三章 空腹と満腹の狭間で
基本はコメディなのですが、アクションやコメディ要素の一環として、血を見るような描写もあります。苦手な方はご遠慮ください。
医務室から寮の自分の部屋に移って一週間が経過した。
その間、俺は授業に出ておらず、自室のベッドに寝そべりながら退屈な時間を過ごしている。
俺にあてがわれた寮の部屋は、いたって質素なものだ。
とはいえ、バス・トイレ付きで簡素なキッチンも付いている。家具類は必要最低限の物しかないが、余計な物が無い分、むしろ機能的な部屋だと言える。
「ったくよ~、過保護なんじゃねぇの? ムチウチったって、別にもう痛くないのにさぁ」
俺は退屈から来る不満を口にしてみた。
一応自室にテレビなんかはあるが、昼にやってる番組といえば、アンデッドの司会者がやってる通販番組とか、多分ミノの同族と思われる、初老の司会者の奥様向け番組とかばっかりで、実に退屈極まりない。
まぁ、学園長や春菜先生の懸念は分かるんだ。
どうやら世界で『純粋な人類』の生き残りは、俺だけという可能性が非常に高いみたいだし、その意味で、俺はこの世界でとてつもなく貴重な存在だ。
脳に接続した生体端末と、そこにインストールする各種サポートスキルのお陰で多少の強化はされているものの、結局のところ、俺も根本的な部分はごく普通の人間に過ぎないワケだ。
つまり、どうやら本気を出した魔物には、俺の力は通用しないという事。といっても、暴走したミノが、特に強力な魔物だというだけの話なのかも知れないが。
だから、大事を取って休ませてくれているんだろう。それは分かってるんだけど。
そこまで考えて、俺はふとリーユンの事を思い浮かべた。
どうも今ひとつ、アイツの事がハッキリしない。
アーウェルは、リーユンが『遺跡から発掘された』と言っていた。
それでいて春菜先生は母親だというし、じゃあ、地下都市で一人生き延びていたアイツを、春菜先生が養子にしてここまで育てたって事なんだろうか。
一方でアーウェルは俺を『純粋な人間』と言ってたし、生体端末の事も知ってるみたいだった。
で、その上でリーユンを『ツヴァイハー』呼ばわりしてる。
「だからよ~、ツヴァイハーってなんなんだよぉ~……」
ウズメに問い合わせても、その度にエラー吐いて再起動しやがるし、学園長や春菜先生に訊いてみようと思っても、それが禁忌であるかのような空気をまき散らしてて、とても訊ける雰囲気じゃない。
ってワケで、現時点で推測できるのは、リーユンが俺のような人類とは『似て非なるもの』って事と、魔物を滅ぼせる力を『持っているのかも知れない』って事くらいだ。
だとしたら……俺は、どうする……?
不意に、俺の脳裏に更衣室でのアイツの貌が思い浮かんだ。
辛そうな――今にも泣き出してしまいそうな貌。きっと、リーユン自身も自分の特異性を知っていて、それでもこの歳まで魔物社会に溶け込んで生きてきたんだろう。
羅魅亜とかミノとかに誤解されたままでも、怒って手を上げるとか、そんな事をしてこなかったみたいだし。それでどうして魔物の脅威なんて言うんだ、アーウェルは。
なんとなく苛立たしくて、落ち着かない。
人類がリーユンを生み出したのなら、俺は生み出した側の存在である訳で、だったら何かできそうな気もするけど、リーユンの意志を無理やりねじ伏せるような事はしたくない。
第一、人類の末裔だというだけの俺に、そんな権限が与えられてるのかも分からない。
状況から見てリーユンが他の地下都市で誕生したことは明らかだし、仮にリーユンが生物兵器みたいなもんだとして、この千年間、ほとんど独立して営まれていた世界各地の地下都市で、その生物兵器のコントロール権限を、他の地下都市の人間にまで与えているとは考えにくい。
「う~、ヤメヤメ、推理したって仕方ねぇよ、情報が足りないんだから」
そう呟きながら、俺は天井を見上げた。
そんな時、
ぐぅ~……。
不意に、俺の腹がご丁寧にも空腹を告げてきた。そして俺は、そこで重要なことを思い出す。
「そういや、今日は寮の食堂休みだとか言ってたっけ……やべ、飯の用意とかしてねぇぞ?」
思い出した事実を呟いて、俺は急激に身体から力が抜けていくのを感じていた。
このままではマズい。動けるうちに飯の用意をしなくては。
俺はベッドから起き出して、冷蔵庫を開けてみる。
「うぉっつ……」
直後に目眩が俺を襲った。
食材、なんにもねぇ……。
そんな事実を胸中で噛み締めたが、いや、そもそもこの学園に来てから、ドリンク以外買った憶えもない。
「おおぅ……み、みすていく……どうすんだ俺……」
一気にやる気と活力が失せ、俺はその場にうずくまる。
そんな時だ。部屋のドアがノックされたのは。
「黎くん、起きてはりますか?」
聞き覚えのある声。というか、こんな口調で喋る人物など、俺は一人しか思い浮かばない。
「は~い、開いてますよ~」
ドアの向こうに俺がそう返事を送ると、
「入りますえ?」
間を置かず、春菜先生の姿がドアの向こうから現れた。
その姿を見て、俺は思わず息を飲む。
