四章 吸血鬼と決闘するだけのカンタンなお仕事です
基本はコメディなのですが、アクションやコメディ要素の一環として、血を見るような描写もあります。苦手な方はご遠慮ください。
あれから数日が経ち、俺は放課後の教室で、窓からの景色を眺めていた。
教室は後ろの方が高くなっているから、ミノの席に座ると、けっこう眺めがいい。
木立の上からグラウンドが見えているが、そこには既に多くの観衆がひしめき合っている。俺は、あと数十分後に、そこで決闘をするワケだ。
うん、多分、十中八九どころか百中九十九くらいの確率で血祭りにされる。だって、アーウェルに対して、ALSの効果ないんだもんよ。
あの晩の出来事から今日まで、まだリーユンの意識は戻っていない。
怪我はもう治ってるらしいんだが、意識だけが戻らないらしい。
まぁ、それも心配なんだけど、今日の決闘は、それ以上に気にかかる事が山ほどある。
まずは、主賓としてヴラド公が来るという事。
俺は初対面だったりするワケなんだが、そのヴラド公が今日の件を面白がって、決闘の勝者に色々と『賞品』を付けたんだ。
その内訳は、まずは『リーユンの命』。俺が負ければ、容赦なく一緒に殺されるらしい。
もちろん、春菜先生とか学園長は強く反対したんだが、ヴラド公も相当の頑固者らしく、使者として派遣された代理人は、絶対に取り下げたりはしなかった。
……春菜先生、泣いてたよな。
声を上げて泣き崩れた先生の姿を見て、俺は本当に春菜先生がリーユンの事を愛してるんだと思った。で、ちょっとリーユンが羨ましかったりして。
それから、次に『春菜先生』。この決闘に勝った者は、春菜先生の婚約者になるんだとか。
まぁこれは、アーウェルが勝てば何も変化はない。が、俺が間違って勝っちゃったら大変なことになる、って事だ。
で、ヴラド公は嫌味ったらしく今日の春菜先生にウェディングドレスを着せてるんだとか。
あと、俺が勝てば、何やら騎士勲爵が手に入るらしい。つまりはナイトの称号ってヤツね。つか、ぜんっぜん嬉しくねぇ。食い物の方がずっとマシだ。
とはいえ、ヴラド公が提示したそれらの条件から、彼の真意も少しは見えてくる気もした。
つまり、ヴラド公は俺までツヴァイハーなんじゃないかって疑ってるんだろう。
一見、勝利の目のない俺には関係のない『賞品』ばかりに思えるが、見方を変えれば、万が一、俺がアーウェルを倒せる力量を持っていた時の『ご機嫌取り』とも考えられる。
逆にアーウェルの立場で考えたなら、『人間ごときに負けたら、春菜とは結婚させん』というペナルティとも言えるだろう。アーウェルとしては、『勝って当然』な相手なんだから。
「黎さん……準備よろしくて?」
不意に、教室の入口から羅魅亜の声が聞こえた。
「ああ、迎えに来てくれたのか。ありがとな」
そう言って俺は立ち上がり、羅魅亜のいる入口に向かう。
「……さ、エスコートして差し上げますわ。お手をお出しになって?」
不意に、それまで複雑な貌で俺を見ていた羅魅亜が、悪戯っぽく微笑ってそう言った。
「逆じゃねぇの? こういうの」
「あら、ではお願いしますわ」
俺の言葉にそう返し、羅魅亜は悪びれもせずにほっそりとした手を差し伸べてくる。
その手を取った時、俺は彼女のその様子に気付いた。
……震えてるのか……。
「……ほんと、お前っていいヤツだよな? 心配すんなって」
説得力のない俺の言葉。「絶対勝つからさ」と、そこまで言葉を繋げられない。
「そ、そんな事ありませんわよ? ワタクシ……ウメハラさんが認めた黎さんの勝利を信じておりますもの。むしろ、黎さんこそ緊張してらっしゃるのではなくて?」
矢継ぎ早にまくし立て、精一杯の虚勢を張って見せる羅魅亜。
ウメハラに認められるとどうして勝てるのかは良く分からないが、確かに俺は緊張している。
ただ、どういう訳か、死に対する覚悟は出来てるらしく、それに対する恐怖はない。いや、それはただ単に目の前の『死』を直視する自覚が持てないでいるだけなのか。
それでいて緊張しているのは、俺の敗北がそのままリーユンの死に直結してしまうからだ。
ただそれでも、俺はまだいいのかも知れない。彼女の死を、直接見ることはないだろうから。
それより、そうなった時に、俺よりも心に深い傷を負う人がいる。俺の敗北をその目で見て愛娘の死を決定づけられ、その死までも見届けなければならない春菜先生だ。
そう思った途端、急に全身を震えが襲ってきた。
「やっぱ、怖いわ俺……負けたらリーユンが死ぬし、春菜先生にも申し訳ないし……」
精一杯冗談っぽく笑みを浮かべてはみたが、震える声までは隠せない。
その刹那の事だった。
「んんっ?」
不意に俺の顎に両手を添えて、羅魅亜が俺の唇に自分の唇を重ねてきたのだ。
な、何を……?
柔らかく、暖かな女の子の唇。
瑞々しくて、皮膚そのものが吸い付くような感触。
俺は、未知のそんな感覚に、思わず、息をすることすら忘れてしまう。
「……は……」
ひとしきりの口付けの後、羅魅亜は唇を離すと小さく息を吐いた。
「あああ、あの……羅魅亜っ……さんっ……? なな、なんスかいったい……?」
頬が上気して、声が上ずる俺。みっともない事この上ない。
「リーユンの為に緊張してる黎さんが憎たらしくて。……せめてリーユンより先に、唇を奪っておこうかと思いまして」
頬を染め、羅魅亜はくすっ、と悪戯っぽく笑う。
「……ワタクシから、せめてものお手伝いですわ。どれだけお役に立てるかは分かりませんけれど」
再び俺の手を握り、羅魅亜が進み始める。
「えっと……その、サンキュ」
一応礼を言って、俺も歩を進めていく。羅魅亜なりに、俺の緊張をほぐしてくれたんだろう。
「黎さん……ここにも……ううん、他にも大勢、黎さんのお帰りをお待ちしている者がいるという事……憶えておいてくださいまし」
羅魅亜の心遣いがありがたい。彼女の言葉で、俺はようやく覚悟が出来た気がした。
どっちみち、降参するという選択肢は有り得ない。
なら、あとはもう、勝つしかないじゃないか。
◆ ◆ ◆
十分後、グラウンドの真ん中で、俺はアーウェルと相対していた。
グラウンドに描かれた陸上競技用のトラック。その外周の更に外側に、観衆の為に設えられた階段状の観覧席がある。
そして、そのど真ん中最前列の席に、純白のウェディングドレスに身を包んだ春菜先生の姿が在った。
いつもの袴姿とは違う装い。ドレス姿もまた様になっていて、格別の美しさがある。普段化粧っ気のない先生も、今日ばかりはドレスに合わせて唇にルージュを引いていた。
そんな先生の左隣には学園長が、こちらは普段着ているスーツ姿で席に着き、そして、春菜先生の右側には――
「……あれが……ヴラド・フォン・ヴァンシュタイン公……なのか……」
俺は、初めて見るヴラド公の姿に、思わず目を見張った。
その姿は俺の想像の遥か斜め上をいっていたからだ。
耐えろ、耐えろ俺!
