9 箪笥の向こう ④
「おい、コラ、そんなに笑うことか」
入ってきた男が腹を抱えて息苦しそうになるほど笑っているのに、秋乃の上にいた男はあっさりとベッドを降りてドアに近づく。
「あ、あは、あはは、だ、だってヴァレリーが強姦・・・っ」
「陛下、どうなさいました?!」
笑い続ける男に、ドアの向こうからまた知らない声がかかる。
男はその声を振り返り、目に浮かんだ涙をぬぐいつつ答えた。
「いや、大丈夫だ。こんな時間だがリリアをここへ呼んでくれ」
「はい、畏まりました」
新たに聞こえた声は、そう答えて身を翻したのかどこかへ行ってしまったようだ。
それを訊いて不機嫌になったのはこの部屋にいた男だ。
「おい、リリーまで呼ぶことか? 何を考えているんだお前は」
「だってお前が強姦魔になったなんて、そんなこと教えないと後で僕がリリーに怒られるよ」
「強姦なんてするか! ちょっと脅したくらいでまだ何にもしてない」
「相手が強姦だと取ればそうなるものなんじゃないの――大丈夫ですか、お嬢さん?」
また新たな展開に変わった状況に、秋乃はただ付いていくことが出来ずベッドの上で上体を起こしたまま止まってしまっていた。
新たに入ってきた男は、ゆるいウェーブを描く髪を後ろで一つにまとめていた。深い青色の目は左右対称で、細く通った鼻筋も柔らかそうに笑う口元も、全体的に見て綺麗な顔の男だった。
しかし特質なのは、その豊かな髪の色が真っ黒だったことだ。
優しげなこの風貌で、もしこの髪が金色だったとしたら、秋乃は真っ先に王子様だ、と判断しただろう。
しかし黒い髪が、なにか秋乃に近いものを感じて不思議に思った。
服装は秋乃を襲った男とは違い、縁取りのあるジャケットも襟元を飾るタイも恐ろしいほど細かい刺繍がしてあって、一目で高いと判断できる。
こんな服装でいて見劣りするどころか似合いすぎているところがやはり王子様にも見えないこともない。
涙を流しながら笑っていたことも忘れたように、優しい笑顔で秋乃を見つめる男に、秋乃は驚きを通り越してどこかぼんやりとしたまま見つめ返してしまった。
「ヴァレリー、お前いったい何をしたんだ?」
「何もしてない!」
「でも、何の反応もないよ? 固まっちゃってるのかな? そもそも、この女性を――どこから連れ込んだんだ?」
「連れ込んでない。クロゼットの中にいたんだ」
「・・・ここに――?」
「・・・ここに」
二人の男は顔を見合わせて、秋乃が出て来た場所を見つめて口を閉じる。
いったい、何が起こっているのか、秋乃の頭はすでに考えることを止めていた。
考えても、答えなどない、知りたくない――そう思考をシャットダウンさせたのだ。
そうしないと、呼吸することも忘れてしまいそうだった。
二人はクロゼットの入り口をじっと見た後で、そろって秋乃に視線を戻した。
まだベッドから動けずにいる秋乃は、何の感情もない視線を受けてとっさに顔を俯かせる。
身体の下には、柔らかなスプリングのベッドがあった。
自分のベッドより、快適に眠れそうな柔らかさだった。
いっそここで寝てしまえば、起きたらこれは全部夢でした、とかにならないかな――秋乃の思考がまた逃避の方向へ動き出したとき、その部屋に新たに入ってくる声があった。
「陛下、お呼びでしょうか?」
入ってきたのはお姫様だった。
秋乃は、考えるより直感でそう思った。
金色の髪は緩やかにまとめ上げられ、白い肌とけぶるまつ毛に縁どられた目は優しい光の色だ。唇はふっくらとして艶やかに輝き、細いウエストで絞められたドレスは床のあたりでたっぷりとしたドレープを広げて、秋乃には金色に輝くオーラまで見えた。
これがお姫様でなくていったいなんだ――さっきまで現実逃避しようかと思っていた思考を吹き飛ばすほど、目の前のお姫様に秋乃は目を奪われていた。