別に、これといって着飾っている訳じゃない。鹿の子模様の、どちらかといえばむしろ質素な――もっと言うと地味ですらある着物に身を包み、何か作業でもしていたものか、上半身にたすきを掛けている。
髪はいつものポニーテールではなく、優美に下ろした黒髪を、腰の辺りで括っていた。
初めて見る春菜先生の普段着の姿。だがそれはとても新鮮で、俺の目に瑞々しく映っている。
と、呆然とする俺の貌を見て、春菜先生がいつもの笑顔から、不意に目を丸くした。
「黎くん、ひょっとして具合でも悪いんどすか?」
春菜先生のそんな問いに、俺は苦笑するしかない。
空腹で青ざめているであろう俺の顔。それに加えてうずくまっているワケだから、そう考えるのも当然だ。
「あ、いや、ご心配なく。単に腹減ってるだけッスから」
笑顔を引きつらせながらそう応えた刹那、
ぐぐうぅ~……。
俺の空っぽの胃袋が、同意してくれた。
「あらあら、見た目とちごて、元気なおなかどすなぁ」
曲げた人差し指を口元に当て、くすくすと笑いながら、安堵した様子を見せる春菜先生。
どこまでも柔らかな物腰だ。とてもアーウェルの同族とは思えない。
「丁度良かったわぁ。今からウチのお部屋に来はりませんか? 今日、食堂お休みどすさかい、黎くん、おなか減らしてるんと違うかなぁ思て、お昼の用意してましたんえ?」
――黎くん、おなか減らしてるんと違うかなぁ思て、お昼の用意してましたんえ?――
――おなか減らしてるんと違うかなぁ思て、お昼の用意してましたんえ?――
――お昼の用意してましたんえ?――
直後、脳内にリフレインする春菜先生の甘い誘惑。
幾度も脳裏に反響するその言葉を噛み締めながら、俺の思考は一瞬停止し、それとほぼ同時に、滝のような涙が濁流となって頬を駆け下りて行った。
「うををををを~~! 女神! 女神と呼ばせてください先生!」
「いや、ウチ吸血鬼どすけど」
俺の様子を見て明らかにどん引きしつつ、しかし春菜先生は、その優美な色白の手を差し伸べてくれた。
◆ ◆ ◆
……どうしてこんな状況になってるんだ?
十分後、俺は春菜先生の部屋で食卓を囲んでいた。
十二畳ほどの広さの、こざっぱりとした和室。
そこにあるのは化粧台と事務机、その上に置かれたパソコン、それから食卓として機能している四角い座卓と、円くてデカい桶が置いてある。見た目、材質的には桐の様に思えるんだが。
と、俺はそこでふと思い出した事があった。
――あと、寝る時には棺桶に入るって言ってたな――
先日聞いた、ミノの一言。それと、
――春菜先生、桐製の棺桶は悪い虫がつかなくていい、とか言ってましたけど――
その後に聞いた羅魅亜の言葉。
ああ、うん、これはつまり、春菜先生のベッドというワケか。
思わず口元が引きつり、俺は当然であるかのように納得してしまっていた。
洋風のカクカクっとした長い棺桶じゃなく、和風テイストな円筒形というあたり、いかにも春菜先生らしい。
まぁ、鏡台については、『鏡に映らない吸血鬼に必要なの?』という問題は、ひとまず置いておくことにする。
ちなみにこの部屋は男子寮と女子寮の間を結ぶ、渡り廊下の中間に位置している。ここは本来管理人室で、つまり春菜先生は、男子寮と女子寮の管理者でもあるのだ。
とまぁ、それはいいとして。
「……食べないの? 黎九郎」
相変わらず感情の読めない貌で、リーユンが言う。彼女もまた、休日の私服姿だ。
水色のチュニックブラウスとロングスカートという組み合わせは、華美過ぎず地味過ぎず、清楚で可憐。普段の制服姿よりも、リーユンを『女の子』に見せている。
一方で、メガネと三つ編みは普段どおりなワケなんだが、まぁ、それはそれでいいか。もっと別な彼女も見てみたい気もするけど、それもまた良し、だ。
そう。ナニユエか、いま食卓を囲むのは、俺と春菜先生とリーユンの三人だったりするのだ。
春菜先生の部屋の前まで来たときに、女子寮の方から歩いてくるリーユンとばったり出会い、そのままみんなで昼食、となったワケなんだが。
――今日、食堂休みだから、黎九郎、おなか空かせてるんじゃないかと思って――
というリーユンの気遣いで、食卓には春菜先生が作った分と、リーユンが作ってきた分の料理が、はみ出さんばかりに並んでいる。
先日の更衣室での一件があって、今の今まで謝る機会も無かったりしたワケなんだが、そんなリーユンの気遣いに、実はとっても感動してたりする俺がいる。
とはいうものの、それはそれ。気持ちとは裏腹に、現実は過酷だったりするワケで。
「あ、ああ、うん、いや、もちろん食べるけど……」
……食い切れるかな? これ……。
食卓の料理の数々に、俺は空腹とは別の意味で生唾を飲み込んだ。
まず、春菜先生のは洋食。
ボンゴレ、サラダのサンドウィッチ、コンソメスープに子羊のローストなどなど。どれも美味そうだし、一つ一つ手間が掛かっているのが良く分かる。
それに対しリーユンのは和食で、しかも重箱入り。
水菜の胡麻和え、ネギ入りのダシ巻き卵、茶碗蒸し、ゼンマイのおひたしに鶏肉の竜田揚げ、などなど。こちらもまた、相当に手間がかかっているだろうし、やはりどれも美味そうだ。
だが。
だがしかしだね?
