挿話その八「勝利なき外交」
挿話その八「勝利なき外交」
月が代わって、芽吹月の三日――フレールスハイム占領宣言より数えて、二十四日目。
「まずは南大陸東部の安寧にご尽力いただきましたことに対し、御礼を申し上げます、伯爵閣下。自分はグロスハイム都市国家同盟外務府東部局所属、外交特使アルフレート・キルヒナーであります」
グロスハイム中央から派遣されてきた壮年の外交官を前に、メルヒオルは内心で舌打ちをした。
この反応の速さは一体何事があったかと首を捻ったが、納得の行く解答にたどり着かないのである。
確かにメルヒオルは、交渉相手を『呼びつけた』――総督府を預かっていた主席内務官へと、グロスハイム本国へ可及的速やかに現状を知らせ、レシュフェルト王国は交渉を希望していると伝えるように命じていた。
しかし、魔術師が同乗する足の速い商船を使ってさえ、北大陸の内海中部にあるグロスハイムの首都ゲルトシュタットまでは約半月、対応の協議に数日と仮定して、復路で更に半月は掛かるだろうと見積もっていたところが、蓋を開けてみればこの日数での特使到着となっていた。
メルヒオルも失念していたが、グロスハイムは巨大な国である。
主席内務官が仕立てさせた連絡用の商船は、『暴風のハンス』にこそ及ばないものの大した船足を発揮し、僅か数日で南大陸東辺境州の州都に駆け込んだ。
グロスハイムの各州都には、本国艦隊が拠点とする軍港があり、伝書鳩を利用した通信網が張り巡らされている。
結果、フレールスハイムの失陥は僅か七日で首都にもたらされ、総督の独断による開戦もその結果の駐留艦隊敗北も、詳細が伝わっている。
伝書鳩による通信網の整備は、民生用としては費用が高くつきすぎる上に、猛禽類による事故や第三者の手に内容が筒抜ける危険性があるものの、その速度による恩恵は計り知れない。
元は商人が作った国、その価値をよく知るのだろう。
正に、メルヒオルはその恩恵に足元をすくわれたわけである。
フレールスハイム占領宣言より二十四日での本交渉開始は、手を付けていた幾つかの交渉補強策を吹き飛ばすに十分であった。
「レシュフェルト王国国家宰相兼外務卿、テーグリヒスベック伯爵メルヒオル・シュテフェンだ。よろしく頼む」
メルヒオルの使える手札は、少ない。
だが……決して、引くわけにはいかなかった。
「伯爵閣下、早速ですが……今回のレシュフェルト王国との停戦交渉について、こちらの希望をお伝えさせて戴いてもよろしいかな?」
「……無論」
人払いと称して特使が付き人を遠ざけ、アリーセが茶杯を置いて退出した直後。
特使はいきなり札を切ってきた。
普通、交渉の初手はのらりくらりと相手を翻弄し、手の内を見せずに交渉を有利に動かす為の材料を集めるものだ。
特に、外交交渉においては、それが顕著に表れる。
しかしながら、少なくともこの特使、口調や態度から察するに、血筋や派閥を根拠として任じられた馬鹿ではなさそうで――本国の内情や特使個人の情報をメルヒオルに全く与えなかった部分から、その点は推察された。
だが、相手が札を切るというのなら、あわせるしかない。
いずれにせよその内容について、メルヒオルは可否の返答を行わねばならなかった。
「我が国は、今回発生したレシュフェルト王国との戦役について……不幸な行き違いは生じたものの、和平の道は必ずあると信じております」
「……ふむ」
なるほど、いかにも大国らしい『初手』であると、メルヒオルは頷いてみせた。
だが特使の表情と口調からは、その大国らしさ……余裕が感じられない。
いや、その表情と口調という『情報』をわざとこちらに与えているのか?
