第四章 魔女の侵略
第四章 魔女の侵略
三日後。
あの日遭遇した、鎧を纏い驚異的な能力を持った鬼を“霊鬼”と呼ぶ事になった。
幽霊のように、正体が掴めていないので霊鬼。
詩織の属する鬼狩り部隊“兎”は、ほとんどのメンバーが死傷した為新たに、人員と装備を確保して再編成が必要だった。
生き残った戸田と詩織の証言、現場に残された(ほとんどは廃校の爆発で消し飛んだが)
痕跡から霊鬼や、その後ろで操っているであろう集団について調査していた。
「どうも、調査のほうは余り進んでいないようだな」
鬼狩り、実戦部隊の要たる狼の育成施設。新たに編入されてきた狼達の、訓練を会議室の窓から眺めながら戸田は呟く。
体育館ほどの広さで、動く標的を狙って新人の狼達が射撃訓練をしている。迷彩調の野戦服を着た戸田の、左肩には隊長を示すエンブレムが付いている。隊長への抜擢を受けた戸田だが、晴れた顔など見せなかった。
詩織は戸田の気性から、断ると思ったがあっさりと戸田は隊長への就任を受けた。最近の戸田は、いつもの陽気さは消えて何かを考え込んだり、険しい表情を浮かべ雰囲気が重い。
「余り・・・・・・という事は、少しは分かったの?」
詩織は、窓の傍に立って戸田の横顔を見る。髪を後ろにひっつめて、色気の無い野戦服に包んでいる。左肩には、副長を示すエンブレム。生き残った詩織も、戸田と同じように副長へと抜擢された。
「少なくとも、アレ・・・・・・霊鬼は日本にいる鬼じゃない。いや、日本にいた鬼かもしれんが、人形と化した霊鬼は海外で作られた」
「根拠は?」
「ネットワークに怪しい線が浮かばなかった。鬼狩りの情報網は、北海道から沖縄まで張り巡らされている。隠密裏に、あの異形の霊鬼どもを作り出せる可能性は低い。霊鬼の鎧の破片と思しきものから、外国で使われている記号が入っていた」
「外国の鬼・・・・・・? で、霊鬼を操っている奴らは?」
戸田は無言で頭を振った。
「そこまでは分からん。が、かなりやばい連中だ。しかけられた爆薬は高性能のプラスチック爆弾。俺たち鉄よりも、金と技術を持っているのは間違いない」
詩織はため息を付くと、テーブルに置いてある紙コップのコーヒーを啜った。
「鉄がパッチモンの、インスタントコーヒーだとすれば、霊鬼を操っている奴らは上質豆を贅沢に使った、本物のコーヒー」
戸田は凄惨な笑みを浮かべながら、陽気な口調で言った。
「そいつらは、俺たちが長年守りつづけたアイデンティを木っ端に壊した。すなわち、鬼=人類の敵であり、すべからず抹殺せねばならない存在。だが、奴らはその鬼を自分たちの人形に変えた。もし、鬼が人間の戦人形として操れるなら、俺たちの存在意義は消えうせる」
「関係無いわ・・・・・・」
詩織は、感情の篭らない声で呟く。
「存在意義、鬼狩りの誇り・・・・・・結局の所、それらは自分たちを正当化する為に作られたモノ。正義の味方なぞ存在しない。私達は良くも悪くも、自分たちの為に鬼を倒しつづけている。真狼の持つ力を、邪悪とされる鬼に向いているからこそ、周りの人間は私達を認めて、その存在を許してきた。自分自身の為に、私は鬼を狩り続ける」
詩織の目が、鋭利な刃物のように鋭くなる。
「このままでは、絶対に終わらない・・・・・・!」
脳裏に、克明に霊鬼の姿が浮かぶ。心臓に右手を当てると、興奮に心拍数が高まっているのが感じられる。
そんな詩織を、戸田は痛々しいものを見るかのように眼を背けた。
「あまり、熱くなるな。今、俺たちがしなくてはならんのは、装備の慣熟と新しい狼の練成だ。このままでは、もう一度霊鬼らとやりあっても同じ轍を踏むだけだ」
だが、と戸田は首を振る。