どれもすぐに食ってみたいものばかりだってのに、この空気はなんなんだろうか? 微笑をたたえる春菜先生と、無表情ながらに、俺の手元をガン見しているリーユン。例えて言うなら、龍と虎が睨み合いつつ、共通の獲物を狙っているかのようなこの空気は。
箸が動かせねぇ……。
物事『初めが肝心』と云う。
だとするなら、この『初め』を俺がしくじると、いったいどんな仕打ちが待ち受けているんだろうか。
「……リーユンちゃん? ウチら見てたら黎くん食べにくそうどすさかい、ちょっと後ろ向いてましょか?」
「……うん……」
春菜先生の提案に、二人同時に俺に背を向ける。
「……ええっと……頂きます」
一言呟いて、俺はまず、春菜先生のボンゴレに手を伸ばした。
まずは炭水化物。これを補給しないと始まらない。麺類はまさにうってつけの食材だ。
しかし、俺の口にそれが入った刹那、電光石火のスピードで目の前の二人が振り返った。
アサリの旨味が口中に広がっているはずなのに、味を感じないのは気のせいか?
俺は口元からはみ出たパスタを吸い込みながら、ほとんど噛まずに飲み込んだ。
「……んっ!」
春菜先生は小さくガッツポーズ。
「……くっ!」
リーユンは何故か軽く落胆している。いや、リーユンの『軽く』は『かなり』と同義だ。
「……あの……なに?」
俺は、彼女たちがワカラナイ。
何を考えているのかがワカラナイ。
俺が男だからか?
う~ん、ナゾだ……。
「じゃあ、順番が決まったみたいだから、黎九郎、次は私のも食べて」
言って、リーユンが相変わらずの無表情で、俺の方に重箱を傾けて差し出してくる。
俺は、リーユンが放つプレッシャーで、コレは既に『宇宙規模で揺るがせない決定事項』なんだと悟った。
「あ、ああ、じゃあ、この卵焼きを……」
リーユンの無言のプレッシャーに気圧されつつも、俺はダシ巻き卵を口に運ぶ。
あ……美味い……。
口中に広がるダシの旨味と、柔らかな卵の食感。
「……おおぅ……」
どうしてだろうか。視界が歪む。
「……黎くん……どないしはったんどすか……?」
春菜先生のその言葉で、俺は我に返った。
「いや、あの、なんか……なんだろ?」
今の心境を、俺は上手く言葉にできない。複雑な想いが渦巻いて、整理しきれないのだ。
だがそれでも、一つだけ言葉を選ぶのなら。
「なんか……懐かしい、って気がして……俺……」
「……そうどすか……」
春菜先生は、俺の言葉に微笑み返した。
でもそれは――
なんだろ……?
――先生の笑顔は、どこか寂しげに見えたんだ。
◆ ◆ ◆
昼食後、俺は腹ごなしに寮の中庭を散歩していた。
結局は春菜先生とリーユンの料理を全て胃に収めたワケだが、さすがに腹がキツい。
そして、傍らには何故かリーユンも居たりして。
「それにしても、リーユンって料理上手いんだな。ごちそうさん」
「……ありがと」
さして嬉しそうな様子もなく、社交辞令的なカンジで言葉を返してくるリーユン。
味気ないが、コイツのこういったキャラにももう慣れた。
「私の料理と、お母さんの料理、どっちが美味しかった?」
不意に、なんの気なし――に聞こえる口調で、リーユンがそんな事を訊いてくる。
「ん~……春菜先生のも美味しかったけど……俺の好みとしては、リーユンのかなぁ……」
「でしょうね」
相変わらずの無表情で、リーユンは即答した。
ふ~ん……自信あったんだな。
リーユンの料理は確かに美味かった。いつも無表情なクセして、しかしそれとは裏腹に、あの料理はただ単に美味いだけじゃなくて、どこか懐かしくなるような想いにさせた。
俺にはお袋の記憶は無いが、もし『おふくろの味』とやらがあるとするなら、あんな感じなんじゃないかと思う。それくらい、人間的な温かみを感じさせる味だったんだ。
そんな事を考えていると、不意にリーユンが立ち止まった。
「……どうした?」
振り向くと、視線の先でリーユンが俯いている。
「黎九郎……私……お母さんを傷つけた……」
「……は?」
リーユンの言葉が理解出来ず、俺はマヌケな声を出してしまう。
「黎九郎に、お弁当を食べてもらいたかったのは本当。でも……お母さんもお昼を用意してるなんて、私知らなかったから……」
「え~……なんで、それで先生が傷つくんだ……?」
――別に、先生のだけ残したってワケじゃないしなぁ……全部食ったんだから――
情報処理のため脳内を駆け巡るインパルス。そのあまりの負荷で、俺の頭はビッグバンを起こしかけているんだが。頼むから、もう少し分かりやすく言ってくれ委員長。
「吸血鬼は、血液に対するもの以外の嗅覚と味覚が弱いの。だから、お母さんの料理……あれはきっと、ものすごく頑張ったもののはずなのよ……」
言葉尻で、リーユンの目に涙が滲んだ。
それは時間と共に、目頭と目尻に、大きな珠を形作っていく。
「あ……」
俺は、先刻に見た春菜先生の微笑みを思い出した。
どこか寂しそうな微笑み。
そして、俺は先生の前で、リーユンの料理ばかり褒めていた様な気がする。
懐かしいって思ったのは本当だ。でも、先生の料理だって決して捨てたもんじゃなかった。ただ、なんとなく教科書通りの味というか……暖かみを感じなかった。
でもそれは、決して先生のせいじゃない。リーユンの言葉はそういう事だ。
それなら。
誰かが悪いというのなら、それは俺だ。何も考えないで、ただ料理を貪っていただけの、無神経な俺こそが。