……またもや生じた違和感に、メルヒオルは訝しんだ。
「無論、不幸にして発生してしまった戦役については、切り分けて考えるべきであります。不幸にして捕虜となった水兵たち、不幸にして貴国へとかけた迷惑、不幸にして占領されてしまった当地……ふむ、全く以って不幸続きですな」
「……」
「一応、今般の戦役を鑑みて、このようなものを用意して参りましたが、ご覧になられますか?」
「……見せていただこう」
メルヒオルは、特使が鍵付きの公用鞄から恭しく取り出した書類束に軽く目を通し、表情を硬くした。
レシュフェルトにとっては想定外の悪条件を、グロスハイムは突きつけてきたのだ。
書類束に書かれていたのは、今回の戦役に対する賠償金の試算である。
水兵陸兵らの身請け金が九百六十人に対し、五十万グロート。
士官捕虜四十五人は、個別に記入されたそれらを合算して、八十万グロート。
戦地となったノイエフレーリヒへの見舞金に、十万グロート。
……レシュフェルト王国の勇戦に敬意を表した『南大陸東部に於ける平和維持の為の協力金』が、百万グロート。
馴染みのあるグルデン金貨に換算して、合計二十万枚近い大金――実に旧新領土管区時代の年収二十年分が示されていた。
この『南大陸東部に於ける平和維持の為の協力金』は、本来なら不必要なものであるはず、宣戦布告なき奇襲をレシュフェルトが喧伝しなかったことへの礼金であろう。
しかし同時に、メルヒオルは……グロスハイム側が賠償金を支払う気がまったくないことも、読み取った。
何故ならば、全ての評価金額があまりにも高すぎたからだ。
特に士官捕虜の身請け金は、メルヒオルの知る相場の数倍となっていた。
……だが、特使の態度より生じている違和感の正体は、まだ分からなかった。
「しかしながら、閣下」
メルヒオルの視線を追っていたのか、思案に沈む前に特使から声が掛かった。
「いかな我が国でも、この金額はおいそれと用意できるものではありませぬ」
「……」
「そこで……このような平和条約の『草案』を、中央評議会より持たされております」
特使が新たな書類を取り出したところで、メルヒオルは交渉の失敗を自覚した。
相手は大国、レシュフェルト側が条件を飲む『予定』で動いている!
草案の内容に軽く目を通したが、その表向きは、レシュフェルト王国有利としか見えないものだったから、なおのこと始末が悪い。
だが、メルヒオルには、この草案を拒否することが出来なかった。
交渉の決裂とは即ち、『小国に対して礼節を以って交渉にあたり大幅に譲歩した』大国との全面戦争である。それこそ大国グロスハイムにとっては、片手間で済む地方紛争でしかなかろうことは、想像に難くない。
いかな『レシュフェルトの悪魔』フロイデンシュタット男爵でもこの規模の戦いは手に余るだろうし、ローレンツ王も戦争の継続や拡大は望んでいなかった。
世論も次は、グロスハイムに味方するだろう。
第一、宰相たるメルヒオルは、王国の置かれた状況を誰よりも熟知していた。
しかしこの譲歩は、敗戦および総督の独断による宣戦布告なき奇襲を考慮しても、度が過ぎる。
グロスハイムがもっと小さな国ならば、理解できた。
敗戦の対価を示さねば、国際社会から爪弾きにされかねない。
だが……グロスハイムは三大国家のうちの二つが解体されつつある現在、世界最大の大国への道を歩んでいる。
……いや、その残りの二大国こそが問題なのか?
グロスハイムの視点で、二大国の存在を考慮して俯瞰するならば、この草案の意味は、どう変わる?
