第一話「働き者の三姉妹」
「リディ、アン姉さんが馬車が来たよって! 」
「はーい! こっちは終わってるよ、クララ姉さん!」
私はなめした鹿革を検品していた手を止め、作業台から立ち上がった。
先週届いた注文は、加工済みの鹿革が十二枚。
革製品の管理は三女の私の担当で、同じく注文を受けた燻製肉と、滋養強壮にいいという鹿の袋角――春先に角が生え替わる時しか得られない――の粉末が入った小壷は、長女のアンネリーゼ姉さんの担当だった。
職人さんは別にいて、そのまとめ役兼倉庫番って感じかな、隣の部屋からは、ばしゃばしゃと鹿皮を薬液に浸す音が聞こえてくる。
次女のクラーラマリア姉さんは、工房のお仕事をしない。代わりに、もっとずっと面倒な『領地』の管理をお爺ちゃんから教わっている最中だった。
「ん。……【浮遊】」
すぐに荷出し出来るよう括っておいた鹿革の束に右手の指輪を向け、呪文を一つ。
大商いと言えるほどじゃないけれど、ここのところ相場は安定してるし、そこそこの売り上げは約束されていた。
「リディは相変わらず魔法が上手いね。私は苦手なままなのに……」
「だって、いっぱい練習したもん」
「お爺ちゃんが褒めるって、よっぽどだと思うけどね」
「どうかなあ。でも、計算ならお姉ちゃんの方が速いでしょ? お相子だよ」
「まあね。……リディに負けないように、いっぱい練習したもの」
「ふふっ、一緒だ」
そりゃあ、魔法があって私にも使えるよって言われたら、一生懸命になっても仕方ないと思う。
……生まれ変わってリヒャルディーネ・ケートヒェン・フォン・オルフ――リディになる前の私は、魔法なんてない世界、地球の日本で暮らしていたのだから。
▽▽▽
どうやら転生したらしいと気がついたのは、母親から生まれた時だった。
それまでなんだか暖かい感覚に包まれていたことは覚えていたけれど、思いだそうとしてもよく分からない。
分からないと言えば、赤ん坊の身体になっていると気付いた時も、本気でどうして良いか分からなくて思考が停止した。立ち上がることも寝返りを打つことも出来ず、ただただベッドの上で、あるいは母親らしき人の腕の中で、ばたばたと小さく手足を動かすぐらいしか出来なかったのだ。
しばらくは目も開かず大して動けるわけもなく、もやもやとした日々を送っていた。
することがないので、ついつい元の世界のことを考えたりもする。
こちらの世界に生まれる前は、地元では評判のいい女子大を平凡よりはやや上と言う成績で卒業して、楽しくも忙しい仕事――中堅雑貨チェーン店の雇われ店長をしていた。記憶の混濁もなく、元の名前や住所、家族の顔も思い出せる。
珍しく休みが取れた週末に友達と小旅行に出掛ける予定で、営業時間が終わってから期限の迫っていないシフト表を前倒しして仕上げるため、机に向かっていたことも覚えていた。
ただ、その後が分からない。
苦しかったり誰かに襲われたり、事故や事件にあったような記憶はなかった。案外元のわたしはそのままのんびりと、普通の生活を営んでいるのかもしれない。分からないなら楽しい想像をするしかなかった。
ポジティブに行こう、ポジティブに。
……死んだと決めつけるより、ずっと気分はいいよね。
赤ん坊の身では何が出来るわけでもないかと、開き直ってしばらく。
目も開き耳も聞こえるようになり、周囲の状況について少しは分かってくると、俄然、世界が広がった。
『リディ、リディ』
『あっ!』
『こっち見たわ!』
家族構成は両親に祖父母、歳の離れた姉が二人で、白髪のお爺ちゃんお婆ちゃん以外は全員、きんきらの金髪に碧の瞳。ついでに使用人らしきご夫婦と、明らかにそれと分かる格好のメイドさんもいた。
家……というか、お屋敷は部屋数も多くて、庭だって広い。
