第二章 悔恨と希望
第二章 悔恨と希望
達也が時坂邸に来て、一ヶ月。現在達也が今いる所は、鉄所属の支部の一つだ。
支部といっても、外観はオフィスビルの一室に居を構え、特別な所は無い。入り口に掲げられたプレートは『株式会社ラビット総合』という、架空の会社名が入っている。
ここにいる人間も、皆スーツにネクタイを締めているサラリーマン姿だ。ちらほら、灰色の作業服を着た人間もいるが、『ああ、現場の人間も用事か何かで、いるんだな』と思われるくらいで、不審な匂いは全く無い。
何もしらない第三者が見れば、普通のどこにでもある会社と感じるだろう。
最も、それが目的である。
普通に見えなければ困るのである。
鬼狩りの存在は秘匿している。鬼の存在もまた。
達也に与えられた仕事は、実戦で戦う鬼狩りのサポート。こうしたサポート役は“狐”という符牒で呼ばれる。実戦で鬼と戦う者は“狼”という符牒。
狐の役割は、主に鬼の索敵、様々な情報収集。また、鬼の存在を秘匿する為の工作、隠蔽。
このダミー会社にあって、達也のしている事は朝から夕方まで、書類整理や事務であった。表計算ソフトやワープロソフトを使っての、データ入力。
また、名前だけとはいえダミー会社とばれぬよう、実際の仕事業務もしていた。ちゃんと、取引や仕入れ業務をしているのだ。達也の仕事の多くは、こうした実際の業務――製品の受注や、在庫管理、納期回答etc……。
鬼狩りに関連した仕事は、全くと言って良いほどしていなかった。
見方を変えれば、こうしたダミー業務もあるいは立派な、狐の役割ともいえる。達也のしている事は、実際業務を行う事でダミー会社という隠蔽をしている。また、達也がダミー業務をする事で、先輩の狐達は本来の仕事に打ち込める割合が高くなる。
しかし、実際の所、達也は周りから浮いていた。こうしたダミー業務ばかりを回されるのは、達也を信頼しての事ではなく、その逆であるからだ。達也の元には、一切鬼に関連する情報が入ってこないし、周りの人間も教えなかった。
やはり、鋼からの出向という事で敬遠されているのだろう。鉄と鋼は、共に鬼狩りを行う組織ではあるが、ライバル意識が強い。
達也自身、自分が周りから浮いている事を自覚していた。しかし、達也は不平不満を言わず、淡々と自分に与えられた仕事、ダミー業務をこなしていた。
事務や経理関連の仕事は全くの素人であった。最初に先任の狐、から教えられてからは、ほぼ自分で業務をこなした。自分が忌避されているのを十分自覚しているから他人の手を煩わす事がないように、分からない部分があれば、自分で調べ上げて解決した。
机の電話が鳴る。受話器を取ると、相手は取引先の担当者。
もちろん、この担当者はこの会社が鉄のダミー会社とは知らない。
「神郷です。お世話になっております……」
営業口調も、板についてきた。
午後七時。
達也は、帰宅した。帰宅といっても、時坂邸の離れであるが。鞄を机の下に置き、背広をハンガーに掛けて、夕食を取るために本宅のほうに向かった。いつも、食事は一緒にというのが、時坂弦の言葉である。
チャイムを鳴らす事もなく、そのまま玄関のドアを開けて中に入ると、香ばしい匂いがした。
リビングに到着すると、学生服姿の佳織が参考書を見ていた。達也に気づくと、本を膝の上に置いて微笑んだ。
「お帰りなさい、達也さん」
「ああ、ただいま」
達也はネクタイを少し緩めながら、指定の席に着く。佳織は、達也の側に椅子を寄せてきて、参考書を開く。
「達也さんここ、聞いてもいい?」
佳織は参考書の一部を指差す。
「どこが、分からないんだ?」
当初、佳織は達也を『神郷さん』と呼んで他人行儀であったが今では、呼び方も変わり勉強を教える迄に仲が良くなった。
佳織から柑橘類の、コロンの匂いがした。
最初こそ、妹の幻影を感じるこの少女を間近くで感じる事に、苦痛めいたモノを感じていたが今は無い。佳織を見ていると、心が安らぐ。失っていた物が、収まったような感覚。
心が温まる。佳織を見ていると、父性愛にも似た感情が湧き出てくる。
「そうだな……ここは昨日教えた公式を使って、解くんだ」
「え? ……あ、本当だ。凄い、達也さん」
拍手して、しきりに感心する佳織に達也は苦笑する。
その時、スリッパの足音と共にドアが開かれる。スーツを着た詩織であった。
「あ、お帰りなさい姉様」
佳織の挨拶に続いて達也は、詩織に向って軽く右手を上げる。