俺は、必死で自分にそう言い聞かせる。見る者を圧倒するその存在感は、このシリアスなシーンに於いて、正に魔物! だが、運命はあくまでも無情だ。
「……ブフォッ!」
刻すでに遅し。俺のツボを囚えて離さないその『御姿』に、俺は吹き出してしまった。
やべぇ! 別なイミでも殺されるっ?
そう思いつつも、すでに俺はヴラド公から目を離すことが出来ない。
恐ろしい。恐ろしいぜヴラド公! 何が恐ろしいかって、そりゃつまりアンタ、まずは『どうして車椅子に座ってるの?』とか、開いた口に、『牙以外の歯があんまり残ってない』だとか、ハゲてる――のはまぁ、学園長で慣れてるとしても、極めつけは、つい探知スキルで何言ってるのか聞いてしまったからデスよ!
「ほえ~~……ありゃ~……へるしんぐきょーじゅかいの~……?」
プルプル震える声で、俺を指さすヴラド公。
その隣では、春菜先生が苦笑を浮かべて俺とアーウェルの説明をしている。
「ち、違いますえ、曽祖父様。あれが東郷黎九郎くんどす。アーウェルと決闘する予定の」
「へるしんぐめぇ~……わしのむねに……クイなんぞうちおってぇ~……だれか……ぬいてくれぇ~……ぬけんのよ、これぇ~……」
懸命に、モロ心臓に刺さってる古びた杭を引っ張るヴラド公。
ふ、不憫だ……つか、ヘルシング教授に杭打たれたからボケてんのか?
と、俺はふと思い出したようにアーウェルを一瞥してみる。
ああ、やっぱアレ、本物なんだ……。
俺は思わずスジ目になってしまった。
俺の視線の先では、先日あれだけシリアスだったアーウェルまでもが、スジ目でなんとも言えない味のある表情を浮かべて、ヴラド公を見ている。
が、審判であるミノが俺達の間に入った時、アーウェルの顔つきが真剣なものに変わった。
ミノのヤツもまぁ、なに張り切ってんだか、イブニングコートなんか着込んでやがるし。つか、オマエはガクラン以外は何着てもピッチピチなのな?
なんて考えていると、ミノのヤツが俺の傍まで歩み寄って、俺の耳に囁きかけてくる。
「なぁ黎九郎、ホントにオメーは、ツヴァイハーとかいうヤツじゃねぇのかよ? そういう、なんかこう、アーウェル卿に勝てそうな隠し玉とかねぇのか?」
「そんなの有るなら、俺が知りてぇって……」
俺は思わず苦笑した。ミノはミノで、コイツなりに俺を気遣ってくれてるらしい。
「いやな? オメー、転入初日にウメハラに襲われただろ? 実はよ、オメーが来るまで別なヤツが襲われてたんだけどよ……それが……」
ミノがそこまで言った時、不意にアーウェルが不機嫌そうに口を挟んだ。
「おい、そこの牛肉。早くしたまえ、皆待っているぞ」
「あ~、ヘイヘイただ今……黎九郎、ウメハラってな、一番強えーヤツしか襲わねーんだぜ?」
言って、ミノは俺とアーウェルの中間に立ち、マイクを握った。
そういえば、羅魅亜もウメハラがどうのと言っていた気がするが。
いや、そんな事ねーだろ? だってクラスにはミノもいるし、羅魅亜だって春菜先生だって、ツヴァイハーのリーユンだっていた訳だし。
そう考えて、俺はその事を一旦忘れることにした。これより先、余計な雑念は命取りだ。
「では、ルール説明を行う。両名、よろしいか?」
「ああ、早く始めたまえ」
「いつでもいいぜ」
ミノの言葉にそれぞれ返事をすると、ミノは観衆にもマイク越しに解説を始めた。
「ルールは、どちらかが死亡するか、どちらかが降参、あるいは戦闘不能となるまでとします。なお、勝者にはヴラド公より以下の褒賞が与えられ――」
俺達当事者に、というよりは観客に対して一通りの説明がなされていく中で、不意にアーウェルが俺に視線を投げてきた。
「さて、下等生物。いざ決闘が始まれば、私はお前を簡単に殺してしまう事だろう。あるいはお前には、降参する暇も無いかも知れん。だから今ここで、お前の意志を聞いておく。……どうかな? 私はどちらでも構わんのだぞ? 春菜もお前がいれば、娘を失う痛手にも耐えられるかも知れんしな」
「降参しても、リーユンの命は助けてくれないんだろ?」
「残念ながら、そういう事だ」
「じゃあ、例え殺されても降参は有り得ない。俺にとってもリーユンは大切なんだ。この魔物の社会で生きてく上で」
「ふむ、人類の末裔と落とし子が、我らの社会で手を取り合って生きていく、か。なかなか美談ではあるが……有りや無しやの二択とは、賢くはないな。残念だよ」
やっぱ、交渉はムリ……か。
残念だよ、という言葉を、アーウェルがどんな意図で使ったのかは分からない。だが、このプライドの高い吸血鬼は、同時に自らが指導していくという自負と責任を、この魔物の社会――ひいてはこの世界に対して持っている。
ひょっとすると、全く話の解らない相手ではないのかも知れない。が、それこそ残念なことに、俺とアーウェルには、時間はもう残されていないのだ。
「では両者、構え!」
ミノが高々と片手を挙げ、数歩下がった。
俺は半身に構え、対するアーウェルは極々自然体で、優美な立ち姿で佇んでいる。
今、俺の|生体端末(BSS)の三つのスキルスロットには、ALSと探知スキル、それに戦闘スキルパックが装備されている。
どれも、大昔に生体端末が戦争に利用され、人々が互いを殺し合うために生み出し、研鑽してきた技術の集大成だ。生体端末を装備していないごく普通の兵士相手であれば、一個中隊でも相手にできるとされた戦力が俺一人の中にある。
そしてそれらと共に、俺が親父に叩き込まれた古武術の技。それは非力な人間が、物理法則を活用するために編み出した技術だ。
あの晩に、俺が得た唯一の収穫は、アーウェルは武術を修めていないという事実だ。俺も全く無様だったが、しかしその事だけはアーウェルの所作から窺い知ることが出来た。
なら、人外の――最強の魔物とはいえ、勝機を掴むことが出来るとするなら、その差だろう。
夕日の下端が遠く山嶺にかかった時、それは始まった。
「始め!」
刹那、ミノの合図と同時に、アーウェルが俺の眼前に『転移』した。
いや、そう見えるほど高速に動いてきたのだ。
そして、横薙ぎの一撃が俺の胸元を襲う。軽く曲げたアーウェルの指先。そこには鋭利な爪が生えており、突くも斬るも自在な凶器となっている。俺はそれを、足捌きで避けた。
続く連撃。俺は伸びやかにしなやかに、相手の動きに合わせてかわし、流し、跳び退き、回りこむ。
アーウェルの高速の連撃は、どれもこれもが必殺だ。
それに対して俺は一切手も足も出せない。受け流すだけで精一杯というのもあるが、たかだか二、三発拳撃を加えた所で、吸血鬼に効くとも思われない。
だったら、相手の力を利用して。
俺は、その時できたアーウェルの隙を見逃さなかった。
突きを見切り、その腕を取って頭から地面に叩きつける。
ずしん、と、掴んだ腕から衝撃が伝わり、地響きと共に地面がへこむ。
だが、俺は油断せずに早々に跳び退いた。
どうだ……?
