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オッド・アイ

作者: 香罹伽 梢

 限られた絵の具しか無いのなら、新しい色を作ってキャンパスにぶちまければいい。

 決められた五線譜の羅列しか持っていないなら、自分なりに命を吹き込んで魅せればいい。

 変えられない運命がそこにあるのなら、

 その先に広がる未来を自在に変えていけばいい。

 だからワタシは、今を生きる。



1、

「でさ、美波ったら話も聞かないで……」

「…全く……相変わらずアイツは――」

 目の前で話している蓮や凱の声も、風景に溶け込んでしまって遠くに聞こえる。

 特に睡魔の気配はない。疲れを引きずっているわけでもない。ただなんとなく、何をしようにも身が入らないのだ。

 故に亜紀は朝から「上の空」であった。

 周りから見ればいつものことだ。いつもとは違う「上の空」に気付いているのは、それを抱える本人だけだった。

 理由はよく分からない。だからこそ、流れに身を任せるしか術がなかった。それで結局、「いつものように上の空」に見えてしまう。

 そんなサイクルが昨晩から延々と続いていた。

「……って、もう。ちょっと亜紀?ちゃんと聞いてるの?」

「……え?」

 と、同時にチャイムが鳴る。

 蓮は開きかけた口を閉じ、溜め息混じりに離れて行った。

 入れ替わるようにして、視界に担任の猪瀬が入ってくる。

「起立」

 散り散りに人が整えられる中、気怠そうな号令がかかり、

「……はぁ」

 重たい頭を仕方なく持ち上げ、

「礼」

 形式だけの、何とも中途半端なお辞儀をする。

 しかしそれは彼女に限った光景ではないので、何ら問題視されることはない。

 いつものように外に目をやっても居心地が悪く、亜紀は仕方なしに猪瀬を眺めていた。手首に光る大きな腕時計は、センスのない割に高そうだった。

「出欠とるぞー。藍谷 亜紀」

「はい」

 亜紀と目が合うと、猪瀬は意外そうに眉をひそめた。しかし、

「飯田 早百合」

 すぐに教師の顔に戻った。その一瞬ですら、亜紀には気になってならなかった。

 ダラダラと続けられる応答が、何かをカウントさせるように教室に響く。ふと、亜紀は小さな不安を覚えた。

「村上 哲哉」

 しかし無常にも、名前は刻々と読み上げられていく。

「はい、全員出席だなー。丁度良かった」

「?」

 妙に意味を持たせた言葉に、亜紀だけでなく皆が首を傾げた。

「先生」

「なんだ、藍谷」

 気がつけば、手を挙げていた。

「……気分が悪いです。保健室に行ってもいいですか?」

「おいおい、まだ一時限目も始まってないぞ」

 猪瀬の声には、動揺がありありと滲み出ていた。

 別に気分が優れないというのは嘘ではない。

 しかし、めまいや腹痛といったはっきりとした症状はなく、保健室に行ったところで何も解決しないことは分かっていた。

 ただ、この違和感から逃げ出したい。咄嗟の思いが咄嗟の行動となって表に出てきた。

 亜紀自身も半ば驚いていた。

 ――この感覚は、いつぶりだろう。

「とりあえず、ホームルームが終わるまで待て」

 嫌です。

 喉元まで出かけた言葉をぐっと呑み込んだ。

 私は一体何をしてるの?何が怖いの?

 答えの出ない自問自答で頭を埋め、今にも椅子から離れようとする身体を縛り付けた。

 一刻一刻を噛みしめるように、耳につく鼓動はどんどん早くなっていく。

 やがて、忙しなく動いていた視線はある一点に止まった。

 ドアの向こう――。

 閉まっていて、その先の外の様子は完全に見えなくなっている。何が自分を動かしているのかは分からない。しかし亜紀は、その向こうにただならぬ気配を感じていた。

「急な話だが、転校生が来た」

 猪瀬の一声は、途端に教室を活気で包んだ。

 その中に戸惑いの色が見えるのも、猪瀬はきちんと感じ取っていた。

「確かに時期が悪いが…突然なのはあちらもらしくな。何かと不便なことも多いだろうから、皆も協力してやってくれ」

 そう、今日は二学期が始まって丁度一週間。このタイミングで「転校生」というワードが飛び出てくるのは、あまりにも不自然だった。

「……といっても、まだ来てないんだがな」

 転校初日に遅刻とは、実際にやらかすとなると大した度胸の持ち主である。

 ――もう来ているが。

 気配に気が付いているのは、亜紀だけのようだった。

 出来ればこのままでいてほしい。

 そんな勝手な思いが亜紀を黙らせていた。

 しかし、微かな願いは悉く打ち砕かれ、

 ドアが開くと、教室は水を打ったように静かになった。正確に言うなれば、言葉が出なくなった。

 ビクンと、亜紀の身体は電流が走ったように跳ねた。そして遅れてぞわぞわと、嫌な感覚がむせ上がってくる。耐えきれなくなって亜紀は目を逸らした。それでも動悸は治まらない。外に目を向けても、木々のざわめきが余計にそれを加速させるばかりだった。一瞬だけでも視界に入ってしまった転校生の姿は、もう脳裏に焼き付いてしまって離れない。

 造り物のように白い肌。それを際立たせる黒髪が、柔らかく肩から零れ落ちる。目尻が綺麗に上がったアーモンド型の大きな瞳は、どんなものも見逃さないような不思議な生命力が溢れていた。

 転校生の美しい出立ちに、皆は静かに息を呑んでいた。同じ制服で身を包もうとも、その異端なオーラは拭いきれない。

 いや、それだけではない

「××××××?」

 彼女は一般の日本人には理解し得ない言葉を発した。

 澄んだよく通る声は、戸惑う教室内を更に異質な空間に染め上げる。

 その傍ら、亜紀は大きく溜息をつくと、意を決して

「××××××」

 言葉を返した。

 そしてまた、皆の視線から逃げるように顔を外へ向けた。

「Oh,sorry」

 すぐさま彼女は、皆が理解できる言語に変換してくれた。

 しかし、亜紀は目を背けたままだった。

 一人の生徒が囁く。

 ――なぁ、アイツ、藍谷と……

 しかし、あまりの空気の重さに耐えきれず、言葉は続かないままに黙殺された。

「Hello.Let me introduce myself,then.I'm Hayakage Kozaki.I'm from Duitschland.So I'm not good at speaking English.」

 なるほど。確かに日本人には聞き慣れない発音ではあるが、内容は極簡単なものだった。

 しかし、一般日本人に比べれば英語力は確実に上だ。分かる奴は得意げに耳を傾け、次節わざとらしく頷いた。

 だが、

「…My hobby is rock music:I used to be a singer in……と、まぁ日本語話せるんだけどねー」

 一瞬にして教室はどよめき、また活気が戻った。

「改めて自己紹介!紅崎 杏梨優です。それと、」

 ――なぁ、やっぱりアイツ

 生徒がまた囁く。

 ――藍谷と似てない?

 それが聞こえたのかは分からない。

 杏梨優はニヤリと口角を吊り上げた。そして、どこぞ吹く風と目を合わせようともしない亜紀を指さすと、

「この子の双子の姉にあたります」

 皆の視線が、亜紀に集まった。

 とうとう亜紀は、観念したように顔を向けた。

「ドイツ出身だなんて、随分と突拍子な話ね」

「あら、諦めがつくのが早いのね」

 あくまで平然を装う亜紀と悪戯っぽく笑う杏梨優。浮かべる表情は全く違えど二人は、

 ――まるで鏡を隔てたかのようにそっくりだった。




 その後大騒ぎとなったのは、杏梨優の周りだけではなかった。亜紀はこの転校生の発言のせいで、とんだとばっちりを受けた。異質な転校生より顔見知りのクラスメイトから事情を聞き出した方が早いと踏んだのか、野次馬が亜紀に流れ込んできたのだ。

 おかげでいざ本人らが接触する頃には、亜紀はもう既にげんなりしていた。

「亜紀」

 昼休み、呼ばれてまず反応したのは、何故かサイドにいた凱と蓮だった。そしてその後に、本人がのろのろと顔を上げた。

 黒々としたストレートボブが、ほとんどの表情を隠してしまう。しかしその奥で光る瞳は、明らかに相手を警戒していた。

「はじめまして」

 そう胡散臭く、杏梨優は笑顔をはじけさせる。

 亜紀は適当に会釈した。杏梨優がたかってくる人らを掻き分けて此方へ来るものだから、目立って仕方がない。

「え?初対面なの?」

 蓮が本当に驚いた顔をした。それでも箸を動かす手は止めない。

「そうだよ」

「え、だって…。さっき亜紀、双子だって紅崎さんが言ってたのに驚かなかった――」

「杏梨優でいいよ」

「双子なら、この状況も納得いくって思っただけ」

「……」

 二人はほぼ同時に口を挟んだ。その声質も、トーンが違うだけで全く同じ。

 言わずとも分かるこれだけの共通点がありながら、二人が今までに接点がないとは思えなかった。

「じゃあなんで杏梨優は、亜紀と双子だってことを知ってたんだ?」

 焼きそばパンを頬張りながら、凱は訝しげに聞いた。

「親から聞いたの」

「それだけか?」

「そうねー。何だか今までに会ったことあるような気もするけどね。不思議だねー」

 亜紀は思わず目を伏せてしまう。髪型は違うが、逆に言えばそれ以外に違いはなかった。そっくりなんてレベルじゃない。まるで同じだった。

 しかし杏梨優は、自分とは似ても似つかない表情を浮かべる。何だか自分の顔がいいように弄ばされているようで、気味悪くすら思った。

「なぁ、本当に今まで関わりないのか?」

 まだ疑いが晴れないのか、凱の表情は固い。

「んー?」

 杏梨優が白々しく生返事をし、会話はそこでピタリと止まってしまった。

 しかしその間は、気まずくなる長さになる前に、

「ヤバいよ、凱!もう行かなきゃ!」

「うぉっ」

 蓮が慌ただしく打ち切った。

「ゴメンな、亜紀。ちょっと行ってくる」

「いってらっしゃい」

 何故謝るのか亜紀には分からなかったが、その手には既に凱が残したパンが握られていた。

「あ、おい!てめ…」

「こら、凱。急がないとまた柊先輩に怒られるよ」

 時間には逆らえないようだ。凱は蓮に引きずられるようにして教室を出て行った。

「軽音の昼練なんだって。だったら昼休みまで待って一緒に食べるなんてことしないで、早弁すればいいのにね」

「ふーん」

 まだ残っている自分の弁当をしまい、パンをかじる。

 喋るか食べるかして口を動かしていないと、溜め息ばかり零して酸欠になってしまいそうだった。かと言ってこうしているのも、息が詰まってどうしようもない。

 二人分の体温が消えて、周りの空気は幾らか冷えたように思えた。

「……ドイツ出身だなんて、随分突拍子な話ね」

「それ、さっきも言ってた」

「……」

 苦し紛れとはいえ話題のチョイスが悪かった。だが、沈黙が防げるなら何でも良かった。

「私と同じなら、杏梨優だって歴とした日本人でしょ。なんであんな自己紹介したの?しかもコードトーカーでもないくせに、暗号言語だなんて古い」

「ちょっと驚かしてみたかっただけよ」

 少し感情的な亜紀に対して、杏梨優は涼しい顔をして流した。それでも口端には、隠しきれていない笑みが憎たらしくも浮かんでいた。

「…そんなことばっかりしてると、浮くよ?」

「××××××」

「は?えっと…××××××?」

 つられて、ハッとして、途端に顔が熱くなった。

「ほら、亜紀も同じじゃない」

 杏梨優はケタケタと笑う。

 それが何だか悔しくて、

「私は興味本位でちょっと独学で知っただけ。…それに、お父さんは海外なんて行ったことないはずよ」

 杏梨優の表情が、ここで初めて崩れた。と言っても、他の人は見逃してしまうような些細な変化。しかし亜紀にはそれで十分だった。

「そこが分かればはっきりする。あなた、お父さんの子なのね?」

 ぎこちなくなった笑顔で、それでも杏梨優は確かに頷いた。

 最後の一口を飲み込むと、亜紀は大きく息を吐いた。やれやれ、といった表情には、何処か余裕が出てきていた。

「まぁ、顔見た時になんとなく予想ついたけど。でも、それじゃ私の方がお姉さんじゃない」

「嫌だ。私がお姉さんがいいの」

「…まぁ別に、どっちでもいいけど。でも、本当に双子の『姉』がいたっていうのは初耳」

「私は知ってたよ。だってあの人、亜紀の事しか言わないもん」

「あの人って……」

 お父さんって言ってあげればいいのに。

 そう開きかけた口を咄嗟につぐんだ。自分が踏み込んでいい領域じゃない。

「――本人に直接聞いてみた方が早いんじゃない?」

「え?」

「だって亜紀、私が何答えても納得してくれてない」

 そう言って、鼻の頭を指差す。眉間に皺が寄ってるとでも言いたいのだろうか。すかさずこめかみを揉みほぐすのは、些細な抵抗でもあった。

「……会うのは八年ぶりね」

 すると、杏梨優の顔がぱっと輝いた。今までとは違った、本当の笑顔だった。

「よし!じゃあ決まりね!あとさ……」

 パンッと無邪気に手を合わせる。

「弁当、残ってるんなら私にちょーだい」

「え?」

 そして、おずおずと自分のバスケットを押し出してくる。食べ残しの弁当とじゃ、明らかに交換条件が釣り合っていない。

「……いいけど?」

「ほんと?やった!」

 よく分からないまま、バスケットを受け取る。中身はサンドイッチだった。

 具の並べ方といい葉物の具合といい、計算して作られているようだった。しかし、随分手が混んでいるのに逆に無機質に感じられて、食べていても気楽だった。

 傍ら、杏梨優は他人の食べかけの弁当をさも美味しそうに頬張る。

 自分とは違う価値観に、戸惑いを通り越してもはや諦めがついてきた。

 自分の分身は、タコさんウィンナーを不思議そうに箸でつついている。

 亜紀はようやく口元を緩ませた。




「ただいまー」

「…おじゃまします」

 元は自分の住処なのだから、改まっておじゃましますと言うのも変な感じがした。

 放課後、凱や蓮が声をかけるよりも先に、杏梨優は亜紀の手をひたっくて教室を出て行った。拉致されるがままに走らされていた亜紀は道中、心の中で決意を固くした。これからは杏梨優には、世間の常識ってものを叩き込んでやらねばならない。

 公園の角を左、赤い屋根の家の手前で左、児童館を通り抜け、青い自動販売機の横を右――。案外、道順は八年経っても覚えているものだった。

 着いた瞬間、変わらない昔の自分の家を見上げ、しかし戸惑う間もなく杏梨優に中に押し入れられた。

 玄関に入った瞬間、ごちゃ混ぜになった薬品の匂いがつんと鼻についた。それすらも懐かしい。

 しかし呑気にしていられるのも束の間、奥から『あの人』が顔を出した瞬間、亜紀は固まってしまった。

 両親が離婚してから彼此八年。その間、この家に立ち寄ったことは一度もなかった。別に父が嫌いな訳ではない。むしろ大好きだった。夜にベランダで、父の膝の上で色々な話を聞くのは、何より楽しかった。

 なのに何故だろう。この家を母と出ていくという話になった時、泣いて駄々を捏ねた記憶があまりない。それどころか、何処かホッとするような感覚に覚えがあった。母が危ない表情をすることが減ったからかもしれない。子供らしくはしゃいで毎日過ごすことに、疲れ始めていたからかもしれない。

 だから、手に入れた新しい日常を壊すのも直すのも億劫で、そうするうちにこの家から遠ざかっていた。

 久々に見る父は、遠い記憶と照らし合わせても何ら変わりはなかった。少し白髪が増えたくらい。

「おかえり、亜紀」と、細い目を更に細めて迎えるのも、「学校、どうだった?」とお決まりの台詞を唱えるのも、自分がいなかった今まで時が止まっていたかのように、昔の日常がそこにあった。しかし、

「うん、楽しかったよ」

 そう日常のカケラを繋いたのは、杏梨優の方だった。

「っ……」

 視界に彼女が入ると、不意を突かれたように背筋に悪寒が走った。もう一つの自分の、あるべき姿を見せつけられているようで。

「何してるの?早く上がりなよ」

 父が部屋に戻り、ガチャガチャとたてる音に我に返った。

「あ、うん…。ゴメン」

 ご丁寧に靴を揃え、客用のスリッパに足を通す。案外自然に「よそ者」の堤体を受け入れられた。

 薄暗い部屋に入るなり、早速スリッパの底がジャリジャリと音をたてる。亜紀は床に散乱する書類を押し分けながら、大きく溜め息をついた。

「お父さん、相変わらずね。せめて掃除機くらいかければいいのに」

「かけれるような所がないのよ」

 足の裏の感触の正体がガラス片であることを亜紀はよく知っていた。父が実験中によく割るのだ。故にこの家の中は『裸足厳禁』であり、スリッパが必要不可欠なのである。

「まぁ、どうぞ。こんな場所だけど」

 父は辛うじて座れるスペースを作ってくれた。昔自分が上で跳ねては怒られた、小さなソファだった。

「しかし、驚いたね。まさか亜紀が一緒に帰ってくるなんて」

「連れてきた方が、早いと思って」

「そうか。あ、飲み物は亜紀は紅茶でいいかい?」

「うん」

 まだ苦いものが駄目だとでも思っているのだろうか。亜紀は少しムッとしたが、悔しいことにコーヒーは苦手だった。

「亜紀は?」

「……え?」

「私はコーヒー」

 何事もないように、杏梨優が応えた。

「分かった。ちょっと待って」

 そして、奥の給油室に消えていく。

「――言ったでしょ?」

 亜紀が戸惑い任せに口を開く前に、杏梨優は言葉を繋いだ。

「あの人、亜紀の事しか言わないもん」

「……」

 その横顔に、淋しさは微塵も感じられなかった。

「戸籍上、私も亜紀って名前で登録されてる。杏梨優っていうのは、母親が付けた呼び名よ」

「もしかして、その人が…」

「そう、ドイツ人。あの人と出会ってそういう話になったのは日本だけど、生まれたのは母親の希望で実家の近くの病院だった」

「道理で聞き慣れない名前だと思った」

「まあね。でも、センスの無さだったら…」

「はい、紅茶とコーヒーねー。……ん?」

二人してジトッとした目で配色の悪い服を着た父を睨んだ。

「…えっと、ゴメンよ。父さん、余興の塩梅とか分からないから、早速本題なんだけど…」

日本茶を片手に、よいしょと向かい側のソファに腰掛ける。

三人分違う飲み物を持って来るあたり、随分器用である。

「――ところで亜紀は、クローンについてどれだけ知ってるかい?」




 人間は受精卵という一つの細胞が分裂して作られるものである。その生命の原点は、遺伝子のつまった核を持っている。この核はのちに出来るどの細胞にも同じものが入っており、それは万物変わらない。

 つまり、どの細胞の核にも受精卵の核になれる才能はあるのだ。

 では、もしその受精卵の核を他人の核とすり替えたらどうなるのか?

