第七十五話「戦いの気配」
第七十五話「戦いの気配」
御前会議のその日、うちのミレ蒸留酒には、ローレンツ様から『トロップフェン』――雫という銘が下賜されることになった。
『トロップフェンの苦味は、建国の苦味なり。子々孫々是を味わいて、贅を慎み民を思いやるべし』
美味しいから王室御用達にしたんじゃないよと真っ正面から言われてるわけだけど、当然ながら、私や作り手、フロイデンシュタットの領民が納得できるだけの意味と重みが、きちんと与えられていた。
但し、大酒飲みじゃない私には、本当に美味しくないレベルで苦味が強すぎる。……って、それはまあ、横に置いておこう。
もちろん、国王陛下より頂戴したありがたいお名前である。
会議の翌日、領内へ戻ってすぐに、経緯を記した高札を村の中心である『南の風』亭前に立て、居合わせた皆さんに説明した。
「なんと、王室御用達に!?」
「ほほう、トロップフェンですかあ!」
「ああ、国王陛下もお認めになるほどの苦味ってか?」
「頑張った甲斐がありますよ!」
「ふふ、これからもよろしくお願いしますね」
「はいもちろん! 祝いの乾杯をトロップフェンで出来ないのが残念ですがね!」
だからって中身まで上等になるわけじゃないけれど、ファルコさんらの喜びようは尋常じゃない。
当面は配給制に近い各領への割り当てだ。
でも……もしかすると、王室御用達の看板はその後に効き目が出てくる可能性もあった。
効用は未知数ながら、『なんとなくありがたい』という感覚は、大事にしておいた方がいいかもね。
トロップフェンそのものに関しては、下手な改良も不要かな、と思わないでもなかった。
王家の開祖が子孫の増長を誡める為のお酒なら、苦くて当然、美味しくちゃお話にならない。
それはそれとして、みんなが……っていうか、私が飲みたいと思うぐらい美味しく改良できたなら、別の銘柄をもう一つ用意してもいいかもね。
「男爵閣下、準備が整いました!」
「よろしくお願いします、騎士ユスティン」
「はっ、ありがとうございます! 出発!」
もちろん私の戻りに合わせ、騎士様の護衛がついた荷馬車がついてきて、在庫のトロップフェンは全部引き取られて行った。
初回分とあって、各領地の代表が王都に集められ、公平に分配されるのを確認させるそうだ。
私はトロップフェン増産の準備に取り掛かるって理由で、立会いを辞退していた。
▽▽▽
朝の内は、作業場でマルセルさんとお酒の元になるミレそのものの増産について話し合いつつ、そろそろ本腰を入れてザムエルさん達を呼ぶ準備しなきゃ、なんて考えていたんだけど……。
「あー、ボトルラベルですか。……言われるまで、考えもしませんでした」
痩せても枯れても銘入りの、しかも王室御用達のお酒というからには、当然、銘を記したラベルが必要になるらしい。
昼食中、ヨハンとクリスタさんに指摘され、初めて気が付く始末だった。
「ただの瓶詰めでは、他領が今後仕込むミレ蒸留酒と区別がつきませんわ」
「憚りながら、銘を下賜してくださった国王陛下に対し、礼を失するかと思われます」
「そうですよねえ……」
いつもの雑穀パンと、昨日の残り物の魚介スープをつつきながら、相談は続く。
今日は長めのお昼休憩になりそうだった。
グレーテにお茶の追加を頼み、みんなで頭を寄せる。
「紙はもちろん、版木にインク、糊……」
「小樽での販売ならば、焼印も用意せねばなりますまい」
「そもそも、ワイン瓶もそれなりの数が必要ですよね?」
瓶だけなら、他のワインやお酒の瓶を多少高価でも引き取って、集められなくはない。高価には違いないけど、お酒の輸入が全くのゼロってことはない。
……中古なのがしまらないけれど、他に方法がないもんね。
「しばらくは引き取りに来る相手の持ち込みですが、その間に最低限の用意は必要かと存じます」
「小樽ならリンテレンでも作られているそうですが、流石に瓶職人は国中何処を探してもおらんでしょうな」
その後、瓶にラベルを貼るのは、この田舎じゃ一苦労で済むのかどうか。
版木そのものはリンテレンの木工職人さんに頼むとしても、デザインやその下絵も必要になる。
どうしようもないなら、上手い下手はともかく、いっそ私が作るしかない。
前世では、小学校の美術の授業で版画を作った覚えがある。
但し、版木の材料になる木材はともかく、彫刻刀すらノイエフレーリヒにはなかった。たぶん領内じゃ、辛うじて木工職人のいるリンテレンにならある……というか、彫刻刀なんてそもそも木工職人自身による手作りか、鍛冶屋に特注するような品物なのである。
中近世ヨーロッパ風のこの世界じゃ、現代日本なら小学生に教える版画の作り方でさえ、職人が持つ専門技術になった。
アリーセの王立学院も本格稼動はいつになるやらで、建国に王政府の事務仕事にと、彼女はほんとにそれどころじゃない。
って、ザムエルさん達の引越し準備さえ、まだ建材を用意するところまでいってなかったよ。
優先順位を間違えないようにしないとね。
「リヒャルディーネ様、ラベルに関連する品々は、可能ならば早急に用意するべきかと存じます」
「最低限必要となるのは、ラベルの版木と付随する諸々、焼印が樽用の大きいものとコルク栓用の小さいもの、それぞれ一つづつとなりますな」
「また、少々先の話になりますが、年末には献上品として、国王陛下にお納めされた方がおよろしいでしょう」
「その際にはまた、詳細を申し上げます」
流石は元王女殿下クリスタさんとその執事ヨハンさん、御用達の裏側にも詳しかった。
初回は小分けする為のワイン瓶も樽も各領地の持ち寄りだし、急な話とあってラベルがどうのという話は、御前会議後の雑談でも出なかった。
実際のところ、『入れ物なんてどうでもいいから、早く出荷してくれ!!』と騒ぎになったようなものだけど、王家の『待った!』のお陰で、第二回の出荷までは一ヶ月ぐらいの余裕が見込まれている。
この期間になんとかしてしまいたいところだけど……。
「しかしお館様、国王陛下さえも自ら動かれたこの状況では、受注した蒸留器を先にご用意なさるべきかと存じます」
「ですわね。ザムエル達には申し訳ないですが、まずはこの事態を収拾すべきかと」
「蒸留酒の製造元が増えますならば――む!?」
どんどんどん!!