それどころか、村――うちの家名と同じ、オルフという名の村を治める領主の家柄だった。
でも、村長さん……じゃなくて領主だというお爺ちゃんにも恐いところはなく、皺の寄った顔でにこにことしながら私に視線を合わせてくれる。村の人からの扱いはお嬢様だけど、どこか温かい気持ちになれるので私のベビーベッドのある部屋まで遊びに来てくれると嬉しかった。
ただ、問題は……そこじゃなかった。
『さあリディ、お出かけだぞ!』
あれは忘れもしない、初のお出かけの日。
よく手入れされた庭の景色は嫌いじゃないけれど、そろそろ飽きが来はじめてもいたから、私はわくわくして……。
ひひん。
『!?』
『おおリディ、お馬さんは初めてだったかい? 大丈夫、恐くないよ』
玄関の向こうには、自動車の代わりに馬車が待っていた。……うん、二頭立てだから、たぶん二馬力だね。
『旦那様、お荷物はこちらだけで?』
『ああ、頼むよ』
『へい。……【浮遊】っと』
運転手さん、じゃなくて御者さんは、荷物に杖を向けて『浮かせていた』。
そこではたと思い出す。……いや、考えたくなかったから、ずっと目をそらしていたと言うべきか。
日本じゃないことは、もう重々に理解してたけど。
夜は蛍光灯の代わりに油のランプで、テレビもスマホもなかったけど。
服装だって、昔のヨーロッパ風? だったけど。
何故か言葉が理解出来てたから、寂しくなかったけど……。
ここ、どこなのよおおおおおおおお!? と、大声で叫びたい私だった。
……驚きと戸惑いが大きすぎて、その時は泣き声すら出せなかったけど。
あれから十年と少し、こちらでの暮らしにはもう慣れている。
子供扱いされるのは、それほど嫌じゃなかった。見かけからして仕方がないし、意地悪されてるのとは違うからね。
おまけにこの『子供』というものは、誰かに尋ね事習い事をする時、とても便利だった。もちろん私は二回目だからこそ気付けたのかもしれないが、裏返せば大人への準備でもあるのだ。
子供の頃は、とにかくあれは何これは何と、分からないことは何でも聞きまくった私だった。
そのおかげか、何事にも物怖じせず好奇心旺盛で積極的な子と褒められたけれど……これは、どうかな? 自分じゃよく分からないや。
『おお、リディ、おはよう!』
『今日はいつもより笑顔が素敵だぞ。いい夢でも見たのかい、リディ?』
母親にされるのと同じように、祖父や父親から頬にキスをされても、別段嫌悪感は抱かなかった。女性として認識されていないことも間違いないが、ああこれが父性愛家族愛かと受け止める余裕もある。西欧風のスキンシップを愛情たっぷりに注がれるのも、存外悪くはないものだ。
これで父親が幼女性愛趣味の変態であったら目も当てられないどころかこの時点で既に人生が詰んでいただろうが、流石にそれはいらない知識の先走りすぎだった。……お父様、あらぬ罪を着せようとしてごめんなさい。娘を抱くの時あなたは大変嬉しそうですが、それがごくごく普通の親馬鹿故のことだと娘はきちんと理解しています。
幸い両親も姉さん達も、人として好ましい人物で、お爺ちゃんお婆ちゃんは言わずものがな、私は随分と甘やかされて育っていた。この時点で、相当恵まれてるんだろうなあとも思う。
いや、前の両親が嫌いとかそう言うわけではないけれど、自分でどうにか出来る状況じゃないのよ……。
そりゃあ、たまには……家族や友達に会いたいとか、懐かしい町並みをいつものように歩きたいなんて、向こうのことを思い出して寂しく思うこともあった。
でもそんな様子で落ち込んだ私を見つけると、家族の誰かが必ずやってきて、私を抱きしめたり、膝の上に乗せたり、一緒のベッドに入ってくれるんだ。
その気持ちがとても温かくて、優しくて、また日本の誰かを思い出してしまうこともあったけれど、今は笑顔でありがとうを口に出来るし、ちょっぴり不便でその分のんびりとした暮らしも頑張れた。
