先納という名目で、現金二千グルデンを王政府にお預けしたけれど、賠償金ゼロが確定した現在、予定は大きく狂うだろう。
「フレールスハイムからの税収は、正直なところ期待できない。捕虜も半数は現地の徴募で、そのまま水兵や衛兵として雇うか別の仕事を回さないと、暴動すら起きかねないな」
「お金、ないですよね。……あの、ローレンツ様!」
「どうしたんだい?」
ここはローレンツ様の為にも、一肌脱ぐべきだった。
……っていうか、当たり前だけど、王国が破綻するとフロイデンシュタット家も一緒に潰れる。
「フロイデンシュタット家の戦利品を王政府にお預けしますから、売れるものは売ってしまいましょう! 軍艦は結構な金額になるでしょうし、とにかく当座を乗り切らないと……」
「……それで、いいのかい?」
「えっと……幾らかの現金と、巡航艦が一隻。それだけ残してもらえれば、大丈夫です。もしも王政府の助けがなかったら、とうの昔に破綻してましたから」
躊躇いがちなローレンツ様に、本当に大丈夫ですよと頷く。
戦いはなんとかなったにしても、その後の援助がなければ、捕虜一千人を抱えたノイエフレーリヒがどうなっていたかなんて、考えるまでもなかった。
そもそも先に助けて貰っておいて、ローレンツ様が困っているのを放っておくとかあり得ない。
もちろん、これだけの騒ぎを起こして王国中を巻き込んでおきながら、軍艦一隻がぽろんと手元に転がり込んでくるなら、大儲けと断言してもいいぐらいだ。
大きく息を吐いたローレンツ様が、お顔を引き締められた。
「……リディ」
「はい、ローレンツ様?」
会話が、止まる。
何か口にしようと考え込んでいらっしゃるようだけど、その表情は、即位戴冠式での自信に満ち溢れたものとはかけ離れていた。
いつか、シュテルンベルクの月光宮で『死にたくなかった』と口にされた時の、心の内にある闇が漏れ出たような雰囲気で……。
「……こんな情けない王様で、ごめんね」
「あの、別に情けなくはないと思いますけど……」
いや、ほんとに。
全然情けなくないし、むしろ一生ついていきたいぐらいだ。
私の恋心を抜きにしても、素晴らしい王様だと本気で思う。
だから。
ローレンツ様が今欲しい言葉じゃないかもしれないけれど、私は今の私が思っている言葉を、そのまま伝えたくなった。
「ローレンツ様は、本当に立派な王様ですよ。今だって、そうじゃないですか」
「……リディ?」
「自分の王国の心配より先に、私の事を心配して下さってる王様なんて、最高に決まってます。だから……私は、ローレンツ様の為に頑張れるんですよ」
ローレンツ様は、驚いたように私を見ていたけれど。
しばらくして。
ありがとうと、小さく聞こえてきた。