 遺伝子情報も他人の核のものにすり替えられるため、そうしてその核の持ち主と全く同じ遺伝子を持つ生物が誕生する。

 ざっくり言うとこれがクローンだ。

「……つまり、杏梨優はお父さんが『作った』子ってこと?」

「随分察しが早いね。いつ気付いた?」

 人の命の重さに関わる話だというのに、父は淡々としていた。

「というか、一応聞くけどそんなもの作っていいの?」

 蛙、イモリ、ラット、ドリー――。クローン研究は様々な生物に手を伸ばしていった。その極みにあるもの、それが人間である。

 現在様々な倫理的問題が問われ、世界はこの好奇心を強制的にシャットアウトさせた。だがそれは出来る出来ないの可能性の問題で打ち切ったわけではない。つまり、

「作ろうと思えば作れるよ」

 そうさらっと言ってのけて実際に作ってしまうのが父だ。

「……見た瞬間、予想はついた」

 そんな父に頭を抱える亜紀に、とある記憶がフラッシュバックする。

 何せこの事は、今に始まった話ではないのだ。

『お父さんは何のお仕事をしてるの?』

 幼稚園児くらいの頃の記憶だろうか。夜空がいつも以上に澄んでいたから、よく覚えている。

『研究者だよ』

『けんきゅーしゃ?』

『毎日、色んな実験をするんだ』

『何の?』

『そうだな…亜紀をもう一人、作る実験だよ。……そうすれば、淋しくないからね』

『どうして?私、さみしくないよ?』

 父が哀しそうに首を横に振る。亜紀はそれを、父の膝の上から見上げていた――。

 あの頃は何とも思わなかったが、今思い出してみると頭が痛い。

 父が娘の分身を作るなどと言い出したのは、亜紀が物心ついた頃からだった。亜紀自信、そんな話は端から信じていなかった。だから、杏梨優を見た時には本当に驚いた。でも、

「これだけ似てたら、否応でも認めざるを得ないよ。でも自己紹介は暗号言語だし、ドイツなんてワードが出てくるし、それで一時期話がぼやけたけど」

 父は英語すら真面に話せない。論文を書くような身では致命的なステータスだが、知人に手伝ってもらって何とかやってるという。そんな父だから、日本から出るなんてことはまず無い。そうなると、その娘が母語以外を操る上に海外出身だというのはいささか不自然だったのだ。

 しかし双子として亜紀と同じ能力を持ち、母親の方がブロンドに青い瞳を携えたような人となれば納得がいく。ましてや、そんな母親の面影を微塵も感じられない姿かたちをしていれば。

「本来こういう形は望んでいなかったんだが…。八年前、亜紀の母親が事故で亡くなってな。父さんが引き取らなきゃいけなくなったんだ」

 亜紀はまた頭を抱えた。さっきから杏梨優も亜紀もまとめて「亜紀」と呼ぶものだから、ややこしくって仕方がない。

「それで、私のお母さんは…」

「そうだ、亜紀と一緒にこの家を出ていった。引き止めるべきか迷ったんだが…まだ二人を会わすには早すぎると思ってな」

 確かに、こんなDNAの産物を小学生時代に見せつけられたら困惑もする。今ですらショックはまだ大きいのだ。

「でも、そしたらなんでこの時期に私たちを会わせたの?転校生としてねじ込ませるにはタイミングが悪すぎる」

「タイムリミットだからだよ」

「…?」

「亜紀が亜紀を必要とする、タイムリミットだからだよ」

 父は娘にゆっくり言い聞かせる。その目は何処か遠くを見ていた。

「私が…杏梨優を?」

 父は自分ではない何かを見ていた。

 ――まただ。

 昔から父は、時折こうした焦点の合わない表情をする。

 そして、こういう時の父の言うことは恐ろしいほどよく当たるから、馬鹿にできない。

「でも亜紀を必要とするためには、亜紀が亜紀と同化する必要がある」

「……?」

 そろそろついて行けなくなってきた。隣を見やると、杏梨優が無表情に微笑んでいる。その冷めた瞳が自分と同じものだと思うと、悍ましい感覚がさあっと身体を駆けた。

「同化させるにはお互いのダメージを最小限に止めたかった。だからいずれ来るその日から、お互いが同化に耐えうるギリギリの日数を逆算して出たのが今日だったって訳だ」

「誰か訳して」

「××××××」

「ゴメン、そうじゃない」

 暗号化しろと誰が言った。

「まぁつまり、亜紀は難しく考えなくていいってことだ」

「なんで?私が一番この話の中心にいるようなものなのに…」

 勢いよく食ってかかっていった言葉は、結局途中から尻すぼみになってしまった。虚ろな状態の父に今何を言っても、返ってくる答えは同じだろう。

「そのうち分かるよ」

 本当に、父は何も変わっていない。




「結局、何のために行ったんだろうね」

 腑に落ちないどころか、謎が謎を呼ぶばかりだった。

「本当だねー」

 見送りについてきた杏梨優は、手に提げた紙袋をぶんぶん振り回す。中でクッキーの缶がカラカラと愉快に鳴った。父が持たせたものだ。

「でも、杏梨優は全部知ってるんでしょ?」

「さあねー」

「とぼけないで。ねぇ、私が杏梨優を必要とするって何?」

「私が生まれてきた理由よ」

「同化って?」

「私と亜紀がシンクロするの」

「いずれ来る日って?」

「亜紀が私を必要とする日」

「……訳分かんない」

 これじゃ堂々巡りだ。

「大丈夫よ。全部私がやるから。お姉ちゃんに任せなさい」

「いきなりできた姉に言われても、不安しかないんだけど」

「じゃあ、頼もしい自分がもう一人増えたとでも思いなさい」

「それ、もっと不安」

 頼もしいのなら一人で十分だ。二人もいたら逆に自己が揺らぐ。こうやって。

「でも、あの人が元気なのが見れて何よりでしょ?」

「そうね。昔と変わらず、元気に狂ってた」

「後悔してる?」

「ん?何を?」

「……私が居ること」

「……」

 父の企みは、止めようと思えば止められたことなのかもしれない。家を出て行った後も計画の進行が怖くて、信じたくなくて忘れようとしていた面はあった。その結果、今がある。だが、

「困ってない?」

「困ってるよ。これから学校でどうカバーしていけばいいのやら…。でも、それとこれとは話が別でしょ?杏梨優自身のことは、私が決めることじゃない」

「私は亜紀があって生まれてきた。だから私がいてもいいのかは、亜紀に聞きたいの。ねぇ、私、今までやってきたこと間違ってない?」

「間違ってる。大間違い」

 自分のために生きることが全てだなんて、絶対に認めない。

「私は私、杏梨優は杏梨優よ。クローンだろうと何だろうと、ここにいるのは二人なの」

 そして、紙袋を指差す。

「もう気づいてるでしょ?お父さんの企み」

 杏梨優は、俯き気味になっていた顔をバッと上げた。はしゃいだり落ち込んだり、本当に忙しい人だ。

「うん、おじゃまする気満々だった」

 二人は同じように、にぃっと笑った。




「ただいまー」

「おじゃまします」

 さっきと同じシーン、台詞。違うのは、声の主が逆であるということだけ。

「あらまぁ、いらっしゃい」

 突然の訪問者にも、母は顔色ひとつ変えずに出迎えた。

「つまらないものですが……」

「まぁ、そんな気にしなくてもいいのに」

 杏梨優が流れるような作業で紙袋を手渡すと、隠しもせずに喜んだ。クッキーが好物だということを、父はちゃんと覚えていたらしい。

 帰り道に口論になって、亜紀が自分との私生活との差を見せてやろうと杏梨優を家に引きずり込む。そうなれば、何かしら手土産が必要だろう。そこまで先が見通せるのが父だ。

「久しぶりね、杏梨優ちゃん」

「ええ、ご無沙汰しております」

「えっ?」

 部屋の奥から、弟の伸也が顔を覗かせた。その表情と同じように、亜紀は目を丸くした。

「二人とも、知り合いだったの?」

「一回会ったきりよ。それにしても、大きくなったわねー」

「そうですかー?」

 おばさんのありきたりな挨拶にも、杏梨優は嬉しそうだった。

「ささ、上がって上がって。ほら、伸也もぼーっとしてないで」

「ああ、うん……」

 しかし伸也は、入っていく杏梨優とすれ違いざまに、亜紀をリビングの外へ追いやった。

「ちょっと何よ」

「……あの人、誰?」

 後ろ手にドアを閉めると、俯いていた顔をキッと上げた。しかしいつもの反抗的な態度とは違い、不安からか声が震えていた。

 最近体つきもしっかりしてきたが、まだまだ中学生だ。弱々しく出る弟は、亜紀が思っていた以上に小さく見えた。

「まぁ、初めて見るとびっくりするよね」

 溜息混じりに伸也を宥める。

 時間が経つにつれて、亜紀も随分と余裕が出てきた。つい先程までの自分を伸也に重ねると、それが実感できる。

「お父さんの子よ。ちょっと連れて来たの。似てるでしょ?」

「似てるっていうか……」

 伸也は言葉を濁した。杏梨優のことを、伸也もちゃんと知っていた。それでも戸惑いを隠しきれないのか、目が落ち着きなく泳いでいる。

「じゃあ、生き別れの双子だとでも思っときなさい」

「…なんで俺は今まで知らされてなかったわけ?父さんの言ってたことは知ってるけど、実際にあるのととは話が別じゃん。…クローンなんて」

 躊躇いながらも、それでも言わなくてはいけないと思ったのか、伸也は恐る恐るその名を口にした。

「私も今日初めて知ったの」

「でも母さんは……」

 亜紀は静かに頷いた。

「知ってたみたいね、杏梨優の存在。だからあんなに落ち着いてる」

「どうして母さんは今まで黙ってたわけ?で、なんで今頃になって出てきたわけ?」

「お父さんは、『本来こういう形は望んでいなかったんだが』って言ってた。お父さんとお母さんの間で、杏梨優の管理の仕方にズレが出てるんだと思う」

「……会ってきたんだ」

 あからさまに嫌そうな顔をして、吐き捨てるようにして言った。

「うん、元気そうだったよ。お父さんがそうして元気な以上は、お母さんは会う気はないんだと思う。だから、杏梨優と関わることもないって思ってたのかも」

「姉ちゃん、随分そんな冷静でいられるな……」

「褒め言葉として受け取っとく」

「でも、なんで――」

「無駄な追及は、しない方がいい」

「っ……」

 伸也は唇を噛んだ。その目には、反抗の色がありありと浮かんでいた。

「別に、あの子自体は無害よ。知るべき人が一人増えたってだけで、私たちの立場は変わらない。そもそも伸也がショックを受けることは、何もないはずだけど」

「でも姉ちゃんは、関係大ありだろ?」

「そうだけど、それが何?私自身は何も変わらないでしょ?」

 開き直って、自分で驚く。一体自分の中で、何がこんなことを言わせるのだろう。

「でも……だからって普通にしてられないんだけど」

「戸惑いはするかもね。まぁ、頼もしい姉ちゃんが一人増えたとでも思いなさい」

 誰かさんが言ったようなことを真似てみる。不思議と違和感は無かった。

 伸也は大きく溜息をついた。そして、ドア越しに杏梨優の方をそっと見やり、また亜紀をまじまじと眺め、

「それ、もっと不安」

 やはり二人はきょうだいだった。




「これ、おいしいです!」

「そう?良かった。亜紀と好きなものは同じなのね」

「でも杏梨優、コーヒー飲んでたよ」

「じゃあ亜紀だって飲めるんじゃない?いいわよ、目が覚めて」

「そうだ、いっつも上の空な姉ちゃんには丁度いい」

「うるさい」

 食卓はいつも以上に賑やかになった。

 始めのうちはそれで良かった。だが、

「大体、高校生にもなってワサビすら駄目な奴が何処にいるんだっての」

「そうねえ、少し食わず嫌いなところがあるからねー」

「えー、でも私も辛いのは駄目ですよ」

「…そのキュウリ、ワサビ漬けだけど」

「あれ?じゃあ平気だ」

「ちょっと抜けてるところも、亜紀とそっくりなのね」

 亜紀ははたと手が止まった。

 はしゃぐ母と、凄まじい勢いで料理を口に運ぶ伸也と、楽しそうにお喋りする杏梨優。

 自分が抜けても、会話は何ら支障なく回っていた。

 こうして自分を少し遠くに置いて見てみると、そこには一つの家族の形があった。

 アウェイに思えた父の家、杏梨優が溶け込んでも何ら支障のない母の家。すると途端に亜紀は、天涯孤独とでもいうような感覚に襲われた。いや、自分が無機質なカメラにでもなって、映像をまわしているようだった。そこに確かに自分はいなかった。

 今まで手にしていたものがスルリと抜け落ち、ガシャンと音をたてて割れた。こんなに脆いものなのか。

「わっ、亜紀、大丈夫?」

 杏梨優が椅子から離れてしゃがみ込み、そこで亜紀は我に返る。

 床にはグラスの破片が盛大に散らばっていた。そこからドクドクと、気味悪く麦茶が流れ出していく。表面張力で丸くなった水面の端は、それでもギシギシと無理にでも前に進もうとしていた。そして、徐々に徐々に亜紀の足元まで迫ってきているのだ。

「ほら、拭きなさい」

 母から雑巾を手渡される。返事もするのも忘れて、すぐさま拭った。

「姉ちゃん何ボーっとしてるのさ。いつものことだけど。普通に持ってるコップを落とすかよ」

「ごめん」

「……」

 伸也は拍子抜けしてしまって、それから黙ってしまった。普段の姉なら、ここで反論の一つでも投げてくるはずだった。

「もう、勿体ないよ。折角可愛いコップだったのに」

 そう座りなおし、杏梨優はまた箸を手にする。その持ち方の癖まで、自分と全く同じだった。

「でもいいね。こういうの」

 杏梨優はしみじみと言う。しかし手を動かすのを止めない。

「杏梨優の家では、毎日のご飯って誰が作ってるの?」

 ふと思って聞いてみた。返ってくる答えくらい、分かりそうなものなのに。

「基本私。勿論ちゃんと二人分ね。…でも、一緒に食べたことはないかな。あの人忙しいし。それに、私が無理なの」

「そっか…」

 聞いておいて後悔したが、杏梨優の持ち前の明るさに救われた。

 杏梨優が父と一緒に食事をするのを嫌がるのは、亜紀にも何となく分かった。父と二人で対面する形でいるのは、何か受け付けないものがあった。

「だから、大切にしなきゃ駄目だよ?」

 じっと此方を見つめる杏梨優に、亜紀は複雑な気持ちでいた。見たくもないものを掴まされたようで、しかし心は杏梨優のために痛んでいた。

「うん、そうだね」

 咄嗟に出てきた作り笑いは、目の前の杏梨優と何処も違わなかった。

「さあさあ、冷めないうちに食べちゃって。おかわりもあるわよ」

「はーい」

 母の空気のぶち壊し様にも、杏梨優は元気に返事をした。

 その横で、伸也は黙ったままだった。




「あのさ」

「んー?」

「家に泊まることになった、そこまでは許すよ。お母さんがそう言うのは夕ご飯が一緒の時点で予想してたし、お父さんだってそこまで分かってて杏梨優に見送りに行かせたんだろうから」

