1 日常 ①
『姫、迎えに参りました』
『王子様・・・』
涙ぐんだ姫君は、差し出された手に迷うことなく自分の手を重ねた。
『これからは二人で、歩んでいきましょう』
『・・・はい』
それは二人だけの結婚式のようだった。
祝福するものは、何もない。
王子に仕えていた家来も、姫君を支えていた侍女の誰ひとりとして、傍にはいない。
しかし森の中に、緑の狭間から零れる柔らかな光の中で、二人は何より幸せをかみしめた。
めでたしめでたし――
『――駅です、左側の扉が開きます。ご注意ください』
聞き取りにくい声がスピーカーから流れる。
ちょうど下車駅に着いたところで、秋乃はカバーのかかった文庫本をショルダーバックに落とした。
夢の中から覚めるには、ちょうどいい機械音のアナウンスだ。
秋乃はそう感じながら満員電車の中から人に押され押し返しながらホームに降りた。
右手は吊革、左手は文庫、両足2本だけで立ちながら毎日の通勤ラッシュの中の読書は、すでに8年目を数えればもはやプロ並みだ。
しかし肩も首も凝るのだけは年々ひどくなっているようにも思う。
仕方ないか、もう私は若い子には分類されない――秋乃はそう自嘲して駅の階段を降りながら首をぐるりと回した。
ゴキゴキと痛い音が耳の中に聞こえる。
週末エステに行こうかなあ、しかし――秋乃は通勤バックに入れた文庫本を改めて思いだした。
これはあんまり面白くなかったわね――王道と言えば王道。もう少し捻りが欲しい。
これまでに完読した本はすでに数え切れない。
その中でもダントツに多いのはいわゆるファンタジーと呼ばれる小説だ。
だから自分の好みも解っているし、読みすぎて普通に面白い、だけではトキメキもなくなった。
この年になってもそんな本を好む秋乃を、会社の同僚が知ったら驚き慄くかもしれない。
しかし秋乃が何度も何度も繰り返し読みきかされてきたのが、王子様とお姫様が幸せになる話だ。はまらないのがおかしい。
今まで家来と侍女に生活を支えてもらって生きてきた王子様とお姫様が、突然二人で手を取り合ったからといって幸せになれるはずもない。
所詮世間を知らない二人がどうやってこのさき生きて行こうというのか――いやでも、この二人ならああしてこうなって、結局は誰かが手を貸してくれたりするのよね――と読み終わった本を冷静に批判したり勝手にその続きを妄想したりというのはすでに通りすぎた。
今は純粋に、何も考えず、ただ読んで面白い、という本を求めている。
この年になると考えるのも面倒くさい――秋乃はどこかに面白い本がないかなぁ、とまた本屋巡りをする予定も考えた。
駅を出ると、会社に向かうサラリーマンとOLがただ自分の会社に、自分の席に向かって歩く波にぶつかる。
とりあえず、今週も頑張るか。
秋乃はひとつ息を吐いて、自分もその波の中に入り込んだ。
羽山秋乃、休日は愛と冒険とファンタジーと夢の世界に逃避する、もうすぐ30歳の冬の初めだった。