「俺たちのチームは完璧だった。装備も錬度も、他の隊に比べてもトップクラスだった。何故俺たちは負けたか? 敵方の周到な待ち伏せもあったが、あの霊鬼に対抗できるだけの火器や能力を持ち合わせていなかったからだ。霊鬼を倒すだけの火器を求めるなら、ロケットランチャーや対戦車ミサイルが必要だ。だが、歩兵というプラットフォームが限定すれば、火力には自ずと限界がある」
「戦車や攻撃ヘリが必要だと?」
「極論すればそうなる。だが、それは不可能だ。鉄の大前提が、隠密裏に鬼を駆る事だからな。戦車や戦闘ヘリ余りにも目を引きすぎるし、重火器の運用を隠密裏に行うのは難しい。だから隠密に、霊鬼を駆るのは昔ながらの方法・・・・・・」
言葉を切った戸田に、詩織は後を引き取る。
「特殊能力を武器とする、真狼で奴ら(霊鬼)を狩る・・・・・・ね」
戸田は肩を竦める。
「だが、効率の悪いやり方だ。こいつは、只でさえ少ない真狼をすり減らす愚策かもしれん。が・・・・・・今考えられるのは、これくらいしかない」
「私たちが考えている事・・・・・・上層部でも考えてくれているかしら?」
詩織の疑問。これは、すぐに明らかになる。
更に二日後。
『こちら、紅。ニエの気配を補足』
『こちら、青。同じく気配を察知。おそらく、例の霊型と思われる』
『こちら、藍。配置についた。いつでもどうぞ』
『こちら、白。上に同じく』
『こちら・・・・・・』
詩織は、ヘッドセットから入ってくる、報告を聞きながら鬼の気を探っていた。
深夜、建設途中のビルの中で詩織は潜んでいた。
鉄では、詩織達の報告を重視して急遽、各チームの手練の真狼を集めて即席の対霊鬼用の戦闘集団を構成した。その中に詩織も含まれている。この、チームの名前は“五彩”
いうなれば、切り札。
切り札の意味は、最後の強力な存在。
その“最後”を反転させて、取り取りの才を持つ真狼集団の意味を取ってこの名が付けられた。
“五彩”の指揮を執るのは戸田。戸田は真狼ではないが、実戦経験豊富であり真狼の力の使い方を熟知している。また、狼でありながら霊鬼との戦いから生還してきた。そうした点を買われて、臨時の指揮官に任命される。
即席で、練成の間も与えられず、霊鬼出現の報告。先行した他チームによって、通常の鬼では無い事が判明して、五彩の出動となる。
詩織達は慎重に進んでいく。数は判明していないが、四体を上回る事は無いと知らされている。剥き出しの鉄筋を見ながら、戦闘行動に制限を加えられる事を詩織は憂慮する。
無闇に動けば、鉄筋に体が当たってそれだけで戦闘能力を喪失する恐れがある。詩織自身、そんなヘマをしないが他の仲間は分からない。
不安と焦燥に駆られる。だが、ここで引く訳にはいかなかった。ここでは、細かい作戦は無い。連携する練習も無く、出会ったばかりの人間ばかりで高度な作戦を行うのは無理だ。
真狼でも能力が高く、霊鬼と交戦経験がある詩織が前衛。後の人間は詩織のバックアップと、霊鬼の連携を阻害する。後は出たとこ勝負。
風を切る音が聞こえてきた。
「警戒しろ!」
戸田が皆の注意を喚起する。
ビルの周りを覆おう、ビニールシート。詩織の後ろに位置している真狼、三十代半ばの男のすぐ横のビニールシートが膨れ上がる。
バシュュウウウ!!
破裂するような音と共に、ビニールシートが破れそこから霊鬼が飛び出す。男は自分で死を意識する間も無かっただろう。霊鬼は飛び込むと同時に男の頭を、トマトを握りつぶすように右手で破裂させる。
脳漿や目玉、頭蓋骨が当たりに飛び散りその一部が詩織に降り注ぐ。だが、詩織は怯まず自分に側面を晒した鬼に、鞘から刀を抜き放って斬りかかる。
キィィィィーーン!!
