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第六話「資料室の主人」


 一度廊下に出たメイドさんは私に向き直り、丁寧に膝を折って挨拶してくれた。


 二十歳過ぎぐらいかな、眼鏡を掛けた柔らかい雰囲気の人だ。左腕に目立つ赤い腕章があって、腰には短い魔法杖が下がっている。


「初めましてリヒャルディーネ様、私は執務室付きの書簡係、ギルベルタです」

「こちらこそ初めまして、ランドルフ・バルド・フォン・オルフが三女、リヒャルディーネ・ケートヒェン・フォン・オルフです、ギルベルタ様」

「ご丁寧にありがとうございます、リヒャルディーネ様。ですが、私には敬称は不要です」

「では、ギルベルタさん、と」


 私は一応、貴族の娘として扱われるらしい。

 ギルベルタさんは初手の挨拶で家名を名乗らなかったから、恐らく平民だ。


 これが実は、意外とやりにくい。


 明らかに目上だなとこちらが思ってしまっても、立場は私の方が上で目下扱いすることが『正しい』場合があった。


 私の気持ちよりも、公の場でそれを見た誰かがどう思うか、これが大事で、私が世間の儀礼や約束事を守らない人間と思われるだけでなく、相手にも迷惑を掛けてしまう。


 プライベートだとゆるゆるでいいんだけどね。

 切り替えが大事なのよ、ほんとに。


「まずは配属先へとご案内する前に、お着替えを。こちらに仕事着が用意してあります」

「はい」


 今度は建物右手の小部屋に連れていかれ、着替えを……ってメイド服だこれ!?

 あ、でもギルベルタさんもメイド服だし、これがここの制服なのかな。別添えの腕章は緑色だね。


 幾つか用意されていた中から、サイズの合いそうな物を手に取る。


「女官であれば別の制服が用意されますが、そちらは官職に着いていることをあらわす王国の正式な官服ですから、官職を持たない者が身につけることが出来ません」


 アールベルクの庁舎では、官職を持たない下働きの全員が、侍女や侍従の衣装を制服にしていて、区別には腕章を用いているという。つまり、ブレザーっぽい外掛けにひらひらネクタイの人は偉いさん、ということになる。


 また、官職にも二種類あって、王国から直接任命されている代官や政務官のような中央官職と、代官が現地で任命した地方官職でも扱いが違うらしい。


 私はもちろん、縁故人事でねじ込まれた下働きだ。


 これだけならまだ分かり易いんだけど、貴族とその爵位が横やりを入れてくるわけで、我が事ながら恨めしい。




 さて、ここで問題です。


 官位を持たない下働きながら貴族である地方領主の娘と、中央から派遣されてきた平民の政務官は、果たしてどちらが偉いのでしょうか?




 ちなみに正解は、ない。


 それぞれの立ち位置や状況で変わる。

 このあたりも、きっちり理解して考えておかなきゃ、後で困りそうだ。


 ……まあね、私の場合は角を立てずに大人しく仕事していれば大概は大丈夫の筈だけど、型にはめて対処するのは無理だった。


 手伝って貰いながら着替え終え、作りつけの鏡の前でくるっと回ってみる。割と上等の生地だし、腰はきゅっと締められてるけど着心地は悪くない。メイド服はグレーテで見慣れてたけど、一度着てみたいなあなんて思っていたことは内緒だ。


「着替え、終わりました」

「ではご案内いたします」


 私が脱いだお出かけ着は、気付かないうちにギルベルタさんがきちっと畳んで小さな行李に収めてくれていた。……やっぱり、出来る人だ。子供な私を気遣った、お目付役兼教育係だったりしてね。


「こちらをリヒャルディーネ様の居室に」

「はい、ギルベルタ様」


 廊下で待っていた腕章なしのメイドさんが、私の着替えを持っていってしまった。


 引っ越し先が代官屋敷の敷地にある別棟の小部屋になると聞いていたから、その他の私物は、まだ宿に預けている。そちらは父さんが運んでくれる手はずになっていた。




 もう一度本棟に戻り、今度は男爵閣下の執務室から二つ離れた右手の部屋まで案内された。

 扉は片開きで、主回廊沿いだからか結構な厚みだ。


「こちらがリヒャルディーネ様のご担当となる部署、資料室です」

「はい。……失礼します」


 ギルベルタさんに続いて入った室内には、誰もいなかった。


 部屋の大きさは六畳間四つ分ぐらいで机は小さめのが一つきり、後は全部、本棚だ。

 但し、資料室って名前の割には、一冊も本が見あたらなかった。……あ、倉庫を新築中とか何とか言ってたっけ。


「現在、庁舎は倉庫を新築中で、部屋替えが幾つか行われております。こちらも元は応接室でしたが、そちらは別の広い部屋に移り、手狭だった各部署付属の資料庫を新たに資料室として独立させることになりました」

「では、中身の方は……」

「はい、まだ移動が終わっておりません。そちらもご案内いたします」


 ギルベルタさんから鍵束を貰って一度資料室に別れを告げ、今度は庁舎入り口に近い、大部屋へと案内される。


 こちらは机もいっぱいなら人もいっぱいで、いかにも庁舎らしい風情だった。


 その奥にある別室、一番偉い人のところに連れられていき、男爵閣下にしたのと同じような挨拶をする。


「アールベルク管区の政務官、ヘルムート・フォン・ゾマーフェルトだ」

「よろしくお願いいたします、政務官様」


 この方は、中央から派遣されてきた王国のお役人様だ。


 代官である男爵閣下との違いは、代官がアールベルクの街や王領を含めた地方――管区を治めるのに対して、この人はアールベルク管区内の諸侯領や王領を監督するのがお仕事だった。