港の方から、何かを打ち鳴らす大きな音が響いてきた。
「何事でしょうか?」
「えっと……」
『領主様!!』
続いて、外から大きな声がして、大勢が走り回る気配がある。
「どうしたんですか、ヘロルドさん!?」
「軍艦です! グロスハイムの!!」
表に出れば、ヘロルドさんはそれだけを叫んで、玄関先にへたり込んだ。
「軍艦!? なんでまた……?」
「お館様!」
「ヨハンさん?」
「その落ち着きぶりは大変結構でございますが、ヘロルドの慌てよう……これは一大事でございますぞ」
「へ!?」
落ち着いてるわけでもないんだけど、ほんと、何がなにやら……。
「王都にして王国の玄関口たるレシュフェルトであればともかく、そも理由なく他国の軍艦が、このフロイデンシュタットに来る筈がございません。戦にせよ事故にせよ、何がしかの問題が起きておりましょう」
「お嬢様、お急ぎを!」
「は、はい!」
真剣な目つきのクリスタさんに追い立てられるようにして、私は浜へ走った。
▽▽▽
「留め綱なんざほっとけ!」
「いっせいの、せっ!」
「構わねえ、とにかく急げ!」
「おう!」
綱を巻き取っている人、船を陸揚げする人、波打ち際に杭を打っている人もいる。
港では、大勢が走り回っていた。
その向こう、まだ少し距離があるけれど、私達をここに運んできたプリンツェス・ルイーゼ号よりも大きな船が四隻、こちらに近づいてくる。
本当に、一体何が起きてるんだろう……。
「おやっさん、こっちはもう終わります!」
「女衆は?」
「イゾルデ婆ちゃんに頼んでまさあ!」
「よし、手のあいた奴から、ババアを手伝いに行け! ……っと、領主様!」
「ファルコさん!」
漁師衆に指図していたファルコさんが、こちらに気付いてくれた。
「運が良かったぜ! 今日に限ってバルドゥルが大物狙いで西の沖に出てやがってな、気付くのが早かった!」
「あの船、なんなんです? それに、この騒ぎは……」
「グロスハイムの軍艦だ。ありゃあ、完全に仕掛ける気でいやがるぞ」
ファルコさんは、戦争だぜとつぶやき、じろりと私を睨んだ。
仕掛けるって……え、戦争!?
多少は国同士の仲が悪いかもしれないけど、フラウエンロープ号は幾度も貿易に往復しているし、北大陸とは違って戦争の気配は薄いと、王政府の意見も一致していた。
呆然とする私をちらりと見て、ヨハンさんが進み出た。
「ファルコ殿、状況を」
「女衆はババアに任せた。大波ん時と同じに炭焼き小屋の方へ逃げる手はずだ。男衆は港周りで時間稼ぎ……になりゃ御の字ってところだな」
「レシュフェルトへの報せは?」
「まだだ。領主様の馬を借りるのが一番早い」
「心得ました。……お館様、ヒンメル号をお借りしてよろしゅうございますかな?」
「は、はい! えっと、クリスタ……いえ、グレーテが行って!」
「すぐに!」
クリスタさんを送り出そうか迷ったけれど、逃げるにしても、ヨハンさんと一緒のほうがいいよね。
それはともかく、ファルコさん達は完全にその流れで動き回っているし、ヨハンさんとクリスタさんも緊張を解いていない。
このままじゃ、向こうにその気がなくても、本当に戦争が……。
「あの……でも、なんで戦争になるって、決め付けてるんです? もしかしたら、別の用事で来ただけかもしれないし……」
「おいおい、俺は元海賊だぞ。見張り台の人数に帆の動かし具合、後檣楼の人の動き……軍艦の戦支度ぐらい、この倍の距離でも分からあ」
何とも説得力のある言葉に、私は大きくため息をついた。




