36 チョコレートと忘年会 ③
明日も仕事だからと、夜になる前に秋乃は帰ることにした。
それにリリアはまた不安そうな顔になったが、また来るからという約束を何度もして、もう一度ヴァレリーの部屋に戻ってくることが出来た。
全体が煌びやかだったリリアの居る後宮から、重厚ではあるがシンプルで実用性に見える公室まで戻ってくると秋乃もほっとしてしまう。
秋乃の中にある庶民に近づいているからかもしれない。
ただ、帰るのにこの部屋の向こうを通らなければならないのをのぞけば――秋乃は険しい顔を思い出してもう一度緊張した。
そもそも、常に不機嫌な顔なのが悪い。
秋乃は認めないけれど婚約者というものにされた相手を思い出す。脳裏に浮かぶ顔は、常に怒っている。
眉間に皺がある。一度見た緩んだ顔は、夢だったと思ったほうが早い。
それでも、ここを通らなければ帰れないのだから仕方がない――意を決してそのドアを叩く前に、ここまでまた付いてきてくれたシエラを振り返る。
「ありがとうシエラ、もうここまででいいよ」
「アキノ様、でも」
「大丈夫、もう中の人にちょっと挨拶して通らしてもらって帰るだけだから」
「・・・アキノ様」
シエラの表情は翳りを帯びていた。
どこか申し訳なさそうな顔なのは、今日の出来事に後ろめたさを持っているからだ。
シエラも、秋乃を信用してくれているのだろう。向けられた笑顔は本物だったと秋乃も思いたい。それでも、王妃さまを守るために作られたラインは、守りきらなければならないのだ。
それは秋乃も理解した。
秋乃の何かを傷つけられたような気がしても、それは秋乃の問題であって、秋乃が怒ったり拗ねたりするのはここではおかしいものだ。
「また、来週ね。また仕事に疲れてくると思うから、美味しいお茶を淹れてくれる?」
「はい・・・! いつでも、お待ちしております」
潤んだ目がにっこりと笑うと、秋乃も笑顔になる。
心優しい子を傷つけないで良かったと秋乃はほっとして、帰るためにそのドアを叩こうとすると、先にそれが開いた。
「――では、これで・・・あ、それから例の誘拐事件のことですが、まだ目ぼしい手掛かりが・・・」
扉を開けながら、中から騎士姿の男が二人出て行こうとしていた。
話しながら扉を開けたのか、その会話も聞こえたが、すぐ外に立っていた秋乃を見て驚いて止まる。
アイアスとはまた違う、騎士だった。
驚いた秋乃を、また驚いて見おろし、そして部屋の中にいるだろう上司に好奇心いっぱいの目を向けている。
それを切るヴァレリーの声は早かった。
「早く戻れ。お前はそこで何をぼうっとしている? 用があるなら早く入れ」
やはり不機嫌なままの顔で、ヴァレリーは部下を追い払うようにしてから、立ち尽くしたままの秋乃も急かす。
お前?――秋乃は勝手にそう呼ばれることに顔を顰めながら、この怒りは隠さないでいいものだと判断して部屋の主を睨みつけて踏み込んだ。
「あなたに、お前なんて言われる筋合いないんですけど! そもそも、ここを通らなきゃ帰れないんだから仕方ないでしょう?!」
来たくて来てるわけじゃない。
秋乃も精いっぱい不機嫌な顔をする。
ヴァレリーの不機嫌な怖い顔も好きではないが、見慣れると怯えているだけなのが虚しくなる。
「来たくないのなら来なければいいだろう」
低い声で言われて、秋乃はかあっと怒りだけではない何かが湧き上がる。
「リリーが会いたいって、来て欲しいって言ってるから来るの! あなたに呼ばれてるわけじゃないの!」
秋乃は自分で、自分がこんなにケンカ腰になる人間だったろうかと不安になる。
いや、この男が秋乃をこんなにも怒らせることばかりを言うのだ、と腹が立つのだ。
それでも冷静になればいいのに、どうしてか声を荒げてしまう。
不機嫌な男の相手などしている自分が可哀想だと、秋乃はこの通路とされた部屋を横切って自分の部屋に続くクロゼットに向かった。
その途中で、ヴァレリーの書類が広がっている執務机が視界に入って足を止める。
不意に気付いたそれは、見間違いでなければ、秋乃がもってきたチョコレートである。
しかも包装が解かれて中の箱も空いている。よく見れば、中身がいくつかすでにない。
「・・・なんで?」
ここはヴァレリーの部屋で、それはヴァレリーの机のはずだ。
近衛司令官という上の立場の男の部屋にあるには、不自然すぎる得体の知れないもののはずだ。
秋乃は紛れもない自分の世界の食べ物と、不機嫌なままの男を見比べた。
「――ああ、お前が処分しろと言ったんだろ」
「・・・いや、処分って!」
それは腹に納めて失くせという意味ではない。
そもそも、口にすることを警戒していたはずなのに口にすること自体がおかしい。
「そういう意味じゃないでしょう?! 捨てろってことよ! 焼却処分とか、埋設処分とか!」
解っているくせに秋乃に言わせる男に腹が立つ。
だというのにヴァレリーは実際に目の前でそれをひとつ摘まんで口に放り込んだ。
「・・・意外に旨いもんだな」
「なんで食べるの!」
不機嫌でもなく、本当にそう思っているかのようにしみじみ言われても、秋乃は安心出来ない。
疑うのなら、最後まで疑え!