詩織は、佳織と達也が接近しているの見て、一瞬眉を寄せるも直ぐに無表情を保つ。
「ただいま」
それだけ言って、詩織は自分の席に着いた。佳織とは、かなり親しい間柄になるも詩織の仲は相変わらずだ。達也も積極的に、詩織との親交を深めようとはしなかった。
達也と詩織の不仲(一方的に詩織が達也を嫌っている)を気にしてか、佳織は椅子を自分の席に戻す。そして、達也との会話を中断して姉に話しかける。
しばらくすると、時坂弦が帰ってきた。四人が揃うと、中年の家政婦がテーブルに食事が並べる。
食事中で、会話の中心はもっぱら時坂弦であった。時坂弦は話好きで、教養もあった。
詩織も、達也に友好的な態度を見せないが、一々突っかかったり険悪な表情を見せるほどに子供ではない。概ね、和やかな空気の中で食事が進められる。
「どうだね、神郷君。仕事のほうは?」
温和な表情で時坂弦が尋ねてくる。
言葉どおりの意味か、それともこちらの反応を試しているのか。一瞬考えるも、すぐに無難な優等生的答えを返す。
「ええ、思った以上に順調です。最初こそ、色々戸惑いましたが今は何とか」
この時、詩織と視線が合う。詩織の目は複雑であった。
軽蔑、哀れみ、怒りが混じった物。達也の、任されている仕事が鬼狩りとはまったく関係無いのを知っているのだろう。
それでも、不平不満や怒りを表さない達也に、詩織はどう思っているのだろうか?
「そうか、それは良かった。神郷君のように優秀な人間が入ってくれて、詩織も大助かりだろう?」
詩織は達也のほうを見ながら答える。
「……はい、お父様。それはもう」
空々しい答えだ。達也は苦笑する。それは当人である詩織にも分かっているだろうが。こうした当人達の腹芸を知ってか、知らずか時坂弦は満足そうに笑っていた。そして、微妙な雰囲気を感じてか、佳織は少し心配そうな表情だ。
ふと、達也は疑問に思う。それは詩織が、兎という班の中でどのようなポジションにいるか。おそらくは、狼――実戦部隊に属するだろうがその中で、前衛か後衛、どのような戦闘スタイルを持つのか。全く知らない。
今度機会があれば聞いてみるか。
最も、その機会が何時訪れるか見当もつかないが。
「時に新郷君。君は以前、鋼でも名うての狼だったそうだね」
「名うてなど、とんでも」
驚いたように、佳織は目を見張る。
「え、達也さんは狼だったんですか?」
達也が答えるより、時坂弦が我が事のようにいった。
「鋼でも優秀で、倒した鬼の数は、ずば抜けていた。……どうかね、一層の事、狐から狼になっては? 適正試験を受けてもらうが、君なら楽勝だろう?」
達也は頭を振る。
「いえ、自分はもう刀を握るのは……」
言葉を濁す達也。時坂弦もあっさりと引いた。
「そうか。ま、もし気が向いたら何時でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
頭を下げる達也だが、内心では『気が向く……それは一生無いだろうな』そう、呟いていた。
「赤い狂犬」
詩織のぽつりと呟いた一言が、全員の動きを止めた。何とも不吉な臭いのする、言葉。
「今の貴方には、その片鱗が見えないわね」
詩織は、ナイフとフォークをテーブルに置いた。
「ご馳走様。お先に失礼します」
詩織は立ち上がり、達也に一瞥をくれて部屋を後にした。
赤い狂犬。
かつて、達也が鋼の狼として活動していた時に付いた綽名だ。
十六歳の時に、狼として活動。一年後、単独で鬼を狩るようになる。
たった一人で、狂ったように這いずり回り、高い感応能力で鬼を探し出し、駆逐する。人の皮を被った鬼。
いつの頃から、達也に赤い狂犬という綽名が付く。
(赤い狂犬か……久しぶりに聞いたな)
「済まんな、新郷君。詩織も、いつもは落ち着いているのだがな。どうも、君が絡むと感情的になりやすい」
申し訳なさそうに、時坂弦は言う。
「いえ、お気になさらずに。気にしておりませんから」
ふと、視線を感じて佳織のほうを向く。
佳織は悲しそうな目でこちらを見ていた。
(何故、そんな目をする……加奈)
午後十時。
達也は自分に割り当てられている離れに戻っていた。
最初、時坂弦に、狭い所だが我慢してくれと言われたが、二階立ての一戸建て、一人で生活するのには空き部屋できるほどに、広かった。
机に向って、経済誌を呼んでいると呼び鈴がなった。
この夜更けにだれだ?