俺は、まなじりからこぼれ始めたリーユンの涙を指先で拭うと、その頭に手を乗せて軽く撫でた。さらりとした黒髪の心地良い感触が、俺の掌から伝わってくる。
「……あの?」
表情に乏しいはずのリーユンの貌が、その一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「リーユン、春菜先生が好きなんだな。でもリーユンが気に病む事ないだろ。悪いのは全部俺」
「そ、そんな事……」
微かに頬を朱に染めて、リーユンはまた俯いてしまう。
「だから俺、春菜先生に、もう一回お礼言ってくる」
「……うん」
そう言って、リーユンは顔を上げた。
母を悲しませた事への自責ってヤツが、リーユンの中にあるからだろうか。彼女は、一見すると相変わらず無表情に見える。でも、どこか当惑している様に思えた。
俺は、そんなリーユンをその場に残して駆け出した。味覚が弱いってのは、そんなに気にする事だろうか? なんて思う。だけどそれは、あくまで俺の考え。
春菜先生は俺に「美味しい」って言って欲しかっただろうし、その言葉が聞けないのは、自分のその体質のせいだと思ったに違いない。
なのに俺は、「頂きます」と「ごちそうさま」としか言ってなかった。リーユンの料理は褒めてたクセに。
先生、ゴメン。
心の中で、俺はそう謝った。でも、春菜先生に伝えなきゃなんないのは、別な言葉だと思う。
だけど、いまさら「美味しかった」だけじゃ白々しい。――まぁ、美味しかったのは本当なんだけど。
だから、俺はもっと別な言葉を贈りたい。感謝の気持ちと共に。
◆ ◆ ◆
春菜先生の部屋のドアを二回ノックする。
「は~い! 開いてますえ~!」
中から響いた春菜先生のその言葉で、俺はもう一度その部屋に入った。
「えっと、またお邪魔します」
「あらっ、黎くんどないしはったんどすか?」
軽く驚きを見せる春菜先生。だが、直後にはいつもの様に優しく微笑む。
「あ、えっと……ですね、その……さっきはホント、ごちそうさまでした。先生の料理、普通に美味しかったです」
「……おおきに。先生、少しほっとしました。ひょっとしたら黎くん、無理して食べてはったんやろかて思てたから……」
俺の言葉に、春菜先生は苦笑して見せる。
俺は少しバツの悪い思いとともに、そんな彼女に口を開いた。
「それと……嬉しかったです。俺の為にメシ作ってくれて。でも俺、リーユンから先生の話聞いて、だから俺……」
俺は頬を一掻きすると、春菜先生を見据えた。
「そ、そのなんつーか、先生、あんまり気にすることないスよ。先生は吸血鬼で、俺とは少し違ってて、でも優しいし、こんな俺にも色々気ぃ遣ってくれるし、俺はそれだけで充分っていうか……あ~、え~……だからつまり……」
言葉の後半で、俺は自分が何を言いたいのかよく分からなくなってくる。どうしてこう、言葉というのはもどかしいのか。
だが、
……げ。
俺はそれを見て、思考が完全停止した。
俺の目の前で、春菜先生の頬を大粒の涙が幾つも幾つも駆け下りていく。
うおぅ! またなんか地雷をっ? 俺ってヤツぁ!
「……あ、あのちょっと、先生? 俺、なんか悪い事言ったっ?」
半ばパニクりながらそう問うた俺に、
「……ううん……」
春菜先生はかぶりを振り、傍に歩み寄ると俺の胸に額を当てた。
きゅっ、と、春菜先生が俺のシャツの胸元を握り締める。
「……ごめんなさい……先生、大人げなくリーユンと張り合ぅてしもて……自分がイヤんなってるとこに、黎くんが来てそないな事言うんやもん……」
え~と、俺、どうすりゃいいんだ……?
こんなシチュエーションで選べる選択肢を、俺は全く持っていない。
「黎くん、キミ優し過ぎます……」
「そ、そうなのかな……春菜先生の方が、優しいと思うけど……」
一頻りの沈黙の中、春菜先生が微かに鼻を鳴らす音だけが、室内を満たす。
だが、しばらくの後に春菜先生が俺から離れ、いつもの微笑みを見せた。
「あ~あ……なんでウチ、吸血鬼なんやろ……」
なんで、って、まぁ、そう生まれついたんじゃ、しょうがないと思うけど。
そんな考えが脳裏を過ぎったが、なんかこう、この場で口にすると的外れな気もしたので、口には出さないでおく。
とはいえ、どうして春菜先生がそんな事を考えたのか、ちょっと興味もあったりして。
ただ、なんだろうか。魔物という人外の存在であるハズの春菜先生が、こんなにも悩むっていう事がなんとなく面白くて、でもそれでいてますます親近感が湧くっていうか。
「堪忍しておくれやす、黎くん。……先生、情けないとこ見せてしもて……ほんま恥ずかしいわぁ」
苦笑を見せる春菜先生に、俺もまた微笑んだ。
「俺は嬉しかったスけど。先生も悩むんだなって、分かって」
「……も、もう……ほんま黎くんには、ウチ敵わへんわ……」
春菜先生は、顔を真っ赤にして視線を逸らした。
だがその視線が、何かを言いたげに再び俺の顔を捉える。
「……そやね、ウチかて、幾つも悩み抱えてますのえ? そやから……黎くん?」
「は、はい?」
不意に名を呼ばれ、俺は真摯な貌を見せる春菜先生の、その眼差しを真正面から受け止める。
顔立ちはハーフの様に秀麗であるのに、先生の瞳は深い鳶色をしている。そこには溢れんばかりに、一人の親としての愛情が滲んでいるような気がした。
そして、先生はおもむろに、血色の良い艶やかな唇を開いた。
「ウチ……先生やなく親として、キミにお願いがあるんどすけど……」