土煙が立ち上る中、気が付けば観衆も息を潜めているものか、周囲が静寂に包まれている。
しかし。
「……やっぱりね」
俺はそれを見て、口元を引きつらせた。
まるで何事もなかったかのように、ダメージの片鱗すらも感じさせず、アーウェルが優雅な所作で立ち上がったのだ。
俺の目の前で、ポケットからハンカチを取り出し、アーウェルは土埃を払い落とす。
そしてヤツは、観客席の春菜先生に向けて口を開いた。
「春菜! 彼にお別れを言いたまえ! 何か無いかね?」
それは、まるで死刑宣告だった。アーウェルのその言葉が示すのは、俺に『万に一つの勝利もない』という事。俺の一撃を受け、理解したという事だ。
アーウェルの言葉に、春菜先生が立ち上がる。
アーウェルと俺の顔を交互に見やり、彼女は悲痛な面持ちを見せた。
「やめてアーウェル! 殺すならウチを殺しなさい! この鬼! 殺人鬼! あほ~っ!」
春菜先生の罵声を耳にして、アーウェルは苦笑を浮かべた。
「鬼も殺人鬼もないだろう。我々は吸血鬼だ……なぁ、そう思わないかね?」
それが、人たる俺が耳にした、アーウェルの最後の言葉だった。
刹那、俺の視界からアーウェルの姿が消えて――
「が……は……」
――俺は、喉の奥からこみ上げてきたものを口の外に吐き出した。
なんだ……?
視線を胸元に移すと、右胸の肋間から、赤く染まったアーウェルの手が生えていた。
その指先が曲げられ、俺の身体が持ち上げられる。
そして俺は、春菜先生の方へと放り投げられた。
世界が、霞んでいく。
まるで、色の抜けたモノクロの世界。
地面も、
木々も、
校舎も、
飛びつくようにして、俺の身体を受け止めてくれた春菜先生の顔も、
みんなみんな、色の抜けた世界のカケラ。
春菜先生が、何かを叫んでいる。必死になって、俺に向けて。
ああ、ダメだよ先生。せっかく、綺麗なドレスなのに。
――ほら、俺の血で黒く汚れちゃったじゃん。
黒……? あれ? 血の色って、黒だっけ……?
ああ、そうか……俺、死ぬんだ……。
死ぬ?
死ぬってどういう事?
なぁ、教えてよ、親父、じっちゃん……俺……なんで勝てなかった……?
◆ ◆ ◆
朧な世界に、俺が居る。
地味で面白みのない、ただ白いだけの地下都市の壁。
俺の手足は短くて、見上げる親父はデカかった。
髭面で、筋肉質で、ちょっと腹の出っ張った親父。
親父大袈裟な耐圧スーツを着込んでいて、そのクセ動きが速いんだ。そんな親父が、俺に古武術の稽古をつけてくれている。
そんな俺達を、厚い耐圧ガラス越しに一人の老人が見つめていた。
髭面なのは親父に似てるけど、親父を細くしてスケールダウンし、シワを増やしてついでに白髪にした感じだ。俺の親父の親父、つまりは俺のじっちゃん。
そのじっちゃんが、スピーカー越しに怒鳴りつけてくる。
「良いか黎九郎! この訓練は、お前の力を増すためのものではない! 真面目にやるんじゃぞっ?」
毎度毎度、じっちゃんの言ってる意味が良く分からない。俺の力を増すためのもんじゃないなら、じゃあ、何のためにこんな事やってんだよ? まぁ、楽しいからいいんだけどさ。
すると今度は、親父が拳撃を繰り出しながら声を掛けてきた。
「なぁ黎、好きな女の子が現れたら、全力で守ってやるんだぞ? お前は男で、それができる力を持ってるんだからな」
いや、女の子って言われてもさぁ……見た事ねーし、俺と何がどう違うのよ?
「あ、ちなみに、お前の本当の力はこのあと、なかなか使えんように封印するからの!」
なんかこう、ムカつく宣言をされた気がする。
じゃあ、その本当の力とやらは、どうしたら使えるようになるんだよ?
「親父殿、それじゃ分からんだろ! ちゃんと説明してやれよ!」
じっちゃんの言葉を聞きとがめて、親父がヘルメット越しにそう叫ぶ。って、どうでもいいけど、なんで親父は耐圧スーツ着てんのに、俺は素手素足なワケ? 防御力違いすぎね?
