第六十二話「宰相閣下の自主研鑽」
第六十二話「宰相閣下の自主研鑽」
領主就任三日目も、私は普通に宿舎の寝床から起きだして、食堂に向かった。
上級貴族の仲間入りをしたからって、急に暮らしぶりが変わるわけでもない。……収入にほぼ変化がないというか、減っちゃったぐらいだからね。
「おはよう、アリーセ」
「ふふ、おはようございます、フロイデンシュタット女男爵閣下」
「……これはこれはご丁寧に、ヴォルフェンビュッテル伯爵令嬢」
ミレ混じりのパンとエメラルド色の焼き魚の乗ったトレイを手に、アリーセの向かいに座る。
ノイエフレーリヒへの引っ越しは、まだ数日先だ。
メルヒオル様が自主研鑽中、代官所改め領主の館の寝室を使うことになってるし、荷物もまだまとめていなかった。
「メルヒオル様のこと、よろしくね」
「うん。でも、ノイエフレーリヒで領民生活をよく知ることと、お婆ちゃん孝行するだけのはずだから、難しいことは……あ、船には無理矢理乗せないように、頼んでおくね」
「ええ、お願い」
メルヒオル様は南大陸への航海でも船に慣れることはなく、半死半生の状態で上陸されていた。
あれを追体験させるのは、流石に酷だろう。
王政府の大部屋に向かうアリーセと別れ、宿舎の前でメルヒオル様と落ち合う。
「おはようございます、メルヒオル様」
「おはよう、リヒャルディーネ嬢。……お手柔らかに頼む」
今日のメルヒオル様は、お腰に剣と杖こそあるものの、官服でも乗馬服でもなく、野良着を着ておられた。
美しいきりっとした表情がいつも通りなだけに、ギャップが激しい。
顔だけ、浮いて見えた。
いつも通り、半刻ほどで村に到着して、代官所改め、領主の館の馬房に『私の』ヒンメル号と、メルヒオル様に貸し出されたヴォール号繋ぐ。
ヒンメル号なら私も慣れてるし、まだ三歳と若いのに、割と落ち着きがある。……のんびり屋ともいうけれど。
支給される馬を選ぶ時、主人の決まっていない子ならどれでもいいと言われたけれど、ヒンメル号は軍馬じゃなくて伝令馬、つまりはただの乗用馬なので、私も騎士様達に遠慮することなく選ばせて貰っていた。
「では、行きましょうか」
「……うむ」
何やら覚悟を決めたような表情のメルヒオル様と連れだって、イゾルデさんのお宅に向かえば、ファルコさんが待っていた。
これはいきなり……漁船に乗る流れだ。
「村のことを教えるったって、ここで数字だけ見ててもしょうがないさね」
「今日のところは、俺の船に乗りな。ババアの頼みだ、しっかり面倒見てやる」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「どうした、代官殿?」
慌ててメルヒオル様が船に弱い事を説明すると、お二人が顔を見合わせた。
「……どうするかねえ」
「いえ、大叔母上。私は船に乗ります」
「メルヒオル様!?」
「リヒャルディーネ嬢、心配はありがたいが、何事も試してみなくては始まらない。それこそが与えられた『研鑽』の意味だと思う」
「……よし、取り敢えず乗ってみてよう、駄目なら船とは縁がなかったってことで、しょうがねえ。作業場にでも行って貰うさ」
「メルヒオル、それでいいかい?」
「はい、無論。海に面したこの国で、船嫌いなどとは言えません」
「いい覚悟だ。二本マストの中型艦と、三角帆一枚の小船じゃ、揺れ方も違うからな。どっちかが駄目でも、片方はいける奴も多い」
「よろしく頼む、ファルコ殿。……では大叔母上、行って参ります」
メルヒオル様は、そのままファルコさんと話し込みながら、港に向かっていった。
「大丈夫かねえ……」
「ファルコさんもあの口振りなら、無茶しないでしょうし……」
だといいけどねえと、イゾルデさんは大仰に肩をすくめた。
朝の内は、ベッドの藁の詰め替えで潰れてしまった。
後回しにしていたけど、メルヒオル様の寝床になるだけでなく、その後は私も使うからね。
専属とまでは言わなくても、そのうち、通いのお手伝いさんでも雇いたいところだ。
でも、経済的にそんな余裕があるのかどうか……。
「さて……」
ヒンメル号とヴォール号の飼い葉と水をつぎ足して、『南の風』亭に向かう。
ファルコさんとメルヒオル様はもう戻っていて、いつものお昼を前に、ミレ酒のジョッキを置いていた。
「こんにちはー! メルヒオル様、あの……」
「うむ、何とかなった! 小船は気持ちいいぞ、リヒャルディーネ嬢!」
「船酔いは大丈夫だったんですか?」
「ああ。目が回ることも、気分が悪くなることもなかった」
あら?
