第九話『真心込めて』
本当の心は、いつだって分からなくて____
__
学園内高等部普通科____
パラパラと小雨が降る今日。窓の外はなんだか灰色で、どこかすっきりとしない天気だ。それでも学園内は騒がしくて、待ちに待った昼休みに生徒達は声を弾ませている。
「廻君、お昼ご飯です!」
「うん、今行くよ」
そんな中僕も、いつも通り狼君達とご飯を食べるために、悠太君と共に食堂へ向かおうと席を立った。
悠太君とはあの一件以来、友達としての距離が縮まった気がしている。具体的にどこが変わったのかと言われるとそれは上手く言えないけど、お互いの接し方に遠慮が無くなったというか、他のクラスメイト達よりももっと特別な友達だと認識するようになった、みたいな。
隣でニコニコと楽しそうに話す悠太君と一緒に、ガヤガヤと騒がしい教室の扉を開けて廊下へと出る。忙しなく生徒達の行き交う廊下を進んでいると、後ろから僕の名前が聞こえた。
「____あ、いたいた廻!」
その声に振り返ると、僕を呼んだのは竜胆先生のようで早足に僕達の元へと駆けて来る。どうやら僕を探していたらしい竜胆先生は、僕を見付けると少し安心したような顔をした。
「竜胆先生……、何かあったんですか?」
「お昼休みにごめんね、ちょっと廻にお願いしたい事があってね」
「お願い、ですか?」
その言葉に、僕は首を傾げてみせる。ちらりと僕の隣を見た竜胆先生は、僕の隣にいる悠太君と軽く言葉を交わしている。そして僕に視線を戻すと、竜胆先生を見上げる僕に再度口を開いた。
「これからお昼ご飯のところ悪いんだけど、ちょっと付き合ってくれないかな」
そう言って竜胆先生は申し訳無さそうに僕達を見た。
「それは、大丈夫ですけど……」
「悠太も、ごめんね」
「いえいえ、大丈夫です!では廻君、狼君と弥子君には僕が伝えておきますね」
「うん、ありがとう」
ニコニコと笑顔で手を振る悠太君に、僕も一言お礼を告げて手を振った。悠太君の背中を見送った僕は、改めて竜胆先生に向き直った。反対側の廊下へとゆっくり歩き始めた竜胆先生に、僕も同じように着いて行く。
「急にごめんね。ちょっと廻に会わせたい子がいてね」
「会わせたい子……ですか?」
眉を下げた竜胆先生の耳に光る、長いピアスが揺れた。申し訳無さそうな顔をした竜胆先生は、どうやら僕に会わせたい人がいると言う。
「僕は普段、普通科の教師の他に臨時で心理学科の教師もしていてね。その心理学科の生徒で、廻に会って欲しい子がいるんだ」
「は、はあ……。それってどんな人、なんですか?」
問い掛けた僕に、竜胆先生は少し困ったように眉を下げて笑った。
「その子、廻と同じで最近編入して来たばかりの編入生なんだけど……。ただ、能力が上手く制御出来ていないのもあって、まだあんまり周りと馴染めていなくてね」
歩きながら語る竜胆先生の話によると、どうやらその人は僕と同じ編入生らしい。そしてその人は、能力が上手く制御出来なくて、まだあまり周りの生徒と馴染めていないみたいだった。
隣を歩く僕に、竜胆先生はふわりと笑いかけた。
「だから廻に、その子と仲良くなって欲しいんだ」
「え、っと………どうして僕、なんですか?」
お願いの内容よりも、それに選ばれたのがどうして僕だったのかが気になった。この広い学園には沢山生徒がいるはずなのに、どうして他学科の僕なんだろうか。
だって、もっと他に……
「僕なんかより、悠太君の方が話すの上手ですし……狼君とか弥子君の方が、その…友達が多いから良いと思うんですけど……」
ぼそぼそと、僕は竜胆先生に言う。確かに僕はこの学園に来てから友達が出来たけれど、それは周りに恵まれていたからであって僕の力ではない。だから初めて関わる人と仲良くするだなんて、正直僕には自信が無かったのだ。
背中を丸める僕とは反対に、竜胆先生はシャン背筋を伸ばして真っ直ぐに前を見た。
「廻はさ、いつだって正面から人と関わりにいくでしょ」
「え……」
静かにそう言った竜胆先生に、僕は顔を上げる。見上げた竜胆先生は真っ直ぐに前を見つめたままで、窓の外では相変わらず小さな雨粒が降り注いでいた。
「それはとても簡単なようで、実はとても難しい事なんだよ。人は臆病な生き物だからね、それがいつも僕達を嘘吐きにしてしまうんだ。だから回りくどく遠回りをして、嘘を付きながら人と関わろうとしてしまうんだよ」
竜胆先生の言っている事は少し難しくて、僕はただひたすら耳を傾けた。
「でも廻は、いつだって正面から不器用に関わりにいくでしょ。傷付くことを恐れないその姿勢が、君の周りにいる人間を変えてること、気付いてる?」
「えっ、……いや、えっと」
僕を見て悪戯に微笑んだ竜胆先生に、僕はあたふたと慌てることしか出来ない。だって、急にそんな事を言われるだなんて思わなかったんだから。
そんな僕の様子に、くすりと笑みを零した竜胆先生が雨の滴る窓を見つめる。
「廻と出会ってから、悠太はちゃんと自分自身の事を見るようになったし、狼と弥子なんて自分達から廻と関わりにいくようになった……。
君は気付いていないかもしれないけど、君のその嘘偽りの無い言葉は、確かに人を変えてるんだよ」
そう言った竜胆先生は、嬉しそうに目を細めて笑った。真っ直ぐに褒められた言葉に、思わず頬が熱くなる。
「まあ、相変わらず自己肯定感は低いみたいだけどね」
「ゔ……」
困った様に僕を見て笑った竜胆先生に、図星を付かれた僕は返す言葉もなかった。そうして再び前を向き直した竜胆先生が、静かに語りかけるように言う。
「あの子はとても優しい子なんだ。優しいから、制御出来ない自分の能力で傷付いてしまった……。人と関わるのが嫌なんじゃない、あの子はただ怖いだけなんだよ、人と関わるのが」
「……」
竜胆先生から聞くその人の気持ちが、僕には痛いほど理解出来る。だって僕も同じだったから。竜胆先生が僕を選んだのは、僕も同じ痛みを知っているからなんだろう。
「それでもあの子はこの学園を選んだんだ。だからあの子の心の扉、一緒に開いてやってよ廻」
そう言ってニカッと笑った竜胆先生の笑顔は、心からその人の幸せを願っているような笑顔だった。その人が学園を選んだ理由は、きっと僕と同じだ。
だったら、僕は____
「____はい。僕も仲良くなりたいです、その人と」
竜胆先生の瞳を力強く見つめると、先生は嬉しそうに目を細めて頷いた。
__
学園内保健診療所特別支援室__
「特別支援室……?」
竜胆先生に連れられてやって来たのは、保健診療所内にある特別支援室だった。
扉の前で首を傾げた僕に、竜胆先生が言う。
「その子、昼休みは此処で一人過ごしててね……。あまり周りの生徒と馴染めていないのもあって、昼休みの度に此処を訪れてるみたいなんだ」
「なるほど……」
確かに、周りと馴染めないでいる教室内は居心地が悪い。それが騒がしい昼休みともなると尚更だ。
コンコンと控えめにノックをした竜胆先生に、僕の体には緊張が走る。
元々僕は人と関わるのが得意ではない。この扉の先にいる人は、傷付いて心を閉ざしてしまった人だ。僕なんかで本当に大丈夫なのだろうか。
暫くしてもノックの音に返事が返ってくる事はなくて、竜胆先生は扉をゆっくりと開いて中へと進んだ。そんな先生の背中を追うようにして、僕も特別支援室へと入っていった。
扉を開けるとそこには細い通路があって、その奥にはテーブルが置かれた一室がちらりと見えている。人の気配がするそこに、おそらくその人はいるのだろう。慣れた足取りで一室へと辿り着いた竜胆先生は、中を覗き込むようにして顔を出した。
「お休み中にごめんね、ちょっといいかな」
「私、返事してないんですけど。勝手に入って来ないで下さい」
「居るならちゃんと返事してよ」
「大体、どうしてこの部屋には鍵が付いてないんですか」
ピンッと糸を張ったような、張り詰めた声が耳に届いた。想像していたよりもずっと刺々しかったその声は、明らかに竜胆先生に敵意を向けている。
っていうか、竜胆先生の会わせたい子って女の子だったの__!?