霊鬼は、右手の篭手からブレードを出現させ詩織の攻撃を受け止める。他の、真狼達も奇襲の動揺から立ち直り、霊鬼に向けて攻撃を開始する。だが、霊鬼はそれを予期したかのように跳び退り、驚異的な跳躍力で皆の視界から消える。
『陽動かもしれん! 奴ばかりに気を取られるな!!』
詩織は、階段を駆け上がる。
今、霊鬼に攻撃の主導権を握られている。いくら、手練の真狼を集めてもこれでは意味が無い。何とか、白兵戦に持ち込みたい。白兵戦で、霊鬼の動きを止める。
変幻自在な、あの動きを封じ込めねば主導権は永遠にこちらに、巡って来ない。
「戸田、私が霊鬼の動きを止める。・・・・・・おそらく、霊鬼は一体のみよ」
『どういう事だ?』
「不意を付いての奇襲。もし、複数で仕掛けたらもっと効果が上げれた筈。でも、霊鬼は一体だけ。奇襲=陽動には繋がらない。霊鬼の戦闘手法は冷徹なまでに、合理的」
『・・・・・・分かった。何故一体だけなのかは、謎だがお前のカンを信じよう。全員聞いたな? 時坂が白兵戦を仕掛ける。その間に四方を囲みこむんだ!』
詩織は走る。他の真狼も、続いているのを気配で感じるも目では確認しない。する間も惜しんだ。
と、濃厚な殺気。
詩織は咄嗟に、後ろに飛び去る。その瞬間、轟音と共に天井のコンクリートが割れて霊鬼が詩織へと襲いくる。
既に反撃体勢を整えた詩織は、余裕を持って霊鬼を迎え撃つ。霊鬼は両腕の篭手から、ブレードを出現させて容赦無く詩織へ、凶刃を振るう。
詩織は凶悪なブレードを掻い潜り霊鬼へと、肉薄。自分の間合いへと持ち込むと日本刀で連撃を加える。
大人と子供以上に、身長差のある詩織と霊鬼が剣を打ち合う様は異様であった。だが、それは幻想的なまでに人の目を惹きつける。火花を散らしながら、両者は予め定められた剣舞を行うように死闘を繰り広げる。
『巧いぞ時坂! 黒部、今の内に光呪結界を張れ!!』
戸田の指示を受けた、真狼の一人、二十代の男が詩織と霊鬼に向けて両手を向ける。
「ハァァァァ!!」
詩織と霊鬼を、取り巻くように光の輪が浮かぶ。霊鬼が、詩織との攻防で一瞬の拍子に、光の輪に左肘が触れる。
バシュ!!
「ガァ!!」
青白いスパークが発生し、霊鬼は苦痛の叫びを上げる。詩織の背中が、光の輪に触れる。が、光の輪は反応せず自ら詩織との接触を嫌うように、くにゃり、と曲がる。
光呪は、異界からの住人だけ、鬼だけに攻撃反応をしめす、短距離結界だ。
『ようし、霊鬼の足を殺した! 後は全員でメッタ打ちにしろ』
戸田の攻撃指示は、力任せの、スマートとは言えないものだ。だが、今はこれが最善だろう。
霊鬼一人に、各真狼が攻撃を与える。真狼らに囲まれても、霊鬼は恐るべき戦闘力で抵抗した。今までの鬼なら、当に倒れていただろうに、霊鬼は頑強だった。
だが、手練の真狼の攻勢にいつしか霊鬼も手傷を多い、消耗の度合いを高めていく。
そして――
「せいっ!!」
詩織は踏み込み、日本刀が霊鬼の首を捉える。
詩織の手に、確かな手ごたえ。
霊力を込め、青白い光を放つ刀身は鎧ごと鬼の首を切断した。
「は、は、は、は・・・・・・!」
呼吸が乱れる。詩織は、水を被ったかのように多量の汗を流していた。霊鬼の屍骸を見下ろす。
死後痙攣を起こし、カタカタと鎧を鳴らしている。
と、何かのスイッチが入る音。
鎧の一部が、赤く光る。
詩織の、勘が激しい警鐘を鳴らす。
「皆、離れて!!」
皆の反応を待たず、詩織は霊鬼の屍骸から全速力で離れた。
爆発、衝撃。
詩織は、咄嗟に身を伏せる。
朦々と立ち込める、煙の中詩織は辺りを、目を凝らして見渡す。爆風はそれ程、強くはなかった。その気なら、このビルごと崩壊させるほどの爆薬を仕掛ける事も可能だった筈だ。
『全員無事か!? 怪我をした奴はすぐに申し出ろ!』
戸田が倒れた、真狼達に近寄り体調を確認している。
詩織は、鬼の屍骸へと近づいて仔細に観察する。鬼の屍骸は爆発によって、黒焦げになっている。金属片が、辺りに散らばっている。鬼の屍骸、というよりロボットの残骸に見える。
「自爆機能まで付いてあるとはな・・・・・・」
戸田が詩織の傍まで来て、霊鬼の屍骸を見下ろす。
「特攻攻撃じゃない。証拠隠滅といった所でしょう」
乾いた声で、詩織は呟く。
「撤収するぞ! 回収班、すぐに迎えに来てくれ」
戸田が、指示を飛ばすのを横目に見ながら詩織は考えていた。
「どうして、霊鬼を一体だけ出撃させた・・・・・・?」
以前の戦闘で、霊鬼は極めて高い能力を示した。今度、会い見える時は当然自分達が、以前よりも大きな戦力を持って当たると予想できる筈だ。
それなのに何故、一体だけ?