訝しく思いながら、玄関のドアを開ける。詩織が立っていた。
格好は、スーツからラフな服装に着替えている。下はジーンズに、上は白のブラウス。
(謝りに来たのか?)
一瞬達也はそう思ったが、詩織にしおらしい雰囲気は無い。挑むような、警戒する目をこちらに向けている。
達也はドアノブを握ったまま、詩織を見ている。詩織も無言。しばらく、両者無言のまま対面。先に動いたのは達也だった。
「入れよ」
達也は、奥のほうに顎をしゃくった。
「お邪魔するわ」
詩織は、達也の傍を通る。体を洗ったばかりなのだろう。その際に、甘い匂いが達也の鼻孔を擽った。
「酒でも呑むか?」
冷蔵庫から、缶ビールを二本取り出す達也。一本を詩織の前に置いて、対面のソファ
に腰を下ろす。
プルタブを引き上げ、達也はビールを口に含む。詩織は、出されたビールに手も付けず達也を見据える。
「神郷の望みは何?」
詩織の言葉に、達也は面食らったように目を瞬かせる。
「おいおい、何を言い出すんだ?」
が、詩織の目は真剣だった。
「私は疑っている、あなたを」
詩織の言葉に、達也はある単語を思い浮かべる。
「俺が監察官だと思ったか」
監察官。
有り体に言えば、諜報者――スパイ。
「監察官なら、わざわざ鉄の御当主に泊めてはくれんだろう。それに、今時諜報等流行らん」
「違うわ」
詩織は冷たい声で、達也の言葉を遮った。詩織は立ちあがり、窓の傍に立つ。視線は、窓から見える庭へと向けている。
「佳織よ」
「?」
詩織の言葉は謎掛けのようだった。
「佳織に、あまり近づかないで」
「どういう事だ」
詩織は腕を組み、達也のほうへと振り向く。
「言葉どおりの意味よ。……あなたには、女を幸せにできる匂いが無い。あるのは、死臭だけ」
冷たい目だ――。
詩織の目を見て、達也はそう思う。
だが、奇麗な瞳でもある。硬質な美貌。詩織から愛想の欠片も無い。
詩織の美しさは男に愛でられる類の物では無い。
それでも達也は媚びず、卑下せず怜悧なまでに研ぎ澄まされた、詩織の美しさに惹かれていた。
佳織に抱くのは、父性愛にも似た、あくまで異性に対しての感情では無い。だが、詩織に抱くのは憧憬に近い感情。
異性に恋焦がれるように、達也は詩織の美貌に魅了されていた。例え、本人に徹底的に嫌われようと。
「死臭か……時坂、貴様がそれを言えるのか? 時坂とて狼として、自分の手を鬼の血で汚してきただろうが」
達也は、薄ら笑いを浮かべる。
怒るか……と思いきや、詩織は苦笑した。
「そうね、確かに」
意外と思いながらも、達也は言葉を続ける。
「それにだ、妹に近づくなと言って当の本人がそれを望んでいる訳ではあるまい。佳織は、お前の所有物では無い。本人には意志があり、一個の独立した人格である事を忘れるな」
「…………」
詩織は沈黙していた。達也も、無言で缶ビールを口に運ぶ。
「それは、分かっているわ」
詩織は自嘲しながら、言った。
「?」
あっさりと達也の言葉を認めた詩織。ますます、訳が分からない。
詩織は組んでいた腕を下ろし、緩やかな足取りでこちらに近づいてくる。対面のソファに座るかと思ったが、違った。見下ろす形で、達也の座るソファの肘掛けに腰を下ろした。
達也は缶ビールを机の上に置いて、背中を背もたれに預ける体勢で詩織を見上げる。
「!!」
虚を衝かれた。
いきなり詩織は、飛び掛かってきて両手で達也の両肩を押さえる。押し倒される状態のまま、詩織が顔を近づけてくる。
「これは私の我が侭」
詩織の吐息が、頬に当たる。
「佳織は、幼い頃難病を患っていたの。体もガリガリで、骨が浮き出るくらいに酷かった。そんな佳織が不憫で、幼い頃に私は誓ったわ」
達也を見下ろす詩織の目が、鋭くなる。そして、達也の肩に詩織の爪が食い込む。女とは思えぬ握力だ。
「佳織は守る。佳織の身に危害を及ぼす者は命を賭して、排除する」