そう切り出した春菜先生の言葉に、俺は全てを悟った気がした。
◆ ◆ ◆
夜風が、風呂上がりの肌を優しく撫でていく。
三つ編みのクセの付いた長い黒髪。
髪色と対照的な白い肌。
女子寮の屋根の上で、水色のパジャマに身を包み、リーユンは月を見ていた。
蒼白く照る満月が、やけに物寂しく映える。
「どうして……こんなに苦しいんだろ……」
きゅっ、と下唇を噛み締めて、リーユンは呟いた。
ツヴァイハーである自分。
魔物でもなく、普通の人類でもない歪な存在。
長く魔物の社会で暮らしてきて、それを嫌というほど思い知らされた。
だから――
「……黎九郎……」
呟いて、抱えた膝の間に顔を埋める。
心の中で、刻一刻と膨らんでいくその名。
彼を初めて見たときに、リーユンは何かが腑に落ちたのだ。それまで一度も出会ったこともない、自身の創造主。彼がそうではないとしても、彼の仲間が自分を創った。
だからか。彼が気になって仕方がないのは。
出逢いは最悪だったけれど、それでも、自分にないものを沢山持っている彼が羨ましくて仕方がなかった。
友達を作らず、いつの間にか大好きな母とも距離を取っていた自分と違って、彼は誰にでも気さくで、感情が豊かで、そしてお節介なほどに優しかった。
あんな風になれたなら。
始めはただ、そんな憧れにも似た想いを抱いていただけの事だったかも知れない。
でも、今は。
羅魅亜と楽しそうに話をする彼が嫌で、
娘である自分以上に、母――春菜を気遣う彼が嫌で、
でも、一番嫌なのは、そんな風に思う自分だと気付いてしまった。
「ツヴァイハーなんて……嫌だよぉ……」
膝に顔を埋めたまま、リーユンはそう呟いた。
大好きなこの世界を壊してしまう存在。リーユン・エルフ。
今も、脳裏に聞き慣れた、
聞き飽きた、
もう、聞きたくない声が響く。
(リーユン、我らが娘。さぁ、我らの願いをかなえておくれ。我々人類に、光に満ちた地上の世界を。もう一度――)
◆ ◆ ◆
男子寮と女子寮の間には、わりと広い中庭が在る。小洒落た噴水と芝生が広がるそこには幾つかのベンチも在って、学校が休みの日なんかは、日向ぼっこしてる猫系獣人の姿をよく見かけるものだ。
が、それも昼間だけの話。
午後九時を過ぎた頃、俺は人気のないそんな中庭に出て、中天に浮かぶ満月を眺めていた。
雲一つない、晴れ渡った夜空の中に浮かぶ満月は、ともすれば人工の灯火よりも明るく、それでいて優しく柔らかな光を放っている。
そんな月光の光にはしゃぐように、ちらちらと舞う黒い影が幾つか見える。
それは夜魔の眷属か、あるいは夜魔そのものの化身なのか。
「な~んてな。ただの動物か吸血鬼の使い魔かなんて、俺にゃ分かりゃしねーんだけどさ」
ぽえじーな自分が思わず気恥ずかしくなって、俺は誤魔化すようにそんな事を言ってみる。
別に、風情を求めて外に出た、というワケではないんだ。いや、満月は嫌いじゃないし、地下暮らしが長かった俺にとっては興味深くもある訳なんだが。
「……かなりうるせぇな」
遠くから重なり響いてくる幾つもの遠吠えを耳にしながら、俺はベンチの一つに腰掛けた。
「うん、やっぱし多分、犬系の連中なんだろうな、この遠吠えは」
気持ち悪いとか怖いとか、そんな風には思わないが、夜中に大合唱はハッキリ言って迷惑だ。
つか、この調子だと、雪が降ったら庭駆け回りまくる連中が続出しそうな気がしてきた。
そうなったら、多分俺は猫系の連中と一緒に、コタツで丸くなっている事だろう。
「……あれ? リーユンか?」
ふと俺は、満月を遮るように女子寮の屋根に座る人影を見つけた。
「え~と……」
俺は辺りを見回して、それに気付く。
寮は男子寮女子寮それぞれに三階建てで、地面から屋根の縁までは、およそ十二、三メートルほどもある。
ALSを使用しても垂直方向の跳躍力は五メートル程しかないから、どう考えても身一つで登れる高さじゃない。だから俺は、男子寮の脇に倒してあるハシゴを使うことにした。
「お、誰かしんねーけど気が利くな」
倒してある梯子の傍らにはベンチも据え付けてあり、そこに軍手が置いてあるのが見えた。
なんせ土で汚れた年季の入った梯子だ、風呂に入った後で手を汚すのも気が引けたから、俺はその軍手も借りる事にした。
きしきしと、軋みを立てながら俺は梯子を登る。なんとなく、リーユンにそっと近づいて驚かせてやりたいとか思って。
そう考えると、気配を掻き消してくれる獣人共の大合唱も悪くない。
だが、
「……黎九郎……」
そっと屋根の上を覗いた時点で、俺の姿はリーユンの視線に捕われていた。
「あちゃ、バレてたか」
俺は思わず苦笑して頬を掻いた。
バレたのなら仕方ない。俺はそのまま屋根に登り、軍手を脱いで尻ポケットに突っ込んだ。
急という程でもないが、歩きやすいという程でもない屋根の傾斜。鱗の形をしたプレートを何枚も敷き詰めたそれは、この時間では分からないが、昼間には鮮やかな緋色を乗せている。
「なんで分かった?」
屋根のてっぺん、リーユンが腰掛けているその隣に腰をおろし、俺はそう問いかける。
「分かるよ……私、ツヴァイハーだから」
一見すると、いつもの無表情でリーユンがそう返してくる。
そんな彼女の横顔を見て、俺は急に胸が切なくなった。
満月を見詰める秀麗な顔。
月光に照らし出され、青白く映えるその貌が、どこか物憂げに見える。