敵の考えが読めない。
どうにも、ちぐはぐな行動。霊鬼を操る、人間。そいつのまだ見ぬ顔を思いながら、詩織は鋭い目で、上空を見上げる。
「どうした、時坂?」
戸田が、詩織の肩を叩く。
「怪我人は?」
戸田のほうを見る事もなく、詩織は尋ねる。
「五人だ。最初の奇襲で、一人殺られた」
戸田は、淡々と告げる。
「鋼の、手練の真狼が集まって霊鬼一体を倒すのに、これだけの手間と損害を出した」
薄ら寒そうに、戸田は表情を顰める。
「俺も、どうして霊鬼が一体だけなのか謎だ。だが、変なモンだ。今までは、どうやって鬼を効率よく狩るかだけを考えてればよかった。それが、今や人間相手に知恵比べとはな・・・・・・。何れにせよ、今考えた所で仕方あるまい」
「・・・・・・・・・・・・」
気に食わなかった。
敵に主導権を握られている事。今の状況が歯がゆい。
詩織はこれが敵の陽動である事を、後日知る事になる。
そこより、数キロ離れた場所。
詩織達が死闘を繰り広げた現場を、一人の白人男性が腹ばいになってビルの屋上で、暗視双眼鏡で覗いていた。
男は、携帯電話ほどの小さな無線機を取り出す。
「奴ら、ファングを倒した」
『了解。既にこちらも、お屋敷を包囲した。が、いいのかね? 平和な治安国家、ジャパンでマシンガン振り回して、少女誘拐なんて』
男はガムを噛みながら、南部訛りの強い英語で答える。
「そんなもん、俺が知るか! 我らが中佐のご命令だ。が、ファングを切り捨てての陽動で女を誘拐とは、思い切った事をするもんだ」
『確かに。これで、リスキーとの確執もより深くなるんじゃないか?』
男は鼻を鳴らした。
「フン、あの中佐、見た目はむしゃぶりつきたくなる、良い女だが中身は強かだ。あの、世間知らずの坊やなんぞ相手にもならんよ。そして、東洋のサムライ達もな・・・・・・」
男の目には、微かな畏怖があった。
『最後の勝ち組みは、中佐か』
「そういうこった。だから、せいぜい中佐殿のご期待には添えんとな・・・・・・」
『了解、今から姫君を奪いに行ってくる』
「気をつけてな」
無線機を切る。
「俺も、撤収するか・・・・・・」
向こうから足音と、懐中電灯の光が見える。おそらく、見回りのガードマンか何かだろう。
よく、こういう場面。映画では、悪の組織では口封じの為に殺すのが一般的だ。
「だが、そういうのは下の下なんだよな・・・・・・」
男は嘯いて、足音を殺して建物の影に移動。そのまま、ガードマンをやり過す。
「本当の悪は、悪である事を見せず凡庸な羊の仮面を被っているものさ。・・・・・・ん?」
地面に水滴が落ちる。
男は、空を見上げる。
「雨か・・・・・・」
男は笑う。
「夜の雨は襲撃には持ってこいだな」
深夜。
不穏な気配に達也は目を覚ました。布団を跳ね除け、窓に近づく。
カーテンの隙間から、覗き込むように目を凝らす。雨が降っていた。かなりの、量の雨だ。大雨とはいかないまでも、夜の闇と相まって視界が悪い。目を凝らしても、異変は見られない。
・・・・・・気のせいか?