「そうねー」

「でもさ、だからって半日前に知り合ったばっかりの人たちで、風呂に入ると思う?」

「いいじゃない。修学旅行とか部活合宿とか、赤の他人とでも裸の付き合いはあるんだから。姉妹で入っても何にもおかしくないでしょ?」

「そういう問題じゃないの。第一狭い」

 亜紀と杏梨優は足を器用に隅に折り入れ、シャワーを取り合っていた。

「こっちが風呂に入ってる時に身体洗ってよ。なんで一緒に出てくるのよ」

「だってよく分からないんだもん。背中流そうか?」

「この状態じゃターンもできない」

 仕方なく、亜紀はまた湯船の中へ戻った。

 足の爪の切り方、足首の日焼けの痕、打ち身一つない脚、腰にあるホクロ、尖った肩――。超難解な間違い探しを前に、亜紀は頭が痛くなる。父の作り上げた娘愛の結晶は、無論父が握っているものからできている。つまり、コピーされている亜紀の特性は全て、父が既知のものということだ。改めてこうして見てみると、杏梨優に罪は無くともゾッとする。

「それにしても、皆いい人ね」

「今日だけいるからよ。毎日だと、ウンザリすることも疲れることもある」

「でも、家族ってだけで十分に絆があって、何だかんだで一緒にいれるんだもの。いいな」

「……」

「無いものねだりなのは分かってる。私は自分の役割に集中しなきゃ。でもね、そっちのほうがウンザリすることも疲れることも沢山あるんだよ」

「だったら、いつだって辞めていい」

「その瞬間、私の居場所は無くなるけど?」

「っ…」

 全ては亜紀のため。それだけが父と杏梨優を繋ぐものだとでも言うのだろうか。

「やめてよ、そんなの」

「本当だから。言ったでしょ?私はその為に生かされてる」

「……考えは変わらないんだ。私と杏梨優は違うって、見てみて分かったはずでしょ?」

「うん。私と亜紀じゃ、持っている背景が全然違う。でも触れてみてよく分かった、私はもっと頑張らなくちゃって。守るものが増えた気がするの」

「私はそんな義務感もって生活してないよ」

「だったらもう少し大切にしなよ、亜紀の周りにいる人たちのこと」

「してるよ?」

「半分はそうね、だからこそ亜紀は愛されてる。でも、それを当たり前だと思っちゃ駄目だよ。それがもう半分」

 亜紀はぶくぶくと湯の中に沈む。泡と共に、轟々と鳴る機械音が耳につく。

 重い。息が詰まる。

 勿論一人では生きていけないことは分かっている。それでも、この世界はいささか窮屈だった。

「お姉ちゃん、頑張るから」

 遠くから、くぐもった杏梨優の声がする。

「亜紀と、それから今日会った人たちのためにも」

 亜紀は聞こえないふりをして、苦しくても暫くそのままだった。




 夜、ベランダに出て空を見上げる習慣は、昔からずっと変わらなかった。

 特にその日課を守り続ける意味はないが、逆に夜風にあたらないと何だか落ち着かないのだ。しかし亜紀は、億劫がってもう一緒に外に出ることはない。星やら月やら、あれこれ姉が教えてくれた頃が懐かしかった。

「ここから見る夜空も綺麗ね」

 ハッとして振り向くと、そんな昔の姉がいた。

「…あなたの家から見たほうが、見晴らしはいいと思いますよ」

 いや、パジャマ姿の杏梨優だった。亜紀のお下がりのものを着ていた。

「敬語だなんて、やめてよ。私だって伸也君のお姉さんだよ?」

「姉ちゃんは俺のこと、伸也だなんて呼ばないです」

「じゃあ、なんて?」

「何も呼ばないですよ。そういう人です」

「ふーん」

 見上げた視線のまま、空を介して会話をしているようだった。家の中でまじまじと姉の分身を見るよりは、大分気が楽だ。

「ごめんね、いきなり押しかけて。随分戸惑ってたみたいだから」

「いえ…。姉ちゃんの父親から、よく聞かされていた話でしたから。まさか本当のことだとは思わなかったけど」

「…?」

 違和感を察する異様な早さは、普段一緒にいる姉と変わらなかった。

 観念して、伸也は口を開く。

「俺、姉ちゃんとは半分しか血が繋がってないんです。種違いの姉弟で…」

 かと言って、伸也は実の父親の顔を知らない。自分の身体に巡る血が、姉と違うという証拠としてあるだけで、小さい頃まではあの家で暮らしていた。四人で。

「じゃあ、どうやって自分の身の上を知ったの?」

「血液型占いが流行った幼稚園生の時に、唐突にあの人から言われたんです」

 あの人は深刻な顔をして、ちゃんと自分の目を見てゆっくり話してくれた。

「でもタイミングを考えなさすぎるというか、デリカシーがなくて…」

 事実を受け止めるには、まだ伸也は幼かった。そのままショックに呑み込まれてしまい、以来伸也は父のことを『父ちゃん』と呼ぶことはなくなった。

「不器用なのよね、あの人。人間の気持ちが理解できないんじゃないかってくらい」

「そうですね」

 別に母の不倫とかではない。正式な人工授精。分かっていても、皆と違う遺伝子を持つ自分だなんて、最初は信じたくもなかった。

「でも、流石にあの人の実の娘なだけあるよね、亜紀って」

「あなたが言いますか、それ」

 しかし、そんな沈み込む自分に手を差し伸べてくれたのは、他ならぬ姉だった。

「じゃあ、カンシャしなきゃいけない人が変わったね。生んでくれてありがとうって」

 ランドセルもまだ真新しい亜紀は、半分きょとんとした顔のまま言った。

「でも、お母さんにカンシャすることは変わらないね」

 習いたての言葉を乱用し、姉は得意げに笑った。

「ちょっとズレてるんですよ、現実逃避というか。でも姉ちゃんは…その、優しいというか人に甘いというか、怒ることの方に目が向かないんです」

 だからこそ、何度もその無自覚に救われた。

 伸也は寸手のところで、母親まで憎むことは避けられた。そうして自身を否定していくこともなく、家の中でも孤独を作らずに済んだ。

「うん、そうだね。私のことも、何だかんだで受け入れてくれたと思う。遺伝子がどうこうとしてではないけど」

「そういうところです。でもそれって、何も考えてないから怒りもしないだけなのかなって思う時もあって…」

「裏を返せば、冷たい人なのかもね」

「…やっぱり、短時間いるだけでも分かるものなんですか?」

「うーん…。というより、自分を見つめ返してるみたいなものだから」

「でも、あなたと姉ちゃんは違いますよね」

「違うと思う?」

「あなたは、怒りはしませんが人を許すこともしません。たった一人、あの人のことを『お父さん』と呼ぶような姉ちゃんみたいに」

「……」

「…なんて、それくらいしか見つけられませんでした」

 ようやく杏梨優の方を向き、小さく苦笑いをする。

「俺、正直悔しいんです。ずっと一緒にいた俺より、さっきまで知りもしなかったあなたとの方が、姉ちゃんにそっくりで血が繋がってて。…何て言うか、家族ってどういうものなんだっけとか、随分重いこと考えてました」

 杏梨優を姉と同等に扱わないのは、せめてもの抵抗でもあった。

「でも、俺はあなたを嫌いになったりはしませんよ」

「憎くはないの?」

「ないですよ。…だって俺、姉ちゃんみたいになりたいですから……」

 掻き消えそうな声で、それでもちゃんと伸也は言い切った。頭をガシガシと掻き、また空に目をやる。

 途端、杏梨優の手が熱くなった伸也の頬に伸びた。すっと顔を引き寄せられ、また視界に杏梨優がうつる。

「よく見てみると伸也君、目元が亜紀とそっくりね」

「…そんなこと言われても、嬉しくないですよ」

 ぱっと手を振り払い、伸也はまた上を向く。

 しかしその声は、前よりもずっと明るかった。



 皆が寝静まったのを確認すると、電話に手をかけた。

 元々自分の家だ。番号は空で打てる。

 コール音がなる間、彼女はじっと待っていた。

『もしもし』

 久々に聞くその声は、八年前と何ら変わりなかった。

「清志さん、これはどういうこと?」

『ああ、君か』

 名乗らずともすぐに分かってくれた。何せ彼のことを「清志さん」と呼ぶのは、自分だけなのだから。

「杏梨優ちゃん、ちゃんと清志さんが育てるって言ったじゃない」

『ああ、育ててるよ』

「嘘おっしゃい。聞く限り、かなり放任してるじゃない。可哀想よ」

『あの子はそれでのびのびしている。何も問題ないと思うがね。』

「あるわよ。いっつもそうやって人の心を読めないんだから。杏梨優ちゃんには杏梨優ちゃんなりの生き方をさせてるっていうの?」

『ああ、あの子はあの子の役割を全うしている』

「そういうことじゃないの…。全く、どうしてこう伝わらないの?あまりにも酷いようなら、私が引き取りますよ」

『それは困る。あの子は亜紀を救うための、大事なスペアだ』

「まだそんなこと言っているの?」

 八年前の悪夢が蘇る。やはり清志はあの時と変わらず狂っていた。

『私はちゃんと君達を愛しているよ。それは心配しないでほしい』

「それは分かっているわ。でなかったら、伸也は生まれてこなかった」

 もう一人子供が欲しいと言い張った時、清志は頑として譲らなかった。もう同じ悲劇を繰り返したくないというばかり。

 ちゃんと幸せな家庭の、どこに悲劇があるのだろうと彼女は全く理解できなかった。それでもどうしても子供が欲しかった。一人っ子で子供時代に淋しい思いをした彼女にとって、兄弟は憧れのような存在でもあったのだ。

「だったら、これで作りなさい」

 やけになったのか種を手渡された時はぎょっとした。そして、「私のものではないから、大丈夫だ」と続けられ、更にたじろいた。

 躊躇して当然だった。違う父親を持つ子を産んで、どう育てていけばいいのかなんて見当もつかない。

 だが、最終的に彼女は妊娠した。

 本来押し退けるべき清志の挑発があまりに酷くて、思わず買ってしまった。

 後悔は、ないと言えば嘘になる。自分の浅はかな決断は、一瞬でも息子の心に陰を落とした。

 でも今は、伸也が生きていてくれることが何よりだ。注ぐ愛は娘と変わらない。

『大丈夫だよ。私はちゃんとしてる。あの子のことは、任せてくれ』

 そこで一方的に電話は切れた。

 ツーツーという冷たい音が、彼女の耳にいつまでも響いていた。



2、

「あー…暇だ」

 口にしたところで現状は何も変わらないのだが、それでも言わずにはいられなかった。でないと、もどかしくって仕方がない。

「それ、もう七回目だよ。僕じゃ不満?」

 隣でベースをいじっていた蓮が、その場を繋いだ。

「いや、そうじゃなくて…。一人いないだけで、こうも違うとは思わなかったんだよ」

 朝、まだ人も疎らな学校で、蓮と凱は二人ぼっちだった。

 いつもなら、早くから教室にいる亜紀とやんや言い合って過ごすのだが、今日は何故か来ていない。

 だらだらと過ごすいつもの朝は、ただの軽音楽部の朝練になっていた。本来はこっちのほうが正しいかたちだというのに、不自然としか感じなかった。

「静かだな」

「平和で何より」

「そうだけどさ、なんつーか…。調子狂う」

「僕『だけ』じゃ不満?」

「う…まぁ、な」

「素直で結構」

「……暇だ」

「八回目」

 普段だったら気に留めもしないが、何せ昨日のことがある。頭の隅ではチカチカと、警戒ランプが点滅していた。

「あいつ、どうしたんだろうな」

「さあね。でも杏梨優ちゃんのことだったら、僕らは首を突っ込むべきではないと思うよ」

「……」

 流石に蓮はお見通しだった。

 幼稚園児の頃からの付き合いだ。その腐れ縁ゆえにこの通り、二人の間で隠し事は一切通用しなくなった。特に、すぐに顔に出る凱の方は。

「でもさ…。昨日みたいな亜紀、俺初めて見たんだよ」

「うん」

「かなり余裕がなかったっていうか、あいつにも焦ることあるんだって…。本当なら当たり前のこと思ったりさ」

「心配?」

「んなことねーよ。…でもいきなり宇宙語喋り出したり、やけに呑み込みが早かったり、いつもなら何されたって気にしないくせにあんな嫌そうな顔したり、変じゃん。いつもみたいにボケーっとしてた方が、亜紀らしい」

「そうだね」

「かと言って、こっちからしてやれることは何も無いか…。止めた止めた、考えるだけあほらしい」

 凱は自分のギターを引っ手繰ると、手当たり次第にジャカジャカ鳴らした。

 チューニングのずれた弦が、気味悪く音を唸らせた。




「もういい時間なのに、運動部くらいしかいないね」

「軽音部くらいなら、教室にいると思うよ」

「朝練?随分忙しいんだね」

「もうすぐ文化祭だから、その準備なのよ」

 校門先の並木に生い茂った緑も、引いてきた暑さと共に陰りを見せ始め、秋の気配を感じる。

 普段なら、さっさかと通り抜けるはずのそんな朝、

「亜紀、起きるの早いよ。私のこと置き去りにして行く気だったでしょ」

「杏梨優が寝坊するのが悪い」

「六時起きでも寝坊とみなすの?」

「その三十分後に家を出るとしたらね」

 毎朝一人でいることに慣れた道を、亜紀はのろのろと二人で歩いていた。

「そんなに早くに出てどうするの?亜紀って何か部活って入ってたっけ」

「強いて言うなら文芸部」

「うわっ、地味」

「何とでも言いなさい」

「そうじゃないの。私が言いたいのは、朝に活動なんてなさそうな地味な部活だってこと」

「まあ、ないけど」

「じゃあ、どうして?」

「あのねえ、」

 亜紀は立ち止まる。テンポが速くて、歩きながら口を動かすことすら難しく思えてきた。

「いいじゃん別に」

「いいけど気になるじゃん」

「特に大した意味はないよ。ただ、家から早く出たいだけ」

「どうして?」

「あれが皆が起きて来ないギリギリの時間なの。一人でいる時間はなるべく多く作っとかないと、クラスの皆といる時に処理しきれなくなる」

「そんなに人付き合いってストレス?」

「いや、愛想笑いが苦手なだけ」

「そんなの慣れっこ」

「慣れちゃいけないと思ってる」

 また歩き出すと、杏梨優はぴったり横についてくる。不思議にも、足がもつれることはない。

「いつもはもっと早いんでしょ?ホームルームまでの一時間弱、何してるの?」

「本読んだり、凱や蓮と話したり」

「ああ、昨日のあの二人?」

「もう覚えたの?」

「うん、クラスの大体の人は」

 亜紀は特に驚く様子は見せなかった。今更杏梨優から何を聞かされても、溜め息しか出てこない。

「使う場面、そんなに無いよ」

「そうだけど、知っておいて損はないでしょ?」

「得もないけどね」

 まだ眩しい日差しから逃げるようにして、亜紀は校舎に急ぎ足で飛び込む。

 下駄箱から上履きをずり落とし、ぺたんこな隙間に横着して足を通した。

「ねえ、特に用事ないんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、学校案内してよ」

「え?」

 振り向くと、杏梨優は真新しい上履きを手を使って足に引っ掛けていた。

「学校の構造ってぐちゃぐちゃしてて、分かりづらいんだもん」

 そう片足立ちでぐらぐらしながら言う。

「まあ、かなり非合理的な建ち方はしてるけどね」

「何が学び舎なんだか」

「そんなこと言ったら、自主自律だって無いようなものよ。ただの自由奔放」

「じゃあそんな好き勝手に造られた学校、見せてもらいましょうか」

「…さして見所もないけどね」

 杏梨優に後ろから押される。亜紀は早くに諦めをつけると、されるがままにされていた。




 しんと静まり返っているというより、空気が威圧感を持って音を封じ込めているようで、だが息苦しさは感じない。酸素ボンベのいらない水の中、深呼吸ができる月の上。そんな感覚が持てる素敵な所。

 なぞるようにして背表紙を辿りながら、独特のペースで歩を進める。興味の湧いたものを前にすれば、自然と足が止まる。その時が来るまで、ゆったりと本棚を回るこの時間が好きだった。

「柊ツカサ」と書かれたノートを、この部屋で開いたことは一度も無い。図書室に来れば、本を読む。それが最も自然な在り方だろうと当然思うからだ。

 教科書などには「佐久間銀二」と記してあるが、今となってはそっちの方が申し訳程度のものに思えてきた。何故って、

「あ、柊先輩。いらしたんですか」

 誰もが彼を、そう呼ぶからだ。

 顔を上げれば、その主犯が不思議そうにこちらを見やっていた。

「軽音の朝練、しなくていいんですか?」

 しかしその質問には答えずに、すぐに視線を本棚に逸らした。

 数秒置いて、また彼女を見た。だが、現状は変わらない。

「…その子は?」

 後輩と瓜二つの子が、彼女の横で同じようにして首をかしげていた。

「ん?ああ、転校生の杏梨優です。ちょっと学校案内してるんですけど、何処も開いてないんで結局ここに来ました」

「朝早いから人も少なくていいと思ったのにね」

 あれから、色々なところをぐるぐるしたはいいが、特に説明するような場所も無かった。何せまだこの時間じゃ、教室以外は施錠されている。仕方なく、亜紀は図書室を訪ねたのだ。ここなら、朝から受験生の勉強場所として開いている。文芸部員として活動場所の様子はよく把握していた。