「そうじゃな! ……あのなぁ黎九郎。お前は他の人間とはちっとばかし違っててな? 色々力が強いんじゃが、今のお前はちっちゃすぎて、それを上手く使えんのよ。
そりゃすなわち、お前も困るし誰より周囲が迷惑するワケじゃ。じゃから、普段はその力が使えんようにしなきゃならん。せめて、お前が二十歳んなるまではな。まぁ心配するな。それに替わるものも、ちゃんと用意してあるから」
◆ ◆ ◆
十四歳の誕生日に、俺は初めて額の生体端末にOSを入れてもらった。
これで、いつでもどこでもウズメと通信できるし、便利なスキルパックも使える。何より勉強なんかしなくても、データベースから必要な知識を呼び出せるのが嬉しかった。
「これで、お前も一人前だな。これからメンテナンスとかも手伝ってもらうからな?」
嬉しそうにそんな事を言う親父。
「黎九郎、お前、ちっちゃい頃のこと憶えとるか? じっちゃんの言った事、憶えとるか?」
俺の誕生祝いに親父が作ったクソ甘いケーキを頬張りながら、じっちゃんがそんな事を言う。そう、ちょうどこの後だ。じっちゃんがケーキに当たって死んだのは。
えっと、なんだっけ? なんの事だっけ? すっげー大事なことを憶えてたって事は憶えてたけど、どんな内容だったかまでは憶えてない。
「親父殿、案の定わすれてるみたいだぞ、黎のヤツ」
「生体端末取り付けたからの、ハイ・ヒューマンとしての記憶も、一緒に封印されてしまったみたいじゃなぁ。ま、問題ないじゃろ」
オイオイオイ、こらジジィ。その辺が重要なんじゃねーのかよ?
「二十歳んなったら、自動的に解除されるんだったか?」
「そうじゃ。あとは、生命の危機に陥った上でじゃなぁ――なんじゃったかの? ……うっ?」
「……親父殿、どうした?」
言いつつ、親父が苦しげに胸を押さえるじっちゃんの傍に寄る。
「うむぅ~、残念ながら、ワシゃここまでのようじゃ……黎九郎、じっちゃんの言いつけ……ちゃんと、守るんじゃぞ……?」
今思えば、あの歳で、かつあの体格で大食漢だったのが死因だった気もするが、当時の俺は本気で悲しかったんだぜ? じっちゃん……。
でも、そっか。『ハイ・ヒューマン』ね。略称はHH。
そして『ツヴァイハー』。これも、HHをドイツ語読みしただけの事だ。
俺はリーユンと同一種で、人類は俺が知る限り滅亡してたって訳だ。そりゃ、ウズメも必死に隠すよな。エラー吐いてるフリしてさ。
なぁウズメ? お前だろ? 俺にこんな記憶見せてんのは。
(あら、バレちゃったか。出来れば黎九郎には、まだハイ・ヒューマンとして覚醒してほしくないんだけどね。十中八九、暴走するから。で、ここで提案。このまま死ぬのと、暴走して周囲の仲良しさんたち皆殺しにするの、どっちがいい?)
大したサポートAIだよな、お前って……。究極の選択じゃねーか。
でも、んなもん決まってる、死んで後悔しないより、生きて後悔した方がいいだろ。
十中八九って事は、暴走しない可能性だってあるんだろ? それに、俺が暴走したとしても、うまく逃げてくれるかもしれないからな。
(ん~、それもそうね。正確にはその可能性は一パーセントも無いんだけど。まぁ、黎九郎がそう望むなら、いっか。じゃあ、覚醒条件は二つ。一つは瀕死であること。これはもう間もなくクリアできるわね。で、もう一つが――)
◆ ◆ ◆
俺は、再び視界を得た。過去の記憶じゃなく、現実の視界。
その中で、春菜先生が相変わらず涙を流しながら懸命に俺に呼びかけている。
だが、そんな春菜先生を押しのけて、アーウェルの無慈悲な顔が、俺の視界に入ってきた。
刹那、春菜先生がその手の爪を伸ばしてアーウェルに襲いかかった。
やめろ!
その光景を見て、俺はそう叫んだ。いや、叫んだつもりだった。そんな俺の視界の中を、肩口から切り離された春菜先生の腕が、血の軌跡を伴ってどこかへと飛んで行く。
そして、すぐさま彼女のもう一本の腕までも斬り落とすと、アーウェルはそのまま春菜先生の首を縛めた。まるで、リーユンにそうした時のように。
せっかくのドレスが血に染まっていく中で、俺の首を落とそうとでもいうのか、アーウェルは自由な右手で俺の首に狙いを付けた。このままでは、俺の首が確実に落ちる。
デュラはんじゃあるまいし、そうなってまで生きてられるような化けもんじゃないんだ俺は。
だから俺は、体力を総動員してアーウェルの右手を両手で掴むと、それを額に誘導した。
「せめて……一思いに……」
俺は残った体力を総動員して、そう伝えた。
本当に声を出せたのかは分からない。だが、一瞬唖然としたアーウェルは、しかし俺のその行動を諦めと取ったらしく、一点に穴を穿つ様に指先を細めた。
刹那、アーウェルの人差し指の爪が生体端末を貫通し、脳幹を貫いて、後頭部から飛び出した。
生体端末が機能を停止し、次いで、最後に大きく脈打って、俺の心臓も停止した。
俺の心停止を感じたものか、アーウェルが爪を引き抜いていく。
と同時に、視界がホワイトアウトしていき、何も見えなくなっていった。
だが、ほんの一瞬のそれが治まると、俺の視界には緑色のドットで構成されたコンピュータ画面が表示されていた。
そこに、『High Human System start』の文字が現れ消えていく。
直後、視界に浮かぶ各種インジケータに、使用可能なスキルが二十ほど表示され、その内の一つ『ダメージコントローラー』が早くも稼動し始めた。
再び、心臓が動き始める。以前よりも力強く、確かな鼓動が耳に響いてくる。
心停止と、生体端末の破壊。
それこそが、俺の中に眠っていた力を呼び覚ます二重の封印だったのだ。
そう、じっちゃんが俺の脳に埋め込んだ生体端末は、俺のパワーアップを目的としたものではなかったのだ。それはむしろ、肉体の成長と共に暴走しがちになっていく、高位人類の能力を封印するためのものだったというわけだ。
俺は、離しかけていたアーウェルの腕を、指先が喰い込むほどに強く握り締めた。
ALSなぞもう必要ない。あれはむしろ、今の俺には邪魔になる。
「……まさか……?」
微かな驚嘆の表情と共に、急に復活した聴覚がアーウェルの声を捉えた。
そうしている内に、先ほどアーウェルから受けた胸の傷が塞がっていく。吸血鬼ほどではないだろうが、それでも俺の回復速度は驚異的だ。
いや、それも当然か。なんせ俺は、もう――
「退屈させて悪かったなアーウェル卿! あんたが望んでたツヴァイハーだぜ!」