「……佳織本人が望まなくてもか。それは単なる押し付けに過ぎん」
達也の反論にも詩織は激昂しなかった。むしろ、静かな笑みさえ浮かべた。
が、その笑みを見たとき達也は慄然とした恐怖感を抱いた。
迷いの無い笑み。全てを分かった上で、なお突き進む信念。いや、妄執めいた信念というべきか。
「そう、これは私の自己満足に過ぎない事を理解しているわ。だから、取り引きしましょう」
「俺の命と引き換えにか?」
詩織は今までに無い、艶めいた目と妖艶な笑みを浮かべる。
「暴力による、恐喝は取り引きじゃないわ」
妖艶な仕種で、詩織はブラウスのボタンを外しはじめた。雪のように白い肌に、白のブラジャーが覗いた。
「取り引き材料は私の体よ……」
そう言って、詩織は達也の耳に息を吹きかける。
「!」
達也の背に甘い痺れが、走る。雄としての本能は、目の前の極上な獲物を欲していた。だが、頭の片隅は冷たくこの状況を見据えていた。
飛沫一つ無い、水面。動揺という石を投げ入れようと、小さな波紋が起きやがては消えて、静かな水面に戻る。
いかなる状況においても、冷静であれ!
達也の、剣の師である叔父の言葉。例え、目の前で肉親が嬲り殺されようと、感情の一部は冷静であれと説いた。
『人として、喜怒哀楽を持つのは正しい事だ。そして、特権でもある。しかし、修羅として剣鬼と化すのが望みであれば、人としての部分を捨てろ。何かを手に入れるという事は、何かを捨てる事を意味する』
怒り、激昂し冷静を欠く事は戦場においては許されないからだ。
いや、言い方を変えれば許される。死という代償を持ってすれば。
怜悧な理性が、判断するのは……。
「よせ」
達也の言葉に、詩織は何を言っているのか理解できないかのように、目を瞬かせる。
「俺は・・・・・・愛の無いセックスをしたくない」
「顔に似合わず、ロマンチストね」
小ばかにしたように詩織は言って、右手を達也の、男の最大の急所をズボン越しから触る。
「ここは、そうは言っていないようだけど?」
詩織は嘲笑の笑みを形作る。
「やめろ」
詩織の右手が肩から外れたのを機に、達也は上半身を起こして振り払う。詩織は、達也を突き飛ばし、距離を取る。
服がはだけた状態のまま、詩織は冷然と達也を見下ろす。自分の誘いに乗らず、女の矜持を傷つけられた、という表情ではない。
奇異な生き物を見るかのような、目。そして、一部の焦燥と殺気。詩織を取り巻く空気は、肉食獣のように鋭く張り詰めていた。狙った獲物をどのようにして、捕らえるか、殺気を含んだ目で詩織は悩んでいるように、見えた。
達也は、ソファから身を起こして詩織と立ち姿で向かい合う。詩織を達也は、哀れむような目で見た。
「可哀相な女だ」
何を言うのか? 詩織は驚きの目で達也を見ている。
「幼少の頃に、お前という庇護を佳織が求めた。そして、お前もそれに答えた。佳織はお前のモノでは無い。だが、今なお佳織の庇護者たらん事を自分に化す、貴様が俺には哀れな道化にしか見えない。もう少し、自分の為にその才知を使ったらどうだ? 利害関係を持って、男に体を許すな」
「…………」
詩織の体が震えた。顔を俯かせ、表情は分からない。泣いているのか? いや、違う。
怒りか、いや怒りを通り越して憎悪を孕んだ目で達也を見ている。
「貴様に何が分かる……!」
「何も分からんさ。赤の他人の俺が、お前の何が分かるという? ただ、俺は感じただけを忠告しただけさ。お前を心配して言っているんだよ、俺は」
達也は、真摯な表情で淡々とした口調で言った。しかし、達也の言葉は詩織には何の感銘を受けなかったようだ。
言を重ねれば、重なるほど悪感情を高めていく。詩織はヒステリックに喚き散らす事をしなかった。ぞっとするほどに、冷たく、殺気を含んだ目で達也を見据え、深く息を吸う。
深呼吸して、落ち着こうとしているのか?