そんな彼女の声にはお構い無しに、竜胆先生は部屋の中へと足を踏み入れる。
「まあそんな事言わずにさ、今日は君に会わせたい子がいるんだ」
「……会わせたい子?」
竜胆先生の言葉に、彼女は少し声を顰めた。その声色だけで彼女が警戒しているのが分かる。
竜胆先生はちらりと僕を見ると、小さく手招きをした。その手に引かれるようにして、僕もそっと部屋の中へと入る。
「この子、回道 廻君。僕が担任を務める普通科の生徒で、君と同じ編入生だよ」
其処にいたのは高等部の制服を身に纏った女の子だった。少し癖のある小麦色の髪の毛を耳の後ろで二つに結び、ツンとしたつり目は僕と目が合うや否や警戒する様に僕を睨み付けた。
お行儀良くソファーに腰掛けている彼女は、読んでいた本を静かに閉じた。そしてスっと僕から目を逸らすと、耳を覆い隠すようにつけているヘッドホンに手を当てると、カチカチと何やらボタンを押した。
「……それで、私に何の用ですか?」
「えっ、と……」
「君に、廻と是非仲良くなってもらいたくてね」
「お断りします」
間髪入れずに言い放った彼女に、竜胆先生が「まあまあ、そんな事言わずにさ」と困ったように笑いかけた。思っていたよりもずっと歓迎されていない彼女の態度に、僕は額にたらりと冷や汗をかいた。
「二人共、絶対に仲良くなれるからさ。……それに笑子だって、独りぼっちがいいわけじゃないでしょ」
「別に、私は……」
竜胆先生の言葉に目を伏せた彼女は、どこか怯えているように見えた。そんな彼女を一目した竜胆先生は、トンッと僕の背中を押して彼女の前へと突き出すと。
「ま、話してみないと何にも分からないからさ、とりあえず二人でお昼ご飯でも食べなよ」
「えっ、ちょ、竜胆先生……!」
「廻は急に呼び出しちゃったからお昼ご飯買えなかったよね。はい、これ僕の奢り」
「皆には内緒ね」と、僕の声を無視して竜胆先生は購買で買ってきたであろうおにぎりやお茶の入った袋を僕に手渡した。確かにお昼ご飯は買えていなかったから有難いんだけど……。
「って、いやそうじゃなくて……!」
「それじゃあ僕もお昼ご飯食べてくるから。笑子もちゃんと自己紹介して、廻と二人で話してみなさい」
「ちょっと竜胆先生!」
僕の声を無視して「じゃあね」と、ひらりと手を振った竜胆先生は、無責任に僕達二人だけを置いて特別支援室を出て行ってしまった。
パタンと扉の閉まる音がすると、室内はしぃんと静まり返った。気まず過ぎる雰囲気の中、一言も喋らない彼女の方へとゆっくり振り向くと、彼女も僕を見ていたのか、ばちりと淡い水色の瞳と目が合った。でもその瞬間、逃げるように彼女は視線を逸らすと、何事も無かったかのようにテーブルの上にお弁当を広げ始めた。
「……別に、帰っていいわよ」
「え……」
「アンタ、竜胆先生に連れて来られたんでしょ。無理しなくていいわ」
「別に、無理なんかしてないよ…」
針を刺すような彼女の言葉は、誰からの侵入も拒んでいるようでチクチクとして痛かった。全くもって初対面の彼女と、どうすれば友達になれるのかと頭を悩ませる。
「えっと……その、…に、笑子ちゃん」
「は?」
「ご、ごめん……!」
彼女の名前を呼んで呼び掛けた瞬間、彼女は凄い速さで僕を睨み付けた。咄嗟に謝ると、彼女はお弁当を広げる手を止めて僕を見上げる。
「何で名前呼びなのよ」
「いや、君の苗字知らなくて……、竜胆先生がそう呼んでたから」
悪気は無かったんだと彼女に伝える為、僕は正直に言葉を紡いだ。僕がそう言うと、彼女は少し目を見開いた後、静かに僕から視線を逸らした。
やっぱり、いきなり馴れ馴れしく名前を呼んでしまった事で、気分を悪くさせてしまったのだろうか。再び訪れた沈黙に、僕は情けなくあたふたと一人焦っていた。
一人部屋の入口で慌てふためく僕に、彼女は小さく溜息をついた。
「とりあえず座れば?」
「え……」
「ずっとそんなとこで立ってられたら食べずらいのよ」
「あ……そうだよね、うん」
心なしか先程よりも刺々しさの無くなった彼女の声に、僕はおずおずと彼女とは向かい側のソファーに腰を下ろした。ちらりと正面に座る彼女を盗み見ると、向かい側に座った僕を気にする様子は無くお弁当を口に運んでいる。
これは、さっきの事怒ってない……んだよね……?
「あの……君の事、教えてくれないかな」
「別に無理に知ろうとしなくていいから」
僕も同じように竜胆先生から貰ったお昼ご飯に手をつける。おにぎりの袋を開けながら正面の彼女へと問い掛けるも、彼女は依然として見えない壁を隔て続けている。
「アンタ、竜胆先生に頼まれたから此処に来たんでしょ。頼まれたからって、無理してまで仲良くしようとしなくていいから」
彼女はそっと手を止めると、お弁当を見つめたまま俯いた。プチトマトに、ブロッコリー、ウインナーに卵焼き。全く色の変わらない彼女の表情が、色とりどりの色で溢れた彼女のお弁当とは正反対で、それが余計に彼女の顔を曇らせて見えた。
彼女が言うように、確かに僕は竜胆先生に頼まれて此処まで来た。けれど竜胆先生は、ちゃんと僕に選択肢をくれていた。例え僕があの時竜胆先生の頼みを断って今頃悠太君達とお昼ご飯を食べていても、何も言わなかっただろう。
____でも、僕は君に会いに来たんだ。
竜胆先生に頼まれたからじゃない、ちゃんと自分で選んだんだ。
「……さっきも言ったけど、僕、無理なんかしてないよ。
確かに僕は竜胆先生に頼まれて来たけど、それを断ることだって出来たよ。だから、無理に仲良くしようとなんてしてない……。僕はちゃんと自分の意思で君に会いに来たんだ。
僕が、その……笑子ちゃん、と…仲良くなりたいって、思ったんだ」
いつだって、人に真っ直ぐ自分の想いを伝えるのには勇気がいる。声だって震えるし、勝手に顔だって熱くなる。全然かっこよくなんてないけれど、それよりも悲しい誤解をされる方が僕は嫌だった。
頬の温度が上がったまま、目の前の彼女へとそう伝えれば、僕を見て大きく目を見開いている彼女。その顔は、戸惑いと不安で揺れているようで迷子の子供みたいだった。
「アンタの、声は……」
「ん……?」
震える唇で紡がれた声が上手く聞き取れなくて首を傾げると、彼女はハッとした顔をして「っ別に、何でもないわ」と誤魔化すように耳を覆ったヘッドホンを触った。またもやカチカチと何やらボタンを押すと、彼女は視線を横に逸らして。
「……心道 笑子。高等部心理学科の三年、先月学園に編入して来たの」
「へ…」
「っ何よ!アンタが教えてって言ったんじゃない!」
「ごっ、ごめん!びっくりして……つい」
突然、ぼそりと独り言を呟くように自己紹介をした笑子ちゃんに驚いて顔を見ると、ばちりと目が合った笑子ちゃんは頬を赤く染めて焦ったようにそう言った。
初めて変わったその表情が、少し僕に気を許してくれたように見えて何だか胸が熱くなった。眉間に皺を寄せて、頬を赤く染めながらパクリと卵焼きを口に運ぶ笑子ちゃんに、僕の頬は自然と緩んでいく。
「あ、えっと僕は__」
「廻でしょ、知ってるわよさっき聞いたから」
僕の声に被せるようにツンツンとした声で言った彼女は、当たり前のように僕の名前を呼んだ。思わず驚いた顔で笑子ちゃんを見ると、彼女は不服そうに僕をジトっと見た。
「何よ……。アンタだって私の事名前で呼んでるんだから、私がアンタの事名前で呼んだって良いでしょ」
「いや、そうじゃなくて……その、嬉しかった……、から…」
「っほんと、何なのよアンタ……」
僕の言葉にまた一段と頬の熱を上げて赤くした笑子ちゃんは、僕から目を逸らした。その表情はなんだか照れているように見えて。きっと、先程まで見ていた彼女の顔は、人に対して張り付けていた仮面の顔だったのだろう。笑子ちゃんは思っていたよりもずっと感情豊かな女の子だった。
照れたように頬を染める笑子ちゃんにつられて、僕もなんだか照れ臭くなってくる。そんな表情を誤魔化すように、僕は聞いた。
「っそういえば……、笑子ちゃんはどんな能力を持ってるの?」
その瞬間、ピシリと空気が固まった。
彼女の頬を赤く染めていた熱はすっと引き、目は大きく見開かれたまま固まっている。
____あ、間違えた。
直感でそう思った。これはきっと、笑子ちゃんにとって触れられたくない話題だった。現に先程までの少し和んだ空気が、ひび割れたように固まってしまっている。
そういえば、竜胆先生が彼女は自分の能力が制御出来ずに傷付いたって言ってた。そんな大事な事を、僕は言ってしまった後で気付いた。
「ご、ごめん……。何となく気になっただけで……、無理に聞こうとか思ってないから、その……気にしないで」
きゅっと口をきつく結んだまま、気まずそうに目を伏せてしまった笑子ちゃんに、僕の焦りは大きくなる。どうしよう、どうしよう、と慌てふためいていると、ふと彼女のつけているヘッドホンが目に入った。
そうだ……!