まあ、そんなこんなでこっちの世界に生まれ変わって十四年、私、リディは今日も……お屋敷の隣にある鹿製品の工房で頑張っていたりします。
▽▽▽
「アン姉さん!」
「トルベンさん、こんにちは!」
「クララ、リディ。ご苦労様」
「やあ、お二方! 毎度どうも、お世話になります!」
屋敷の表口に回れば、いつもの雑貨卸商トルベンさんとアンネリーゼ姉さんが、干し肉の入った小樽の中身を確認していた。
「トルベンさん、こっちも確認をお願いします」
「はい、ただいま! ご注文の品はこちらの行李と岩塩の樽になります」
うちの村はトルベンさんが店を構える一番近くの街アールベルクからだと荷馬車で一日と半分、すぐにお帰ししないと我が家で一泊になってしまう。
街の話をたっぷり聞けるから私達は嬉しいけれど、トルベンさんにはちょっと大変だった。
「リディ、お願い」
「はーい」
アン姉さんから渡された発注書を手に、クララ姉さんと行李を開けて中身を確認する。
大半は革の加工に使う薬液の原料や、村の人から注文を受けた雑貨なんだけど……。
「わ、届いてる!」
たまには、私がお小遣いを貯めて注文した本が入っていることもある。
薄くてページ数が少ない割にすごく高いけど、とても貴重な情報源だ。……家の書庫にある本は全部、それこそ農書から兵法書、旅日記や艶本の類――正しくは、新婚夫婦のための指南書まで読み切ってしまったし、新しい本を私のために買って欲しいとは口に出来なかった。
「リディ、嬉しいのは分かるけど、後になさいな」
「あ、ごめんなさい! トルベンさん、本当にありがとうございます!」
「なんのこれしき! またのご注文をお待ちしておりますよ」
トルベンさんは軽く言ってくれたけれど、この田舎で目的の本を手に入れようとすれば相応の手間がかかるはずだった。お得意さんなのは間違いなくても、こればっかりは素直に頭が下がる。
「荷の方は間違いなく」
「はい、こちらも確かに」
アン姉さんとトルベンさんが覚え書きを交わし、サインを入れて取引終了だ。
差額は年末に計算され、羊や岩塩、織物などに変えられた。
「良いお取り引きをありがとうございます。次は下旬に」
「ええ、よろしくお願いしますね。はい、お昼にでも食べて下さい」
「こりゃあどうも! いつもすいません」
荷の積み替えが終わると、トルベンさんは鹿肉を挟んだ薄焼きパンの包みを受け取り、帽子を振ってさっさと帰ってしまった。
今日はお天気もいいけれど、日暮れ前に隣村までたどり着こうとするならぎりぎりだからね。
「さ、荷物を片付けてしまいましょ」
「はーい」
行李に魔法を掛けて持ち上げ、手を添える。
「そうそう、リディ」
「なーに?」
「今夜、お爺ちゃんから大事なお話があるそうよ」
「私は?」
「呼ばれているのはリディだけよ」
「……なんだろ? 色付けした革のことかな?」
「さあ、中身までは知らないわ。私はあの巾着、気に入ったけど」
「ありがと!」
先日、鹿革の切れ端を適当な染色液――とは言っても、革染めに使う材料をきちんと本で調べて注文した――に漬け込み、上品な薄い黄緑に着色した上で巾着袋にしてみたんだけど、使い心地や色落ちを試して貰おうと、お爺ちゃんを含めた数人に試して貰っていた。
雑貨屋に勤めていた頃が懐かしく思いだして、革をそのまま卸すより加工賃の分儲かるよねなんて軽い気持ちでやってみただけだし、今のところ、損が出ても困るのはお小遣いから薬の材料代を出した私だけだから、誰にも迷惑はかかってないはず。
商品になるようだったら、他の小物にも手を出そうかと思ってるけど……。
と、まあ。
割と好き勝手を許して貰っているわけで。
私は今の暮らしも、それはそれで楽しんでいた。