「柊先輩。軽音部長で有名なの」

「なんで軽音部の先輩を亜紀が知ってるわけ?」

「兼文芸部長だからよ」

「へえ、多彩ね。あ、よろしくお願いします」

「ああ、どうも…」

 素直にペコリと頭を下げる杏梨優に、たどたどしく会釈した。初めて亜紀と会った時とまるで同じだったのだ。

 亜紀もそれを知ってか知らずか、気まずそうに目を逸らした。それも、初めて自分の名前を呼んでくれた時の表情に重なった。

 新歓ライブで大きな声で「柊先輩!」と叫んだ亜紀。起こった笑いに罪悪感を覚えたのか、そのまま去っていってしまい、以来幻の後輩となりかけていた。しかし再会は意外にも早く、それは一週間後の文芸部会にて訪れた。部誌で柊ツカサを知っていて、思わず呼んでしまったとぺこぺこと頭を下げられた。どうやって仮名と顔を一致させたのかは未だ謎である。

 あれからもう一年、今やすっかりそっちの愛称の方が定着してしまった。何のためのペンネームなのやら。

「二人は姉妹かい?」

「ええ、一応」

「そうか」

 あくまでそれ以上のことは聞かないでおいた。これより先には入ってはならないと、直感的に悟った。

「それで、こんなところで油売っていていいんですか?朝練行かないんなら原稿書いて下さいよ」

「失敬な。これだってちゃんとした部活動だよ」

「よく言います。その本、もう何回も読んでるじゃないですか」

「最近こういうのしか読む気がしないのだよ。他のものに手を出すと、作品に影響する」

「もう締め切り過ぎてますけど」

「言うでないよ。そしてそれを黙認できるのも部長の特権だ」

「ずるい。私には散々急かしといて」

 杏梨優から目を逸らすように、二人は次々と言葉を投げる。その脇で、本人は気ままに棚のものを物色していた。

「朝から声を出す気にはなれない。それに、なるべく自由な時間は自由に使っとかないと、後で苛々するからな」

「一人が好きですね。邪魔しちゃいました?」

「いいや、気にしてないよ」

 涼しく笑い返すと、亜紀の視線はすぐに下を向いた。こういう逃げ足の速いところは、人付き合いの下手な文芸部員の中でも亜紀が断トツだ。バリアを張る段階が人一倍早いのだ。彼はそれを重々承知していた。だから、

「大正ロマンなんかが好きなら、奥の棚にもっと沢山あるよ」

 今一歩引いたと分かった時は、すぐにその場を離れるようにしていた。そうして元に戻るまで時間を与えてやる。少し遠回りではあるが、ここまでしないと話が進まないこともしばしばあるのだ。手間をかけるだけのいいものを、亜紀は溢れるほど持っている。次期部長候補として放っておくわけにはいかなかった。

「良いですよね、こういう雰囲気って。背景が洒落てて」

 対して杏梨優は、臆することなく人の目を真っ直ぐ見つめてくる。亜紀もこちらを向いてくれたら、こんな強い光を持った目をしているのだろうか。

 しかし、同じような姿かたちをしているというのに、何故だか上手く連想できなかった。

「…君は、一体誰なんだい?」

 思わず零れた素直な疑問は、

「――亜紀のスペアですよ」

 とんでもない応答によって、はぐらかされたような気がした。

「スペアなら、どうしてそんなに違うのかな」

 少し揺れた杏梨優の瞳に、自分はどう映っているのだろうか。

「…違いますか?」

「ああ、君は君だよ。こんなこと言うのはお節介かもしれないけど。でも、少なくとも俺の目はだませない」

 杏梨優のことは分からなくとも、普段亜紀の方を見つめていれば、見分けるのは簡単なことだ。

「でも、あなたは今私を見て話していませんよね?」

「っ……」

「私を通して、亜紀を見ている。そうですよね、柊先輩?」

 杏梨優は亜紀とは似ても似つかない愉快な笑い方をする。これだけ違うというのに、その光景に戸惑いを隠せないのは、事実だった。

「本人に言えないことを、私を利用して消費しようとするのはやめてくれませんか?」

「…どういう意味だ?」

「そのまんまですよ。私と亜紀が違うって豪語するんなら、ちゃんと区別つけて下さいな」

 気圧されて、思わず視界から杏梨優を外した。

 亜紀は素知らぬ顔で本をパラパラとめくっていた。そういえば、彼女がちゃんと座って本を読んでいるのを見たことがない。ここで見かけるとき、亜紀はいつもこうして紙束を指で弄ぶのだ。片っ端から次から次へと。ずっとそうしているところを見ると、毎回の休み時間につき本棚一幅分くらいの冊数になるだろうか。

「…ライオンが人に手を差し伸べるというのは、正直どう思う?」

 ふと、亜紀が顔を上げた。目が合うと、自分に聞かれているのだとようやく気付いたのか、慌てて本を閉じる。

「そうですね、正直展開が甘いと思います。もう少し葛藤があってもいいんじゃないですかね。ああ、でもここでのライオンは神としての象徴だから、そんな心情描写はできないのか――」

「っ……」

 今から三冊前にめくっていた本だ。亜紀は本を二度も読むことは滅多にしない。彼女が良しと認める本は、百冊読んでも片手の指で収まる数くらいしか見い出されないからだ。そして今のように酷評が返ってきた時点で、「以前に読んだことのある本を手にとっていた」という可能性は消える。だとしたら――

 隣を見やると、杏梨優も同じようにしてページを流していた。不意に、本を戻そうと伸びる腕を掴んだ。触れた手首は、思っていた以上に華奢で、驚くほど冷たかった。

「そんな一瞬で、活字を追えるのかい?」

 杏梨優は軽くその手を振り払うと、冷ややかな目を向けた。

「だから、言ったじゃないですか。本当はどっちに言いたいことなのかくらい、区別つけて下さいって」

「……」

 くるりとまた向きを変えると、亜紀は夢中で本に目を落としていた。

 そんな一瞬で、活字を追えるのかい?

 亜紀の前で頭の中で反芻しても、何も違和感は無かった。

 俺の目はだませない。

 君は君だよ。

 杏梨優に投げかけていた言葉は、どれだけ強く思っても亜紀には届かず、風景に溶けて消えていく。途端にもどかしさを覚え、

 ――君は、一体誰なんだい?

 やけになって投げつけた言葉に、ドキリとした。

 とうとう、亜紀は顔を上げた。

 こちらを恐る恐る見つめる瞳には、杏梨優よりもずっと優しい光が灯っていた。

 だが、

「ご心配なく。別にこれで読んでるわけじゃありませんから」

 その手に握られていたのは、今朝入荷したばかりの本の続編だった。




 チャイムが鳴るなり早々、亜紀は教科書をぱらぱらとめくると机に突っ伏した。

 確かに授業はつまらないが、あんな毎日で大丈夫なのだろうか。

 後ろでそんな亜紀を観察しながら、凱はそっとため息をついた。心配するだけ馬鹿らしい。あれで自分の二倍の素点は取ってくるのだから。思えば亜紀が真面目に勉強しているのを見たことがないが。

 きっと見えないところで努力しているのだろうと無理やり結論づけ、凱は黒板に視線を戻した。危うく、無駄な気をおこしたせいで板書に穴が開くところだった。

 が、またすぐにペンが止まった。

 ノートの上に、小さな紙片が飛び込んできたのだ。開くと、

「……?」

 漢字でもアルファベットでもない、模様のような線が羅列されていた。

 分かるのは、角ばった小奇麗なこの筆跡は、明らかに亜紀のものだということ。だが、亜紀は頭を伏せたままビクともしていない。

 もしやと思い、後ろに目をやる。生徒の頭を三つ越えたところで、杏梨優と目が合った。杏梨優はキシシと悪戯っぽく笑う。

 俺じゃなくてあっちに聞けよと、すぐさま紙片を前へ投げた。

 小さな白は綺麗な放物線を描き、亜紀の机に落ちた。

 亜紀はのろのろと起き上がると、紙を開く。そしてそのままの姿勢で何やら書き込むと、見もせずに後ろに放った。

 紙は何故か凱のところに届いた。

『文化祭は来週からだよ』

 よく分からないが、そういう用件だったらしい。

 そういえば、もうそんな時期だ。亜紀は一体どう過ごすのだろう。また杏梨優に連れ回されるのだろうか。そこには他のクラスメイトも一緒だろうか。どちらにしても、窮屈そうにしている亜紀の顔が浮かんだ。

 亜紀は集団を好まない。皆と楽しくやっているようで、実は冷めた表情をカモフラージュしているだけなのだ。限界が来れば、時折ふっと姿を消す。その時は決まって図書室にいる。柊先輩と一緒に。

 皆と一緒にいる時よりも、その笑顔はずっとのびのびしていた。亜紀を連れ戻しに行くのは基本凱の仕事だが、億劫で仕方が無かった。そんな亜紀を邪魔するべきかしないべきか、毎回葛藤するのが面倒でならないのだ。

 ふと沸いてくる苛立ちと一緒に、凱は紙を後ろへ投げた。

 紙は少し起動を外れ、杏梨優の隣の席に落ちた。すぐに杏梨優の手元に渡ったが、凱は思わず舌打ちした。

「ねえ、」

 隣で蓮が小声で耳打ちしてくる。

「柊先輩のことなんだけどさ」

「ああ?」

 また舌打ちしそうになる。今その名前は出さないで欲しかった。

「ゴストラー、後夜祭に出ないことになったんだって」

「は?」

「だから、出ないんだって。後夜祭」

「いや、意味は分かるよ」

 柊先輩率いるバンド、ゴストラー。その圧倒的歌唱力とパフォーマンスは、軽音部一光る存在だ。そして、彼らのライブは後夜祭の目玉でもある。それが潰れるというのは、俄かには信じられない話だった。

「というか、なんで?」

「分かんないよ。僕もさっき聞いたばっかりだから。それで、僕らのバンドに話が回ってきたんだけど」

「は?」

「ほら、僕らのところ、元々経験者多いし」

「でも…」

「やっぱり無理があるよね」

 肝心のギターの健吾が、こないだ体育で指を駄目にしたのだ。文化祭までにの回復は見込めない。

「どうする?断るのも勿体無いし、他のバンドの子を引っこ抜いてくれば…」

「いや、それはしたくない」

「だよね」

 正直、自分のメンバー以外の部員は信用ならなかった。

「…でも、他の奴らにも任せられないだろ。考えとく」

 見つめる先では、亜紀がまた呑気に眠っていた。




 目が覚めると、必ず汗をびっしり掻いている。

 杏梨優を学校に送り出すようになってからは、その不快さは余計に増した。

 清志は大きく伸びをすると、混乱する頭を一旦落ち着かせる。

 晴れた空の下、倒れていく人、一気に横切っていくトラック――。

「妊娠したの」

 妻が亜紀を身篭ったその日から、ずっと見続けている夢だ。

 その夢は、日に日に鮮明さを増して行く。

 それと比例するように、恐怖もどんどん積み重なっていく。

 清志は知っていた。

 これは変えられない運命なのだと。

 同時に、自分の能力を恨んだ。

 少し先を見越せることは、良いことでもあり悪いことでもあった。

 こうして未来に臆病になることは、悪いことの方に分類される。

 おかげで亜紀を真正面から愛してやれなかった。妻に迷惑をかけた。伸也が生まれた。

 自分の狂った能力がために――。

 悟ったその日から、清志はクローン研究に没頭した。

モラルなんて関係ない。それで運命の先を変えられるのであれば、何でも良かった。

杏梨優の里親だった同胞の研究者が亡くなった時も、清志は迷わず保護者を志願した。

彼女を連れて帰ってきた時の妻の顔は、今でもしっかり脳裏に焼き付いている。妻が亜紀と家を飛び出していったのは、それから半日後のことだった。

仕方ない。

 清志は自分にそう言い聞かせることしか出来なかった。

 最愛の妻と娘と離れることになってしまっても、その命には代えられない。

「パパ」

「違う。お父さんだよ、――亜紀」

 取り残された二人の世界。不安げにこちらを見やる幼い杏梨優にかけてやる言葉は、彼女を通して亜紀に注がれていた。

 自分は何も間違っていない。分かっていても、悪夢に毎度押しつぶされそうになる。

 負けるものか。

 清志は歯ぎしりをすると、机に向かう。その脇には、幸せそうに笑う亜紀と妻の写真があった。

 全ては愛ゆえに。

 それのみが清志を動かしていた。




「嫌だ」

 そう返ってくるのは分かっていたが、ここまではっきり即答されると心も折れそうになる。

 午後の英語の授業は猪瀬が担当だったので、急遽文化祭の準備が出来ることになった。クラスの出し物は定番の喫茶店。教室のメイキングは前日になるため、今日は看板や衣装などの小物作りに精を出していた。

 その隙に、凱は正面から亜紀に助っ人を頼み込んでみたが、全然相手にしてくれなかった。

「いいだろ?後夜祭なら何処ともスケジュールかち合わないだろうし、練習に付き合うのも一週間だけだし」

「嫌だ」

「そんなに忙しい身じゃないだろ。なあ、頼むよ」

「嫌だ」

「何でだよ。俺今凄く困ってるの。友達として助けてやろうとか思わないの?」

「いーやーだっ」

「あ、おい!」

 マーカーのインクが切れたと分かると、亜紀はいそいそと教室を出て行ってしまった。

「あーあ、フラれちゃったね」

 隣で杏梨優がケタケタ笑う。

「笑い事じゃねえよ。今のところまともにギター弾ける奴、あいつくらいしか知らないんだぞ」

 一度遊び半分で弾かせてみたら、何ら問題なく音が鳴ったのだ。一体何処で習得したのか、自分より上手いくらいだった。

 これだけ出来て部員にならないのは何か事情があるのだろうと、あの時は勧誘はしなかった。だが、いざ誘ってみてここまで拒まれるとは思わなかった。

「しょうがないでしょ。亜紀が大勢の人の前に立とうだなんて、思うはずがないじゃない」

「……」

 言われてみれば、そうだった。

「でも、どうするんだよ。このままじゃ後夜祭自体が危うい」

「柊先輩の方を説得したら?」

「それは俺が嫌だ…」

 あの人ほど話の通じない人はいない。それこそ亜紀に通訳させないと、会話が成り立たないくらいだ。

「なあ、お前から亜紀を説得してみてくれないか?」

「無理よ。亜紀が私の言うことを聞くとは思えない」

 凱は頭を抱えた。どいつもこいつも使えない。

「諦めてそこらへんの部員採って来ようよ」

「キノコ狩りみたいに簡単に言うなよ」

 かなりサバイバルなこの状況で、毒のあるものは引きたくなかった。

「こら、そこ!何か手伝ってよ!」

 何処からか女子の野次が飛ぶ。仕方なく凱はハサミを手にした。線通りにダンボールを切るだけだというのに、刃が進まずに苛々する。

「亜紀も柊先輩も曲者ね」

「曲者同士、気が合うのかもな」

「分かった!じゃあ、亜紀に柊先輩を説得してもらったら?」

「駄目だ!」

 思った以上に大きな声が出て、途端にクラスの活気がさっと引いた。

 突き刺さる視線に肩をすくめると、すぐにまた元の状態に戻った。

「そんなに駄目?」

 杏梨優が可笑しそうに反復する。

「…駄目だ。確かに決着はつくだろうよ。そうすればどちらかが後夜祭に出てくれることにはなる。…でも何か嫌だ」

 楽しそうに談笑する二人の姿が、脳裏に浮かんだ。鬱陶しい。

 邪念を断つように、ジャキンと最後の一片を切った。出来上がった丸は、随分と歪だった。

「不器用ね」

 杏梨優は凱からそれを奪うと、更に手を加える。瞬く間に、一回り小さい綺麗な円が出来た。

「何でもかんでも上手くいくわけがないわ。飛び越えることを第一とするなら、時にはハードルを低くすることも必要よ」

「…それでも俺は賭けに出たい。もう少し粘るよ」

「こだわりを持つのはいいことだけど、それが身の丈に合った無茶なのかは、よく考えてね」

「心配してくれてるのか?」

「まさか」

 視線を移すと、亜紀が置いていった看板が目に留まった。こちらも切り口が綺麗だった。羅列されているメニューは、飾りっ気の無さから無関心さが滲み出ていた。

 その横で、杏梨優も何やらせっせと書いている。こちらも、冷たいほど小奇麗な字だ。

「――なあ、お前さ」

 ふと、凱は思いつくままに口を開いた。

 きょとんとこちらを見やる亜紀にそっくりな顔。それは皮肉にも、自分には見せたことが無いような無邪気な表情だった。




 あれだけベッタリくっついていた杏梨優がいきなり学校に残ると言い出したものだから、亜紀は少し驚いた。よくよく考えてみれば、四六時中傍にいられる義理はないのだから別に構わない。だが、何処か腑に落ちないものがあった。

「だから、先帰ってて」

「そりゃのびのびさせて貰うけど、何の用事?」

 喉に刺さった小骨を掻きむしりたくなるほど神経質ではないが、気になるものは気になった。

「ちょっと調べ物で図書室に。時間かかるかもだけど、亜紀も行く?」

「いや、いい」

 今はあの人に会いたい気分ではなかった。

「ねえ」

「うん?」

「…さっきの凱の話って本当?」

「気になるんだ」

「別に」

 柊先輩が後夜祭に出ない。

 そのニュースは凱だけでなく、ファンの友達やゴストラーのメンバーからも聞かされた。だが、未だに信じられなかった。

 朝会った時は、特に何処か身体が悪いようには見えなかった。気分も、そう沈んでいた様子じゃない。

 原因が分からない以上、凱のバンドが代打で入るという事実も、鵜呑みにするのは危険だと考えた。だからバンドの誘いも断った。

 本当なら柊先輩本人を追及したいところだが、生憎今日はそんな余力は残っていない。杏梨優といるだけでも普段の二倍は気を遣うのだ。蟠りを家に持ち込むのも嫌だったが、ここは大人しく帰るべきだろう。