「っそのヘッドホン……!ずっと、着けてるよね……、何聴いてるの?」
笑子ちゃんのヘッドホンを指差して聞いてみると、彼女は顔を上げてヘッドホンに触れた。
「これは……」
不安げに目を細めた笑子ちゃんの手は少し震えていて、何かに怯えているように見えた。
もしかして、またしても僕は何か間違えた事を聞いてしまったのかとだらだらと冷や汗が流れる。
「っ笑子ちゃん、やっぱり今のも無しで__」
「聴いてみる……?」
やっぱり大丈夫だと伝えようと口を開いた僕に、笑子ちゃんは遮るように問い掛けた。その強張った顔は何かを決心しているみたいで、どこか不安げなままだった。
「え……っと、いいの?」
思ってもみなかった返答に、おずおずと彼女を見る。やはり不安げに瞳を揺らした笑子ちゃんは、それでも何かを決意したようにグッと口を引き締めた。
「アンタなら、大丈夫」
「そ、そうなの……?」
よく分からないけど、そう言った笑子ちゃんは震えた手でヘッドホンを耳から離すと、カチャリと音を立てて僕に手渡した。「ありがとう」と彼女の目を見てお礼を言えば、笑子ちゃんは少し目を見開いた後、ほっと息を吐いて酷く安堵した顔をする。
そんな笑子ちゃんの様子を不思議に思いつつも、僕はそっとヘッドホンを耳に当てる。
自然と流れ込むように耳に届いたのは____
「バラード……?」
ゆったりとした曲調に合わせて流れ込む綺麗な歌詞は、今も窓を打ち付ける雨のようにしっとりしていて、傷付いた誰かの心を慰めてくれるような、そんな歌だった。
想像していたのとは全く違う音に、僕は数回瞬きをする。
「なんか、意外……」
「意外?」
「笑子ちゃんは、もっとこう……ガヤガヤしたような曲を聴くと思ってた」
「は?どういう意味よそれ」
「あっ…違くて!何というかその……こういう落ち着いた曲より、明るくて眩しい曲を聴いてるイメージだったから…」
「何それ、意味分かんないんだけど」
ぴしゃりと言い放った笑子ちゃんは怪訝そうな顔をする。「うっ……」と、返す言葉も無く小さく唸り声を上げた時、なんだか笑子ちゃんの声が少し聞こえずらいような気がした。
「なんか耳が変な感じする……籠ってる、みたいな…?」
「ノイキャンにしてるからよ」
「ノイキャン?」
聞き慣れない単語に首を傾げると、笑子ちゃんは「はあ?アンタそんな事も知らないの?」と驚いたような顔をした。そして僕の耳に当てているヘッドホンを指差して。
「ノイズキャンセリング。周りの音とか騒音を出来るだけ小さくして、聞こえなくしてくれるのよ」
「へー!そんな機能があるんだ、凄いね!」
初めて体験するその機能に、僕は少しテンションが上がる。笑子ちゃんが説明してくれたように、確かに周りの音は少し聞こえにくくて、笑子ちゃんの声もなんだか聞き取りずらかった。
「でも、これだと声も聞こえずらくなっちゃうから、ちょっと不便だね」
「別に良いのよ、私はそれで」
「そうなの……?」
そう言った笑子ちゃんの顔が少し曇って見えたのは、僕の思い違いだろうか。
僕は耳から流れる音楽を切り離して笑子ちゃんへと返した。何はともあれ、笑子ちゃんの好きな音楽を知ることが出来て良かった。普段あまり音楽は聞かないから、なんだか新鮮で嬉しい気持ちになる。
「貸してくれてありがとう。笑子ちゃんの聴いてる歌が聴けて、なんか嬉しい」
素直に思った事を口にすれば、目の前の彼女はつり目を真ん丸にして驚いたような顔をする。そして一瞬、きらりと目を光らせたかと思うと、みるみるうちに顔を赤くして。
「なっ……に言ってんのよアンタ!ほんと、変なやつ……」
「ええ……」
どうして僕は変なやつ認定されたんだ。思った事しか口にしてないのに……。
よく分からないな、とペットボトルのお茶を口に含んで喉に流し込んだ。ゴクリと喉を鳴らせば、ご飯を食べてパサついていた喉が潤っていく。喉の通りが良くなっていくその感覚はとても気持ちが良い。
ペットボトルから唇を離してふーっと一息つくと、ずっと僕を見ていたのか、目の前の笑子ちゃんとぱちりと目が合った。
「ん?どうかしたの……?」
「な、何でもないわよ!変なやつ!」
「ええ……」
頬を真っ赤に染め上げた笑子ちゃんは、またもや僕を変なやつと言う。僕からしたら、笑子ちゃんの方が変なやつなんだけど……。
それに、
「なんか、顔赤いけど…どうしたの?」
「っ赤くなんて無いわよ!」
「……いや、赤いよ」
「だから赤くないわよ!!」
「…………笑子ちゃん、変だよ」
「っアンタにだけは言われたくないわ!」
「ええ……」
ギャーギャーと噛み付くように話す笑子ちゃんの顔はやっぱり真っ赤で、すっかり仮面の外れた笑子ちゃんの顔は初めて見た時よりも少し幼くて。
____可愛い
「はあ!!?アンタ何言ってんの!?」
「え…?僕、何も……」
突然大きな声を出して、真っ赤に染まった顔で僕を見た笑子ちゃんはふるふると唇を震わせた。そんな事を言われても僕は何も言っていないし、急にどうしたんだ。
ただただ戸惑う僕と、一人顔を赤くして焦っている笑子ちゃん。そんな笑子ちゃんの姿がなんだかとても面白くて。
「……ふっ、あははは!」
ぎゅっと目を閉じて、声を上げて僕は笑った。大きく開いた口からは絶えず笑い声が溢れる。
「なに、笑ってんのよ」
「ふふっ、笑子ちゃんが面白くてっ……つい。ずっと顔赤いし……ふはっ」
「はあ!?だから、赤くなんてなってないわよ!」
しかめっ面で、でもやっぱり頬を染めて怒ってくる笑子ちゃんに、またひとつ笑い声が溢れた。
さっきまでの気まずい雰囲気は何処へやら、僕達二人だけの部屋は一瞬で騒がしさに包まれた。
ひとしきり笑った後、呼吸を整えようと僕はまた一口お茶を飲む。そんな僕をやっぱり笑子ちゃんは見つめていて。
「……アンタみたいな人、初めて会った」
ポツリ、呟くように笑子ちゃんは言った。
「何か言った?」
「何でもないわ」
フイッと顔を背けて笑子ちゃんはいつの間に食べ終えたのか、お弁当の蓋を閉めた。そんな笑子ちゃんと同じように、僕も手元へと視線を移して食べ終えたものを袋につめる。
「…………僕も。笑子ちゃんみたいな人、初めてだよ」
「っ!」
バッという音と共に、勢い良く笑子ちゃんが顔を上げたのが分かる。僕のちょっとした悪戯心が、またもや口角を上げさせた。そっと顔を上げると、そこには想像した通りの真っ赤な顔で僕を見ている彼女が見えて。
「きっ、聞こえてたんじゃない……!」
「ごめん、笑子ちゃんがどんな反応するのか気になっちゃって……」
「アンタ馬鹿じゃないの!?」
「ぶっ」
「いてて……」と、突然投げつけられたティッシュ箱に僕は鼻を摩る。立ち上がった笑子ちゃんは僕にティッシュ箱を投げつけても尚、気が収まらないようだった。
「い、痛いよ笑子ちゃん……」
「知らないわよ!」
フンッと腕を組んだ笑子ちゃんは、言葉は強いものの本当に怒っているようではなさそうだ。そんな彼女の様子が面白くて、僕はまたひとつ小さな笑みを零した。
気まずさなんてどこにもなくて、寧ろ居心地の良さを覚えるこの空間は酷く心地が良い。どうすれば仲良くなれるのかなんて、そんなの考えなくても良かったみたいだ。
トクントクンと、心地良く心臓が跳ねる。じんわりと、染み渡るようにして心が温かくなる。
不思議だ。笑子ちゃんを見てると自然と頬が緩んでしまう。彼女と二人でいるこの空間は、酷く心地良い。
もっと話していたい。もっと知りたい。もっと、色んな顔が見てみたい。
初めて感じるこの感情は、一体何ていう名前なんだろう。
__
学園内高等部心理学科____
