8 箪笥の向こう ③
ベッドの上で、男に覆いかぶさられて、何が始まるのか。
解らないほど秋乃は無知でも無垢でもない。
初めてでもあるまいし、と思いながらも、この年になっても、知らない男に圧し掛かられて怖くないなんてことはない。
どうしようどうしよう、本当にやられてしまうのか、いったいなんでこんなことに――秋乃はまた思考だけがグルグルとなりながら、顔に手をかける男の手を振り払うように頭を強く左右に振った。
栗色に染めたショートの髪が一緒に揺れる。
この髪で、と男が言ったのを不意に思い出す。
秋乃は短い髪を実用面で気に入っていた。
洗うのも、乾かすのも早い。疲れた日には特に良かった、と思うくらいだ。
それでも、真っ黒な髪を栗色に染めているのは、伸びてくると染め直すのが面倒くさいと感じながらも、その面倒くさいのを取ってしまったら女としての何かも捨ててしまいそうで、自分の女としてのプライドを守るために、敢えて染めているのだ。
秋乃の揺れる頭を、男の手は顎を強く掴んで止めた。
真上にある男と見つめ合う形になるが、秋乃の顔は強張ったままだ。
困惑したままで、その上にわけの解らない恐怖が重なり、あまりに不安すぎて泣くことも出来ないが怯えているのだけははっきりと自覚する。
歯を強くかみしめていないと、子供のように泣き叫び出しそうで、口を強く閉じる。
「そんな顔をすると、期待に答えたくなるな」
翳りのある男の顔は、また人が悪いように嗤っていた。
嗤えるのだ、この状況でも、と秋乃は相手に余裕があることに気付き、視線を外さないまま大きく胸を上下させて呼吸を落ち着かせ、そろりと口を開く。
「・・・離して」
泣き叫ぶことも出来た声は、実際には震える子供のようなものが出ただけだ。
視線を外さなかったのは、野生の獣と出会ったときは視線を外さず、そっと下がるのが正しい――とどこかで読んだのを思い出したせいだ。
この男は野生の獣ではないと信じたい――そう願って、頼んだ言葉でもあった。
話せば解ると願いたい。
秋乃の声に、男はさらに近くに顔を寄せて、嗤うだけだ。
「お前が誰か――白状するなら構わんが、それでも、この状況も捨てがたい」
白状ってなんだ。
秋乃は自分が誰なのか、いったいどういう目で見られているのか、自分自身が知りたいところだった。
この状況はいったいどうしてできたのか、それを教えてくれるのなら、秋乃は生まれてからの自分の生い立ちを全部話したって良かった。
しかし近づく男の顔が、それを待ってくれるとも思えない。
男が掴んでいるのは秋乃の顎だけで、秋乃は自由な手で男の両肩を押した。
秋乃の力では、押し返すことも出来ないだろうと思う厚みだったが、何もしないで大人しくやられるほど子供でもない。
「はなし、てっ」
男の顔が、吐息がかかるほどに近づく。
もうだめだ。ここで、こんな知らない男に犯されてしまうんだ。
ここは自分の部屋でも、今まで生きてきた場所ではないことはなんとなく理解したくないが解る。
自分が飽きるほど読んだファンタジーの世界なのかもしれない。
そんなことが実際に起こるとは夢にも思っていなかったけれど、自分を押してくる感触がどうやら夢じゃないと教えている。
それでも、こんなのってどうかと思う。
異世界に落ちた主人公は、王子様とかに拾われて、そこでいろんな冒険をして、最後は王子様と結ばれるはずなのに――現実はやっぱりそんなに甘くない。
夢の世界でも、現実は現実で甘くない。
秋乃がせいいっぱいの力で男を押し返しながら、もう無理だ、と思った瞬間だった。
「ヴァレリー、ちょっといいか」
秋乃が引きずり出されたドアではないドアが突然開き、声とともに誰かが入ってきたのは。
男の手が止まった。
秋乃の思考も止まった。
そして状況を見た、新たに入ってきた男の動きも止まった。
秋乃はこれがチャンスだ、と直感して思い切り叫んだ。
「た・・・助けてください! この人強姦魔です――!!」
秋乃の叫びが響いた部屋には、一瞬沈黙が落ちた。
秋乃は背中がすうっと冷えた。
もしかして強姦の意味が通じなかったのか、それともこの男も仲間なのだろうか――不安に思ったその瞬間、響いたのは入り口に立った男の、大爆笑だった。