「そっか。それなら仕方ねーな」
俺もまた満月を見上げながら、ただ一言そう返した。
「訊かないのね、私の事。……ツヴァイハーの事……」
「ん……まぁ、知りたくないって事ぁねーけどさ。俺からは訊かない。でも、話したい事があったら、俺で良ければいつでも聞くぜ?」
そう言って、再び視線をリーユンに向けたとき、俺は思わず目を丸くしてしまった。
そっと、俺の手にリーユンが掌を重ねてくる。
だが、そのまなじりから、月光を返して煌く大粒の珠がこぼれて落ちた。
「どうしよう……黎九郎……私……ツヴァイハーなんだよ……?」
俺の手を握り締めるリーユンの華奢な手。そこから、震えが伝わってくる。
「私……私は魔物の敵なの……お母さんの、ひいおじいちゃんの敵なんだよ……? なんで……? なんで私なの……?」
俺の手を握り締めたままで、リーユンはもう片方の手でメガネを外すと頬を拭った。
だが、拭っても拭っても、溢れる涙が止まらない。
たまらず、俺もリーユンの手を握り返す。
うまい言葉が見つからない。なんと言ってやればいいのか。俺に何が言えるのか。春菜先生に頼まれた事もある。それもあって、この屋根に登ってきたのだ。
だから俺は、無理矢理にでも口を開いた。的外れかもしれない。でも、何か言わずにはいられない。
「敵って……じゃあ、俺だけはお前の味方になってやるよ。色々世話になってるし。ちょっとした恩返しっつーか……いやまぁ、頼りねーかもしんねぇけど」
取り留めもないそんな言葉。言葉尻を捉えただけの、無意味な言葉の羅列。
でも、リーユンは頬を拭う手を止めて、俺の顔をじっと見据えた。
そして、困ったように眉根を寄せる。
「そんなのだめよ。……黎九郎まで、みんなの敵になっちゃう。せっかく、みんなと上手くやってるのに……」
「敵の敵は味方って言うよな? じゃあ、味方の味方は味方、でいんじゃね?」
ニッ、と笑って見せると、リーユンが目を丸くして唖然とした。
俺は続ける。
ツヴァイハーとしてのリーユンの苦しみは、俺には分からないことかも知れない。でも、だからって見過ごしてたら、きっと大事な何かが壊れる。そうなってからじゃ遅いんだ。
「じっちゃんが言ってたんだ。お互いが険悪でも、その間に誰か入ると、自然と笑いが出てくることもある、って。俺はリーユンと仲良くしたいし、春菜先生や学園長も好きだし、クラスの連中とも毎日楽しく過ごしたい。……まぁ、命懸けだけどな?」
「……黎九郎って……」
ふと、どこか恥ずかしげにリーユンが視線を外した。
「ん? 俺?」
「……たまに、優しいよね……」
「そうか? お前の方がいいヤツじゃん。今までずっと、回りの連中に気ぃ遣ってきたんだろ? 何かあったとき、巻き込まないようにわざと遠ざけてさ。スゲーと思うんだ、お前のそういうとこ。……俺だったらムリだな~、どうしてもシリアスになれねー男だから。笑いが無いとサビシイし」
性格というかなんというか、存在自体がギャグみたいな俺に対し、ずっと一人で悩みを抱え込んできたリーユン。彼女の精神的な強さには頭が下がる。
ふと、俺の顔を横目で一瞥して、リーユンが握っていた手を離した。
そして、その手を胸元に寄せて俯いてしまう。月光ではイマイチ良く分からないが、心なしか彼女の頬が紅く染まっているような気がした。
「わ……分かったように言わないで……私、別にそんな……」
否定しようとしてしきれていない。それは多分、俺の見立てに一定の真実があったからだろう。俺は、思わず可笑しくなって、
「ぷふっ……」
軽く吹き出してしまった。
「な、何……?」
俺の様子に、リーユンが面食らったような貌を見せる。
「女の子っぽいじゃん、お前。どうせだから、ついでに笑ってみねぇ? 春菜先生とか羅魅亜とか、女の子が笑うとさ、なんかいいな、って思うんだよ。だからきっと、お前の笑顔もいいだろうな、って思ってるんだ、俺」
そんな俺の言葉に、リーユンは暫し唖然としていた。
だが、不意に彼女のその貌が、不機嫌な色を載せていく。
「ど、どうせ……笑ったって、私なんか……お母さんや羅魅亜・ル=クレールみたいに可愛くないよ。黎九郎はお母さんみたいな人がいいんだよね? お母さん、胸もおっきいし。羅魅亜・ル=クレールだって……」
あれ? また俺、なんか地雷踏んだのか?
今度は、俺が唖然とする番だった。俺は慌てて言葉を繕うために口を開く。
「い、いや、お前だってなかなかの触り心地だったぞ? ……って、あ……」
うん、はい、どうやらその一言は、非常に余計な代物だったようで。
リーユンは胸元を両腕で隠すようにして、まなじりに涙を滲ませながら俺を睨んでいた。
「え~と、じゃなくって、その、なんだ……リーユン・エルフ!」
「はっ、はいっ?」
誤魔化すために高らかにリーユンの名前を呼ぶと、彼女は驚いて目を丸くした。
うん、いや悪くない。未だに笑顔は見てないけど、きっと、こんなにコロコロ表情を変えるリーユンを見てるのは、俺以外じゃ春菜先生くらいだろう。
そう思うと、クラスの連中に対して、ちょっと優越感を感じてみたり。
「俺は人類の生き残りで、お前も人類に創られたんなら、俺の親戚みたいなもんだろ。だから、今後ともよろしく」
俺は努めて大真面目な貌を作り、右手を差し伸べた。
俺の手を見据え、リーユンの視線が動く。
だが、結局リーユンがその手を握る事はなかった。
やべ、誤魔化したって悟られたかな……?