すっかり放課後になった廊下を、僕は少し息を切らして走っていた。HRが終わった後、口早に悠太君に別れを告げて僕は一人心理学科を訪れていた。一度訪れた事のあるこの心理学科で、三年生の教室を目指す。
ガラッと音を立てて扉を開けると、まだHRは終わったばかりのようで教室の中には生徒が沢山残っていた。そんな中、僕は扉のすぐ側にいた女子生徒に話しかける。
「っあの……、心道さん、まだ居ますか?」
「心道さん?」
僕の言葉に彼女は教室内をぐるりと見渡した。
そして____
「心道さーん!呼ばれてるよー!!」
「えっ、ちょっと!」
大きな声を教室中に響かせた彼女に、生徒達の視線は僕達の方へと突き刺さった。予想外の展開に一人焦っていると、チラチラと数人の生徒の視線が教室の窓際へと集まっているのに気付く。僕も同じようにそこに視線を向けると、そこには僕の方を見て心底驚いた顔をしている笑子ちゃんがいて。
僕が此処に来たことなのか、クラスメイトの視線を集めていることなのか、笑子ちゃんは恥ずかしそうに頬を赤らめると一目散に僕の方へと駆け寄って来る。
「っちょっと、アンタ何で此処に……!」
「いや、えっと……笑子ちゃんと一緒に帰れないかなって思って…」
「な、何で一緒に帰るのよ!」
「仲良くなりたくて……?」
「はあ!?」
僕よりも背の小さい笑子ちゃんは、僕を見上げるようにして下から文句を言う。そんな会話を笑子ちゃんとしていれば、何やらニヤニヤした顔をして先程の女子生徒が話しかけてくる。
「なになに心道さん。この人、心道さんの彼氏ぃ?」
「なっ……、ち、違うわよ!」
「わー心道さん顔あかーい!」
揶揄うように言う女子生徒に、笑子ちゃんは耳に着けたヘッドホンに触れる。女子生徒の言うように笑子ちゃんの顔は真っ赤で、それを必死に否定し続けている。そんな笑子ちゃんに、女子生徒はふっと優しい笑みを浮かべて。
「……心道さんってそんな顔もするんだね、初めて見た」
そう言った女子生徒に、笑子ちゃんはハッとしたような顔をする。女子生徒は優しく微笑んで僕達に手を振る。
「またじっくり話聞かせてよ。また明日ね、心道さん」
「……うん、また明日」
小さく控えめに手を振り返した笑子ちゃんは教室を後にした。僕も女子生徒に小さく頭を下げて、先を行く笑子ちゃんを追いかけた。
「待ってよ笑子ちゃん!」
少し駆け足で追い付くと、笑子ちゃんは静かに歩みを緩めた。
「急に来ないでよ、皆に見られたじゃない」
「ご、ごめん……」
突然訪れた事に、やっぱり怒っているのだろうか。目を伏せたまま話す笑子ちゃんに、僕は肩を小さくする。
「別に怒ってないわ。ただ、アンタの見た目は目立つから」
「あ……」
そう言われて僕は自然と髪の毛に触れた。この学園に来て、触れられる事も無くなったからすっかり忘れてた。少し摘んだ髪の毛は、白髪と黒髪が斑に混ざり合っていてとても歪だった。チラリと横目に見た窓に映る自分の目には、深く隈が影を作っていて他の人とは違う見た目。
摘んだ髪の毛を、くしゃりと握り締める。
ああ、やっぱり____
「ごめん……。気持ち悪いよね、こんなの」
なんて事ないように、誤魔化すようにして笑いながら言う。
そんな僕の言葉に、笑子ちゃんはぴたりと足を止めた。くるりと僕を振り向いた笑子ちゃんは不思議そうに首を傾げて。
「何言ってんの?私は目立つって言っただけで、気持ち悪いなんて言ってないわ」
「え……」
意味が分からないと言いたげに眉を顰めた笑子ちゃんが僕を見上げる。その顔は明らかに不満を滲ませていて、僕は目を丸くする。
「髪色が二色なだけじゃない。もっと派手な髪色の人なんて、この学園には沢山いるわ。隈だって、何も珍しい事じゃないし……。
確かにアンタの見た目は目立つけど、それが気持ち悪いなんて私は思った事ないわ」
息を飲んで目を見開くのは、今度は僕の番だった。
確かな強さを持って僕を見つめた水色の瞳は、僕なんかよりもずっと心強かった。目は口ほどに物を言うと言うが、それは本当だった。だって彼女の瞳を見れば、それが心からの言葉かなんて、すぐに分かったから。
トクンッと、またひとつ心臓が跳ねる。今まで感じたことの無いこの感覚は、一体何なのだろう。
「……ありがとう」
「意味が分からないわ。ほら行くわよ、一緒に帰るんでしょ」
「うん……!」
傘を手に持って外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。少しの湿気を含ませた風が肌を撫でる。空を見上げると、すっかり雨雲は流れてしまっていて、もう雨の降る心配は無さそうだった。
「雨、上がったね」
「そうね。……それで、これからどうするのよ」
同じように傘を手に持った笑子ちゃんが僕を見上げる。
「どうするって……帰る?」
「はぁ?帰るってこのまま寮に帰るつもりなの?」
「そ、そうだけど……」
僕がそう答えると、笑子ちゃんは驚いたような顔をする。
なんだろうその顔……。それってもしかして____
「__一緒に何処か行ってくれるの?」
僕の言葉に、笑子ちゃんの頬はたちまち体温を上げる。
そして、恥ずかしそうに顔を赤くすると。
「別にっ、雨も止んだし何処か行くのかと思っただけでっ……私は行かなくたって!」
「い、行く!僕も行きたい……!!」
食い気味で被せるようにしてそう答えると、笑子ちゃんは赤く頬を染めて恥ずかしそうな顔をする。きっと僕も、彼女と同じように赤い顔をしているんだろう。自分の顔なんて見なくても、ぶわぁっと熱を持つ頬がそれを表している。
人の多い放課後、真っ赤な顔をして向かい合う僕達はチラチラと視線を集めていた。その事に気付いた笑子ちゃんはグッと僕の手を引いて早足に歩き始める。
「じゃあ私行きたいところあるから、付き合って」
「う、うん……!」
僕よりも小さな手が、腕を掴んで僕を引っ張って行く。それに着いて行きながらも、視線は自然と僕の腕を掴む手を見ていて。
笑子ちゃんの手には何か不思議な力でもあるのだろうか。彼女が触れた腕から、じわじわと広がるように体温が上がっていく。
ぎゅっと、何かに掴まれたように心臓が痛い。でもその痛みは苦痛じゃなくて、苦しいのに何故か心地良かった。
__
東京都渋谷区某所____
喧騒の中を潜り抜けて其処へと辿り着けば、僕達は漸く息を吐くことが出来た。違う世界にやって来たかのように静かで、なんだか落ち着く紙の匂いが鼻を掠めていく。
笑子ちゃんに連れられてやって来たのは、騒がしいショッピングモールの中にある静かな本屋さんだった。
「僕、本屋さんって初めて来たかも……」
「確かにアンタは本なんか読みそうにないわね」
それは一体どういう意味なんだろう。淡々と話す彼女の様子からして、恐らくそれは褒め言葉じゃないんだろうな。
小説コーナーにくると、ずらりと並ぶ小さな本を笑子ちゃんはジッと見つめている。そういえばお昼休みに僕達が笑子ちゃんの元を訪ねた時も、彼女は小説を手に持っていた。きっと普段からよく好んで小説を読んでいるのだろう。吟味するように本棚を見つめる笑子ちゃんの視線は真剣そのものだ。
「それにしても、本屋さんってこんなに静かなんだね」
「当たり前でしょ。本は静かに読むものなんだから、そんな所で騒がれちゃたまったもんじゃないわ」
「たしかに」
僕には背を向けたまま、ずらりと並ぶ本を見つめながら笑子ちゃんは言う。スっと、時折背表紙に書かれた文字を読んでは手に取って粗筋に目を通している。
真剣に目を通すその表情は、初めて見た。
「笑子ちゃんってそんなに小説が好きなんだね、知らなかった」
