30 あけた日常 ③
あのやり切れなさは本当にどうしようもないわ――秋乃は週半ばになってももう一度ため息を吐いた。
怒っても仕方ない。詰っても仕方ない。
どうしようもないこの渦巻くだけのこの気持ちをどうしてくれよう。
秋乃はただ眉間に皺を寄せて会議室の隅で資料を纏めていた。
こんなときは何も考えなくても出来る資料つくりではなく、脳みそをフル回転させたいと思う。しかし仕事だ。
四角に並べた長机にコピーした資料を並べ、一枚づつとって重ねてはホッチキスで留める。
会議に必要で必須な仕事と思っても、こんなときは愚痴しか出てこなくなる。
全員パソコン持ち込んで液晶見ながら会議したらいいのよ。何もこんな無駄経費使って資料作らなくったって――秋乃はひとり机の周りを回りながら鬱々とした気持ちを抱えた。
せめて、向こうの世界でのことが、すべて楽しく浮かれたものだけであったのなら――秋乃は最後に告げられた男の一言が、ここまで機嫌を悪くしているとも解っていた。
どうしてあんなこと言われなきゃならないの。人形遊びというか遊ばれたというか、リリーの笑顔のおねだりに勝てる人間がいたら連れて来なさいよ――昔から好んで愛したファンタジーの世界。その世界がまさか自分の部屋の箪笥の向こうにあったとは。
想像も予想もしていなかった。
ウキウキするし、わくわくするし、次は何があるのか楽しみでならない知らない世界。
この先もっともっと、面白いことが待ってるかもしれない――そんな夢と期待に膨らむはずの秋乃の乙女の心を打ち砕くのは、やはりすべて一人の男に帰結する。
何故か勝手に作られていた婚約者。
絶対に認めてないし、勝手にされても困るけど、向こうもそんな気ないみたいだしこっちも無理だし――でもだからって、あんなふうに見下すことが秋乃には許せない。
浮かれてて悪かったわね。だって夢にまでみた世界が現実にあったんだもの。子供の頃から何度も考えてたファンタジーだもの。ハイになって遊んだっていいじゃない。誰にも迷惑かけてないし、それくらい別にいいじゃない。
夢にまで見た世界でも、やはり現実は現実。
甘いだけの世界ではない。
楽しいだけの人が住んでいるわけではない。
秋乃は大人になって覚えた現実と割り切り方を、もう一度改めて思い知って、そしていつまでもこんなことでぐるぐるしている自分にも呆れてため息を吐く。
そこに、小さくノックが響いた。
「羽山さん? 失礼しますー」
入ってきたのは4つほど下の後輩だ。
「あ、まだありますね、手伝います」
「――ありがと」
秋乃ひとりの作業を、暇を見つけて手伝ってくれる後輩、筑波あかねに秋乃も少し心が落ち着いた。
一緒に机の周りを回りながら、筑波は秋乃の取れきれていない眉間の皺を見て笑う。
「ふふ、聞きましたよー」
「ん、なにを?」
「エアコンの話です」
それか、と秋乃は小さく息を吐く。
おしゃべりめ、と同僚の男を思い出し睨みながら、集めた資料を整える。
「どうしようもないですよねー、ほんとに。もう壊れ物とか壁にぶつけたらすっきりしそうですよね」
「そうねぇ・・・出来たらいいのにねぇ」
「でも、その後で片づけるの自分だって思うと、手が出ないんですよねー」
その通りだ。
秋乃は冷静なこの後輩の考え方がどこか自分とも似ていて、嫌いではなかった。
「そういえば、昔ドラマで見たことがあるわ。ファミレスの裏で、ウェイトレスが憂さ晴らしにゴミ捨て場に食器を投げてたシーン」
「うわぁ、本当ですか? めちゃくちゃ楽しそうじゃないですか」
「そう。あれって一度はやりたいことのひとつよね」
しかしそうして笑って話していると、さっきよりも秋乃の心も落ち着いてくる。
やっぱりひとりより二人の作業だ、と思う。
「あ、羽山さん、なんか手赤いですよ? 冷たい?」
「冷え症なのよねー」
会議室での資料作成とはいえ、エアコンは掛けさせてもらっている。そうでなければこの季節寒すぎてどうにもならない。
しかし秋乃の指先は体温の中でなかなか温まらない場所なのだ。
「温まるもの、食べたほうがいいですよ? 朝とか食べてます?」
「あー、うん、今週から食べるようになったわ。コンビニサンドイッチだけど」
それと紅茶だ。
今まで食べずにいた秋乃だが、週末の整った食生活にやはり気持ちを改められた。
人間きちんと3食取れば、なんとかなるものだ。
しかし筑波は唸るように眉を寄せた。
「うーん、サンドイッチより、あったかいもののほうが・・・お味噌汁とかどうですか?」
「お味噌汁? 好きだけど、朝から作れないわー」
「何言ってるんですか、インスタントですよ。世の中なんのために軽食が溢れていると思ってるんです? 働く女のためです!」
断言する筑波が秋乃には眩しくて面白い。
「それにチューブしょうが淹れてかき混ぜるんですよ。手っ取り早く野菜も摂れて温まれて一石二鳥です。お腹があったかいと、やっぱり違いますよー」
「・・・なるほど」
自分的には豚汁がおすすめです、という後輩に、秋乃は目から鱗だ。
「エステも整体もいいですけど、やっぱり自分で体質改善しなきゃどうにもならないですからー」
「そうなんだけど・・・解ってるんだけどねぇ」
「そう、解ってるけどなかなか始められない。それが問題です。でも、仕事と一緒ですよ」
「ん?」
「毎日強制的に始めて、ルーチンにいれちゃえばいいんです。そしたらたいした面倒じゃないって気付いちゃいますから」
「なるほど・・・」
秋乃は何度も瞬いて、筑波の清々しい笑顔を見つめた。
そして思いついたままに口を開く。
「ねぇ・・・うちに嫁に来ない?」
一度きょとんとした筑波は、弾けるように会議室に笑い声を響かせた。