微かな焦りが俺の口元を引きつらせる。
「……黎九郎……キミ、どうして遺跡から出て来ちゃったの……?」
俺は、俯いたままで呟くように紡がれたリーユンのそんな言葉が、一瞬理解できなかった。
「いや、日光浴びてみたかったとか、外の空気吸ってみたかったとか、色々あるけど……つか、俺、もしかして歓迎されてない?」
この期に及んで、実は「オマエなんか、絶滅危惧動物として飼ってやってるだけなんだよ、チョーシん乗んな、バーカバーカ」なんて言われたら俺、確実に泣くな。
とか思った時、俺は、再び向けられたリーユンの顔を見て、思わず息を飲んだ。
涙こそ流れていない。でも、胸元を握り締める彼女のその顔は、大きな責め苦に必死で抗う者のそれとしか思えなかった。
「私……キミに逢わなきゃよかった……どうして? どうしてこんなに辛いの? キミと逢ってから、ずっとそうなの! クラスメイトの誰にも、こんな想いをしたことなんて、今までなかったのに……っ!」
「あ……いや、なんつーか、その……」
唖然とするばかりの俺は、どう対処していいのか思いつかない。
「羅魅亜と一緒にいるキミが嫌で! お母さんの話をするキミが嫌で! 箕面に殺されかかったキミが……私、あのとき怖かったよ! キミが死んじゃったらどうしようって……魔物と仲良くしてるキミに、私が魔物の敵対者だって知られたら、嫌われちゃうんじゃないかって……もう、分かんない……私、自分の気持ち……苦しいよ……」
胸の内を吐き出し、リーユンはまた俯いて泣き始めた。リーユンの顔の下――屋根の一部が、頬を伝い落ちる涙で色を濃くしていく。微かにしゃくりあげる声とともに、次々と涙の跡が屋根を彩る。
俺はただ当惑して、頬を掻いた。
「なぁリーユン……俺、お前にしてやれる事、なんかあるかな……?」
不器用とか、そんなこと以前の問題だ。俺には決定的に、女の子に対する対人経験が少ない。人として気持ちを推測することはできるけど、女の子の心理までは推し量れない。
でも、それでも泣き続けるリーユンをほっとくなんてできやしない。
嫌われるのが怖いなら、それは好きになって欲しいって事だろう? 好きでいて欲しいって事だろう? それが俺に対する友情なのか、恋心ってヤツなのかも良く分からない。
でも、俺がリーユンに抱く心のもやもやしたもの――その正体が解るのなら。
そしてそれが、リーユンが俺に抱く気持ちと同質のものであるなら。
俺達はきっと、これからもずっとうまくやっていける。そんな気がするから。
「じゃあ……もし私が……魔物の敵対者として覚醒したら……黎九郎……キミが……」
だが、俺の言葉に対するリーユンの返答は――
――私を殺して――
――そんな、悲壮な願いだった。
「……んだよ……なんだよお前……こんな時に……」
俺はリーユンの貌を見て、思わず眉根を寄せた。
そこに在るのは、俺が待ち望んでいたものだったから。
リーユンの満面が、微笑みで彩られている。思った通りに可愛らしい笑顔だ。
でも、その笑顔を『いいな』なんて、俺はどうしても思えなかった。だってそうだろう? この笑顔は、泣き顔と同じなんだ。
「そんな願いが……聞けるかよ……」
搾り出すようにそう呟いた時、唐突に、どこからともなく声が響いた。
「ならば、私がこの場で殺してやろう」
刹那、それまで周囲を遠慮がちに飛び回っていたコウモリたちが、何十何百と集まり、俺達の眼前に大きな黒い影を造った。それは見る間に人の形を作り上げ、
「アーウェル……ブルームフィールド……」
吸血貴公子として実体化していた。
「ご機嫌いかがかな? 穢れた人類の末裔と、それに創られし人形の姫よ」
言って、うやうやしく一礼する貴公子の所作が、俺は癇に障って仕方がない。
やるせない気持ちで苛立ち始めたところだったのが、コイツのせいでそれが一気に加速した。
「あー、ご機嫌最悪ッスよ、伯爵。人の話を盗み聞きたぁ、それが貴族の嗜みってヤツなんスか? 春菜先生が嫌うワケだ」
春菜先生が嫌うワケ――の辺りで、それまで嘲る気満々だったアーウェルの貌が、微妙に引きつった。
が、アーウェルは俺を無視し、次の瞬間、リーユンの首を鷲掴みにして高々と持ち上げた。
「ちょっ! マジで殺す気か!」
俺は慌てて立ち上がり、アーウェルの腕に取り縋る。
「リーユン! お前も黙って殺される気かよっ?」
まるで生きる事を諦めているかのように、リーユンは身じろぎ一つしないでいる。
俺はALSを発動させ、アーウェルの腕を引っ張った。
瞬間的ではあるが、およそ常人の十倍ほどの力を出したにも関わらず、しかしアーウェルの腕はびくともしない。
「かはっ……」
微かに咳き込み、リーユンの瞳孔が広がった。
ぞくり、と背筋が冷える。俺はその時改めて思ったのだ。リーユンを縛めるアーウェルの眼差し。そこには慈悲など一欠片も見当たらない。殺すことを躊躇わない生粋の殺人者とは、コイツみたいなヤツの事を言うのだろう。
吊り上げられたリーユンの華奢な身体。生命の危機に晒されているというのに、それでも彼女は少しも抗おうとはしない。
なんなんだよ……そこまで自分嫌うことねぇだろ……?