僕がそう言うと、笑子ちゃんは小説から目を離してちらりと横目に僕を見る。
「小説というより、物語が好きなの。漫画でもアニメでも何だっていいわ。私は物語が見たいのよ」
物語が好きだと言った笑子ちゃんの言葉に、僕は目の前に並んである小説の中から、テキトーに目に付いた一冊を抜き取る。彼女を真似るように裏面の粗筋に目を通すと、どうやらこの小説は不治の病を患う少女と、そのクラスメイトの少年の二人が織り成す物語のようだった。
「物語を見ている時だけは、周りが見えなくなるから。非現実的な物語に触れていると、まるで私も何か特別な者になれたような気がして、その世界しか見えなくなるから……だから、物語が好きなのよ」
慈愛に満ちた笑子ちゃんの横顔に、僕はどうしてか名前も知らない綺麗な白い瞳を持った彼女を思い出した。
それは、「物語が好きだ」と言う笑子ちゃんの顔が、「言葉が好きだ」と僕に微笑んだ彼女の顔になんだか似ていたからなのかもしれない。
ぼーっと笑子ちゃんの横顔を見つめたまま立ち尽くしていると、笑子ちゃんは僕の手に持つ小説を覗き込んだ。
「別に物語の結末が幸せじゃなくてもいいわ。これだって、この女の子は閉ざした心を男の子に救ってもらって二人は晴れて恋人になれるけど、永遠に結ばれるわけじゃないもの。こういう系統の話は、必ずどちらかが死んで終わるの…………でも不思議よね、恋とか愛って何かを失えば失うほど、それが儚くて綺麗な物語に変わっていくんだもの」
人の声が殆ど聞こえない静かな本屋さんで、笑子ちゃんは静かに呟いた。その声は少し侘しさを孕んでいて、不思議な感じがした。
「死って、本来はマイナスで忌まれるものな筈なのに、どうして物語の上ではあんなにも綺麗なものみたいに描かれるのかしら」
確かに、死とは本来恐れるべきものだ。
それは僕達に人間にとって抗えないものであるからで、実際に体験して還ってきた者がいないから、未知なるものが恐ろしいからだ。
それなのに、物語で語られる死は酷く美しく描かれる。それは文豪から近代の作品に至るまでで。死に逝く人間の儚さや、その人間の生き様を丁寧に描き、まるで死とはこの世で最上級の美しさなのだとでも言うように、死に意味を持たせたがる。
それはまるで僕達に正解をうたっているようで、見ている此方までもが死に魅せられそうになる。現に作家には自殺をしている者も多く、それはやはり死に魅せられたからなのだろうか。
そう言った笑子ちゃんの声はどこか儚くて、今にも消えてしまいそうで。僕はそれが何だか怖くて、「笑子ちゃん、」と、目の前にいる彼女の名前を小さく呼んだ。
でもそれは僕の気の所為だったのか、僕を見上げた彼女にはさっきまでの儚さは無くて、少し口角を上げて僕が持っている小説を手に取った。
「これにするわ」
そう言った笑子ちゃんは、小説を手に背を向けて会計へと向かって行った。

__
本屋を出た僕達は、少しの休憩を兼ねてカフェでドリンクを飲みながら向かい合って座っていた。
夕方の店内は騒がしくて、僕達と同じく学校終わりの制服姿の学生が多く目に付いた。決して静かとは言えない店内は沢山の声で溢れ返っている。そんな店内で広めの席へと案内された僕達は、向かい合う形でそれぞれ腰を下ろした。
「僕、外でカフェに来るのなんて初めて……こんなに賑やかなんだね」
騒がしい店内でか細い声しか出せない僕の声は、ヘッドホンを付けたままの笑子ちゃんの耳にちゃんと届いているだろうか。
ズズッとストローを吸うと、冷たい飲み物が喉に流れ込んでくる。ちらりと見た笑子ちゃんは不愉快そうにヘッドホンを抑えていて。
「私もあまり来ないわ。こういう場所は煩いから好きじゃないし…」
「え゙、だっ大丈夫…?なんだか顔色も悪いし……、此処出ようか?」
本屋さんで見た時よりも、笑子ちゃんの顔色はずっと悪かった。なんだか辛そうに眉を顰めて、ヘッドホンを抑えている。
「平気よ、私が来たくて来たんだから」
「そ、そっか……無理、しないでね」
オロオロする僕に、笑子ちゃんは少し語気を強めてそう言った。そう言われると僕も頷くしかなくて、心配は胸の底へと押し込んだ。
ふぅーっと深く息を吐いた笑子ちゃんは、ヘッドホンから手を離して飲み物へと口を付ける。水分を取ったことで、心なしか少し笑子ちゃんの表情が和らいだ気がした。
「……今度、笑子ちゃんが持ってる小説、貸してくれないかな」
ぼそりと呟くように言うと、笑子ちゃんがキョトンとした顔で僕を見つめる。
「それは良いけど……どうしたのよ」
「いや、笑子ちゃんの話聞いてたら、なんか読んで見たくなっちゃって……。笑子ちゃんの好きなもの、僕も知りたいんだ」
思った事をそのまま言葉にして伝えると、みるみるうちに笑子ちゃんの頬は熱を持った。
「っアンタはどうしてそんな恥ずかしい事を平然と……!」
「?」
恥ずかしさを隠すかのように言う笑子ちゃんに、僕は意味が分からなくて首を傾げて見せる。僕は何か恥ずかしい事を言ってしまったのだろうか。思い返してみても、自分では全然心当たりがない。
「僕はただ、思った事を言っただけだよ」
笑子ちゃんの瞳が大きく見開かれる。水色の瞳が、またキラリと光ったような気がした。その顔はお昼休みに見た時のように、困惑と不安が滲んでいて。僕はどうして笑子ちゃんがそんな顔をするのか分からなかった。
ただ迷子の子供ような顔をする笑子ちゃんに、声をかけようとしたその時__
「にこちゃ__」
「____心道?」
聞き慣れない声が、僕達二人の空間を切り裂いた。
その声に振り返った笑子ちゃんは零れるほど大きく目を見開いた。僕も同じように視線を向けると、そこには制服を着た同い歳くらいの年齢の男女五人が、僕達のテーブルの横に立っていた。
「久しぶりじゃ〜ん。てか相変わらずヘッドホン着けてんだ」
テーブルに手を付いて、ズイっと身を乗り出した彼女達は少し甲高い声でケラケラと笑った。明るい茶色に染められて少し傷んだ髪の毛と着崩した制服からは、少しキツめの香水の匂いがしている。
笑子ちゃんの名前を呼んでいたし、彼女達とは知り合いなのだろうか。再びヘッドホンを抑えて俯く笑子ちゃんの様子からは、彼女達との関係があまり良いものの様には見えないけど。
それに、彼女達の周りにはぞわぞわと蠢く妖の塊がいて。それはC級程度の御役目にもならないようなもののようだけれど。C級が集まって塊になっているからか、その妖はとても嫌な感じがした。
ちらりと、笑子ちゃんを見ていた彼女達の視線が僕を捉える。僕を見ると、彼女達はにんまりと口角を上げて。
「え、何この人。心道の彼氏?」
「いつの間にか転校してったと思ったら彼氏作ってんじゃん」
「ち、違うわよ、その人は……」
「は?聞こえないんだけど。てか喋ってんだからそれ外しなよ」
「ちょっと、やめてっ……返して!」
無理矢理ヘッドホンを取り上げた彼女達三人は、酷く焦った顔をして返してと懇願する笑子ちゃんを見下しては顔を歪めて下品な笑い声を上げている。誰がどう見てもそれは悪意の塊で、彼女達の周りに蠢く妖の塊は一段とその色を濃くしていた。
彼女達のその悪意の籠った瞳を、僕は知っている。それはかつて僕にも向けられていたもので。だから分かる、彼女達と笑子ちゃんは友達なんかじゃない。
彼女達を止めようと立ち上がろうとした時、彼女達と一緒にいた彼等二人が僕の肩に手を回して隣に座ってきた。
「あー突然お邪魔しちゃってすんませんね、彼氏さん。あれふざけてるだけなんで、あんま気にしないでください」
「アイツら心道の友達で、俺らも心道が転校するまでは仲良くしてたんすよ」
仲良く……?