「遠慮しなくてもいいのに」

「してない」

「あ、後夜祭の話は本当よ」

「…理由は分かる?」

「さあね。柊先輩しか知らないみたい」

 手にしている情報は同じらしい。

 亜紀は新品のマーカーを職員室から掻っ攫ってきた帰りに知った。ゴストラーのメンバーにばったり会ったのだ。

「やあ、椿ちゃん」

「亜紀です」

 柊先輩の周りの人に、亜紀は「椿」と呼ばれていた。二人でセットにされること自体は別に何とも思っていないが、相手が相手となると少し気が引ける。

「ゴストラーのライブ、中止にしたんですね」

「そうみたいだね」

「随分他人事ですね」

「そりゃ、まだ柊が何も話してくれないからな」

「…え?」

 彼はわざとらしく肩をすくめた。ドラムを叩くだけでは持て余しそうな、鍛えられて締まった三角筋目立った。

「今日、急にあいつが言い出したんだよ。後夜祭は出ないって」

「…それで、はいそーですかって納得して止めちゃうんですか?」

「柊を説得できるような奴がいたら、見てみたいね」

「その点は否定はしません」

 持っているポリシーの芯が堅すぎて、柊先輩とは話が噛み合うことすら稀だ。

「でも、だからってそんな簡単に鵜呑みにできるものなんですか?」

「まあ、あいつとの付き合いは慣れだよ。最後の文化祭で力を出せないのは残念だけどね。皆にも申し訳ないけど」

 別にバンドへの熱が冷めたわけではない。楽しみにしていた人が沢山いたことも知っている。

 なのにどうして、柊先輩の気まぐれな一言を信じることができるのだろうか。

 不思議な絆が、そこにはあった。

 だから、亜紀はそれ以上何も聞けなかった。

「全く。一人の生徒の一言で、こんな大きくイベントが揺れるものなのね」

「そんなものよ。人が作ってるんだから」

 亜紀は大きく溜め息をついた。最近そうしてばかりだ。

「じゃあ私、帰るから」

「帰っちゃうの?」

「うん。帰る」

 躊躇う前にそそくさと会話を打ち切ると、亜紀はくるりと背を向けた。

「じゃーね、また明日」

 杏梨優のさよならに、亜紀は手を上げるだけで返した。

 笑みの消えた、杏梨優を見ずに。



3、

 目つきが悪い、とよく生徒には言われるが、今日はすれ違いざまに子供に泣かれそうだ。

 鏡の前で自分のクマを睨みつけ、猪瀬はふと思った。

 文化祭の前日は係の配置や各先生のタイムスケジュールの把握で、当日よりも忙しい。毎年経験しているが、この徹夜だけはどうしても慣れなかった。

 一度仮眠を取ろうか考えたが、生憎横になれそうなところは今日はない。仕方なく、そのままの足で教室を見に行った。

 どのクラスも、まだ人はいないのに活気に溢れていた。だが、贔屓目を除いても自分のクラスが一番だと思った。贔屓目を除いても、だ。

 この看板は美術部の飯田か。メニューは達筆な藍谷だな。扉のデザインは、色遣いの悪ふざけ様からして益田と吉村だろう。

 ワイワイと楽しくやっている、生徒たちの顔が浮かぶ。身体はズシリと重く頭も冴えないが、悪くはなかった。

 その中に、少し馴染めていない色を見つけた。

 看板の下の、宣伝文句。たった七文字の「WELCOME」を、猪瀬はじっと見つめた。具体的な生徒の名前がなかなか思い浮かばない。

 これは、紅崎のか…?

 筆跡は藍谷とそっくりだ。だが、あの子は必要以上の仕事はしない。

 自分で描いたものを突き進めていく紅崎。その性格は、たった一週間だけでも十分思い知らされるほど強烈だ。

 何せ、あの藍谷がたじろくんだからな。

 全くそっくりな姉妹だが、持っているものは明らかに違った。いや、蓄えてきたものが違うのだ。だが、

 集中している時の顔、遠くのものを見つめる目つき、示し合わせたように顔を見合わせる時の笑み――。時折垣間見せるふとした仕草は、洗練されたかのようにそっくりだった。最近はそれが頻繁に見られる。

 一緒にいるうちにどんどん二人は歩み寄っている。これは、姉妹愛として喜ばしいことなのだろうか。それとも――。

「先生」

 声がして、何も考えずに

「おお、藍谷――」

 後ろを向くと、猪瀬は凍りついた。

「っ…。おはよう、紅崎」

「おはようございます」

 ぺこりとお辞儀をすると、何事もなかったかのように教室に姿を消した。

 ドアが閉まるのを合図に、どっと汗が噴き出した。

 確かに、姿を見ずに声だけで判断するのは無理だったかのしれない。だが、あの時自分は紅崎を、髪型だけで認識した。

 しかも、今ドアを閉める時――。

 痛みを感じる頭の中で、恐る恐る再生してみる。

 数センチ手前、ドアは急にスピードを落としてそっと閉まった。

 朝一番に来るから他に人は誰もいない。音を立てることに気を遣わなくてもいいはずだ。なのにいつも藍谷は、律儀にそうしてドアを静かに閉める。それとそっくりだった。

 たったそれだけのことでも、猪瀬は胸騒ぎがしてならなかった。寝不足による耳鳴りではない。確かに身体の奥底で、不吉な音が渦巻いているような気がした。

 続けざまに幾人もの生徒とすれ違う。いつもとは違う顔つきをした皆と、軽く言葉を交わす。だが気味の悪い感覚は収まらないまま、時間だけが刻々と過ぎて行った。

 ふと腕時計を見やると、もういい時間だった。金属板の下で、手首は嫌な汗をかいていた。

 ――文化祭が、幕を開ける。




 いつも以上に多く人の行き交う廊下、飛び交う歓喜、無遠慮にがなり立てる放送――。団体戦がものを言う体育祭も苦手だが、やけに騒がしい文化祭も亜紀は嫌いだった。何より、盛り上がっている中で一人白けている自分が嫌だった。かと言って、気持ちを入れ替えて心から楽しめるほど器用ではない。だから、

「ほら、亜紀。接客してるんだからもう少し笑顔ちょーだい」

「無理」

 乗らない気分がすぐに顔に出てしまう。

「ねえ、私がこういうの向いてないって分かってるでしょ?杏梨優はともかく、なんで私まで道連れにするわけ?」

『お嬢ちゃん、コーヒー一つ』

「……」

「ほら、亜紀」

「…はい、只今」

 確かに、クラスで喫茶店をやるというのは知っていた。だが、ウェイトレスをやらされるという話は聞いていない。しかも、杏梨優と二人だけで回せだなんて。

「ありがとう」

「いえ」

 紙コップ一杯分のスマイルで返すと、そそくさと席から離れようとする。

「あ、ちょっと君」

「はい」

「君、あの子とそっくりだね。姉妹なの?」

 つまり、これが我がクラスの戦略らしい。

 看板娘があったら、衣装とかに凝るより面白いんじゃないか?

一体そんな案を提案した馬鹿は、何処のどいつなのだろう。

 故にここは「ウェイトレスの中に双子の姉妹がいる喫茶店」ではなく、「双子の姉妹がウェイトレスをする喫茶店」と宣伝できるよう、二人のみで店を回しているのだ。

「ええ、まあ…」

「はいはーい。そうなんですよー。私たち双子でして」

「ああ、やっぱり!こうして並んでみると本当にそっくりだね」

「ありがとうございます」

 この手の話は杏梨優が飛んできて取り繕ってくれる。だが、やはり疲れるものは疲れる。しかもこれを売りにしているとなれば、二人は無休で働く羽目になる。

「大した部活に入ってなかったのが仇となるなんて…」

「そんなこと言ってると、柊先輩に怒られちゃうよ」

「……」

 先日自分を見た時の、先輩の顔が浮かぶ。驚いたような、戸惑っているような、怯えているような――。ごちゃ混ぜになった色々な感情を押し込めようとして溢れてしまっているような、そんな表情だった。

 結局あの日以来、柊先輩には会っていなかった。会えなかった。クラスの行事に理由をつけて、気が付けば図書室から足を遠ざけていた。

 また、父の時と同じだ。

 分かっていても、結局動くことはできなかった。

「オレンジジュースとコーラ」

「クッキーとアイスティーね」

「亜紀ちゃん、こっちにもー」

「はいはい…」

 遊びに来た知人や友達も、容赦なく注文を浴びせてくる。

 いちいちメモに取るのが面倒くさいので、その場で暗記してすぐに品物を渡す。バイトをしたことはないが、案外どうにかなるものだ。

「なあ、亜紀。大丈夫か?」

 あまりにもそのスピードが速いので、凱も流石に心配そうだ。

「そう見える?」

 客には向けない冷気を全開にすると、凱はすぐに手元のペットボトルに視線を落とした。

「心配するくらいなら手伝ってよ」

「無理だね。俺も忙しいんだよ」

「言われた飲み物取り出すだけの仕事が?」

「うるせー」

「まあまあ。もうクラスの方針なんだから、今更亜紀が忙しいのはどうしようもないよ」

 蓮が間に割って入った。でないと、また言い合いが始まりそうだ。

「それよりも凱、もう行かなきゃだよ」

「おう、もうそんな時間か。じゃあな、俺抜けるから」

「は?まだ1時間しか働いてないのに?」

「行っただろ?忙しいんだよ」

 凱は勝ち誇った笑みと名札を置いて、さっさと教室から出て行く。

「何なのよ、あれ」

「まあまあ、そうピリピリしない」

 杏梨優はその隣に、自分の名札を置いた。

「んじゃ、そういうわけで私も抜けるね」

「どういうわけよ。二人で一セットが成り立たないんなら、私だって特に頑張る意味はない」

 亜紀もその上に名札を叩きつけた。

「でも、亜紀は特に用事ないでしょ?」

「ある」

「どんな?」

「杏梨優の方こそ、なんで外に出るの?」

「それは…」

 口をつぐむと、人差し指を当ててナイショのポーズ。教えるつもりはないらしい。

「じゃあ私も言わない」

「えー」

 しかし、杏梨優はそれ以上のことを追及してこなかった。

「まあ、いっか。じゃあね、二時間後にはまた戻ってくるから」

「了解…」

 それに関してはもう断る理由が作れない。

 早くも人ごみに呑まれて、杏梨優の姿は見えなくなった。

 大きく伸びをするスペースもなく、亜紀は溜め息をつくことで疲れを外に出そうとした。

 二時間後に備えて充分に休息をとるためには、

 ――あの場所しかない。




 通りすがる人たちの興味津々といった視線を余所に、凱はアンプからコードを伸ばす。

「…ったく、昔にこういうのやってたって言うんなら、下準備は早くしなきゃいけないことぐらい分かるだろーが」

 悪態をつきながら、動かす手は決して止めない。

 ライブ客からの激励は有難いが、今は邪魔でしかない。凱だとそれが表にすぐ出てしまう。だから今は蓮が、そんな客の話し相手に忙しい。

 戦力が一人分減っているせいで作業は遅れている。

 ましてや応援に駆けつけてくれるはずだった先輩も少ないことが、凱の苛立ちを更に大きくさせた。もちろんその中に柊先輩もいない。

「ごめん!遅くなった!」

「本当だよ。遅い」

 聞き慣れたはずだが、まだトーンに違和感を感じる明るい声に、凱は顔を上げた。

「ごめんって」

 そこには、溌剌とした表情の杏梨優がいた。

 亜紀は絶対こういう風には笑わないんだろうな。

 分かっていても、その眩しい杏梨優の姿に亜紀を重ねずにはいられなかった。

 幸せそうに笑う亜紀の横には、

 やはり柊先輩も一緒に見えた。

「…くそっ」

 小さな舌打ちは、周りの雑音に掻き消されてしまった。

 そうだ、二人の間に自分の声は届かない。

「ねえ、凱ってば」

 ハッとして横を見ると、ギターを抱えた杏梨優がこちらを覗き込んでいた。

「これ、どのアンプに繋げればいいの?あと、エフェクターが昨日の練習のと違うように見えるのは、気のせい?」

「あ、ああ…。それは右のに挿して。エフェクターは昨日のとは違うけど、前のやつを持ってきただけだから新しく覚えることはないよ」

「分かった」

 てきぱきと動く杏梨優の背中を見ながら、凱は動揺を抑えきれない。

 無自覚な至近距離で人の顔を覗く癖、その時の何処を見ているのか分からない目。

 一瞬だが、確かにあの時自分は亜紀を見ていた。

「凱!何してるの?」

 蓮の呼ぶ声がする。

「え?…あ」

 気がつけば、手にしていたピックが折れていた。

「大丈夫?」

 本来なら、解放された蓮の方にかけるはずの言葉を先に言われてしまった。

「悪い。もう平気」

 そうだ、今はそんなことで悶々としている場合じゃない。頬を一発叩いて、気合を入れる。微かに残った痛みが、凱の気を引き締めた。

 ふと後ろを振り返ると、もう大分席が埋まっていた。

 隅から隅まで見渡しても、勿論亜紀の姿はない。

 違う痛みが、凱の胸の奥をチリリと焦がす。マイクテストをする杏梨優の声が、それを虚しくも掻き立てた。




 目の前に広がる光景に、亜紀は言葉を失った。

 照明を消した部屋の中、プラネタリウムバルーンが宙に浮いて、静かに冷たく光っている。

 それを取り囲むようにして、映し出された星たちがゆっくりと廻っていた。時折、それは周りの物に反射して生命を吹き込まれたかのようにキラリと瞬く。

 大事そうに抱えているオルゴールが、寂しく旋律を奏でていた。温かく慰めるように、他人事のように。

「やあ、やっぱり来たね」

 その中で、柊先輩は優しく微笑んだ。

「何してるんですか…先輩」

 文化祭で学校がはっちゃけているのに対して、柊先輩も当社比二割り増しでぶっ飛んでいた。

 図書室は本の盗難防止のために閉鎖されている。一般公開されない場所を、ここまで飾り立てる意味が分からない。

 素直に「綺麗ですね」とは返せないこの状況で、亜紀は頭を抱えた。

「暇だったからね。家にあったものを持ってきてみたんだ」

「家にこんなものあるんですか…」

 宙にぶら下がっているロケットを見やり、亜紀は正直に呟いた。

 もし柊先輩の部屋がこんな感じだったら、落ち着かない。

「いいだろ?人ばかりで息苦しい文化祭から、切り離された場所を作りたかったんだ」

 確かに、こんなに薄暗いと普通の人は入りづらいだろう。

「休憩場所には丁度いいだろ?」

「休憩は仕事の合間にあるから休憩って言うんです。先輩、一日中ここにいる気でしょう?」

「勿論。管理者だからね」

 司書の存在を無視してここまで堂々と言えるあたりが、やはり柊先輩らしい。

「本と共に廻る小宇宙。我ながら結構な出来栄えだと思うんだが…」

 チラリと亜紀を見やる。

「その労力を他の事に使ってください」

 褒め言葉が欲しかったのだろうが、そこまで亜紀は優しくない。

「第一、こんな暗さじゃ本が読めませんよ」

「……」

 反論が来ないあたり、計算外だったらしい。

「…それはさて置きだ」

 それを置かれてしまうと、もはや図書室として成立しない。

「俺に何か言いたそうな顔だね」

 先輩はいじわるだと亜紀は思った。そこまで分かっていて、こんなことして遊んでいるのだから。

「先輩、クラスの出し物には顔を出さないんですか?」

「俺のクラスは演劇だよ。脚本を書いたから、それで仕事は終わりさ」

「じゃあ……ライブの方には出ないんですか?」

「……」

 柊先輩は、穏やかな表情で上を向いた。嘘くさい星が、わざとらしく輝いている。

「どうして出ないんですか?皆、楽しみにしてるんですよ」

「それは、君もかい?」

「っ……」

 軽い冗談なはずなのに、その言葉は亜紀を大きく揺さぶった。

「やりたくないからやらない。それだけじゃ、皆の期待には釣り合わないかな?」

「…ええ。そんなことでは全く理由にならないくらいに」

 柊先輩は弱弱しく苦笑した。

「でも、君だってバンドの助っ人を断ったらしいね」

「私は、先輩に教わった分しか弾けませんから」

 一度、ギターをかき鳴らしていた先輩の見よう見まねで弾いてみたことがある。案外単純な操作だったので苦ではなかった。だが、それを凱に見られたことが今回のことに災いした。勿論、大勢の人の前でパフォーマンスをするなんて御免である。