「くっそ! 放せコラ!」
俺はALSを発動させ、渾身の力でアーウェルの背中に回し蹴りを見舞った。が、
「うあっ?」
俺の足は、アーウェルの背中に届く前に、空いたもう片方の手に掴まれていた。
俺を逆さ吊りにして、アーウェルが溜息をつく。
「命を粗末にするな、愚か者め。ただの虫ケラだからこそ、戯れに生かしてやっているというのに、理解する頭が無いのか?」
「うるせぇ! 俺にとってリーユンは大切なヤツなんだよ! それに、春菜先生だってリーユンが大切なんだぞ! アンタ春菜先生の婚約者なんだろっ? わざわざ春菜先生悲しませたいのかよ!」
「この娘は春菜の過ちだ。私はこの娘の父親になぞなる気はないのでな。それに、私は春菜の婚約者である前に、ヴラド公よりこの世界を託された者だ。魔物を滅ぼすツヴァイハーには、消す以外の選択肢なぞない。だから黙って見ていろ。この娘と恋仲だというのなら、殺した後で恨んでくれても一向に構わんぞ」
「うっせぇ! 放せこの野郎!」
俺は逆さ吊りにされたままで、アーウェルの腕に蹴りを入れる。
だが、ALSの効果を加えた蹴りですら、コイツは顔色ひとつ変えやがらない。
そして、その傍らで、リーユンは着実に死に近付いている。
ちくしょう! 俺は、俺にできる事は!
俺は懸命に考えた。蹴りが通用しないなら、何か武器になるものは無いだろうかと両腕で全身を探る。が、見つけたのは、スラックスの尻ポケットに突っ込んだ軍手だけだった。
みしり……。
不意に、俺の耳はリーユンの首が軋む音を捉えた。
見ればリーユンは白目を剥き、鼻から血を流している。
あの時、ミノに吹っ飛ばされてさえも、目前に迫る『死』を、まるで他人事のように思っていた俺。それが、今は自分ではない、リーユンからリアルに伝わってくる。
「あっ……うわ……うわあああっ!」
俺は怖くなって、半ば無意識にそれをアーウェルの顔に投げつけた。
「……小僧、これがどういう意味か分かっているのか?」
それは、初めてアーウェルが俺と向き合った瞬間だったのかも知れない。
俺は、一瞬アーウェルの言葉の意味が分からなかった。だが、それでも即座に頷いた。今はただ、アーウェルの殺意が俺に向いてくれればいい。それだけを願って。
「ああ」
「決闘の日時は私が決める。逃げることは許さんぞ?」
「誰が逃げるか。だから、さっさとリーユンを放せよ……って、うおわっ?」
俺がそう言うかどうかのうちに、アーウェルの身体は無数のコウモリと化し、どこかへと飛び去って行った。
俺は猫のように身体を翻して着地すると、そのまま倒れ込みそうなリーユンの身体を支える。
「リーユン、おいリーユン、死ぬな、おい……」
痛々しく、首にくっきりと赤く残った手の跡。幸いながら頸骨はまだ粉砕されていなかったようで、手首で脈を測ると、弱々しいが、確かにリーユンの命を感じた。
俺はひとまず安堵して溜息をつくと、その直後にひどく怖くなってきた。
もし、あのままリーユンが殺されていたら。そう思うと、不覚にも視界が歪んでくる。
半ば無意識に、俺はリーユンの身体を抱き締めた。柔らかくて、温かい女の子の華奢な身体。この身体のどこに、魔物を倒せる力があるっていうんだ。
「ふざけんなリーユン。お前……魔物の世界に、俺をひとりぼっちにする気なのかよ……」
思わずそう呟いた自分の言葉に、俺は驚いた。
そうか……俺……本当は、心細かったんだ……。
春菜先生や学園長は親切で優しい。
羅魅亜もいいヤツだし、ミノやウメハラとふざけてるのは楽しい。
でも、それでも、俺はいつの間にか『同族』を持つアイツらを羨望の目で見ていたんだ。
俺だけを残して滅びてしまったかも知れない人類。いや、滅びたと見た方が現実的だろう。
だったら。
だったらせめて、人類に創られたというリーユンだけは、俺と一緒に生きていって欲しい。
今思えば、出逢った時から本能的に、リーユンから何かを感じていたのかも知れない。だからこそ、リーユンの傍は俺が落ち着ける場所だったのか。
なんて事だ。俺は、純粋にリーユンを助けたかったんじゃない。俺が寂しいから、リーユンが必要なんだ。
「はは……なんて利己的なヤツなんだ、俺って……」
自嘲気味に、そう呟いてみる。
でもだからって、自分に幻滅して生きるのをやめてしまうほど、俺は潔い人間じゃない。
俺はリーユンを抱えたまま立ち上がり、屋根伝いに歩き始めた。
ともかく春菜先生の所に連れて行って、リーユンの手当をしてもらう。そう考えたとき、ふと、俺は先生に頼まれていたことを思い出した。
「でも、また今度……かな。つか、今度があって本当に良かったけど……」
春菜先生の頼みとは、リーユンへの伝言だ。
その内容は、愛してる、という一言と、
リーユンは『先生がお腹を痛めて産んだ子』だという事。
「……って、あれ? なんか矛盾してね? それ……」
リーユンは人類に創られた存在。でも、産んだのは春菜先生。
先生、アンタどんな離れ業をやってのけたんスか……?
ここにきて、俺の中にまた一つ、大きな謎が生まれ落ちた。