とても彼等が笑子ちゃんと仲良くしてたようには見えないし、怯えたような目をする笑子ちゃんと友達だったとは思えない。そんな見え透いた嘘を並べる彼等は、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。
「ね〜アンタって心道の彼氏?」
笑子ちゃんのヘッドホンを取り上げたままの彼女が、僕を見て問い掛ける。
「この子と付き合うの大変じゃない?ずっとヘッドホンなんか着けて気取っててさ〜、教室の隅で死んだ顔して本なんか読んでんの。誰が話しかけてもヘッドホン外さずに会話しようとしないからクラスで浮きまくってて……だからウチらがこうして教えてやってたの」
そう言って、彼女達は返してと手を伸ばす笑子ちゃんを突き飛ばしてヘッドホンを前に掲げる。悪意に満ち溢れた彼女達は、俯く笑子ちゃんを横目に見ては馬鹿にしたように鼻で笑って。
「マジで、なんでこんな子と付き合ってんの?ろくに会話も出来ないし、人と話してんのにずっとヘッドホン着けててさぁ……ほんとイラッとくる」
その言葉に、笑子ちゃんは耳を塞いで蹲った。よく見えないけれど、そのぎゅっと閉じた目はただひたすら苦しみに耐えているようで、僕の胸は握り潰されるように痛くなる。
「ちょっと……!」
「まーまー落ち着けって」
笑子ちゃんの元へと駆け寄ろうとした僕の動きを制すように、彼等二人は肩に回した腕を強めた。鈍く絞められる首に、僕は少し顔が歪む。
僕の向かい側では、笑子ちゃんを囲んだ彼女達が「またそれかよ」と笑子ちゃんを見下して鋭い目を向けている。
「つーか心道見る目無さすぎだろ、こんな陰気臭くて気持ち悪ぃヤツのどこがいいんだよ」
「陰気臭い者同士お似合いなんじゃね?」
「たしかに」と僕の横で彼等はゲラゲラと下品に僕達を笑う。その笑い声に、笑子ちゃんを嘲笑っていた彼女達の視線が再び僕へと向かって。
「え〜でも普通に顔は良くなぁい?」
「わかる〜!ちょっと可愛い系でさぁ」
「心道みたいなヤツには勿体無いよね」
ジロジロと僕の顔を見ては顔を歪めて笑い、怯えたように蹲った笑子ちゃんを馬鹿にしたように嘲笑った。そんな彼女達の様子に、僕の肩に手を回す彼等は面白くなさそうな顔をして、腕の力を強める。
「女ってこーゆー女々しいヤツ好きだよな」
「あーマジ意味わかんね……」
「っゔ」
不機嫌そうに眉を顰めた彼がテーブルの下で、周りからは見えないように僕の鳩尾を殴った。久しぶりに感じた鈍い痛みに咳込みそうなるが、僕はそれを飲み込んで代わりに小さな呻き声を上げる。
「なあ、オマエあんま調子乗んなよ……、な?」
念を押すように、彼等は肩に回した腕を強めて首を絞めた。
どうして彼等のような人達は、暴力を振るう事にこうも抵抗がないのだろうか。悪意を持って、平気で人を傷付けてくる彼等の事が僕には理解出来ない。
たらりと冷や汗を伝わせながら笑子ちゃんを見ると、蹲ったままの肩はカタカタと震えていて必死に耳を抑えている。そんな笑子ちゃんの様子が彼女達の逆鱗に触れたのか、彼女達は煩わしそうに笑子ちゃんの手を掴んだ。
「ほんっと……マジで腹立つんだけど。アンタみたいなヤツ生きてるとこ見るだけでイラッとすんだよ……ッ!」
パシッと、力任せに笑子ちゃんの手を耳から引き離した彼女の手を掴み上げた。彼女達はもちろん彼等も、簡単に拘束から逃れて立ち上がった僕を見て驚いた顔をしている。
狼君達のトレーニングに比べたら彼等の拘束を解くなんて最初から造作も無かったけれど、力で解決するものでは無いと我慢していた。
でも、目を見開いて僕を見る笑子ちゃんの瞳に滲むその涙を見た瞬間、もう僕は我慢出来なかった。
「なっ、何よアンタ!離し__」
「撤回してください」
自分でも驚く程低い声が出た。頭に血が上るっていうのはこんな感覚なのだろうか。怒りからなのか目が燃えるように熱くて、何かが爆発しそうだ。
「今の言葉、早く撤回してください」
僕を見た彼女達が青ざめた顔をする。僕はそんなに怖い顔をしているのだろうか。怒ったことなんて無いからよく分からない。
「僕は、笑子ちゃんがヘッドホン着けてても気にならないよ。笑子ちゃんにとって、それがどれだけ大切なものなのかなんて、見れば分かるから。だから、これ返してもらうね」
「なっ……!てかアンタ、その目……」
「……目?」
そう言われても、僕は自分の顔を見る事が出来ないから分からない。それに、今はそんな事なんかどうでも良くて。ちらりと涙を滲ませた瞳で僕を見上げる笑子ちゃんを見る。
「笑子ちゃんは……よく怒るし、すぐ顔赤くなるし、分からないなあって時も多いけど。でも、ちゃんと僕の目を見て話してくれるよ。小説の話なんかしてる時は、凄く真剣そうな顔したりして、大好きなのが伝わってくる……。
それに、笑子ちゃんって結構笑うんだよ」
僕を見て震える彼女の手からヘッドホンを取り返すと、涙を滲ませて僕を見上る笑子ちゃんの耳へとそっとかける。もうこれ以上、笑子ちゃんが汚い言葉を聞かなくてもいいように、耳を塞ぐように。
ほろりと笑子ちゃんの瞳から、耐え切れなくなった涙が零れ落ちる。僕はそれを優しく掬うように人差し指で拭って。
「……だから、早く撤回してくれないかな」
「ッ意味分かんないんだけど!ウチら何も間違った事言ってないし、全部ほんとの事じゃない!!」
怯えた顔をしても尚、自分達の発言を撤回しない彼女達に僕の頭はどんどん冷えきっていく。
そんな彼女達の様子に、僕の横にいた彼等が立ち上がる。僕の顔が見えていないのか、彼等二人はさっきまでと同じような調子で僕の肩を掴んでくる。
「いやオマエなに急にキレてんの」
「つーか早く手離せや、調子乗んなって言っただろうが」
やはり暴力を振るう事しか脳が無い彼等が、拳を振り上げたのが横目に見えた。スローモーションのようにゆっくり見える拳に、僕は呆れを含ませた溜め息を吐く。
そして僕の顔に向かって伸びるその拳を、片手で受け止めようとしたその時____
「なんか面白そうな事やってんじゃん回道、俺等も混ーぜて」
語尾にハートでも付きそうな程、愉しげな声が彼の拳を止めた。
聞き馴染みのある声に振り返ると、ニヤリと八重歯を覗かせて笑う狼君がいて、僕達の後ろの席から彼の首に腕を回して動きを制していた。
そんな狼君のいる席には他にも見た事のある顔が二つあって。
「え、狼君!?それに弥子君と悠太君まで……」
「やっほー回道、なんか面白そうな事になってるね」
「三人とも、どうして此処に……」
驚いて目を見開けば、悠太君が僕に向かって笑って。
「いやぁ〜廻君が何やら急いで走って行ったので気になっちゃって…………尾けちゃいました!」
全く悪びれる風のない悠太君は、お得意の眩しい笑顔を僕に見せる。困惑して弥子君を見るも、彼は白々しい笑みを貼り付けるだけで。この三人なら容易く想像出来るその行為に、僕は気を張っていた力を緩めた。
「ちょッオマエ、離せよ……ッ」
「あーわりぃ、加減ミスったわ」
後ろから首に腕を回されていた彼は、締め付ける力が強かったのか苦しそうな声を出した。その声に、全く悪いと思って無さそうな狼君がパッと腕を離すと、彼は勢い良く咳き込んだ。
狼君達はぞろぞろと僕達の席へとやって来ると、僕の隣に立つ彼等二人をペッと席から引っ張り出す。そして狼君達は僕の隣に立つと。
「で、お前等何してんの?」
ざわざわと、店内が一気に騒がしくなる。それもそのはず、僕達は揉めていた事で多少なりとも視線を集めていたのに、そこにこのとにかく見た目の目立つ狼君と弥子君が来た事で一気に店内中の視線を集めてしまっていた。
「わ、あの黒髪の人めっちゃ背高ーい!」
「いや銀髪の方でしょ!スタイル良いしかっこよくない!?」