「それだけしかやってないのに、普通に音が鳴ったのかい?」

「軽音の良し悪しなんてよく分かりません。ただ、友達に褒められただけです」

「そうか」

 なにが「そうか」なのかはよく分からないが、柊先輩は納得したらしい。

「…私、もう一回叫ぶつもりでした。「柊先輩」って」

「……」

「昼のライブはもう無理ですけど……後夜祭、出て欲しいです」

「…そうか」

 俯く亜紀の頭に、柊先輩は手を置いた。

「でも、それはできない」

 わしゃわしゃと頭を撫でてやると、亜紀は更に下を向いた。

「代理で入ってくれたバンドに悪いからね」

「そんな…っ。あいつらだって、先輩の復帰を望んでます」

「そうか。嬉しいね」

 全く相手にしてくれない。気まぐれなようで意志はもう固いらしい。これ以上何を言っても無駄なことは、亜紀は経験上分かっていた。

「じゃあせめて、理由くらい教えてください。本当の理由」

「…それは、できれば君には言いたくないな」

「もしかして、私のせいなんですか?」

 とは言え、心当たりがなかった。それが余計に亜紀を不安にさせた。

「いや、君が気にすることじゃないよ」

「私の知らないところで、私の話が進んでいくのはもうやめてください」

「もう?」

「っ……」

 思わず口走った言葉に、くじけそうになる。

「…そうですよ。もう嫌なんです」

 何も話してくれない父の顔が浮かんだ。その横で同じ表情をする杏梨優も。

「先輩は優しすぎます。でもそれって、ただ相手を傷つけたくないっていう綺麗ごとなだけなんじゃないんですか?本人としては、凄く不愉快です」

「そうだね。ただ守りたいっていう自己満足だよ。でも俺は、正面からぶつかる術を知らない」

「…私だって怖いです。それでも、知りたいです」

 そう強く願うのは、相手が柊先輩だからだ。こうして表面的に隣で過ごすのではなく、二人の在り方の核心に触れたかった。

 柊先輩は大きく息を吐いた。

「初めて君に会った時思ったんだけど、君は文を書くとき、物凄い漢字を律儀に原稿に書いてたね。ワープロ化する前の状態から」

「醤油」「襲撃」「轟き」くらいならまだ分かる。だが、あの時目に留まったのは「葡萄牙」「薺」「鸚鵡」だ。読めたとしても、その場ですぐ書ける漢字ではない。

「あんまり意識してません。面倒なので、分からない漢字はひらがなで書いてますよ?」

「原稿を提出する時に留めてあるクリップ、いつも可愛いけど、俺は店で見たことがないんだ」

 ゾウ、りんご、花。ここまでは良かった。だが、こないだの紙束の右端には時計の模様のクリップが留められていた。ご丁寧に、ローマ数字まで付いていた。

「暇なときに、自分で作っているものなので。ペンチ一本で出来るので、簡単ですよ」

「…いつか英語を教えたとき、君はイギリス英語の方に近い発音をしていたね」

 少なくとも学校では教わらない。

「ヨーロッパ側の言語のほうが詳しいので…。しゃべる程度なら五カ国くらい平気です」

「こないだ、どうして去年の文芸部の予算と決算を宙で言えたんだい?おかげで生徒会に睨まれずに助かったけど」

「あまり賢くはないですけど、暗記力くらいなら誇れます」

「…要するに、そういうことだよ」

「どういうことです?」

 亜紀はまだ意味が分からず、素直に首を傾げた。

「いつも思っていたことだけど、こないだあの子を見て確信したんだよ。彼女は普通の人の数倍も察しがいい。他にも何か異常な才能を持っているようだった。でもそれは同時に、君にも言えることなんじゃないかってね」

「!」

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

「自覚、無いみたいだね」

「無いです。私は今まで普通に生きてきました」

「私たち、じゃないんだね」

「……」

「聞いたよ、君たちの事。彼女の方から。君は普通に生きてても、彼女はそうじゃないんだってね」

 柊先輩は決してクローンという言葉を使わなかった。いや、避けているようだった。それは気遣いからだろうか、まだ信じられないからだろうか。それすらも亜紀には分からない。自分のことで精一杯だった。柊先輩の言葉を頭で噛み砕くのがやっとだった。

「勿論、それを知ったとしても君は君だ。君は、これからも「普通に」生きていく。でもね、その「普通」が君の中で揺らがないからこそ、僕の足元が揺れたんだよ」

「……?」

「ちょっと難しかった?つまり君らの無自覚な才能を見ていたら、ちょっと自信がなくなっちゃたんだ」

「そんな…」

「さっきも言ったけど、君は気にしなくていいよ。俺が勝手に思っていることだから。「君らがステージに立つ方がずっと上手い音楽が聞けるんじゃないか」だなんて」

「っ……」

思わず身体が強張った。今自分は、何かを壊しにかかっている。

「だから気にしないで」

「気にしますよ……」

「そうだよね。ごめんね。やっぱり言わない方が良かった?」

 すぐに亜紀は首を横に振った。

「ショックでしたけど、受けなきゃいけない傷だと思います」

「でも君は、何も変わる必要はないんだよ?」

「先輩を踏み留まらせてまで、このままでいて良いんでしょうか」

「……」

「私、分からないです。どうしていいのか。…でも、教えてくれた先輩には感謝してます。本当に」

「…気持ちの整理が付くまで、ここにいていい。騒がしいところじゃ考えられるものも考えられないだろ」

「いえ、大丈夫です」

 おぼつかない足取りで、ドアの方へ向かう、柊先輩もオルゴールを抱えたままついてきた。

 その様子が可笑しくって、亜紀は力なく笑った。

 そして、お互い哀しそうな目がかち合った瞬間、

「っ!」

 亜紀の視界は暗くなった。胸が痛いのは、オルゴールの箱ごと柊先輩に抱かれたからだけだろうか。

 しかしその温もりは、すぐに消えた。

「…ごめん」

 先輩を突き飛ばした手も、彼の言葉が沁みてジンジンと痛い。

 亜紀は柊先輩の顔を見ることなく、逃げるようにして外に出た。

 心拍数は、泣きたくなるほど速いままだった。




 サービスセンターで主に尋ねてくるのは、老若男女問わず迷子がほとんどだ。それほど校舎は人でごった返していた。

 だから猪瀬は、その人を見つけた時はもはや奇跡を感じた。

「やあ、猪瀬君。元気そうだね」

 しかもあっちも自分に気づいてくれた。

「久しぶりだな」

 休憩のきっかけに丁度いいと、猪瀬は席を外して彼に近づいた。

「君は何も変わってないね」

 帽子をとると、そこには優しく笑う清志の姿があった。

「どうしたんだ?こういう所にお前が来てくれるとは思わなかったよ」

 清志とは大学時代からの知り合いだ。奇跡とも称される頭脳を持つ清志は、当時大学ではもはや有名人だった。何故か外国語が一切できないことも。

 そんな彼とはサークルで知り合った仲だが、猪瀬が英語科選択と聞いた清志がすがり付いてきたことが本当に親しくなったきっかけだ。

 清志から缶コーヒーを受け取る。学校の自動販売機のは既に売り切れていたので、有難かった。

「ちょっと気になってね。亜紀たちは仲良くやってるかい?」

「ああ、今も喫茶店で二人で頑張ってるよ」

「そうか」

「俺はまた、てっきりお前が論文の英訳を頼みに来たかと思ったけどな」

「まさか。もうそんなものを書く予定はないよ」

「……研究者、辞めたのか?」

「いや、今の職をこの年で手放す気はないよ。ただ、その必要があるようなものを書くことは、もうないってだけだ」

「そうか」

 清志の言うことが理解出来ないのはいつものことだった。考えても分からないものは分からないので、そこで探りを入れるのは止めにする。

「君の子も、元気そうだよ」

「やめてくれ。あの子は俺の子じゃない」

「どうしてだい?」

「普通に考えてそうだろ…。あの子の父親はお前で、あの子の姉は藍谷だ」

 自分はただ、清志に懇願されて種を提供しただけだ。情けない話だが、あの頃はいつだって金に困っていた。

それに、そうやって割り切らなければ生まれてきた本人が可愛そうだ。

「見てみるか?確かに目元は妻とそっくりだが、あの真っ直ぐな鼻筋はまさに君のものだよ」

「……」

 清志に何を言っても無駄なことは知っている。彼は遺伝子的事実とモラルを分離させることが出来ない。職業上ある程度は仕方ないだろうが、清志はその面で天才すぎた。自分の子も同じ遺伝子の半分を持つものとして見てしまい、頭の中では色々な数式が回ってしまうのだろう。彼は曲がった形でしか子供を愛せない。

「お前も何も変わってないな」

「そうか?」

「ああ」

「まあ、成長したとは思ってないがな。…さて、君の元気な様子を見れたし、もう帰るかな」

「二人には会ったのか?」

「いや」

 清志は寂しそうに笑った。

「あの子たちは、そういうことは嫌うだろうから」

 確かに、この年頃の子は親を他人に見られるのを嫌う。いくら一時的なものだと思っても、哀しいものは哀しいだろう。

「二人をよろしく頼む。今日は喧嘩の一つでもありそうだから、見かけたら止めてやってくれ」

「ん?ああ」

 また予言か。

 久々に聞いたと猪瀬は懐かしく思った。サークルでは清志の言うことはよく当たると、一時期お悩み相談所の如く人が集まってきたものだ。

「気をつけとくよ」

「…ところで、出口は何処だ?」

 猪瀬は苦笑した。

 入学して間もなく体育館に行けずに一人廊下をうろついていた亜紀と、こないだ職員室が分からずに提出物が遅れた杏梨優を、清志と重ねた。やはりどれだけ撥ね退けようと、親子は親子だ。

 二人は彼の背中から何を見て、どう生きていくのだろうか。その一端に関われるのは、教師として喜ばしいことだった。

 夕日に照らされた清志の顔は、とても安らかだった。

 どういう事情であれ一つの家族の形が、そこにはあった。何だかんだで幸せそうだった。

 終わりの近い文化祭は、少し勢いを劣らせながら時間を流していく。

 清志を見送りながら、猪瀬はもう一仕事と気を引き締めた。

 ――残るは後夜祭のみとなった。




本当は終わったらすぐにでも帰るつもりだった。だが、荷物をまとめている時に杏梨優に見つかってしまった。

「後夜祭、行かないの?」

「行かない」

「駄目だよ、見に行こう?」

「なんで?」

「だって亜紀、楽しみにしてたんでしょ?」

「っ…うるさい」

 何も知らない杏梨優の言葉は、無遠慮にグサグサと亜紀の心に刺さった。

「ほら、行くよ」

「行かない」

「柊先輩だって見に来てるはずだよ?」

 今その話はしないで。

 だが口にしたら一から説明を求められる。それも嫌だったので寸手のところで呑みこんだ。

 その代わり、亜紀は杏梨優をキッと睨みつけた。

「こないだ調べものとか言ってたの、先輩と話すことだったの?」

「やだな、ばったり会ったからお話ししただけだよ」

「嘘ばっかり!」

 先輩が杏梨優の正体を知らなかったら、こんなことにはならないで済んだかもしれない。

 ふと出た思いが、杏梨優に対する怒りにすり変えられた。

 正直何でも良かった、今の気持ちをぶつけられれば。

「先輩、杏梨優のせいで混乱してたよ。おかげでライブも潰れた」

「私のせいだっていうの?」

「そうでしょ?」

「別に私は、柊先輩が聞いてきたことに答えただけだよ」

「それがいけなかったって言ってるの」

「何よ、八つ当たりじゃない。理不尽」

 そんなこと分かりきっていた。だから亜紀は、言葉が続かなくなった。

「まあまあ二人とも。とりあえず、教室の鍵閉めるから一旦外に出てくれないか?」

 もしここで猪瀬が割って入ってくれなかったら、手を出していたかもしれない。

 大人しく廊下に出る。昼の騒がしさが嘘のように、校舎はしんとしていた。他の生徒たちはもう後夜祭を観に行っているのだろう。

「ほら、行くよ」

 杏梨優に手を引かれ、結局亜紀はとぼとぼと引きずられていった。

 そんな二人の背中を、猪瀬は心配そうに見守っていた。




 体育館の中に入ると、熱気と共に沢山の音が雪崩れ込んできた。

 チューニングの甘いギターが目立ちたがってがなりたて、ドラムが我武者羅に音を飛ばす。

 後輩のバンドだろう。たった一年しか違わないというのに、あどけない若さを感じた。

 ステージの下で人が飛び跳ねる。その中に杏梨優も紛れ込んでいってしまった。連れて来られた身だというのに早速亜紀は一人になった。

 ここまでくると、引き返す気も失せてしまった。せめて凱たちのバンドだけでも見て帰るかと、皆の少し後ろでステージを見上げる。

 その端で、同じようにじっとバンドを見つめる柊先輩を見つけた。

 視界からすぐに外すつもりが、思わず亜紀は柊先輩に見入ってしまった。

 亜紀は今までステージの上で叫ぶ先輩しか見たことがない。だから違和感しか覚えなかった。下から輝かしい舞台を見上げる柊先輩に。

 今にでも駆け出して、先輩の元へ行きたい衝動に駆られる。だが、脳裏に過る昼のオルゴールの音が邪魔をして、足が動かない。

 演奏が鳴り止んでも、ダラダラとMCが入っても、亜紀はずっとそのままだった。だから、ステージ脇から凱がギターを抱えて入っていくのも、蓮が続いて駆け込んでくるのも気づかなかった。杏梨優が、マイクを片手にステージに上がったことも――

 突然、先ほどとはタッチの違うギターが唸りを上げた。そして、

「はい、どうもー」

 自分と同じ声がして、ようやく亜紀はステージに目を向けた。

「こんばんは!音盟団プラス助っ人の紅崎杏梨優です」

「っ!」

 道理であれから凱がしつこく誘っては来なかったわけだ。

 そういえば、自己紹介でそんなことも言ってたっけと、遠くで杏梨優たちを見やりながら他人事のように思う。

 だが、

「さて、そんなわけで我らのスター、ゴストラーが急遽棄権ということで私達がいるのですが、この通り人数少ないんですよ」

 バンドのメンバーが欠け、そこに杏梨優で埋めても凱と蓮の三人。確かに必要最低限すぎる人数だ。

「ちょっと淋しいな!まだ音、足りないよね?」

 わけが分からず、勢いに任せて盛り上がる観客。柊先輩も控えめに拍手を送っていた。

 その笑顔は何処か哀しそうだった。

 その矢先、

「じゃあもう一人呼んじゃわない?ね!それではご紹介しましょう。我らが救戦士、藍谷亜紀!」

「えっ?」

 ステージから飛び降りてきた杏梨優は、真っ直ぐこちらへやって来た。

「ちょっと、どういうこと?」

「亜紀、ここまで来たらやるしかないよ」

「嫌だよ、だって…」

 もしかして今杏梨優のやっていることは、先輩の妄想に拍車をかけることになるのではないか。

 亜紀の不安はグルグルと廻った。

 ――俺が勝手に思っていることだから。「君らがステージに立つ方がずっと上手い音楽が聞けるんじゃないか」だなんて。

 あの時の先輩の表情が、今の先輩と重なった。

 共犯者にだけは、なりたくなかった。これ以上、あんな顔を見たくない。

「グズグズしてる場合じゃないよ」

「どうして?杏梨優は何がしたいの?」

「亜紀が迷ってることくらい知ってる」

「……」

「でも、ここにいたって何も変わらないよ。違う景色見せてあげるから。おいで」

 また手を引かれ、亜紀は足を前に出した。やはり、杏梨優には敵わない。隠すつもりはなかったが、言うつもりもなく黙っていた。だが、杏梨優にはとっくにバレていた。

「はい、これ」

 渡されたギターを黙って受け取る。下から湧き上がるようにして、観客にはざわめきが広がった。それは初めて杏梨優がやってきた日の、クラスの反応と同じだった。

「おい、亜紀」

 凱の声は動揺していた。どうやら杏梨優以外の人たちにはバンドにとっても規格外のことらしい。

「大丈夫なのか?」

 楽譜に目を走らす。これくらいだったら初見で平気だ。

「うん」

 笑い返してやると、凱はすぐに視線を逸らした。

 今の自分の顔は、後ろで微笑む杏梨優にそっくりなのだろう。

 そうなのだ、だって自分らは――

 同じ人間なのだから。

 杏梨優のMCが止むと、すぐさま亜紀は音を切り出した。

 



 出番が終わると、亜紀はステージの脇でうずくまったまま動かなくなってしまった。

 人前に出るというのは、亜紀にとって相当の負荷がかかるのだろう。

「どうした。大丈夫か?」

 一仕事終わると、亜紀の隣に腰掛ける。

「うん…」

 全然大丈夫じゃなさそうな声が返ってきた。

「急に巻き込んでごめん…止めた方が良かったか?」

「凱は謝らなくていいよ。それに、色々分かったからいいの」

『あなたの見ている景色の中に、私はきっといないのでしょう』

不器用に絡み合い、弾け合い、ぶつかっていく音たち。

 自分の声は、真っ直ぐにメッセージを持って飛んでいった。

『それでも、あなたの隣で笑っていてもいいですか?』

 叶わないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。

『いつだって同じものを眺めて過ごしていたいだけ』

 観客は、黙って耳を傾けてくれる。

『それすらも許されないのですか?』

 届けたい人は、目の前で微笑んでいた。

『でしたら、この気持ちだけでも大切にしていていいですか?』

 答えなんて、とっくに出ていた。

『あなたが大好きです。ただそれだけの思いを――』

 ベタな歌詞。それでも、亜紀には十分重かった。

「凛!」

 柊先輩が叫んだ。

「っ!」

 思わず指がもつれそうになる。それは亜紀のペンネームだった。

 ああ、そうか。

 亜紀は納得した。

 照れくさそうにはにかむ柊先輩は、いつもの先輩だった。

 柊先輩も、自分も、何も変わる必要はないのだ。ただ、立ち位置が違いすぎることに戸惑っただけだ。今までそれを見ないふりをして、ただ何となく一緒にいた。だが、杏梨優を通して自分の正体を知ることで、見えてしまったものがあった。

 自分と先輩は、そもそも相容れる間柄ではなかった。二人の世界が交わることはないのだ。

 なだれ込んできた現実を隠すように、亜紀は尚も声の限り歌った。

 届かないと知っていても。

 確かに、ステージからでなければ見れない景色があった。もちろん苦しい景色だったが、亜紀は見て良かったと思いたかった。

「…亜紀、最近お前どうしたんだ?」

「え…?」

「お前は、いつもみたいに過ごしてればいいんだよ。なんでこんなに周りに影響されてるんだよ」

「でも…」

「普通」でいたら、傷つく人がいる。このままでいては、また何か失ってしまうかもしれない。亜紀は更に臆病になっていた。

「でももだってもない。俺は…今までの亜紀が好きだ」

「……」

 やっと、亜紀は目を合わせてくれた。

「別に、返事とかそういうのいいから。…でも、覚えておいてほしい」

「…うん」

 さっきよりは、少し返事が明るくなった。

 気を紛らわすように、凱はステージに目をやる。

 青春を謳歌する彼らは確かに眩しかったが、羨ましいとは思わなかった。




「ただいま」

 自分は部屋に篭って出てこないというのに、杏梨優はいつも律儀に言う。

 足音が自分の部屋の前まで来たタイミングで、清志は「おかえり」と言った。

 ふと、足音が止む。だが、ドアの開く音まではしなかった。

「随分遅かったね」

「後夜祭も行ったから」

「そうか、亜紀は――」

「一人、潰したよ」

「……」

「それだけ」

 駆けていく足音は、すぐに遠くなっていった。

 「よくやったな」くらい、言ってやった方がよかっただろうか。いや、あの子はそんな言葉は望まないだろう。

 だとしたら、何故わざわざそんなことを報告した――?

