31 あけた日常 ④
眉間の皺が取れたところで、この大らかで面白い後輩に秋乃はふと訊いてみることにした。
「ねぇ、もし――知らない間に婚約者がいたら、どうする?」
「えええ?! 羽山さんにそんな人が?!」
笑い声と同じ大きさで驚かれて、秋乃は慌てた。
「違う! いない! いないけど! もしも、もしもよ!」
「うぇえー? いないならそんなこと訊かないと思いますけどー」
「いないから、ちょっと思いついて考えてるだけよ」
「そんなチュウニなこと羽山さんが考えることがもう・・・」
「失礼ね、私にだってちゃんと中二の頃もあったのよ」
今はちゃんと現実を解っている。
解っていて、現実にあることが不思議すぎて動揺しまくったのだ。
王子様が婚約者ならときめいたかもしれない秋乃だが、現実に押し付けられそうな男はとてもじゃないが王子様ではなく、いわゆる軍人で、常に不機嫌な顔の男だ。
素直におばあちゃまありがとうなんて言えるような婚約者ではない。
秋乃がもう一度肩を落として息を吐き出していると、筑波もなぜか真剣に考えていたのか足を止めて手元の資料を睨みつけていた。
「うーん、うー・・・ん?」
「え、ちょっと、そんな真剣に考えること?」
まさかこの後輩も夢見て生きているのだろうかと心配になったのだが、筑波は思考から脱出したように顔を上げて諦めたように笑った。
「いやー昔読んだシンデレラとか、白雪姫とか思い出して、あんな王子様が婚約者とかだったりとか、あとお金持ちのセレブが突然求婚してきたりとか考えたんですけどー」
うん、充分妄想楽しそうな子だ――秋乃は筑波の笑顔に笑った。
「今の自分を知ってると、どれも無理っていうか付き合えないっていうか、現れても困る、と」
「あはは、そうよねぇ」
現れても困る。
それが秋乃も思う気持ちだ。
現実に生きれば生きるほど、夢物語を付きつけられても困る。夢に生きろというのは、現実に慣れた人間にとっては難しい生き方なのだ。
「それに、お金持ちでかっこいい人がいても、今の彼のほうが自分に合ってるというかいいというか」
続けた筑波に、秋乃はそう言えば長く付き合っている彼氏がいると言っていたと思いだす。
「どんな人なの?」
「えっと、フツーの人です・・・どっかの国の王子様でもないしお金持ちでもないしエリートでもないし・・・」
資料作りを再開しながら顔を伏せて話す筑波は、照れているのだと解る。普通だと言いながらもその染められた頬に、秋乃は微笑ましくなって眉間の皺もなくなった。
「あれ? 山が好きとか前に言ってなかった?」
「あ、そうです。ヤツの趣味は山登りです。高校・大学と部活でやってて今も登ってますねー」
「へぇ・・・楽しそうだけど、大変そうね」
「大変ですよ!!」
力を込めて返す筑波は、その実体験があるのか資料を握りつぶしそうな勢いだ。
「ヤツがハイキングだからって連れ出す山はハイキングじゃないんです!」
女の体力がどれほど少ないかをヤツは考えてない、と力説する筑波に、秋乃も笑ってしまう。
確かに、日々鍛えていない大人の女に山に登れと言っても無理だろう。秋乃も想像するだけで無理だと言い切れる自信がある。
「連れていかれても、正直良かったと思うのはご飯くらいですよ」
「ご飯? 山での?」
山に食堂でもあるのだろうか――秋乃はそう思ったのだが、実際は筑波の彼氏がその場で作ってくれるようだ。
携帯コンロと片手鍋ひとつで暖かくておいしいものを作ってしまうらしい。山男のスキルってすごいと感心してしまうところだ。
「あったかいものを食べると、人間ほっとするってことですね」
だからご飯はあったかいものですよ、と秋乃に言って聞かせる後輩に苦笑する。
言い付けに従って、今日はインスタントのスープでも買って帰ろうと秋乃も思う。
そんなことを話していると、ちょうど資料作りも終わりを迎えた。
「ありがとう。助かったわ」
冊数を数えながら、秋乃は筑波にお礼を言う。
それは仕事のことだけではないのだが、後輩は人好きのする笑みで受けてくれた。
ひとりで答えのないようなことを考えていると、ますます鬱々とするだけだった。それを霧散させてくれたことに、感謝をする。
その筑波に、会議室を後にしながら、秋乃は思い出したようにもうひとつだけ聞いた。
「あ・・・じゃあ、知らない場所――たとえば、無人島とかに行くとしたら、何を持っていく?」
よくある答えに、ナイフだとか火器類だとかと秋乃は考えていたのだが、筑波は少し宙を見て考えた後で、快活に答えた。
「ヤツを連れていきます!」
秋乃は笑った。
それが一番正しい答えだと思ったからだ。