「あれ何処の制服なんだろ、見た事ないよね」
「連絡先教えてくれないかな」
ヒソヒソと、でも興奮したような女の子達の声が聞こえる。当の本人等は全く持って気にする様子はないけど、それ程までに二人の見た目はとにかく視線を集めるのだ。
狼君達に怖気付いたのか、店内の視線を集めている事に焦っているのか分からないけど、先程までとは違って彼等は額に冷や汗を浮かべている。
「いや、俺達心道の友達で……久しぶりに会ったから話してただけっすよ」
「へぇ……でも、君達が彼女の友達には見えないけどなぁ」
顎に手を当てて妖艶な笑みを浮かべる弥子君に、彼等二人は頬をヒクつかせる。そんな弥子君達を見た彼女達三人は、先程までの意地の悪そうな顔から、頬を染めて女のような顔をして。
「あっあの、二人は心道の友達なんですか?ウチら心道の元同級生で……良かったら連絡先とか__」
「あー悪ぃけど、俺等恋愛対象女なんだわ」
「え……?」
上目遣いで話し掛けた彼女を、狼君は酷く冷たい笑みで見下ろした。そんな狼君に、彼女は困惑した表情を浮かべる。
「分かんねぇ?お前等みたいな低スペック、興味ねぇつってんだけど」
「はあ!?」
顔を真っ赤にして怒りを露わにする彼女達。そんな彼女達を、狼君は艶然な笑みで見下ろすと。
「____さっさと消えろや、雑魚が」
その一言に真っ赤な顔をした彼女は、プライドを踏み躙られたような顔をして手を振りかぶった。
流石に狼君も女の子に手をあげる事はしないだろうけど、まずい!と僕が止めにかかろうとすると、それよりも先に、弥子君がその長い黒髪を靡かせてその彼女の手を止めた。
「プライド傷付けちゃったみたいでごめんね」
「なっ……」
「でも俺達、誰でも良いわけじゃないからさ……普通に考えて、君達みたいなのが俺達と釣り合うわけなくない?」
当然でしょ、とでも言いたげに優しく微笑んだ弥子君に彼女達の怒りは最高潮に達したようで、怒りに滲んだ顔で弥子君を睨み付けた。
そして彼女が何か言い返そうと口を開きかけた時、弥子君はスっと手の甲を使って彼女の横に流れる髪を掬う。そのどこか色っぽい仕草に彼女の顔が一瞬女の顔に戻る、その時___
ゾワッと、彼女の髪が僅かに揺れて、みるみるうちに彼女の顔に言いようのない恐怖に滲んでいったのが分かった。普通の人には何が起こったのか分からないだろうけど、僕には見えていた。
あの瞬間、弥子君は彼女の髪に触れるように見せかけて、盾の能力を使って彼女の背後に蠢く妖を存在ごと消し去ったのだ。どうやって祓ったのかは詳しく分からないけれど、とにかく器用な弥子君の事だ。きっと盾を守る為だけじゃなくて、祓うためにも使える術を持っているのだろう。
「っおい、何してんだよオマエら!」
怯えた目で黙りこくってしまった彼女にただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。狼君達の後ろに立つ彼等二人が狼君達へと言葉を投げかけた。
その声に狼君と弥子君はゆっくりと振り返った。狼君は冷たい目で黙って彼等を見下ろす。その態度に腹を立てた彼は、舌打ちを零して先程と同じように狼君に向かって大きく腕を振り上げた。
「ナメてんのかてめ____ッ」
ヒュッと風を切る音と共に、狼君の拳が彼の頬を掠めた。その勢いに彼の髪が靡くと、肩にべったりと憑いていた妖が跡形も無く消し飛んだ。
狼君の動きを目で追う事も出来なかった彼がたらりと冷や汗を流すと、狼君はその赤い瞳を揺らめかせて妖しげに口角を上げた。
「あーあ、間違えて祓っちまったわ」
艶めかしい笑みを浮かべた狼君に、彼等は一気に青ざめた表情になる。狼君がそっと拳を引くと、彼等は途端に素早く動き始めて。
「クソっ何なんだよオマエら!」
「気持ち悪いんだよ!」
「アンタらみたいなのこっちから願い下げだし!!」
「やっぱ心道に関わると碌なことないわ」
「マジ萎えるし、行こ」
バタバタと、五人はそれぞれ捨て台詞を吐きながら早足に店を去って行く。最後にあんな捨て台詞までわざわざ吐いていく辺り、彼等の人間性がよく分かる。
「おー蜘蛛の子散らしたみてぇに出てったわ」
「まったく……狼は正直に言い過ぎなんだよ」
「いや弥子君もめちゃくちゃ酷い事言ってましたよ」
逃げる様に出て行った彼等を見つめて、三人はそれぞれに口にする。あっという間に彼等を撃退して見せた狼君達に、僕はぽかーんとした顔をしてしまう。
「やっぱり二人共強過ぎて僕の出るとこなかったですね」
「俺達何にもしてないけどね」
「みんな全然僕の事見てなかったですよ……」
「そうかぁ?別にいんじゃね」
「良くないですよ!僕もモテたいんです!!」
「別に俺達モテてないでしょ」
ケラケラといつもの調子で笑い合う三人に、僕はハッと笑子ちゃんを振り返る。振り返った笑子ちゃんは、ぎゅっと膝の上で拳を握って俯いていてその顔は見えない。
「笑子ちゃん、大丈夫?」
「……」
僕の問いかけに答える事はなく、ただ小さく俯いている。そんな僕達をちらりと横目に見た弥子君が静かに店内を見渡した。
「ちょっと目立っちゃったね」
その言葉に僕も店内を見渡すと、何事だとでも言うように店内にいる人々の視線が此方を向いていた。こんな状況じゃ、笑子ちゃんも居た堪れないだろう。
僕はぎゅっと握り締めたままの笑子ちゃんの手をそっと掴んだ。
「帰ろう、笑子ちゃん」
やはり笑子ちゃんが返事をする事はなかったけど、掴んだ手が振り払われる事はなかった。
__
「あー、まじ祓うんじゃなかったわ」
「祓うのは良い事ですよ」
「そうそう、どうせまたすぐ生み出すんだからさ」
「そういう問題でもないですね」
ガヤガヤと言い合う三人の後ろを、僕は笑子ちゃんの手を引いて歩く。なんて声をかけていいのか分からなかったのもあるし、無理に話しかけるべきじゃないとも思ったから、僕はただ手を繋いで歩いた。
「二人はモテモテでいいですね、僕もモテたいです」
「仲平も可愛いじゃねぇか」
「狼は歳下で可愛い子が好きだもんね」
「え!?そうなんですか狼君!」
「違ぇよ、どっから持ってきたんだよそれ」
前を歩く狼君達は時折僕達を気にかけるようにちらりと見て、でも何も言わずに三人で話すから、きっと僕達に気を遣って普段通りの空気感を作ってくれているんだろう。
下を見ると地面には僅かな水溜りが出来ていて、泥が混ざって少し濁った水は、まるで今の僕の心を映し出しているみたいだった。
「…………人の声を聴くのが、怖いの」
ポツリと、下を向いたまま言った笑子ちゃんの声に僕は小さく目を見開く。そのか弱い声を聞き逃さないように、僕はただ耳を傾けた。
「……うん」
「私には、人の声が二つ重なって聴こえるから……だから、ヘッドホンがないと駄目なの」
「うん」
「…………私の異能力は「読心」。声を出した相手の本心が聴こえるの___」
__
いつからそうだったのかは分らない。でも、小学生に上がる頃には、もう聴こえていたと思う。
ごく普通の家庭で育った。私に聴こえる声は周りの人には聴こえていないようで、変わった子だとよく言われた。私からすれば、聴こえないみんなの方が変わっていたけれど。
それでも特に不自由な事はなくて、寧ろ自分にだけ聴こえるその声に、私は特別な存在なんだと優越感すらあった。
「ねーねーお父さん、どうしていつも嘘ついてるの?」
出張が多かったお父さんはいつも嘘をついていたから、ただ純粋に気になっただけだった。
「……嘘って何の嘘だい?また声が二つ聴こえる話かな」
この頃の私は自分に聴こえる声が何なのか分かっていなくて、両親にはよく声が二つ聴こえるんだと話していた。そんな私に両親は嫌な顔する事なく笑って聞いてくれていたけれど、最近はその話を嫌がるような声も聴こえていた。
