短い夏休み・1
目を開けると、紺碧の世界が広がってくる。全身を包む水の冷たさを感じながら、網織零次は腕で水をかいて浮上を始めた。身体が重かった。当然だ。脳時で丸一日強行軍をやってからの、戦闘訓練。全身の筋肉が悲鳴を上げ、加えて肺にはたっぷり水が入っている。浮力なんてほとんどない。
頭上の水面をようやく突き抜けると、マニュピレーターが両脇の下に差し入れられる。水面を引きずられながら開けた口に呼吸器が降りてきた。駆動音とともに肺に酸素が送られ、同時に濃い青の液体が吸い取られていく。一番苦しい時間だ。顔をしかめて耐える。
「……はあっ」喘鳴のような息が漏れた。約一日ぶりの生の空気だ。実際には酸素循環液(OCL)に浸かっていた約一時間弱だが、体験した出来事と酸素濃度の低さに気だるさが残るのは防げない。頭を振って手を伸ばす。すでにプールの縁に運ばれていた。床のタイルに手を突き、ゆっくりと立ち上がる。すべてが妙にもどかしい。
仮想現実マシンルームは半地下にある。天窓から降り注ぐ自然光が、八つの円形プールを照らす。研究施設である都合上直射日光はカットされるが、タイル張りの中央には日だまりができるようになっていた。自然とメンバーの休憩場となっている。
先客がいた。
「や、お疲れ」
ニコラウスは日だまりに座り、苦しそうな顔をしていた。循環液の吸い取りが辛かったのだろう。目が少し潤んでいた。零次より一つ年上の十七歳だが、温和な性格もあって同年代のように接している。プロジェクトメンバーでは最も気心の知れた相手だ。
「早いな」とニコラウスの隣に腰を下ろす。身体を熱が包み、心地よい。「吸引器にはもう慣れたんだ?」
ニコラウスは額に張り付いた赤髪を指でいらった。「あれ、まだ吐きそうなんだよね。でも今日は対戦で負けたのが大きいかな」
「誰だっけ相手?」
「私」
ロロ・サンシクストは水から出たところだった。長い金の髪を凹凸のある身体に張り付かせて、ロロは二人の前を通り過ぎていく。一瞬立ち止まった。
「ニコ、あと委員長もだけど、もう少し筋肉をつけた方がいい」
疲れた様子もなく更衣室へと消える彼女を見送ってから、ニコラウスが呟く。
「あれで僕より三つ年下かぁ……二十代にしか見えないよ」
「どんな負け方したんだ?」
「全身フルプレートで組み敷かれて、文字通り圧死」
苦笑する。仮想空間内での訓練では個々の身体能力がなるべく等価になるようハンデが設けられている。零次が軽装で相手が騎士鎧だったように、単純な体格差や技量だけでは勝てないよう身体の動きを制限されるようになっている。それが本来の目的ではないからだ。
対戦で一方的になる場合は、本来の用途――魔術を行使した時のみ可能だ。そして仮想空間で魔術を使えるニコラウスが負けたということは、
「初歩の位階に入ったんだ、ロロさん」
「そうみたいだね。自信失くしちゃうよ」
ため息をつく友人に、零次は何も言えなかった。
ニコラウスは先祖代々魔術師の家系に生まれた嫡男だ。三か月前まで一般人に等しかった相手に追いつかれた気持ちは、軽い言葉とは比較にならないほど心にのしかかっているはずだった。
静かになったマシンルームに、その時チャイムのアナウンスが流れる。
「そろそろ行こうか。次の授業が始まる」
零次は立ち上がった。
次は訓練の復習と魔術の講義だ。
とりあえず今日はここまで。次回未定。