大学生活1年目⑦
~2003年新年から春休み迄~
年末年始の休暇を堪能し、新しい悪い遊びを覚えて、東京の居城へと帰宅した一留。
この頃になると、学校へは行く気は全くなく、2年から頑張ろうと、そういう計画を立てていた。
その代わり、2年まではやりたいことをやりたいだけやる。という信念で生活していた。
新しく覚えた遊びであるスロットをしたくてしたくてたまらない一留。
しかし、素人が一人で行ったところで勝てるはずもないと踏み、IRCでよくスロットの話をしている仲間がいたなと思い出し、自分がスロットを始めたことを報告。
このままでは種銭がなくなってしまう事を危惧している事を相談し、勝つ為の、まずはスロットの基本から教えてもらう事にした。
とはいえ、ネットアングラー色の強い仲間達である。
丁寧に1から教えてくれる・・・という事は無く、その時は「カエルを打て、カエルを。」
とカエルという単語を連呼したに過ぎなかった。
どうも話を聞くとこういう事らしかった。
「はまり台を見つけ、当たる迄回し、当たったら128迄回してやめる、もしくは朝一128迄回す。」
と、ネットアングラースロッター先人である、SK君とDCM君はいう。
サバチャンで一撃数千枚という夢一時捨て、種銭をまずは増やし、猛獣王に挑むための種銭を稼ぐ戦略に切り替えた。
その日は中途半端な時間であったため、スロットをうちにいく事はせず、夕食の王将で餃子を3パック(金曜日だと餃子が半額くらいになっていた)買い込み、白米は自炊。
餃子ライスを楽しみながら、
UO内ではギルドメンバーである、SK君、NGY君、ETR君、TJ君、KEN君、STS君と仮想WARや、フィールド戦を楽しんだ。
朝一カエル(キングパルサーの事、以降キンパル)のリセット狙いを実行すべく、3時くらいには寝ようと思っていたが、家腐り待ちや、遭遇戦、DuelPitやPKK、他くそげーオンラインが楽しすぎた。
さすがに、3時、4時となるとネトゲ仲間も減るが、NGY君、ETR君(一留とは同年代)は一留と同じような生活をしているのか、専門学生だと言っていたが、朝方迄狂ったようにゲームをしていた。
一緒に行動しているうちに、自然と息も合う為、彼らと組んでPvPをするときはたいてい負けなしであった。
相変わらずパワスク狩りを狩りに来るPK集団を殺しまくったり、時にはトラメラーに嫌がらせをし、パワスクを奪ったりとやりたい放題な時期だった。
これが楽しくて仕方なかった。
結局朝のダウン戦まで楽しんでしまったため、寝たらパチ屋の開店時間に起きれないと考えた一留はそのままパチ屋へ向かう事にした。
開店迄1時間程度あったが、優良店でもないため、並びは緩く、パチ屋目の前のマクドナルドで朝マックをしながら時間をつぶした。
この頃、携帯でスロット攻略サイトは見れたと思うが、そういったものがあるという事もまだ知らなかった為、ただただボケーっと時間だけをつぶしていただけだった。
そして開店。
SK君とDCM君の言っていたようにキンパルの島へ出向くも、一留のほかにはキンパルの島にいるのは1人だけ。
128迄きっちりまわし次の台へ・・・
ヒットしなければ約4千円1台当たりで消えていく・・・
ヒットしても大して連荘せず、初日は±0くらいでおわった。
12時ごろにはすべての台を回し切ったため、寝ていないこともあり、帰宅。
この日は21時に目を覚まし、ピザをデリバリーした。
この日からキンパル生活を1週間続ける事になるのだが、ど素人に立ち回りも糞もなく、勉強嫌いだった一留は雑誌で勉強することすらせずにとにかくキンパルを朝一からかに歩きしまくった。
結果、一週間後には財政難に陥り、その日その日の食費をどうやってまかなおうか考えるほどまでに落ちぶれた。
毎月月初に仕送りが振り込まれる為、次の仕送りまで2週間近く・・・。
どうやってその日その日を乗り越えるか考えた。
まず考え付いたのがSWT君氏にカップめん等の援助物資を送ってもらう事だった。
自分で何とかしようとせず人に泣きつく所が既にゴミ人間(以降廃人)である。
電話とメールで懇願する事数十分。
なんとか援助物資の約束を取り付けたが、物資調達及び到着までに時間がかかることが予想されるため、今日、明日の食材確保の作戦を考える。
そこで思いついたのが、いつぞやネットで見た近所のパン屋に出向きパンの耳を乞うという作戦である。
近所のパン屋さんは快く一留の乞じくという行為に応じてくれ、
ビニル袋いっぱいのパンの耳をくれた。
これにマヨネーズやケチャップをかけ、レンジでチン!
