49 婚約者さまへのお願い ③
じろりと頭の上から睨まれなくても、すでに相手の機嫌が悪いことはここに来た時から知っている。
だから今更慌てて取り繕うことも、機嫌を取ることもない。
少なくとも秋乃は、ヴァレリー相手に下手に出て褒めたたえて気分良くさせてあげるなどという「おべっか」は考えたことがない。
見慣れてしまった不機嫌な顔は今更怖いとも思わないが、お願いするのに怒らせてしまうというのはまずかったかもしれないと一呼吸おいてから気付いた。
秋乃は少し考えた。
この不機嫌な男を、よいしょするべきかどうかをだ。
しかし持ち上げて褒めそさえたところでそれが効くのか、効いたとしても、お世辞なんかで嬉しそうに変化する顔が想像できない。
今までの人生で、いろんな妄想をしてきたけれど、これ以上は無理だと秋乃は思った。
この男の顔が嬉しそうにすることだけは、一生かかってもない気がする。だから考えるのも無理。
秋乃は自分の思考を切り替えようとしたとき、横から見ると睨み合っている二人の間に申し訳なさそうに声を挟む存在に気付いた。
「・・・あの」
シエラである。
ずっと秋乃の後ろに控えていてくれたのだが、膠着状態だったこの空気が少し動いたことに秋乃は少しほっとした。
シエラは深く礼をして、ヴァレリーに真剣な顔を向ける。
「護衛の方を、お付け頂けませんか。絶対に、アキノ様をおひとりには致しません。私の所要では、行く先は毎回同じで、危険は少ないと判断しております」
それでも護衛を付けていれば、秋乃はさらに安全だ。
秋乃は真剣なシエラに感動した。
不機嫌な男に、近衛司令官に、真っ向から向かっている侍女は、まだ幼く愛らしいというほどの少女だ。礼儀正しく揃えられた指先は、固まっているようでその先がかすかに震えている。
きっと、とんでもなく僭越なことをしているという自覚があるのだろう。
そしてそれをしているのが、秋乃のためだ。
秋乃は胸がいっぱいになりながら、同じくらい申し訳なくも思った。
まったく大人げない――これではどっちが大人なのか解らない。外に行きたいと駄々をこねるいい年をした女と、それを助けようとする少女。
秋乃は深く息を吐いて、不機嫌な顔をしたままの婚約者を見上げた。
「―――や」
「解った。調整する。2時間後に正門だ」
やっぱりいいです、と言いかけた秋乃の口はそのまま止まった。
そして、目の前の男から聞こえた言葉が空耳ではないのかと目を見開いた。
「この格好のままでは目立つ。シエラと同じものを用意するように。王宮の侍女であれば、騎士が同行しても不自然はない」
「畏まりました」
ヴァレリーに対し、シエラが深く頭を下げる。
いや待って、そんな簡単に――秋乃が驚いている間に、話はまとまってしまう。
ついさっき、秋乃の言葉を最後まで効かずに一刀両断した男とは思えない。あっけなく了承されて、秋乃は戸惑った。
いったいなんなの、シエラみたいにお願いしなきゃだめってことだったの――秋乃は自分の頼み方が悪かったのか、ただそれだけの問題だったのかと混乱した。
だったらそう教えてくれれば、と秋乃はヴァレリーをねめ付けたが、じろりとにらみ返されて慌てて視線を外した。どういう経過にしろ、了承してくれたことは確かなのだ。ここで機嫌を損ねて撤回されても困る。
シエラと同じように、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、少し浮かれていたと思う。
なにしろ、町に行けるのだ。
秋野は好奇心の塊だった。行けないかもしれないと思っていたから、あまり期待はしていなかったが、行けるとなると抑えていた分さらに膨らんでしまう。
楽しみで楽しみで楽しみで、仕方がない。
いったいどんな世界が広がっているのか――曾祖母の箪笥の向こうは、王宮という狭い場所だけではなかったはずだ。
その先に足を踏み入れることが出来る。
秋野は嬉しくて顔に締りがなくなってしまった。
不機嫌な婚約者に対する、拗ねたような気持ちなど吹き飛んでしまったようだ。
用意するべく部屋に帰る途中、秋乃はその緩んだ顔を強張らせることに必死にならなければならなかった。