「!!」
違う。
息吹だ。
武術に錬成した者が行う、呼吸法。詩織は流れるような仕種で、達也に近づく。まるで、恋人に近寄るように、舞うような動きで。
舞うような動きとは裏腹に、達也に加えたのは極めて危険な暴力の抱擁。右足蹴りが、達也の金的を狙う。
咄嗟に、左腕でガード。
鋭い痺れが、左腕を襲う。股間を守ったのはいいが、足蹴りを受け止めた左腕が痺れてしばらくの間使い物にならない。もし、この攻撃を貰っていれば、別の所が一生使い物にならないだろう。
「シッ!」
短く息を吐く音と共に、詩織は流麗な動きで足蹴りを中心とした攻撃で達也を攻め立てる。達也は腰を落とし、詩織の攻勢を凌ぐ。
華麗ともいえる、変幻自在な詩織の攻撃は一発でもまともに食らえば、即致命傷に繋がるほどに危険であった。その攻撃を尽く、受け流しつつ、詩織の隙を冷静に探す。
疲れが見えたのか、詩織の動きがやや鈍る。
が、それは罠である事に達也は見抜いていた。それでも、敢えて達也は詩織の誘いに乗った。
「ぬるいわ!!」
達也は吠えると、前に出て距離を詰める。カウンター狙う詩織。しかし、その動きを読んだ達也は、あっさりと見切る。
詩織の、腹部のガードが外れる。
その隙を見逃さず右手のひらを詩織の、腹部に当てる。
「せいっ!!」
上に押し出すように、突き上げる。表面の筋肉への打撃は皆無だが、内臓にダメージを与える攻撃だ。
「!!」
詩織の体が一瞬、宙に浮いた。足が地に着いた瞬間、詩織は苦しそうに顔を歪め上半身を倒すように体を折る。詩織にタックルをかまして、そのまま床に押し倒し馬乗りになる。
抵抗する詩織だが、先に受けたダメージが深刻なのか苦しげな表情のまま、力の無い散発的なものだ。達也は詩織の両手を、左手で押さえ込み右手で、顎を掴み覗き込んだ。
詩織は、達也を睨み付け、その目は今なお闘志を失っていなかった。
「いい目だ。お前のような女に、そんな目で見られるとゾクゾクするよ」
達也は笑う。頭の部分は冷静であったが、アドレナリンが分泌され冷静と興奮の間を意識が浮遊する。久しく忘れていた高揚感。
達也は、詩織と唇を合わせる。詩織は驚きに目を見開き、達也の唇の先に、噛み付いて抵抗する。達也の唇が切られる。
「威勢がいい。俺をもっと楽しませろ」
噛み付かれた所から、血を流しつつ達也は笑みを浮かべて詩織を見下ろす。
詩織の、服のはだけた部分から無遠慮に右手を差し込ませる。白い、スポーツブラの上から詩織の胸を触る。愛撫とは程遠い、わし掴みするように強い力で。
詩織の表情が、苦悶と嫌悪に歪む。
「フン、お望み通り犯してやろうか……ええ?」
そう言った瞬間、詩織の体が跳ねた。ダメージが回復したのか、恐るべき力で達也から身を引き剥がし、あまつさえ手痛い反撃を与えようとした。右膝で、達也の脇腹を狙う。
しかし――。
「ぬるい!」
攻撃を足でガードして、右手の人差し指で詩織の眉間を突いた。
「えっ……?」
詩織の抵抗する力が弱まる。
「筋力が弱まるツボを突いた」
達也は、怒りとも恐怖とも、取れる詩織の顔を見下ろす。
「俺のかけた拘束を解き放つ事ができるか……? 全力で抵抗しろ」
達也は両手で、詩織の胸を下着の上から揉みしだく。瑞々しい弾力が、手に感じられる。そして、遠慮のかけらの無い動きで、ジーンズに右手を滑り込ませる。
パンティーの上から、詩織の秘心を指先でなぞる。
「下着は白・・・・・・か。意外と可愛らしいじゃないか。中々メルヘンチック。益々、気に入ったよ」
達也は嫌らしく笑いながら、詩織の首筋に舌を這わせる。
屈辱と、羞恥、怒り。詩織の表情が目まぐるしく変化する。
「さて・・・・・・」
達也は、詩織のブラジャーに手を掛けた瞬間、
「・・・・・・!」
手を止め、詩織から視線を外して周囲を見渡す。
ついで、残念そうに頭を振って、立ち上がり詩織から身を離した。
「遊びの時間は終わりだ」