 色んな可能性を巡らしたが、すぐに止めた。清志にとって答えの出ないものは、考えるだけ「無駄」なことだった。

 出来たてのレポートに目を落とす。眩暈がするほどうるさい所だったが、見合うだけの収穫はあった。おかげで杏梨優が手にした情報をこの目で裏付けることができた。

 清志は、名簿欄の「佐久間銀二:文芸部にて接触あり。その他随時二人のみの共有多し。要注意」に斜線を引く。

 杏梨優と亜紀を同じものにするためには、周りの人間関係も酷似させなくてはならない。しかし、亜紀にとっての「特別」を彼女に同じように持たすのは不可能である。だったら亜紀の方のそれを潰して、杏梨優に似せるしかない。気の毒ではあったが、全ては亜紀自身のためである。

 クラスの人らは、杏梨優がずっと亜紀に付き添っていれば自然と離れていった。

 残るは――

 指でトンと叩く下には、「萩下凱」と記されていた。



4、

 文化祭が終わって訪れる日常は、平穏というよりも静けさを感じた。

 定期テストが理不尽にも近く、無理にでも勉強する環境に戻ったこともあるだろう。

 だが、亜紀はそれだけではないような気がした。

 あの活気の溢れた文化祭と比較しなくても、今の毎日は簡素すぎだ。

 朝来て、凱たちと話して、勉強して、杏梨優と昼ごはんを食べて、また勉強して、帰る。その繰り返しだ。

 柊先輩のいない毎日は、ずっと単調で気味が悪かった。

 もうあの人には会わないと決めていた。少なくとも今は、顔を合わせる勇気はなかった。それに――。

 ふと流れた記憶から目を逸らすようにして、亜紀は目の前のものに集中しようとした。といっても、そんな定期テストが終わった今じゃ、特にホームルームに身も入らない。

 返却されたテストの数字を下敷きに、いつものように突っ伏して重い頭を休める。

 だが、そのまどろみはすぐに吹き飛ばされた。

「藍谷さん」

 トントンと、机の隅を叩く者があった。

 顔を上げると、関原が引きつった笑顔を浮かべていた。

「テスト、どうだった?」

 答えるのも面倒なので、そのまま紙を渡した。

 いつも主席を狙う関原のように、亜紀は成績に大して執着心がなかった。興味がないのだ。

 ただ見栄えが良ければそれでいいので、エースの座はいつも関原に譲っている。むしろ、平均点を予測して二位をキープするほうが難しいし、退屈しのぎには丁度良かった。

 今回も数字は問題なかった。だが、それでは関原の表情と矛盾する。亜紀は首を傾げた。

「…藍谷さん、一位ではないんだね」

「うん。いつものことじゃん」

「いや…僕はいつものことじゃないんだ」

「ん…?」

 チラリとだが、総合順位だけ見せてもらった。大きく「3」と書かれたその数字は、「1」の並ぶ中では異様に目立っていた。

「これは…」

「僕は今回の主席はてっきり藍谷さんだと思ったんだけど、違うみたいだし…。ねえ、誰だか予想つく?」

 亜紀は静かに首を横に振った。

「分かんない…」

「そっか。ありがと」

 疑いは晴れたが、実際亜紀には心当たりがあった。

 関原の視線が無くなるのを確認すると、亜紀はつかつかと後ろの席へ向かった。

「亜紀ー、どうだった?」

 杏梨優は、満面の笑みで亜紀を迎えた。

「…まさか、杏梨優がここまで馬鹿だとは思わなかったわ」

「んー?どういうこと?言ってることと数字が一致しないけど」

 ヒラヒラと泳がす紙に、沢山の「1」が散らばっていた。亜紀も杏梨優も本気を出せば、それくらいどうってことない。どうってことないからこそ取ってはいけない点数だ。でないと、それは「天才」から「異端」へと変わってしまう。

「とりあえず、見つかる前に隠したほうがいい」

「なんで?私何も悪いことしてないよ」

「そういう世界なの。覚えておきなさい。もっとそういうのにこだわってる人がいるんだから、譲ってあげた方が身のためだよ」

「よく分かんない」

「そうでしょうね」

 経験してみないと、あの視線の痛さは分からない。だが、自分が知っていれば十分だ。杏梨優に経験させる必要はない。

「次も下手に他人に期待されたりするの、いい迷惑でしょ?やめときな」

「ねえ、亜紀は全部二位?」

「大体ね」

「どうして?点数勝負しようって言ったじゃん」

「興味ない」

「えー」

 杏梨優は全く聞く耳を持ってくれない。亜紀は苛立ちを覚えた。そしてその仕返しは、思わず変な方向へ曲がってしまった。

「ねえ、杏梨優」

「何ー?」

「私ね、こないだ凱に言われたんだ。『今までの亜紀が好きだ』って」

「……」

「だからね、自分を変える気はないの。杏梨優は私に変わってほしいのかもだけど」

 効果は思った以上のものだった。一定して変わらない杏梨優の表情に、ヒビが入ったような気がした。

「ふーん」

 何も変化のないようで、だが確かに杏梨優は亜紀と目を合わそうとしなくなった。

 二人の歯車が、狂い始める瞬間だった。 




 確かに、「返事はいらない」とは言った。だが、それは別に「気にしなくていい」という意味で言ったのではない。遠まわしに「頼ってほしい」と言いたかったのだが、亜紀にはそういう細かいニュアンスは通じなかったらしい。

 「変わらない亜紀」を望んでいながら、凱は少し不満であった。

 亜紀は何も抱えていないわけではない。それは凱の目から見てもよく分かった。最近は杏梨優の風当たりも激しい。亜紀が他の人と話そうものなら、割り込んででも入っていく。二人で共有するものが増えるほど、彼女らは孤立していっていた。

 このままでは、自分も二人の中に入れなくなってしまう。そうなれば手遅れだ。かといって、いい方法も思いつかなかった。一体何が自分をこんなに危機感に晒し、焦りを覚えさせるのかは分からない。だが、とてつもなく嫌な予感がすることは確かだった。

「ったく、どうすればいいんだよ…」

「凱、爪噛む癖良くないよ」

 蓮の叱る口調には、何処となく不安そうな響きがあった。

「悪い…」

 凱は素直に謝った。

 また険しい目つきでもしてたのかもしれない。最近蓮には心配をかけっぱなしだ。

「また亜紀のこと?」

「…別に」

「諦めろとは言わないよ。実際放置しておいちゃいけないと思うし」

 蓮も不穏な雰囲気は察知しているようだった。

「そろそろヤバイんじゃないかな、あの二人。最近は喧嘩も多いし」

「喧嘩が何かの引き金になるのか?むしろ二人が割れてくれれば、孤立問題は解決しそうだけど」

「ううん。僕さ、杏梨優がどうしてここまで亜紀を自分の元に置いときたがるのか、いまいちよく分からないんだよね。でもさ、もしそれが何か意図のある行為だとしたら、喧嘩がきっかけで痺れを切らして次の行動に出るんじゃないかって…」

 そこで蓮は口をつぐんだ。心なしか顔色が悪い。

 凱の背中にも、嫌な汗が伝った。

「ちなみに次の行動って?」

「分からないよ。でも、いい事ではないと思う」

「できればその予感は外れると――っ!」

 突然、ガラスの割れる大きな音がした。二人の肩がビクンと跳ねる。

 見やると、例の亜紀と杏梨優の間で、沢山の破片が飛び散っていた。

「おい、どうした?!」

 すぐさま駆け寄ると、それは空の花瓶だと分かった。

 呆然と立ちすくむ亜紀と、指を押さえる杏梨優。二人の間に立ち入れるものは誰もおらず、クラスの皆は彼女達を取り囲むようにして遠巻きに見ていた。

 凱も、皆が作ったラインから一歩踏み出すことができない。

「っ……」

 動かない足にもどかしさを覚える。

 我に返った亜紀が、杏梨優に手を伸ばした。

「大丈夫…?」

 だが、その手はすぐに振り払われてしまった。

 杏梨優は戸惑う亜紀をキッと睨むと、クルリと背を向けて教室を出て行ってしまった。

 一人取り残された亜紀は、ただただその先を見つめていた。




「ごめん、付き合わせちゃって」

「いや、別に」

 帰り道、久しぶりに隣には亜紀がいた。荷物は重いが、どうってことなかった。

 あれから杏梨優は帰ってこなかった。仕方なく荷物を家に届けることになったのだが、そのバッグが重い。亜紀一人で持つには無理があった。そこで、すかさず凱が助っ人を申し出たのだ。

「さっきの、なんであんなことになったの?」

「ああ…あれ?ちょっと色々ね」

「……」

 言葉を濁されてしまい。そこから先が続かなかった。

 本当は、無理にでも問い詰めて聞き出したい。だが、今の亜紀はこちらを見すらしない。

 おかしな距離が出来てしまっていた。

 普段だったら気にもしないはずなのに、今は落ち着かなかった。

「…ここ」

 そのまま、目的地に着いてしまう。

 亜紀が呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。

「これ、杏梨優の荷物」

 亜紀はぶっきらぼうに言い放ち、杏梨優のバッグを父に押し付けた。

 そしてそのまま何も無しに去ろうとする。

 凱は驚いたが、仕方なく軽く会釈をすると、亜紀に続こうとした。

「ああ、ちょっと待って君」

 しかし呼び止められ、凱は金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。効果の無かった亜紀の方は、どんどん遠くに行ってしまう。

「あ、ちょっと。亜紀」

「いや、いいんだ。君だけに話がしたかったから。…といっても、私ではなくてこの子がね」

「…杏梨優」

 恐る恐る顔を出す杏梨優は、少し目が腫れていた。

「亜紀、いない?」

「いないよ」

「そっか…ごめんね。ちょっとまだ気まずくて…」

 亜紀が行ってしまったことが分かると、杏梨優は表に出てきた。

 二人になり、しかし言葉が見つからずに沈黙が続く。

「ねえ」

 とうとう、先に口を開いたのは杏梨優の方だった。

「うん?」

「亜紀のこと、好き?」

「えっ」

 唐突な質問にたじろき、すぐにはぐらかそうとした。しかし、杏梨優の不安げな上目づかいから、凱は目を逸らすことができなかった。

「いや…別にそういうことは……」

「私ね、亜紀と凱のこと、応援しようって思ってたの」

「え?」

 不意打ちをくらい、凱は一歩引いた。だが、その間をまた杏梨優が一歩詰めてしまう。

「だから…私さっき怒っちゃったの。まだ亜紀は柊先輩を捨てきれてない」

「っ……」

 またその名前を耳にするとは、思いもしなかった。

「折角凱が亜紀のこと見てくれているのに、亜紀ったら凱なんて全然眼中にないの」

「……」

 喧嘩の内容を亜紀が話してくれなかったのはそういうことだったのか。

 別に亜紀に対する自負はないつもりだったが、率直にそんなことを言われてしまうと打ちのめされてしまう。

「こんなんじゃ…凱、可愛そうだよ……」

「いや、そんな心配しなくても…そっか、亜紀は意志が強い奴だもんな」

 そうだ、亜紀は変わらないのだ。何に対しても無関心なところも、いつも上の空なことも、先輩が好きなことも――。自分が気にかけることなんて、何一つないのだ。

 そう思うと、今まで抱えていた責任感がふっと軽くなって無くなってしまった。

「凱、悪いことは言わないから諦めた方が…」

「気にすんなよ。というか、まずなんで俺があいつを好きだって前提で話が進んでいるわけ?」

 俯きかけていた杏梨優の顔が、少し明るさを取り戻して上がった。

「え?でも、後夜祭で亜紀が…」

「あれはそういう好きじゃないって。ったく、話が膨らみすぎなんだよ」

 そうだ、これでいい。自分が関わってやれることなんて、最初からなかったのだ。

「そっか!よかったー」

 いつものように無邪気に笑う杏梨優は、心底ホッとしたようだった。それを見て凱も安心する。

「じゃあ、俺もう帰るわ」

「うん。道分かる?」

「あいつと一緒にすんなよ」

 そう無理矢理笑い飛ばしてやる。

「じゃあな、また明日」

「うん、ばいばい」

 挨拶もそこそこに、凱は駆け出した。

 杏梨優に背を向けた瞬間、奥歯がギリギリと鳴った。夕日に溶かされて視界が滲む。

 耳元を掠めていく秋風は、火照った顔を冷ますにはまだぬるかった。




「随分強引にやったね」

「ああでもしなきゃ、あの子は引き下がらない。それに、もう時間がないんでしょ?」

「ああ、そうだね」

 薄暗い部屋の中、杏梨優は微動だにせず言葉だけを吐く。

「…これで、全部ね」

「そうだね」

 名簿は斜線ですべて埋まった。

「ご苦労様。これで準備が整ったよ」

 清志の拍手に、杏梨優は何も応えなかった。

「さあ、最後の仕上げに取り掛かろうか。――亜紀」

 杏梨優は大人しく後ろを向く。

 その艶やかな長い髪を清志は指でなぞる。

 金属の擦れる音と、バサバサという不気味な気配が、静かな部屋に不吉に響いた。




 翌朝、学校で亜紀は悶々としていた。今日は何故か凱や蓮も遅い。

 久々に一人で過ごす朝は、のびのびとできるだけで退屈だった。

 自分がいけなかったのは分かっている。だが、どうしても亜紀は杏梨優の告白を受け入れきれなかった。

 友達と二人だけで事務的な話をしていただけで、杏梨優は話に入ってくる。

「ねえ、ちょっとどいてて」

 何気なく投げ捨てた言葉が、杏梨優の逆鱗に触れた。

「私だって、やりたくてやってるわけじゃないの」

「だったらやらなきゃいい」

「お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」

「どっちが姉になったって同じなんだから、そんなに強い権力を持った肩書きじゃないでしょ」

「違う。私がお姉ちゃんなの」

「別に譲るってば」

「譲るとかじゃないの」

「そもそも、なんでそんなに姉にこだわるの?」

「私ね、亜紀が二歳の時に生まれたの」

「えっ」

 滞りなく続いていた会話が、一瞬止まった。だが、杏梨優はそれをきっかけに堰を切ったように話し出す。

「私は亜紀に近づかなきゃいけない。亜紀にならなきゃいけないの」

「…同化の話?」

 砂を噛んだように、亜紀は嫌そうな顔をして言葉を吐き捨てる。

「私は亜紀のスペアなの」

 まただ。父の世界に、杏梨優は取り込まれていた。最近は大丈夫だと思っていたが、とんでもないところで地雷を踏んでしまった。

「突っ走る亜紀を守るためには、亜紀と同じかその先に立って自分を犠牲にしなきゃいけない。だから――」

「やめてよ。そんな生き方頼んでないってば」

 それでも杏梨優は止まらなかった。

「だから、私がお姉さんじゃないといけないの。二年先の勉強もして、亜紀が今までに興味本位でかじってきたものも全部詰め込んで…成長剤も、たくさん打ったの」

「っ……やめてってば!」

 とうとう出た手は、運よく花瓶に止められた。

 だが、結果的に杏梨優を傷つけた。

 飛び散った破片が、杏梨優の指先に触れてしまった。

 チラリと見えた赤はすぐに隠されてしまったが、亜紀の血の気はさっと引いた。

 わらわらと出来る人だかり。その中ですら、亜紀と杏梨優は二人ぼっちだった。

 差し伸べた手は空を切り、しかし亜紀は去っていく杏梨優を追いかけることはできなかった。

 自分にすら触れられない傷を、杏梨優は持っていた。

 どう接していいのか。あれこれ考えれば考えるほど奥へ思考は沈んでいってしまう。 今日何度目かの溜め息をつき、そこでふと、クラスに異様な空気が流れていることに気がついた。