俺は馬乗りになっているアーウェルを足の力で跳ね飛ばす。
と同時に春菜先生が、アーウェルの縛めから解放された。
「ゴメン先生、心配かけた。でもちょっと待ってて!」
俺は跳ね起きて、迫るアーウェルの爪を振り返りざまに眼前で受け止めると、ヤツをそのまま虚空に投げる。
いよいよ性能を増していく俺の身体機能。さっきまでの俺とは違い、漲る力が今、俺の身の内に在る。
だが、時がもたらす力の増大は、アーウェルもまた同じだった。
気が付けば夕日は姿を消し、残照のみが微かに空を染めている。
もう既に周囲は暗く、相対する夜の血族に、更なる力を付与し始めていた。
だから、ここからが、俺達の本当の勝負という訳だ。
「こ、の……虫ケラがぁっ!」
怒号と共に虚空から急降下してくるアーウェル。しかしその動きは、先程より格段に遅い。
いや、それは違うのか。俺の感覚が、アーウェルの動きに追いついているだけのことだ。
俺の間合いの外に降りたアーウェルが、俺の背後に回りこむ。それこそが、さっき俺が不覚を取った動きの正体だ。
何のことはない、アーウェルのそれは技ですら無い。
背後から俺の背を貫こうとするアーウェルの爪。
俺は振り向きざまに裏拳でアーウェルの横っ面を殴りつけた。そして、あれだけ効き目のなかった俺の攻撃はヤツを吹き飛ばし、
「がっ……かはっ……」
口の端から血を流させる程度には、ダメージを与えていた。
《ダメージコントロール完了。身体機能の七十二パーセントが復旧》
視界の表示――ハイ・ヒューマン専用のインジケータであるIED――インサイド・アイ・ディスプレイに、俺のダメージが表示されている。
多分、血を流しすぎたのだろう。ダメージコントロールで復旧した割に、アーウェルに与えるダメージが少ない。しかしそれでも。
「結局さ、アンタがやった事って裏目だったんだよ、アーウェル卿。リーユンどころか、俺まで覚醒させちまったじゃねーか」
今度は俺の番。俺は一足でアーウェルとの間合いを詰める。
ヤツの貌が驚愕の色を載せた。
拳、肘、膝、回し蹴り。さっきまでの俺が嘘のように、面白いほど攻撃が当たる。
だがそれでも、さすがは吸血鬼の次期当主。クリーンヒットは許してくれない。
とはいえ、刻一刻と、俺の動きは速く力強くなる。既に防御で手一杯になっているアーウェルの腕を弾き、俺はついに、ヤツの腹に重い一撃を加えた。
まるで、水の詰まった風船に、拳を突き込んだかのように思えてしまうほどの軽い感触。だがそれは、強靭な吸血鬼の肉体すらも軽く破壊できる事を意味している。
「ゲェア……」
後ろに数歩後退し、アーウェルがその秀麗な貌を苦悶に歪めて膝をつく。
しかし、
「ふ……ふふふふ……これが……ツヴァイハーか……だが、案外と拍子抜けではあるな。もっと圧倒的なのかと思っていたぞ……」
俺が追い打ちをかけようと再び間合いを詰めたとき、アーウェルの身体が虚空に舞った。
いかにハイ・ヒューマンとはいえ、さすがに飛行能力までは持ち合わせていない。
ただそれでも、俺に攻撃を仕掛けようとするなら間合いに入って来ざるをえない筈だ。血を流し過ぎている現状、俺としては早く決着をつけたいのだが。
「俺のスタミナ切れ期待してんのか? 案外セコいんだな、伯爵」
古来、プライドの高いヤツは挑発に弱い。こんな風に言えば乗ってくるかと思ったが、しかしアーウェルは意外にも一笑に付した。
「フフフ……数々の非礼、詫びるとしよう。確かにその力は認めざるをえん……ならば褒美として、ほんの一刻お前を我が眷属に加えてやる」
吸血鬼の恐ろしさ――その真の能力を失念していたのは、俺の不覚だった。
すでに残照も消えた暗闇のなかで、不意にアーウェルの双眸が金色に光り輝く。
それはまるで、全ての禍事を集約したかのような眼差し。
それをまともに見た俺は、刹那に身体の自由を奪われていた。
《強力な視覚暗示効果を検出。視覚緊急遮断します》
IEDがそんなメッセージを表示し、それと同時にIEDしか見えなくなる。しかし、何百倍にも強化され、制御された他の四感が、瞬時に擬似的な映像を映し出した。
だが、その直前まで俺の感覚が捉えていたアーウェルの姿は、一瞬にして掻き消えていた。
三六〇度――いや、立体一〇八〇度方向に俺の感覚は行き届いている。それもかなりの広範囲にまで。視覚以外の俺の感覚は、離れた場所にいる春菜先生が、切り離された自分の腕を拾って肩口に着け、治癒したところまでをも完全に感じ取っていた。だというのに。
《強力な聴覚暗示効果を検出。聴覚緊急遮断します》
そんなメッセージがIEDに表示された直後、俺はようやく現状を飲み込んだ。
視覚と聴覚を失い、残った嗅覚と、そして触覚がそれを感じた時、俺は既にその『群』に囲まれていたのだ。
そう理解したと同時に、全身を鋭い痛みが包んでいく。
制服の布地を貫き、あらゆる皮膚に突き刺さる無数の牙。
アーウェルの化身達――コウモリの群が、俺の体内から血液を抜き取っていく。
《正体不明のベクターウィルス侵入。駆除開始します。血液減少、危険域まであと七秒》
IEDが真紅に染まり、俺の危機を伝える。血液の喪失によるものか、俺は目眩を感じた。
しかし俺は、それでも状況を冷静に見ていた。危機には違いない。さすがは真祖の系譜、紛うことなくアーウェルは強敵だ。
だが、そうであっても、俺もまた高位人類なのだ。
俺が深く息を吸い込むと、IEDが俺の死を宣告し、カウントダウンを始めた。
その刹那、俺は声帯を震わせて、その『一撃』をコウモリの群に食らわせた。
俺の視界――IEDに、高振幅かつ長波長の波形が表示される。
一秒、
二秒、
三秒、
四秒、
息の続く限り、吸い込んだ空気が肺から全て搾り出されるまで。
そして程なく、俺の全身にたかっていた死の影は去り、俺は全感覚を復旧させた。
血を失った影響で目眩が続いている。満身創痍という状態も否めない。
しかしそれでも、俺以上にダメージを蓄積したのはアーウェルの方だ。
目を開けた俺の視界の中で、瀕死のコウモリ達が地面を這いずり、一ヶ所に集まっていく。
それらは程なく人型を形成し、アーウェル・ブルームフィールド伯爵その人となった。
「あ……が……ぅぁ……」
それは本人のものだろうか、それとも俺から吸い出したものか。
アーウェルは全身を痙攣させ、口元から赤黒いものを溢れさせていた。
目眩にふらつきながら、俺はアーウェルの近くに歩み寄っていく。