 実務は男爵閣下、そのチェックが政務官様、って感じかな。


 なんか恐そうな人だなと思いつつ退出し、さっき渡された鍵の中の一つを使って大部屋隅の資料庫の扉を開ける。


「うわ、これは……」


 古い本の山、としか言いようがない。

 とにかく、扉を開けただけで埃は舞い踊るわ、古書臭は酷いわ、なんだこれと真顔で一度、扉を閉じた私だった。……後でほっかむり用と口元用の二枚、手ぬぐいを用意しよう。


「もう一つ、こちらの部屋にもございます」

「あ、はい」


 その隣の小部屋も紐綴じの冊子や本が積まれていたけれど、こちらは比較的新しい様子で、少しほっとした私だった。


「ところで、ギルベルタさん」

「はい、なんでしょうか?」

「私の上司にあたられるお方は、どなたなんでしょう? まだ紹介していただいていないと思うんですが……」


 男爵閣下でも政務官様でもないようだけど、私の今後にも関わるので、さっきから気になっていた。


 小首を傾げたギルベルタさんは不思議そうにしていたが、すぐに表情を調えた。


「リヒャルディーネ様の上役は……そうですね、しいて言えば代官であるベーレンブルッフ閣下となりますが、職務上の直属上司は存在しません」

「え……?」

「今の資料庫も、専任の担当者が置かれていたわけではありません。税務、政務、司法など、各部署の共同管理となっていました。リヒャルディーネ様の庁舎勤務が決まった時、男爵閣下からお伺いしましたが、これまでは必要に応じてその都度誰かが整理や掃除をしていたそうです」

「なるほど……」

「大きな都市ではそうも行きませんが、ここアールベルクは歴史こそそれなりに古いものの、人口も少なければ管区の人口も小さく、頻繁に使われる近年の資料さえ各部署で調えておけば誰も困らないので、後回しにされていたようですね」


 ですから実質的にはあなたが資料室の主人ですと、ギルベルタさんは締めくくった。


 ……これじゃあ、新築倉庫の建材運びのお手伝いどころじゃないや。

 上司がいないのは気楽なようで、でも、新人で入っていきなり一人で放り出されたのと変わらない。


 いやほんと、何から手を着けようか、迷ってしまうぐらいだよ。




 朝のうちは他の数カ所、例えば司法官や徴税官などの主要な人物へと挨拶を済ませ、事務室で用意されていた支度金を手渡され、昼前になって代官屋敷へと向かった。


 こっちも大概大きいや。うちの村の集落が全部入りそう。

 庁舎より少しだけ小さいかもしれないけど、まあ、大して変わらないレベルだろう。


 まずは男爵夫人へとご挨拶したんだけど、お爺ちゃんの孫ということで大歓迎された。

 ふふ、生菓子とか食べたの、いつ以来だろう……。

 思わず、作法を忘れてぼろを出しそうになったよ。


 その後は控え室らしい一室に移り、炒めたタマネギの乗ったそば粉のガレットにニンジンのスープだけという、軽い昼食を頂戴する。お茶との落差はともかく、これでも温かい汁物が付いてるだけ上等だけどね。


「すみません、ギルベルタさん。朝からずっと付き合わせてしまって」

「いえ、今日の職務はリヒャルディーネ様のおそばに控えることですから、大丈夫です。昼からは街の中、特に商店などをご案内しましょう。アールベルクには殆どお越しになったことがないと伺っていますから、近い将来、必ずお困りになると思いますので……」

「ありがとうございます、助かります!」


 ちょっと距離感のつかみにくいところはあるけれど、ギルベルタさんはいい人っぽい。子供扱いでもなく、かと言ってお客様扱いでもない、上手いラインを示してくれている。


 もちろん私も、生活に必要な物は大体持ち込んでいた。


 でもねえ、お店で買い物なんて久しぶり過ぎて、逆に躊躇う。

 先ほど渡された支度金は、庶民なら一ヶ月は食べていけるような、結構大きな金額だった。

 食事と宿舎は別に用意されてるから、そのまま全部貯金しても、あるいは使い切っても、暮らすだけなら何とでもなりそうなのがとてもありがたい。


 でも、トルベンさんとの取引で慣れていなかったら、数えることはおろか、額の大小さえ分からなかったと思う。




 困ったことに、こちらの貨幣は十進法に喧嘩を売っていた。

 意味があるとは思うけど、面倒くささが先に立つ。


 普段の買い物なら、一番よく見かける『小さい』ペニヒ銅貨十二枚分で『小さい』銀貨のグロッシェン銀貨一枚、これさえ覚えておけばいい。これぐらいならまあ、我慢は出来る。


 でも、『小さい』があるからには『中くらい』や『大きい』銅貨や銀貨もあるわけだ。


 慣例として大型動物の革はクロイツァー銀貨で数えるとか、ワインの樽はヘラー銅貨で取引するとか、結構な割合で自己主張してくる。


 更に、領地の収入の計算や土地の売買のような大きな取引には、金貨の単位グルデンが使われていた。


 滅んだ帝国時代から慣習的に使われているものも多く、特に国をまたぐ商人達、とりわけグロスハイム都市国家同盟は、国内でも旧帝国の貨幣を品位、名前、大きさ、全てをそのまま引き継いで使用している。


 まあつまりは、私が王様だったらすぐに改めさせてやると誓いたくなるぐらいには、面倒くさいってことだった。




 そして。


「……」


 慣例に従って支給されたという支度金は、マルク銀貨という今一つ馴染みのない高額貨幣でこれが十二枚。


 今日、一番最初に案内して貰いたい店は、両替商に決まってしまった。

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