だが、達也は気になった。窓を開けて、雨に濡れるのも構わず目を凝らして辺りの気配を探る。
「・・・・・・・・・・・・!!」
複数の足音と、窓の割れる音が遠くで聞こえた。一瞬、携帯電話に手を伸ばすがやめる。
達也は、ハンガーにかけてあった黒のパーカーを部屋着の上から羽織り、辺りを見渡す。
「武器になるものは・・・・・・無いか」
かつて、常に手元にあった愛用の刀はここ数年触っていない。刀はおろか、ナイフさえも達也の手元には無い。
足音が近づいてくる。
達也は舌打ちして、裸足のまま窓から、外へと身を踊りだす。部屋着が、瞬く間に雨を吸水し肌に張り付く。達也は駆け足で、別宅から離れる。そして、広大な庭に伸びる木々にその身を潜める。
息を殺して、今まで自分が居た別宅のほうを窺う。ライフルを持ち、特殊隊員の如く全身黒で固めた人間が三人。それぞれ散会して、別宅を包囲している。
顔の部分はガスマスクを付けており、性別や年齢を窺い知る事はできない。三人は無駄の無い動きで、包囲して一人が何かを放り投げた。
(手榴弾・・・・・・? いや、催涙弾か!)
別宅の窓からもうもうと、煙が溢れる。奴らの動きは、高度に訓練されていた。まるで、鉄の狼のように。
こちらは丸腰で、相手は武装し、複数。気づかれぬよう、身を潜めるのが今、達也にできる最善の道だった。
一人が、無線機を取り出し何か話している。雨音で、会話はまったく聞こえない。
(何を話している?)
そいつは、話を終えたのか無線機を腰元に戻し、他の二人に合図する。三人は、その場から離れていく。
(撤収か、という事は奴らの目的を達した・・・・・・?)
達也は、ずぶ濡れになりながら塀に向かって走る。息吹を行う。
体中に、霊気が充填。達也の足が爆発的な力を発生させ、跳躍。自重六十キロの達也は悠々と五メートルはある塀の上を飛び越える。
達也は猫科を思わせる、敏捷な動きで身を隠しながら時坂邸の、正門が見える位置まで移動する。向いの、家の庭から身を潜める。
黒いバンが四台並んで、止まっていた。窓にはスモークが張られていて、中を窺い知る事はできない。車のナンバーを見ようとするが、ライトを消しておりこの暗闇では全く見えない。
と、時坂邸の正門から人間が出てきた。全員が黒づくめで、それぞれライフルを持っている。
「!?」
その黒づくめの人間達に囲まれ、連れられている少女。
香織だった。
部屋着のままで、表情を強張らせている。だが、そこに恐怖の色は無い。どこか、凛とした雰囲気さえ漂わせる。
何故香織が?
疑問を浮かべるも、達也は香織を救う為に飛び出すような真似はしなかった。
それはほんの一瞬だった。達也と香織との距離は、二十メートル程。達也は身を潜め、外から見えるのは目元の部分だけだ。しかも、この暗闇と雨。
だが、香織の顔がこちらを向いた瞬間。
香織は、驚いたように目を見開き、次いで安堵したかのように微笑んだ。そこには、自分を救いに来てくれない事を責める、そんな目では無かった。
心から、達也が無事でいることを喜んでいる、慈愛の目だった。そして、全てを悟った殉教者のような落ち着いた表情を浮かべている。
達也は、雷に打たれたように、体が震える。
香織はそのまま、バンの中へと消える。バンはライトを点灯させ、静かに走り出す。
一人取り残される達也。雨に濡れるのも構わず、達也は呆然としていた。
同じだった。
妹が亡くなった、あの日。
丁度、その日も雨だった。
白い病室よりも、もっと青白い肌をした妹。
『私は大丈夫。悲しくなんか、ない。だからお兄ちゃん、私の事で気に病むのはやめて・・・・・・』
亡くなる日、妹は息も絶え絶えに言った。その時浮かべた表情が、自分の運命を受け入れた殉教者のように、清々しい笑顔。
そう、同じだった。
香織と浮かべた表情と。
「馬鹿な・・・・・・そんな事が」
達也は、右手で口元を押さえる。
「違う・・・・・・違う! 違う! 違う!」
達也の絶叫。夜の闇と雨に虚しく、響いた。