俺の中では再びダメージコントロールが始まっており、牙によって穿たれた皮膚の傷は塞がって、血液の生産も始まっている。それによって強い飢餓感が俺を襲っているが、俺はそれを別な感情によって穴埋めし始めていた。
俺の声帯が発した高エネルギー超低音――インフラソニック――を間近で、しかも無数の小型個体として数秒間浴びたアーウェルは、既に虫の息になっている。
体液が沸騰し、体細胞の殆どを破壊された筈であるのに、それでも息があるのは見事だと思う。だからこそ――
「ははっ……ホントいたぶり甲斐があるぜ、お前ら魔物はよ……」
俺は口元を歪めた。本当、楽しくてしょうがない。小動物をいたぶり殺すのとは訳が違う。
人間よりも強靭で、強力で、惨忍で、冷酷で、そして気高い存在。そんなヤツを圧倒的な力でねじ伏せる快感。それは、目の前の相手こそが、長年味わってきたものだ。
「ズルいぜアーウェル……」
俺は、瀕死のアーウェルの胸に右掌を重ねた。
「がは……ぞ……れが……本性……が……ぎ……ざま……」
アーウェルの手が、力なく俺の右腕を掴む。それで俺は悟った。
「でもお前、もう闘えないんだよな……だったら、もう……用済みだ」
俺は躊躇なく、掌に全身の力を伝えた。
触れたアーウェルの胸の奥にある、吸血鬼の急所である心臓。それが一気に膨れ上がり、破裂したのを感じた。
同時に大きく反り返り、それを最後にアーウェルの身体がピクリとも動かなくなる。殺せたのかは分からない。だが、コイツはもはや用済みだ。これ以上コイツに興味はない。
俺は立ち上がると、観衆を見渡した。誰も彼もが、俺の勝利を目の当たりにして息を飲んでいる。どいつもこいつもマヌケなツラだ。アーウェルより強いヤツは、果たして何人いるものか。
でも、それでもいい。なんせコイツらは――
「なんだ……たくさん居るじゃん。俺の獲物……」
思わず、俺は目を細めて微笑った。
牛野郎、蛇女、鳥に犬に猫。吸血鬼もまだ何人か居るみたいだし、アーウェルほどではないかも知れないが、それなりには楽しめそうだ。
……ん? アーウェルって誰だ? 俺、なんでこんなとこに居るんだっけ……?
ふと湧いた疑問。しかしもう、そんな事はどうでもいい。体の奥からマグマみたいな熱い衝動が、次から次から湧いてくる。
それはまるで、俺の中の二重螺旋が命令しているかの様に。
歓喜と共に、闘え、壊せ、滅ぼせと。
人類を脅かすもの全てを。
楽しい、
愉しい、
悦ばしい――
湧き上がる感情に身を任せ、俺はニヤついた貌のままで観客席に向かって駆けた。そこには俺の獲物たちが居る。人類の生活圏を確保するために、目に映る全てを、これから俺は皆殺しにする。
俺の視線の先で、車椅子のジジィが従者に何かを食わされ、不意に若返った。
隣の若い女がその姿を見て、必死にその『若返ったジジィ』を押し止めている。
決めた。まずは他の連中より楽しそうな、あの二人の吸血鬼を血祭りに上げてやろう。
「俺と遊んでくれえぇ! 簡単に壊れるんじゃねぇぞぉっ?」
俺は歓喜の咆哮を発した。もうインフラソニックは使わない。あれは実につまらん技だ。
両の手足で感じる、肉と骨が潰れる感触。それが何より一番いい。
俺は一足で間合いを詰める。
まずは前菜――女からだ。細い首をへし折って、五体を引き千切るため、俺は腕を伸ばした。
だがその刹那、
「黎くん!」
目の前の女が叫んだその名。
そして、
「黎九郎!」
どこか遠くから聞こえた叫び。
たったそれだけの事で、俺の中の何かが躊躇した。
誰だお前は?
今叫んだのはどこのどいつだ?
なぜ俺は躊躇した?
コイツらが何だって言うんだ?
分からない。
判らない。
解らない。
直後に視界を埋めるIEDまでがエラーを吐いて、0と1の無意味な羅列を流し始める。
黎九郎、黎九郎、黎九郎、黎九郎。
どこからか聞こえた先程の音声が幾度も繰り返され、俺はIEDに表示された、その声の主の名前を見た。
「……リーユン……」
半ば無意識に、俺の口からその名がこぼれる。
と同時に、それまで意識の外にあった疲労感と飢餓感が、一気に俺の中を満たしていく。全身が震え、俺は力なくその場に崩れ落ちた。
そして不意に、
俺の全身が、柔らかいものに優しく包まれたのだ。
「春菜……先生……」
「……お疲れさまどす……黎くん」
見上げると、まなじりに涙を滲ませて、春菜先生が俺を見詰めていた。
今の今まで、ただ『女』とだけしか認識していなかったその優美な顔。
春菜先生の顔が、すぐ間近に在る。
途端に、それまで俺が何を考えていたのかを思い出し、それに対する恐怖が溢れ出してきた。
「先生……俺、いま先生を……みんなをころ……んむっ」
全てを言う前に、春菜先生は俺の顔を、その豊かな膨らみの間に強く抱いた。
そうしてから、俺の耳元に優しく囁いてくれる。でもその声は、微かに震えていた。
「怖い貌して笑てはりましたえ? ……そやけど、ウチと……リーユンの声にはちゃんと応えてくれはって。おおきに黎くん、ほんまにありがとぉ……あとは、ゆっくり休んでおくれやす」
優しく髪を撫でてくれる先生の手。
やわらかなその感触が心地良くて、俺の意識は深いところに落ちていく。
そんな俺の耳に、
「勝者は東郷黎九郎! みな異存はないな? それと春菜。確約通り、お前はその少年の妻となれ。危険な存在だ。我が身内と成して、一生を監視下に置く」
「分かり……ました……」
耳慣れない男の声と、春菜先生のやりとりが聞こえた。
そして、最後に春菜先生が呼んだ男の名は――
「……ヴラド・フォン・ヴァンシュタイン公……」
その名を聞いた直後に、俺の意識は途切れた。
ただ一つ、どこからか紛れ込んできた、ひどく胸を切なくする感情と共に。
◆ ◆ ◆
瞼を浸食するかのように、白い世界が俺を包む。
爽やかな風がほほを撫でて、白い世界の中でうっすらと何かが揺れた。
徐々に瞼を開けていく。そこは、もう既に見慣れてしまった寮の俺の部屋だった。
「うお……ヤケにリアルな夢見ちまったな……どっからが夢か分かんねぇくらいだぜ……」
頬を掻きながら上体を起こし、俺は寝ぐせのついた後ろ頭を、もう片方の手で撫で付ける。
アーウェルとの死闘。
瀕死になった上で、リーユンと同じツヴァイハーとしての覚醒。
暴走の上での勝利と、その結果、春菜先生の婚約者になった俺。
「……すげぇ夢だ……」
婚約者、って辺りが非常にハズカシィ。
……なんだろ俺、春菜先生と結婚したいとか、そんな願望持ってんのかな……?