メルヒオルは、直感した。
グロスハイムは譲歩すると見せかけて、『時間』を買ったのだ。
交渉が長引けば、辺境の小国にやりこめられた国との評価も、戦役の状況と共に広まるだろう。
しかしその戦役の早期終結と平和交渉の成立、大国らしい対応策を同時に流すならば、グロスハイムが負う傷はメルヒオルの想定より浅くなる。
その効果は、早ければ早いほど高い。
表向きは大幅な譲歩ながらレシュフェルト側に有無を言わさず条件を飲ませ、必要な『時間』をグロスハイムは得る。
軍事力でもって更地にされなかっただけでも感謝せよと、含ませているのか……。
国家間の理不尽なほどの格差については今更口にはするまいが、今回はメルヒオルの提示した交渉に乗ってくれただけでも破格の扱い、礼を言うべきはレシュフェルト側なのかもしれなかった。
メルヒオルはそこまでを思いついたところで、特使を見やった。
特使が『本物』の外交官吏だろうことは、間違いない。
かつてはメルヒオルも三大国家の王政府に奉職し、その空気は知っていた。
……果たしてグロスハイムは、国家の傷を浅くする為だけに、この譲歩を行ったのだろうか?
他の狙いが、この譲歩には隠されていまいか?
交渉がほぼ終了した現在、考えても無駄のようであり、今後の糸口になりそうでもあり……。
万に一つ、次回があるならば、グロスハイム中央の事情ぐらいは仕入れておきたいものだと、メルヒオルは小さくため息をついた。
「いかがでしょうか、伯爵閣下?」
新たに提示された平和条約の草案に、もう一度細部まで目を通したメルヒオルは、ふむと頷いて虚勢を張った。
内心では、これ以上なく気分が沈んでいる。
「……了承した」
大国グロスハイムの草案は、正式な条約案としてそのまま通された。
アリーセによって茶杯が入れ替えられ、特使の付き人が予め用意されていた条約原本を、恭しくメルヒオルと特使に差し出した。
昨日、特使の到着と交渉の開始を知らせるべく、フラウエンロープ号をレシュフェルトに送り出したばかりである。
通例、国家間の和平交渉には数日掛けるものであり、二度手間に近い無駄になってしまったなと、メルヒオルは埒もないことを考えた。
「しかし、伯爵閣下」
「なんですかな?」
双方で内容を確認後に署名を記し、交換して同じ作業が行われる。
驚くべきことに、キルヒナー特使はメルヒオルの前で外交官吏の仮面を外してみせた。
「実際、貴国の対応は見事でした。この仮定は無意味なものかもしれませんが、伯爵閣下が南北シュテルンベルクのどちらかに残っておられれば、我が外務府東部局の苦労は、今の二倍三倍になっていたでしょうな」
将棋に喩えれば感想戦、あるいは、メルヒオルの為人を確認しておきたかったのか。
ここまでの平和交渉が戦役の示談なら、真の『外交』はこの瞬間に始まったのかもしれなかった。
「無意味な仮定……ふむ、我が王政府に貴殿のような本物の外交官吏がいたならば、私は今すぐにでも外務卿職に推薦している」
「……それはそれは」
雑談とも外交ともつかない何かは、一刻に渡って続けられた。
「お疲れ様でした、メルヒオル様」
「……してやられたよ、アリーセ」
和平成立の公布を主席内務官に命じたところまでを見届けて、特使は総督府を笑顔で辞していった。
「今後の混乱を考えると、毒の盛られた果物で両手を塞がれた気分だな。表面上はレシュフェルトの外交的大勝利、その実、内側から王国を喰らおうとでもいうのかな?」
大国から小銭を掠め取ろうとしたら、大きな穴の開いた財布を押し付けられたようなものだと、メルヒオルは肩をすくめた。
グロスハイム都市国家同盟は、和平条約の目玉として『フレールスハイムの割譲』を提示していた。
人口四千の小国に、人口一万人の地方都市を押し付ける意味は……つい先日、捕虜千人を受け入れざるを得なかったノイエフレーリヒの一件を考えるまでもない。
条約は、総督府が管理する公営のサトウキビ畑や製糖工場も譲渡されると同時に、サトウキビ製品の売買に関する権利も認めていた。
一見、大盤振る舞いに見えるが、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