 ざわめきは、徐々にこちらにまで伝染してきている。だが、亜紀にはその正体がまだ分からなかった。

 重い腰を上げ、動揺の気配が濃いドアまで赴く。人ごみを抜け、視界が晴れたところで亜紀は息を呑んだ。

「…おはよう、杏梨優」

「おはよう、亜紀」

「っ…」

 髪が短くなっていた。無造作なストレートボブ。亜紀と同じ髪型だ。

 杏梨優はもう、そこには無かった。

 自分が、もう一人。落ち着きを持って微笑む目の前の彼女は、もはや杏梨優ではなかった。

「杏梨優…やめて、こんなの」

 クラスの動揺を代表して、亜紀は震える声で諭す。

「何を言ってるの?本職に戻っただけよ」

「!」

 声音、口調、緩急のつけ方。自身を押し殺した杏梨優は、確かに完全に亜紀の分身だった。

「杏梨優は杏梨優らしくしてよ。こんなの…嫌だよ」

「私がただ暢気に亜紀の隣にいたとでも思ってるの?別に真似ること自体は簡単だけど、なり切ることって難しいんだから」

「……」

 杏梨優の目に、冗談は微塵も感じられなかった。




 おろおろする蓮の隣で、凱は歯痒く思いながら二人を眺めていた。

 それから授業中も昼休みも、いつものように過ごす二人。だがそれは亜紀と杏梨優ではなく、亜紀と亜紀という見方で完全に成り立っていた。

 昨日の杏梨優にこんなことをさせる気配は微塵もなかった。むしろ、思いつめていた顔が和らいだように見えたはずだった。

 なのに、どうして――

 だが完成してしまった二人の世界に、凱が踏み入れる術はもうなかった。

「蓮の言ってた次の行動って、こういうことだったんだな」

「信じたくないよ…誰がこんな末路を予測できるっていうの?」

 蓮は哀しそうに目を伏せる。確かに、目の前の光景は見ていられないものがあった。

「…でもさ、ここまで凄いもの見せられても、俺はまだその動機が分からない」

「たまに杏梨優が口走ってたよね。自分は亜紀のスペアだって。それと何か、関係あるんじゃないの?」

 壊れたら直せばいいというように、自分をモノとして見る杏梨優。こんなにも自己とは、客観的に他者が作り上げられるものなのだろうか。考えたくもなかった。

「なあ、俺らはどうすればいい?」

「どうしようもできないよ…だって、何を何から守りたくてこんなに焦ってるのか、よく分からないんだもの」

 何も明らかになるものはなく、つかみどころの無い不安だけが、蓮や凱の中を駆け巡る。

 時間はそのまま刻々と過ぎていった。




「ただいま」

 ドアを開ければすぐに

「おかえり」

 と母の声が返ってくる。

 伸也の部屋の前を通れば、律儀に同じ言葉が返ってきた。

 重たいカバンをベッドの上に投げ出し、その脇に亜紀はちょこんと座った。

 無理矢理閉めていたチャックをギチギチと開け、中から本を掻き出す。

 それを片っ端からめくっていく。

 夕飯までの時間、亜紀はそうして過ごしている。極めて閉鎖的だが、人と触れ合うことに限界がある亜紀には、口や頭を休める大切な時間だ。

「姉ちゃん」

 ノックもせずに伸也が部屋に入ってくる。

「本貸して」

「別にいいけど、どれよ」

「…姉ちゃん、どうしたの」

「何が?」

「いつもは返事もしないから、俺が適当に取っていくのに」

 まだ気が動転しているのかもしれない。だが、そのことを弟に打ち明けるには重過ぎる。

「気のせいでしょ」

 亜紀は平然を装って本を手渡す。

「ちゃんと返してよ」

「言われずとも」

 すぐに伸也は出て行った。ホッと胸を撫で下ろす。その陰で、首筋にはうっすらと汗が滲んでいた。




「ただいまー」

 と言っても静かな家だ。

 何も返ってこない廊下をひたひたと歩く。

「おかえり」

 ようやくその言葉を耳にしたのは、父の部屋の前まで来たときだった。

「学校どうだった?」

 部屋から出てくるなり第一声。毎日こうだと

「うん、楽しかったよ」

 こちらも機械的な返ししか、しなくなるものだろう。

「亜紀とは仲直り出来たか?」

「ええ」

 敢えてそっけなく応える。それ以上言う必要もない。

「全く、亜紀は嘘が下手だね」

「……え?」

「父さんが、娘の見分けもつかないとでも思ったかい?」

「…ばれてたんだ」

 観念すると、亜紀はすぐに素顔に戻った。正直見抜いてくれたのは有難かった。勘の鋭い父を騙して一夜過ごすのは、無理がある上に相当疲れる。

「杏梨優は私の家に行ってるよ。だから今日はこっちで寝泊りさせてもらうね」

「どうぞ。ちょっと住み心地は悪いかもだけどね」

「入れ替えっこしよう」と杏梨優が唐突に言い出したのは、帰り道のことだった。

「証明するの、私が亜紀だってこと」

「杏梨優…」

「普段から一緒にいる家族に見分けられなかったら、私はもう亜紀の分身よ」

「別にそこまでしなくても…」

 しかし、杏梨優の意志は固かった。一体何が杏梨優をここまで駆り立てているのか、亜紀には分からなかった。だから、従うしかなかった。

「ねえ、お父さん。杏梨優はどうしてそこまで私と同じになることにこだわるの?」

「同化が完成したのかどうか、確かめたかったんだよ」

「そんなことしてどうするの?」

 父は、ゆるゆると首を横に振る。そこから先は、言う気はないらしい。

「…そっか」

 不思議と苛立ちは湧いてこなかった。

「夕飯、何にする?」

 そうだ、今日は自分で作るんだと、亜紀は気を取り直して張り切る。

「ああ、適当な野菜しかないからなー」

 父は冷蔵庫を漁り、あるだけの野菜を並べて見る。

 にんじん、ジャガイモ、玉ねぎ。それだけ。

「カレーかシチューしか思い浮かばない」

「じゃあ、それでいいよ」

 食に関心の薄い父は、腹が膨れれば何でもいいらしい。

「チルド室に鶏肉がある。ルーは引き出しの中だ」

 と言いながら、結局自分で取り出して並べる。挙句の果てには、野菜を掴んで剥き始めようとする。

「ちょっと、いいって。私がやるから。いつも杏梨優は一人で作ってるんでしょ?」

「でも亜紀に包丁を持たすのは心配だ」

 そう言う本人は、握っているピーラーですら危なっかしい。

「もう、いつまでも子ども扱いしないでよね」

 亜紀は父からにんじんを奪うとシッシと追い払う。

 歪なジャガイモの皮むきに悪戦苦闘し、水気の多いまま鍋に投入しては油を跳ねさせ、そもそも二人前の塩梅も分からず、完成した時は作り始めてから一時間経っていた。

 部屋から再び出てきた父が、食器やら水やら甲斐甲斐しく並べてくれた。

 偶然見つけたきゅうりは、父がスティック状に切ってコップに入れた。父の言うサラダとは昔からこれだった。たかが縦に切るだけなのに真っ直ぐになっていないきゅうりを、亜紀は懐かしい目で眺めていた。

「中辛で大丈夫だったか?」

「高校生にもなって、私が甘口だとでも思ってるの?」

「…そうか。そうだよな」

 感慨深げに頷く父に、亜紀は少しムッとした。この人の記憶は八年前で止まっているままだ。

 カレーは、二人が隣り合う形で置かれた。杏梨優はいつも父と時間をずらして食べているようだが、父がまた部屋に引っ込む気配が無かったので自然とそうなった。それでも対面する形で食べるのは気が引けたのだ。

 「いただきます」と子供と一緒に手を合わせ、「おいしいよ」と笑ってくれる。その姿は、何処にでもいる温かい家庭の父親と何ら変わりは無かった。

「…もし、未来を予測できる者がいたとする。知ってしまった運命は変えることができない。だとしたら、その能力は果たして意味のあるものだろうか、それとも無意味なものだと思うか?」

 だが、話の内容はやはり異常だった。

「少し先が見えるだけで、何もできないんじゃ意味がないと思うけど…?」

 他に応えてやる人もいないため、会話を繋ぐのは必然的に亜紀になる。

「そうだね。でもね、その更に先の未来を変えることだったらできるんじゃないかな」

「……」

「父さんのやっていることはね、つまりそういうことなんだよ」

「…?」

 亜紀が首を傾げると、父は少し笑った。

「例えばね、今日は雨が降るっていう変えられない運命があっても、傘を持っていけば問題ないだろ?」

「ああ…」

 例えがありきたりすぎて、逆にピンと来ない。

「でも亜紀だったら、邪魔だからってその傘すら拒みそうだよね。でもね、もしそこまでも運命だとしたら、父さんは土砂降りの雨の中、不貞腐れている亜紀を車で迎えに行ってあげるんだ」

「そう、ありがとう」

 意味はやっと理解できたが、ここでどうしてそんな話をするのだろうか。いまいち分からず、結局表面的な相槌を打ってごまかすしかできない。

「…お父さんは、超能力者なの?」

「おいおい、父さんは研究者だよ?そんなオカルト、信じると思うか?」

 そう大げさに笑い飛ばす父は、何処か白々しかった。そんな様子が少し引っかかった。

 学校で寝すぎたのかもしれない。その日の夜は、なかなか眠りにつけなかった。




 翌朝。昨日の別れた道で、杏梨優にばったり会った。

「おはよう、亜紀」

「ん、おはよう」

 そのまま並んで歩く。

 何故か杏梨優は、手を繋いできた。

「…何よ」

 拒むつもりはないが、黙認するには照れくさかった。

「別に?」

 しかし杏梨優は手を離そうとしない。仕方なく、亜紀はそのままにしておいた。

「…私、お父さんにばれちゃった。かなりすぐだった」

「まあ、あの人相手じゃ仕方ないわ。私は平気だったよ」

「…そう」

 しかし杏梨優は、いつもみたいに勝ち誇った笑みを浮かべたりしない。何故なら彼女は亜紀の分身なのだから。

 家族が見破ってくれれば、杏梨優も考えを改めてくれると思っていた。だが、杏梨優の演技は完璧だったようだ。気づかれさえしなかった。微かな期待は打ち砕かれ、亜紀は唇を噛んだ。

「でもね、これで私も安心した」

「……?」

 杏梨優は大きく伸びをし、そのまま空を見上げる。今日も快晴だ。

「私は完全に亜紀になれた。それが分かったんだから。だから、」

 杏梨優が立ち止まる。

「もう今日でおしまい」

「えっ?」

 垣間見せたその笑顔は、いつもの杏梨優そのものだった。

 しかし、その表情はすぐに消えてしまうと、

「さよなら」

 手が、離れた。

 遠ざかっていく杏梨優の姿。その横を視界一杯に、

 トラックが横切った。

 鈍い衝撃音と、遅れて聞こえる凄まじいブレーキ音。

 突然の出来事に呆然とするしかなかった。

 再び目に入った杏梨優は、微笑んでいた。だが、その頬には大粒の雫が伝っていた。

 つられて思わず、亜紀も一粒涙をこぼした。

 初めて見る、お互いの表情だった。

 駆け寄ってくる人の足音と声も遠くに、二人は静かに見つめ合う。

 それが、二人の最期の思い出となった。




 病院についても、目の前で起きていることが信じられなかった。

 事故は、トラックに直撃する形で起きていた。手の施し様もなく、ほぼ即死。

 もう一人の自分は、今は安らかに眠っていた。もう起きないと分かっていても、思わず手を伸ばしそうになる。「早くしないと遅刻しちゃうよ」と、叩き起こしたくなってしまう。

 随分と広い個室で、一人ぼっち。もう一人いるのだが、この状況を二人ぼっちと呼ぶことは、もう出来ない。

 空っぽになってしまった心は、少しの恐怖しか持てなかった。

 誰でもいい。早く来て――。

 ぎゅっと目をつむり、何かに耐えるようにしてじっと待っていた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 無音であることに慣れてきた時、急にドアが勢いよく開いた。

 突然の音に跳び上がり、恐る恐る後ろを向くと、

「…凱」

 凱も目の前の状況に打ちのめされているようだった。血の気をなくした顔で、立ちすくんでいる。そして、ゆっくりと此方に視線を戻した。

「……」

 言葉を探している凱を、固唾を呑んで見守った。ようやく出た答えは、

「――亜紀?」

 見えているものに、やっと色がついたような気がした。ふっと力が抜け、同時に無に近かった心に現実がなだれ込んできた。

 それはあまりにも多すぎて、涙となって溢れ出る。

 とうとう膝をつき、声を上げて泣きだした。

 そうだ、私は――

 亜紀なんだ。

 杏梨優は、死んだんだ。

 慌てて駆け寄った凱の胸に抱かれながら、亜紀は一つ一つ咀嚼していく。

 何処も怪我していないはずの身体がズキズキと痛む気がした。

 あっけなく奪われてしまった一人の少女の命は、こうして一人の少女によって消化されるのだった。


 


 運命の時間を過ぎたことを確認すると、清志はホッと胸を撫で下ろした。

 長かった――。

 じわじわと体に広がっていく疲労感は、充実したものだった。

 苦しめられてきた悪夢とも、これでおさらばだ。

 亜紀は運命から守られたのだ。

 悪夢が再現されるのは、変えることの出来ない事実だった。だが、清志は娘を失うという事実をどうしても鵜呑みにしたくなかった。

 そこでふと、思いついたのだ。もしかするとあの少女は自分の娘ではなく、娘にそっくりな子なだけかもしれない。

 藁にも縋る思いで、盲目に作り上げた少女こそが杏梨優だった。

 悪夢の生贄として育てられた杏梨優は、しかし清志の意に反して育つ部分も多かった。

 違う、これでは亜紀ではない。

 僅かな娘との差が、悪夢の再現に大きく関わる。そこで清志は杏梨優と亜紀を接触させ、二人のシンクロの最終調整を行った。

 そして今日、杏梨優はその役目を全うしたのだ。

 身に沁みる達成感こそが、その終焉を物語っていた。

 これで自分の役目も終わった。あとは、亜紀が今までと同じように幸せに暮らすのを願うだけだ。

 ――三人で。

 その幸せな毎日に、自分はいないことを清志は分かっていた。

 亜紀の姿をもう見れないのは残念だが、生きてくれていればそれでいい。

 無理にでも結論付け、辺りを見回す。酷く汚い部屋だ。

「まあ、いいか。必要なものだけ持って動けば」

 ここから遠くに頼れる友人はいたかと、大学時代の清志は記憶を辿っていく。

 後ろを振り返ることは、もうしないようにしよう。

 心残りと言えば娘に会えないことくらいだ。

 しかし、その割にはしこりがやけに大きいことに、清志は気づかなかった。




 いつものように一人で登校し、いつものように本を開く。やがていつものように蓮や凱が来て、いつものように他愛ない会話で時間を潰す。

 少し前の、一人だった時の日常に戻るのは、思っていた以上に早かった。

 柊先輩のところにはまだ行けないが、亜紀は徐々に元に戻せたらいいなと考えていた。隣にいれなくても、避ける必要はないのだから。

 杏梨優のことは、皆打ち合わせたように口にしなくなった。亜紀に気を遣っているのかもしれないが、彼ら自身もその話題には触れたくないようだった。

 二人の間にあった異様な世界は、クラスにとっては恐怖に写ったのかもしれない。そもそも何も無かったかのように、作られた平穏な日々が続いていた。

「おい、亜紀。次、移動授業だぞ」

 凱がいそいそと次の授業の準備をする。

「うん。先行ってて」

「そうか。遅れんなよ」

「うん」

 去っていく凱の背中に、亜紀は小さく手を振った。

 その指先には、

 ――小さな切り傷の跡があった。


 外見、性格、癖――。全てを総合したものを「自己」というのでしょうが、ではそれら全て同じものを持つ者がもう一人いたとしたら、「自己」はどこに求めればいいのでしょうか。確かにそこには二人いるのに。

 今回はそんな題をSF風味に展開させてみました。させ過ぎましたね。長かった…。

 というわけで、こんにちは。がっつり文系の香罹伽です。初めまして。ご無沙汰しておりますの人も、大分増えてきたのではないでしょうか。

 さて、そんなわけで二度目の個人誌に載せた作品ですが、新しいものに挑戦しようとして撃沈した感じがしますね。多視点で描く三人称、緻密な設定説明の必要な世界観、成長させづらい才能に富んだ主人公――。正直、アップアップだった面が多かったです。

 まず題材がいけなかったですかね。クローンの定義を説明する時点で数時間頭を抱えておりました。理科科目は物理しか出来ません。

 そのためか、かなりグダグダしたと思われます。普段の数倍は読みづらい。あまりにもグズグズ書いていたら一時期ゲシュタルト崩壊を起こしました。その割に個人誌スケールにしてはコンパクトだ…。こちらは気力の問題ですね。

 相変わらずのネーミングセンスの無さや下手な口説き文句は、もう見逃してください…。書いてて物凄く恥ずかしかった。というか、高校ライフがこんな青春に満ち溢れたものだと思うでないよ。

 と、数多くの反省点の残る今回の作品ですが、書き上げた過程で得るものも勿論多かったと思います。次に繋げられるといいですね。次がいつなのか分かりませんが。

 スペースが埋まってきましたので、この辺で。

 ご高読、ありがとうございました!

 また遭える日まで。


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