とか思った瞬間、不意に俺の視界に緑基調のインジケータが現れ、夢の中で見た、所々血の付いたウェディングドレスに身を包んだ春菜先生の姿が再生された。
「ああそうそう、こんなカンジで、血まみれってのがなんともマニアックっつーか……『セメタリー・ラヴ~骨の髄まで抱き締めて~』じゃねーんだからよ……」
この学園都市で、いま流行っている吸血鬼とゾンビの恋愛ドラマ。それを思い浮かべながらに一瞬沈黙した俺は、しかし直後に、全身から滝のように冷や汗が流れ出していくのを感じた。
いま見えてんの、ひょっとしてIED? まさか、あれって夢じゃなかったってコト?
《IED――Inside Eye Displayの略。
ハイ・ヒューマンシステム専用のマン・マシン・インターフェイス。
大脳皮質と小脳及び脳下垂体に形成された擬似コンピュータ領域により管理されるプログラムの一種で、視覚野に働きかけて視界に擬似的なコンピュータ画面を形成し、視界に在る全ての事象と連動して各種情報管理に役立つ。ユーザーが任意に表示、非表示を選択できる》
「ふ~ん、そんな代物なのかぁ……って、そうじゃねぇよ俺!」
IEDに表示されたIEDの説明に感心してる場合じゃない。
「俺、ハイ・ヒューマンなのか? 夢じゃねーの?」
(ウズメ! 通信できるかっ?)
(はいは~い。よく眠れた? 黎九郎)
俺がウズメを呼び出すと、ご丁寧にコイツは美少女の姿でIEDに表示されやがった。
(オマエ、なんだよその姿? そういうシュミなワケか?)
|生体端末(BSS)にはIEDの機能が無かったので、こんなウズメの姿を見るのは初めてだ。
(あら、これがあたしの基本容姿なんだけど、黎九郎、見るの初めてだっけ?)
(んなこたぁどうだっていい! 俺、つか、えっと、アーウェルとの決闘って、夢じゃなかったのかっ?)
(んん~、残念ながら夢じゃないのよね、コレが)
IEDの中で、ウズメが笑顔を引きつらせながら人差し指を左右に振っている。
ウズメが告げた事実に、色んな意味で愕然としながらも、俺は一番の懸念材料を思い出し、全身から血の気が失せていくのを感じた。
(俺の暴走はっ? 俺、また暴走することないだろうなっ?)
(さぁ? もう身体はなんともないみたいだし、精神が安定してたら大丈夫だと思うけど。あたしより、黎九郎の方が暴走しそうかどうかは感覚的に判るんじゃない? なんせうちの地下都市じゃ、黎九郎が最初で最後、唯一誕生に成功したハイ・ヒューマンだからね~、どうすればどうなるとか、類推できるだけのデータがあんまり無いのよ)
ウズメのそんな返答に、俺は思わずスジ目になった。
ツカエナイ。うん、まったくもってツカエナイ。なんのためのサポートAIなんだよ。
(まぁ今回は、言ってみれば予定してた成長を待たずに無理やり覚醒させた緊急覚醒だったからね~、色々予定外の状況があって当たり前なんだわ。つか、むしろ黎九郎の暴走を止めた、なんだっけ、春菜先生? と、リーユンちゃんか……の存在の方がイレギュラーだったのよ。良かったわね、このエロオトコ……じゃない、色男。今度ちゃんと紹介しなさいよね?)
(なに言ってんだよ。オマエは俺のかーちゃんか)
AIとは思えないウズメの言動の数々に、俺は呆れ返ってしまう。が――
(あれ、聞いてなかった? 黎九郎のお母さんよ? あたし)
そんなウズメの返答に、俺は思考が停止した。
どうやら、メンテナンス不足がこんな形で出てしまったらしい。
(いやいやいや、エラーじゃないから。まぁ、正確にはアンタのお母さんである櫛灘羽珠芽の死後、記憶と性格をサンプリングした存在なんだけど、ほぼ百パーセントそのままと思ってもらっていいわよ?)
俺の思考停止はなおも続く。『ウズメ無双』状態ッスね、これ。
(遺伝子的には血縁無いんだけど、でも、子宮提供してアンタを産んだのが、生前のあたしな訳よ。まぁね~、お父さんとの間には子供出来なくて、初産の上にそれなりに高齢出産だったから、色々心配だったんだけど、産みの苦しみってのも経験できたし、アンタには感謝してんのよ?)
この状況下で判明した驚くべき新事実の数々。
俺はようやく回り始めた思考の中で、ひとまずウズメにこう訊いてみることにした。
(え~と、じゃあ俺、今度から『かーちゃん』って呼べばいいワケ?)
(え? 聞こえなかった、もっかい)
(かーちゃんって呼べばいいのか?)
(ゴメン、もっかい言って?)
(……かーちゃん)
(ごはぁ! 萌える! もっかい言って! もう何度でも言ってマイ・サン!)
IEDの中で、ウズメが鼻血を出して悶えている。
もうヤだこのAI。感動もなにもあったもんじゃねぇ。
(……じゃあウズメ)
(ああん! いじわるぅ!)
ウズメが滝のような涙を流している。
アホな管理AIを母に持つ俺っていったい……。
と、ふと俺は、自分とウズメの関係と、リーユン母娘の関係に、似かよっている点を見つけた気がした。
(じゃあさ、春菜先生がリーユンを産んだってのは、やっぱ……?)