意外にうまい事が判明したが3日ほどで飽きた。
後は米を自分で炊き、お茶漬けで生活する等その生活は極貧を極めた。
ネトゲをしては寝る、風呂はいるを繰り返した。
その生活はまさに修羅であった。
当然学校になぞいけるはずもなく、気づくと2月。
極貧生活になれたところで仕送りをゲットし、生活費3万円は残すと決めたところで残り5万円を全てスロットにぶち込む事を計画。
そして、学校までの定期代までも、スロット代に充てることで、完全に学生としての本分をほうきする事になった。
今度はネットや雑誌で勉強、IRC仲間に情報を貰うなどして堅実に立ち回る事を誓った。
この頃打っていたのがキンパル(朝一)をメインにストック機のハイエナ。
だが逆にハイエナされる事もしばしば、この時期からパチスロは知識が重要だという事に気づき、つ攻略サイトを読むようになった。
しかし、我慢の聞かない一留は打ちたい一心で変な台に座り、負けることもかなり多かった。
そして、2023年の2月
一留にとってUOとのつながりを大きく変えることになってしまったパッチ
AOS(正邪の大陸)が導入される。
とはいえ、導入初日はマラスという新大陸が解放され、ハウジング用の土地が解放されるという事で、
ログイン競争を乗り越え、サーバーが人のごった返しで激重の中、建築ツールを使いながら、
場所移動をし、見事、最大サイズの土地(16x16だったかな)をゲット。
芸術心のない一留はくだらない建物を作りながら、もゲットした土地に満足していた。
大きな仕様の変更により、我ら仮想WARギルド面子(仮にXギルドとする)は路頭に迷う事になる。
2月も半ばに差し掛かり、テスト期間を経て長い長い長~い春休みへ突入。
当然学校にすらいっていない一留はテストをまたもや放棄。
1年目の取得単位0が確定した。
この頃出たスロット台は様々あったが、
記憶に強く残っているのが・・
初代猪木、猛獣王G(天サバ性能が抑えられたやつだっけ?)そして旋風の用心棒である。
基本この頃まではキンパル一筋であったため、目にはついたが、打つことはなかった。
この頃のスロ出来事としては始めていくマイホの隣のホールでスーパービンゴに
着席し、意味もわからず打っていたら222を引き当て、やめ時がわからない一留はSK君にやめ時を確認するも電話も繋がらず、メールも返信なく、33ゲームが5連した後、無駄に200位まで回したり、やはりこの店で朝一サラ金を何もわからずうったらモーニング金チャン(?)に当選し、一撃2000枚を獲得したりとエンペラータイムに突入していた。
もちろん朝一のキンパルも忘れずに、猛獣王(サバチャンを夢見て)ネオプラ等という少し古い台を打ちながら引きのみにまかせ所持金が10万を越えたあたりで帰省。
3月頭に帰省した一留はSWTR君と再び打ち遊び散らかす事になる。
この頃SWTR君と流行っていたのが乗りうちだったが我々の間では微乗りというものが存在した。
元々乗り打ちというものは二人で出資金額を決め、お互い平等になるように出玉を分配するというようなシステムだと思うが、我々は違った。
出資金額上限無し、いくらぶちこもうが出た出玉は半分もしくは4分の1を負けたほうに渡すというよくわからないシステムを採用していた。
乗り打ちした場合どちらかが必ず勝っていたのだが良くこれで喧嘩にならなかったと不思議でならない。
それほど狂ったように毎日打ち乱れていた。
この春休み中にサバンナパークや花火百景が店内に姿を見せ始めた。
猛獣王の後継機であるサバンナパークには大きな期待を寄せていたが、
Gサファリツアーなるプレミア役に現実感が無かったのと、AT(サファリチャンス:純増3枚/G)に魅力を見出せなかった為、ほぼ打つことなくいつの間にか消えていた。
とにかく春休みであほみたいに負けた一留は親に教科書代を・・・白衣を・・・などと迫っては小遣いをせびり、親の500円貯金から定規等を使って500円玉を大量に抜き出す等人間としてのくずを極めた。(毎日2~3万抜いていた。)
500円玉ではスロットを打てないので、朝っぱらから銀行で両替。
SWTR君は当時バイトをしていたこともあり、タネ銭はある程度捻出できていた。
当時SWTR君と一留が良く口にしていた言葉が「あのばーさんおそってサイフ奪うか。。」だった。
とはいうが、万引きすらした事のない二人はいつもそういうだけで実行には移さず、車の中で悪態をつきながらゲラゲラ笑い合い春休みを満喫した。
そして、ある程度の小遣いを親からむしりとった一留は4月頭に東京の居城へと帰宅。
大学二回生が幕を開ける・・・。