文化的・経済的に飲み込まれる可能性が、非常に高いのだ。
この外交交渉で賠償金を得て、王国の経済事情に一息つかせることこそがメルヒオルの主目的だったが、現金としての賠償は一切なく、メルヒオルが用意したほぼ全ての切り札を無効化している。
現在のフレールスハイムは好況だが、割譲された後、それが維持される可能性は低い。
元総督が力を入れていた経済政策も、そもそも割譲により帰属先が変更されるこの状況では、引き継ぐことが不可能だ。
割譲期日までの周知期間中に、帰属先の選択が出来ると附則が付け加えられていたが、商人のうち、本国に拠点を持つ豪商はフレールスハイムを後にするだろうし、彼らの持つ財産もグロスハイムへと移ると予想された。
軍人や官吏も、本国に戻されるだろう。
おまけ、とまでは言わないが、元総督アドルフ・フォン・ヴァンゲンハイムの扱いは国外追放とされている。
収監と処刑を選ばなかったのは、『レシュフェルトの魔女』の不殺に便乗したあからさまな点数稼ぎだと、メルヒオルは見抜いていた。
だが、悲嘆ばかりして時間を食いつぶすわけにはいかない。
時は止まってくれず、手を打たねばならない問題は山積みだ。
「……アリーセ、すまないが手伝ってくれ」
「はい、畏まりました」
メルヒオルは頭を切り替え、王宮に宛てた報告書の作成に取りかかった。
▽▽▽
メルヒオルは己の眼前に現れた情報のみで交渉を戦い抜き、国の将来を決定付ける重要な場面で敗北を喫したと思っていたが……グロスハイム側の隠された事情は、想像を重ねるしかなかった。
キルヒナー特使が命じられたレシュフェルト王国との交渉に於ける達成目標に、時間最優先との注釈がつけられたのは、無論、不名誉な開戦理由と覆い隠しようのない大敗が最大の理由ではない。
グロスハイム都市国家同盟は、かつての帝国分裂の折、大商人達の主導で作られた国だった。
割譲による地方都市喪失は、常であれば見過ごせるはずのない大事件である。
独立したばかりの小国に攻め込んだことは、まあいいだろう。
想定外の大敗北も、都市の失陥も、なかったわけではない。
だが、何ゆえにそれが、今この時に起きてしまったのか!
バウムガルテンの内戦勃発に端を発した北大陸西部の相場急騰は、北大陸の中部東部、そして南大陸での影響が低い今こそ、グロスハイム史上でも稀なほどの、またとない商機であったのだ。
地域の相場に差ができれば、交易路を適宜再編制することで、莫大な利益を得ることが出来た。
グロスハイムでは、よく知られた商法則である。
この機会を、逃してはならない。
メルヒオルが条約案から読み取った仕掛けも施されていたが、それこそ、『いつでも取り返せる都市』と引き換えてでも、経済的影響を抑制した方が利益が得られると、中央評議会の秘密部署によって試算されていた。
また、キルヒナー特使が口にしたように、レシュフェルト王国の対応も賞賛に近い評価を受けている。
小国なりに最大限の抵抗をして矜持を貫きはしたが、小国の限界もよく理解しており、中央評議会が軍事的強攻策を議論しようと思わない程度には、グロスハイムの機嫌を損ねない配慮も行われていた。
少なくとも、まともな外交担当者がいることは分かったが、そのまま小国の思惑に乗ってやる謂れはない。
フレールスハイム割譲という大胆な策は、小国の勝利を最大限活用しつつ埋伏の毒となるべく、短時間ながら驚くべき作業量を費やした検討の元で用意され、キルヒナー特使に預けられていた。
▽▽▽
芽吹月の三日、交渉が行われたその夕刻。
フレールスハイムには、グロスハイム特使とレシュフェルト王国宰相の連名による新たな布告が出された。
『グロスハイム都市国家同盟とレシュフェルト王国は、本日、平和条約を締結し、両国は関係を新たにした。これに伴い麦刈月一日、グロスハイム都市国家同盟東辺境州都市領フレールスハイムはレシュフェルト王国へと割譲され、レシュフェルト王国王領都市フレールスハイムとなる』
占領の宣言より、ひと月弱。
市民生活は維持されていたが、どこか諦観もあったのだろう。
フレールスハイムに暮らす市民の大半は、それを大人しく受け入れた。