皺くちゃになった、カッターシャツを気にしながら達也は言った。疑念と警戒の目を向けてくる詩織に、達也は笑った。
「佳織が近づいてきている。お前が呼んだのか? 俺が鼻の下を伸ばして、時坂の下で喘いでいるのを見学させる為に」
「いえ・・・・・・違うわ」
掠れたような声を詩織は出す。
達也は息を吐き、疲れたようにソファに腰を下ろす。
「ま、いい。そのみっともない姿を妹に晒す前に、退散しろ。姉の威厳を失いたくなければ」
原因の半分を作ったのは達也本人であるが、悪びれた様子も無くぬけぬけと言い放つ。詩織はそんな達也を殺気のこもった目で、睨み付ける。苦しげな表情を作りながらも千鳥足を踏むように、立ち上がる。覚束無い足取りだ。
「一晩眠れば、すぐに回復する。本邸に戻る途中、佳織と会わないよう注意しろよ。その格好を見られればどんな言い訳も通用しない。玄関から出ず、裏から回って帰れ。その間、佳織はこちらで引き付けておく」
達也はソファから立ち上がり、玄関に向かって詩織の履いていた靴を取ってきてやる。そして、庭へ通ずる窓を開けて出て行こうとする詩織の足元に靴を置く。詩織と視線が交錯すると、達也は不敵に笑った。
「中々楽しかった。何時でも、相手にしてやるぞ時坂」
「・・・・・・!!」
屈辱と怒りが混ざった表情で、詩織の顔が朱に染まる。だが、結局何も言わず詩織は出て行った。
遠ざかる詩織の背を眺め、達也は呟いた。
「怒った顔も素敵だぞ・・・・・・時坂」
その時、玄関からブザーの音がなった。
達也は玄関にむかってドアを開けると、はにかむように笑みを浮べた佳織がいた。膝丈の長いフレアスカートに、藍色のカーディガンを羽織っている。
「こんな夜更けにどうした?」
優しい声音で訪ねると、佳織は上目遣いで達也を見る。
「姉の事で色々と、謝りたくて」
「・・・・・・? まぁ、いい。立ち話もなんだ、中に入ってくれ。その格好だと、冷えるだろう」
達也は詩織を招き入れると、ソファを薦める。
「あれ、誰か来ていていたんですか?」
佳織の目が、空になった缶ビールと手付かずの缶ビールを捉える。
「いや、もう一本飲もうとしていただけだ」
「駄目ですよ。明日もお仕事でしょう? そんなにお酒を飲んではいけません」
佳織は、甘く達也を睨んで空き缶を捨て、もう一本の缶ビールを冷蔵庫にしまい込んだ。
台所に立つと、手際良く、お茶を用意し始めた。手持ち無沙汰になった達也は、ソファに座ってぼんやりと佳織の背を眺める。
「はい、どうぞ」
「ああ、済まない」
来客の佳織が、お茶を用意してそれを受け取る達也。何となく、佳織にペースを握られ戸惑う達也だが、それは決して不愉快では無かった。
詩織は、達也の対面に上品良く座る。そして、頭を下げた。
「色々、姉が達也さんに暴言を吐いて御免なさい」
達也は驚き、次いで頭を振る。
「ああ、別に気にしていない。俺にそんな気を使うな」
「いえ、そんな訳にはいきません。姉もいつも、ああでは無いのですが・・・・・・」
憂愁に顔を染める佳織。
「どうか、姉の事を嫌わないで下さい。私の身勝手な我侭とは分かっています。私からも言っておきますので」
目を見つめてくる、佳織。詩織や自分の事を気に掛ける、佳織を見ていると愛しくなる。妹もそうだった。自分の事よりも、他人を思いやる気持ちがとても強かった。
佳織へ抱く気持ちが、大きくなる。これは、異性に対しての愛情、というよりも家族愛に近いもの。
それは、かつて妹に抱いていた気持ちを、この少女に摩り替えているだけかもしれない。妹を失った事で、行き場の無くなった気持ちを、代換えにしている――。
分かっていた。
例え、これが自分勝手な幻想だとしても今は、この温かい感情に浸っていたかった。
「もちろんだ。佳織や時坂の事を嫌ったりはしない」
詩織に向けた笑みとは、別種の、優しい笑みを浮べながら達也は答えた。