もちろんチョコレートに毒が入っていないことなど秋乃が一番良く知っている。それでも、疑われたものを目の前で食べられると不安になってくる。
今更だがチョコレートを掴んだ腕を取って睨みつける。
ヴァレリーは机に座るように凭れかかり、目の前の秋乃を怒りとも呆れとも言えない目で見下した。
「お前が悪い」
「何が?!」
「あんなところでこんなものを出すからだ。妃殿下の私室ではあるが、いろんな人間がいる。妃殿下を守るための忠誠を誓ったものたちを揃えてあるが、それがお前も守るものとは限らない」
そんなことは秋乃にも解っている。
この王宮の人々は、王さまと王妃さまを守るためにいるのだろう。突然現れた、王妃さまが仲良くしているというだけの女が不審人物でない保障などどこにもないのだ。
警戒しないほうがおかしい。
だからチョコレートを取り上げられても納得したのに、それをこんなところで食べられていることが納得できない。
「解っているなら、もっと頭を使え」
馬鹿じゃないなら考えろ――そう言われて秋乃はもう一度怒りに真っ赤になるが、その意味を理解して驚いた。
この男は、秋乃が持ってきたものをあっさりと口にした。秋乃のものを、毒など入っていないと知っているのだ。
それは、ある意味信用していると言われているようなものだった。
「なん・・・なんで? どうして?」
ヴァレリーはその立場からも、秋乃を警戒していたはずだ。
いきなり婚約者だなどと言われていることもあるし、秋乃を一番警戒するのはこの男のはずなのだ。
ヴァレリーはあっさりとその理由を言った。
「お前のような呑気な女が、王妃暗殺を企てられるはずもないからな」
「呑気じゃないわよ失礼ね!」
見下される視線にさらに腹を立てて、秋乃はチョコレートをひとつ取って自分の口に入れた。
「おい」
「・・・おいしい」
もぐもぐと口を動かしながら、やっぱり美味しいと実感する。
こんなに美味しいものを、変な理由でリリアに食べさせてあげることが出来なかったのだ。
それが、悔しい。
秋乃は美味しいのに顔をむくれさせた。
「勝手に食べるな」
「これは私がリリーと食べようと思って買ってきたの! 私が食べてなにが悪いの」
「子供みたいに口を汚してか?」
「え、どこ」
チョコレートには同じ色のパウダーがかかっている。呆れたような声に慌てて唇に触れるが、大きな手が頬に触れてそれが付いているだろう場所を拭った。
「・・・・」
それはあまりに自然な動作で、秋乃は顔に触れられたことに驚いて固まった。
ええと、なに? いまの、なに?――そもそも、距離が近いことに今更ながらに気付いた。
しかも近づいたのは秋乃なのだ。
この部屋には二人きりで、手だけどころが身体が触れるような距離にいて、一緒にチョコレートを食べている。
この状況はなんだ――秋乃はどっと何かが溢れるような緊張と不安を全身に巡らせて、狼狽える視線を目の前に向ける。
ヴァレリーは秋乃の顔を見下ろして、それから自分の手を見てそっと視線を外した。
その手が、何かを誤魔化すように自分の服で拭うようにしていることに気付く。
麻の生地に茶色の汚れが付いたことに、秋乃は拭われた意味を正確に理解した。
「――汚れた手で! 触ったわね?!」
口元の汚れを取ってくれたはずの手が、すでに汚れていたのだ。
同じ手でチョコレートを摘まんで食べたのだから不思議なことはない。ただ、秋乃の顔にさらにパウダーが広がっただけだ。
「――っくは!」
その瞬間を、秋乃は夢に見そうだと思った。
ヴァレリーが、堪えきれないというように笑ったのだ。
人間なのだから、笑うこともあるだろう。しかし、始終不機嫌な男は、死ぬまで不機嫌な顔なのだと思っていた。
それだけに、目の前で笑った男が信じられなかったのだ。
目を細めて、口端を上げたのを、必死で戻そうとしているヴァレリーに、秋乃は信じられないと身体中に巡る何かが抑えられなかった。
それは怒りにも似ている。
そうだ。怒っている。顔を汚されて、怒っていい――秋乃はそう思って、真っ赤になった顔でヴァレリーを睨みつけた。
「余計なことしないで、馬鹿!」
自分の汚れていない袖で顔を拭うと、本当に茶色いパウダーが付く。
「お前、馬鹿はとはなんだ」
「――知りません!」
笑ったことからもう元に戻ったヴァレリーの声に、秋乃は背を向けた。
知らないってなんだ――秋乃は自分の言葉ももう理解出来ないと一直線にクロゼットに向かった。
勢いよく扉を開けると、そこには秋乃を待っている箪笥がある。
もう何も聞きたくないと勢いよく両手でその箪笥を押した。
「おい――アキノ」
「――っ」
壁の中に倒れ込む瞬間に聞こえた声は、確かに不機嫌な顔の男のものだった。
聞き間違いだと思いたかった。
それでも、秋乃の耳にいつまでも残るようでいて、なんなのだと腹を立てた。
自分の部屋で床の上に同じように倒れ込んでも、痛みより違うものが全身を巡っていた。
知らないってなんなの私も! てゆうか、なんで笑うの! なんで・・・名前を呼ぶの!
そもそもあの男は、よく解らないままに婚約者などというものにさせられた男で、常に不機嫌な男で、秋乃を怒らせるばかりの男で、最初に酷いことをした男で――秋乃は嫌なことを思い浮かべながらも、混乱している自分に気付いていた。
気付いていたからこそ、混乱させる男が憎らしい。
混乱するものの正体を知りたくなくて、秋乃はとりあえず怒りで自分を満たすことにした。
口を汚した私を見て笑う、あの人は、嫌な奴です!
誰に言われたわけでもないが、秋乃は自分の中でそう宣言した。