お酒が入って出来上がってるってわけじゃないけど、メルヒオル様がかなりの上機嫌でいらっしゃる。
それにお言葉通り、船酔いも一切なさそうで……。
「よう、領主様! メルヒオルはすげえんだぞ!」
「ファルコさん?」
「魔法は苦手だなんて言いながら、網の端っこを魔法の手で握って、するするっと上手い具合に広げやがるんだ。午前中だけでいつもの三倍は獲れた!」
メルヒオル様は、ファルコさんが笑顔になるほど上手くやったらしい。
「最初はまあ、いつも通りにやってたんだが、メルヒオルに投網を渡したらよ、あっと言う間に大漁だ。……しっかし、魔法で漁をするなんて、考えもしなかった。まあ、普通はもっと稼げる仕事をするんだろうが、大物狙いか、漁期によっちゃあ、魔法使いを雇うのも悪くねえと思ったぜ」
「ファルコ殿、魔法は本当に苦手なのだ。私は魔力も大したことがない上、細かな制御は昔から不得手でな……。それに、魔法での漁は、リヒャルディーネ嬢の道路工事――発想の転換という部分を参考にしたまで。自分の思いつきですらないぞ」
ファルコさんにも気に入られたようだし、とにかく、研鑽の初日から問題が起きなくてよかったよ。
お堅い性格と自ら仰るぐらいだし、実はかなり、心配してた。
メルヒオル様は午後も漁に出て、午前中以上に活躍すると、他の漁師の皆さんにも、その存在が認められていた。
意外にも……というと失礼だけど、完璧にデスクワークの人だと思ってたよ。
アンスヘルム様ほどではないにしろ、身体はしっかり鍛えていらっしゃるようで、夕方、私が帰る時にも、疲れて動けないなんてご様子はなかった。
「流石はババアの一族だ、根性が座ってやがる」
「騎士様、しばらく居るんだろ? 明日は俺っちの船に乗ってくれよ!」
……実は、メルヒオル様が宰相閣下だということは、イゾルデさんとファルコさん以外、知らない。
ここのところ、船の出入りは多かったし、王様にくっついてやって来た騎士の一人だと思われている。
イゾルデさんの入れ知恵もあって、皆さんには、イゾルデさんの親戚で最近北大陸から来たってことだけしか、伝えていなかった。
『あんたを代官に指名してここに送り出した張本人だって言えば、そりゃあみんな、最初から気分良く迎え入れるだろうさ。……でもそれじゃあ、陛下が仰った研鑽にならないだろ?』
自主研鑽ってところは隠していないけど、私の領主就任に伴って、現地をより深く知る必要が出てきた、ってことにしてある。
まあ、うん。
結果オーライである。
▽▽▽
メルヒオル様の研鑽は、もちろん漁だけではなかった。
二日目は農地での草取りと牧場の山羊の世話、三日目の今日は、デニスさんのパン屋さんで早朝からパン生地を捏ね続けた。
そりゃあ、分からないことも戸惑うことも多かったと思うけど、その真摯な仕事ぶりに、流石は新しい王様の『騎士様』だと皆さんからの評判も上々で、私もイゾルデさんも、胸をなで下ろしている。
「如何でしたか、研鑽は?」
「私自身、得る物は多かったな。……ローレンツ様の為にも、この国を豊かにしたいという気持ちは一切変わらぬが、もう一つ、理由が出来たように思う」
パン屋さんはお昼に仕事が一段落するし、今日はもう、メルヒオル様がレシュフェルトに戻る日だ。
私も少し早めに『南の風』亭に顔を出し、メルヒオル様から見たノイエフレーリヒの様子をお伺いしようと思ってたんだけど……。
「しかし、蒸留器には本気で驚かされた。献上品にすることは聞いたが、売りに出す時、私にも一瓶売ってくれないか? ああ、もちろん、口外しないことを約束する」
「はい、喜んで!」
「ありがたい! 研鑽に送り出して下さったローレンツ様には、深く感謝せねば……む?」
「馬の足音、ですよね?」
この村で馬と言えば、私の通勤馬のみというのが基本だし、ヒンメル号もヴォール号も、今は馬房にいる。
「ちょっと見て来ます」
「私も行こう」
「マグダレーナさん! すぐに戻りますので、まだ片付けないで下さい!」
「はい、どうぞ!」
表に出て、馬の足音が聞こえた方を見れば。
「クリストフ、グレーテ!?」
「リディ姉ちゃん!!」
「お嬢様!!」
離れていた半年の分だけ、少し大人びた幼なじみ達が、馬の上にいた。