(まぁ、そういう事でしょうね。黎九郎は九番目の胚を使って、あたしがお腹で育てたの。人工子宮じゃ上手く行かなくて、アンタの前の八人は、生まれてくる事が出来なかった)
IEDの中で、ウズメは悲しげに目を伏せた。
(お祖父ちゃんじゃないけど、人類は、もう滅びる運命だったのね。種としての限界が来てたからかな、あたしは不妊症だった。多分、他の地下都市も同じだと思う。……だから黎九郎。アンタはあたしの子よ。血は繋がってないけど、いつだって心配してるんだからね?)
(分かってる)
優しく微笑むウズメの貌を見て、俺もまた穏やかに微笑んでいる自分に気が付いた。
母と呼べる人は、肉体を持つ存在としてはもうこの世界にはいないけど。そうなんだ。物心付いた時から母親みたいだと思ってたウズメは、実際に母親の分身だったという訳だ。
なんとなく、心地良い感情が湧き上がってくる。今なら、誰にでも優しくできる気がした。
だが、そこで俺は、ふと思い出してしまった。
「やべ……俺、アーウェル殺しちまったかな……」
俺は思わず掌で口元を覆う。暴走していた時の記憶も、しっかりと俺の中に在る。
あの時俺は、アーウェルの――吸血鬼の急所である心臓を、確かに破裂させた筈だ。
いや、降参させる、もしくは戦闘不能にするか、殺すかしか勝利の選択肢が無かった訳だから、気後れするような事じゃないし、責められるような事でもない。むしろ、リーユンを無慈悲に殺そうとしていた相手だ。情けをかけるのは筋が違うといえばその通りでもある。
だから、これは純粋に俺の気分の問題だ。
リーユンに『魔物と仲良く暮らしていく道』を選択させようとしていた俺が、魔物を殺してしまったのなら、俺は言葉の重みを失ってしまう。『暴走していたから仕方がない』という言い訳も使いたくない。それに――
「暴走ってあんな感覚なんだな……誰の事も分かんなくなって、獲物としか見てなかった……」
改めて、俺はその事の恐ろしさに気が付いた。
「リーユンは、あんな恐怖と戦ってたんだよな……」
俺は急に、リーユンに会いたくなった。
あの時――春菜先生に襲いかかったあの時に、俺を止めてくれた二人の声。
春菜先生の声だけじゃ、俺は止まれなかったかも知れない。
……いや、ちょっと待て? あの時、リーユンはあの会場に居た……んだよな? じゃあ、意識が戻ってるのか……?
そう考えた時、
ガンガンガンガン!
けたたましくドアをノックする、というよりも、叩きつけるような音が響き――
「黎くん! 黎くん起きてはりますかっ? リーユン、来てませんやろかっ?」
――そんな、切羽詰った春菜先生の声が聞こえた。
俺は即座にベッドから出て、ドアへと駆け寄る。ドアハンドルを握って開けると、そこには完全に血の気を失い、青ざめた春菜先生が立っていた。
「ど、どうかしたんスか? リーユンなら、俺の部屋にはいませんけど……」
春菜先生の様子に気圧されながら、俺はそう訊いてみる。
「リーユン、あの子……昨日から、勝手に医務室のベッド抜け出してたみたいで……さっき様子見に行ったら、どこにもいてへんし……ああもぅ、ほんまにどこ行ったんやろ……」
落ち着かない様子の春菜先生。俺は彼女の両肩を掴むと口を開いた。
「落ち着いて先生。俺も探すから。あ、で、その……アーウェル伯って、どうなりました……?」
「アーウェル……アーウェルは、全治三ヶ月で……今、霊樹の下にある地下墓地で静養してますけど……」
「なら大丈夫でしょ」
俺は自分の懸念が払拭された事もあり、微笑んで見せた。
少なくとも、それならリーユンをどうこうできるヤツはいないと思う。
「そやけど……アーウェルのシンパも多いし、アーウェルが倒されたんやから……」
「なら、リーユンより俺を狙うでしょ。倒したのは俺だし、昨日の夜は俺、多少なりとも弱ってたんだから」
自分で言って、俺は血の気が引いていく。うん、実際にそうだったらヤバかったかも、俺。
「そ……そうどすな……」
納得してくれたのか、春菜先生は胸を撫で下ろして一つ深呼吸をした。
と、急に俺の顔を見て頬を紅く染めていく。
「えっと……黎くん、その……手……」
「おあっ! す、すんませんっ!」
恥ずかしげに視線を外す春菜先生の様子に、俺は慌てて肩から手を離した。
だが、そんな俺はどうしたことか、急激に力を失い、春菜先生に抱きつくようにもたれ掛かってしまった。
「ちょっ……黎くん……? そ、その……愛情表現は嬉しいんどすけど……明るいうちから、こない人目に付くとこでやなんて……」
緊張しているのか、春菜先生は微動だにせず、その上で声が上ずっている。
ある意味レアな状況で、そんな春菜先生の貌をじっくり見てみたいというのに、俺は、
ぐぐぐうぅ~~……。
「……腹……減った……」
そんな気の利かない言葉しか言うことが出来なかった。
ピンチ。うん、ピンチだ。
起き抜けで、さっきまで麻痺してたこの極限の空腹感は、昨日のアーウェル戦のなごり
であるのは明白だ。というのに、事態は既に、俺の予想の遥か斜め上を推移していた。
(黎九郎! リーユンちゃんはどこの地下都市から発見されたか聞いたっ?)
不意に、ウズメが切羽詰った口調でそんな事を訊いてきた。
「あらあら、せやったら、食堂まで一緒に行きましょか?」
俺の腕を肩に担ぎ、微笑む春菜先生。そんな彼女に、俺は真顔を向けた。
「先生! リーユンが発見された地下都市――遺跡って、どこッスかっ?」
一瞬面食らったように春菜先生が唖然とする。
が、俺の様子に異変を感じたのだろう。先生もまた真顔で口を開いた。
「リーユンは、C一八いう呼称の、大陸の遺跡で見つけた子どす」
「うわっ?」
先生は俺を胸の高さに抱き上げると、食堂へと走りだす。
(C一八だそうだ)
俺がそう応えた刹那、ウズメはそれを伝えてきた。
(戻って来なさい黎九郎! 春菜先生も一緒に! リーユンちゃんは、もう覚醒したわ! それも、アンタ以上の脅威を伴ってね!)