「違うよ、お父さんが出張行くのに嘘ついてる話だよ」
その時のお父さんの顔を、良く覚えている。
「お父さんがいつも会ってる女の人は誰なの?」
だって今まで見た事ないほど、嫌悪を滲ませた顔で私を見ていたから。
それから壊れていくのはあっという間だった。
その話を聞いていたお母さんに強く肩を掴まれて、私は聞かれた事に全て嘘偽り無く聴こえた全てを話した。
お母さんじゃない女の人の名前、見た目、住んでいるところ、二人がこれから何処に向かうのかも全部。
ただ聴こえてきた事を言っただけだったの。壊すつもりなんてなかったの。
毎日、毎日、口論する両親。耳を塞いでも聴こえてくる罵倒。聴きたくなくて、必死に耳を塞いでたのを覚えてる。
そんな両親が行き着く結末は、勿論離婚だった。お父さんは家を出て行くその日まで、私を憎しみの目で睨み付けた。私はお母さんと二人で暮らすようになったけれど、そこにかつてのお母さんの姿はなかった。
幼心にそんなお母さんを慰めたくて、手を掴んだ。穢らわしいものにでも触られたかのように振り払われた手が、酷く痛んだ。
「アンタさえいなければ良かったのに」
たった一つだけしか聴こえてこなかったお母さんの声に、私は漸く理解した。
私にだけ聴こえるその声は、その人の本当の心だった。
__
「……それからヘッドホンを買って耳を塞ぐようにしたの。周りの人とも極力関わらないようにして、人の声をとにかく聞かないように避け続けた」
自分の事じゃないのに、僕の胸はじくりと痛んだ。
「でも高校に入ってからすぐあの人達に目をつけられて、ヘッドホン取られるし人混みに連れて行かれるし散々だったわ」
なんて事無いように話そうとしているのが伝わってくる。それでもその声は少し震えていて、僕はそれが痛くて仕方なかった。
「そんな時竜胆先生に会って学園に編入する事になったけど……やっぱり人の声を聴くのが怖くて上手く関われなかった。そんな人達ばかりじゃないって、分かってるのに……」
____ああ、僕と同じだ。
人と関わるのが怖くて、自分の殻に閉じこもっていた時の僕と。
長年植え付けられたトラウマや恐怖はなかなか消えてはくれなくて、いつだって僕達の邪魔をする。
「みんな声が聴こえる私を嫌うから……当然よね、人が奥底に隠してる事、全部分かっちゃうんだもの。でも自分じゃどうしようもないの、私だって聴きたくて聴いてる訳じゃないのに……私だって、みんなみたいに普通になりたいのに……。
私っ……もう、誰にも嫌われたくない……っ」
酷く小さな声だったけれど、涙声で震えた笑子ちゃんの声は、しっかりと僕の耳に届いた。僕には笑子ちゃんのような能力はないけれど、それは確かに心の奥底に隠していた笑子ちゃんの本当の心だった。
歩いていた足を、ぴたりと止める。僕が止まれば自ずと笑子ちゃんの足も止まって、涙で滲んだ瞳が僕を見上げた。
僕は繋いだ手はそのままに、真っ直ぐに笑子ちゃんの目を見て息を吸った。
「___僕、笑子ちゃんが好きだよ」
涙を滲ませた瞳が大きく見開かれて、その衝撃でポロリと一粒頬を伝った。
「確かに最初は少し怖いなって思ったけど、話してみると全然そんな事なくて。好きなものの話沢山話してくれるし、よく怒るけどすぐ顔赤くするところとか可愛いなあって思う。
……それと、嬉しかったんだ。笑子ちゃんが僕の見た目、気持ち悪いって思った事が無いって言ってくれたの」
ほろほろと涙を伝わす笑子ちゃんの頬に、そっと指を滑らせる。笑子ちゃんの涙が僕の指を伝って、流れ落ちていく。
ああ、ほら___
「……ほら、やっぱり普通の女の子だよ、笑子ちゃんは」
少し目元を赤くして涙を流す笑子ちゃんは、やっぱり普通の女の子だ。
「恥ずかしがり屋ですぐ赤くなって、よく怒るけど本当は凄く優しい……」
耐えるようにきゅっと唇を結んで、頬を赤らめて静かに涙を流す笑子ちゃんに僕は目を細める。
僕はそんな笑子ちゃんが___
「そんな可愛くて普通の女の子の笑子ちゃんが、僕は好きだよ」
雨の上がった空とは反対に、笑子ちゃんの目からは大粒の雨が流れ落ちた。それは僕の指を伝ってはどんどん流れ落ちていって、笑子ちゃんがずっと耐えていたものを綺麗に洗い流していくみたいだった。
「……嬉しかった。アンタが私を庇って怒ってくれたの、凄く嬉しかったの」
笑子ちゃんが僕の瞳を真っ直ぐに見上げて言葉を紡ぐ。
あの時、物語が好きだと言った笑子ちゃんが見ていた小説は、どれも救われる物語だった。きっと、物語の世界に逃げていた笑子ちゃんは、本当はいつだって救われたかったんだと思う。
ずっと耳を塞いで泣いている自分を、見つけてくれる誰かを____
「アンタの声は、いつも一つしか聴こえないから……。アンタの声は聴いてても痛くなくて、こんな人初めて出会った」
本当の心は、いつだって分からなくて____
「私、アンタと……廻と一緒にいたい……っ」
声に出して初めて、本当になるの___
「……うん。僕も、笑子ちゃんと一緒にいたい。一緒に変わっていこうよ。誰かと一緒なら、絶対出来るから。
だから笑子ちゃん、僕と友達になってよ____」
笑子ちゃんは、物語の結末は幸せじゃなくても良いと言った。けれど本当は、いつも幸せを願っているのではないだろうか。
たとえそうじゃなくたって、僕は笑子ちゃんにずっと笑っててほしいから、もう泣いている顔は見たくないから。
笑子ちゃんがもう独りで泣かなくてもいいように、僕は君の物語を幸せにしたいんだ__
雲の隙間からオレンジ色の光が差し込んで、僕達の足元を照らした。僕と笑子ちゃんの繋がった手に当たると、そこがじんわりと熱を持つ。
嘘偽りのない僕の本当の心に、笑子ちゃんは濡れた頬を緩めて、ふんわりと優しく微笑んで見せた。
「しょうがないからなってあげるわ、友達」
その言葉はいつも通りの笑子ちゃんの言葉で、僕は小さな笑みが零れ落ちた。
「___で、二人はいつまで手繋いでるの?」
のしっと肩が重くなって、聞き覚えのある声が僕達二人の空間を切り裂いた。反射的に僕達はバッと手を離すと、離れた手に少しの寂しさを感じた。
「や、弥子君……いつから……」
「「僕、笑子ちゃんが好きだよ」、の辺りかな」
一番恥ずかしいところから聞かれている……!!
「回道いつの間に彼女出来てたの?言ってよー」
と、ニヤニヤと揶揄うように僕達を見る弥子君は楽しそうだ。それもそのはず、そこから聞いているという事は僕達がさっき友達になったばかりだという事も知っているからだ。つまり、胡散臭い笑みを浮かべる弥子君は、僕達がそんな関係じゃない事なんかちゃんと分かって揶揄っているのだ。
それでも頬が勝手に熱を持つのは仕方がないと思う。
「そっそんな関係じゃないよ……!もう、分かってるでしょ弥子君」
「それにしても、回道があんなにロマンチックな事言うなんて……」
「ちょっ!違うよ弥子君!!」
揶揄うように笑う弥子君に頬がどんどん熱くなってくる。だって、僕は女の子と碌に関わった事がないんだ。自分の発言を思い出すだけで、恥ずかしさで死にそうになる。ちらりと笑子ちゃんの方を見ると、彼女も僕と同じくらい恥ずかしそうに頬を赤らめていて。
「廻君、ずるいですよ!」
「ゆ、悠太君まで……!」
ぬっと弥子君の横から現れた悠太君が羨ましそうにそう言うから、僕は否定するだけでいっぱいいっぱいだ。必死に悠太君に弁明する僕に、ケラケラとそれを見て笑う狼君と弥子君。
「……ふはっ」
小さく吹き出す声が聞こえて振り向く。振り向くと、口を覆って笑っている笑子ちゃんがいて。
「アンタの友達は、やっぱり変わった人達ばかりなのね」
そう言って、ずっと守るように着けていたヘッドホンを耳から外した。その手はもう少しも震えてはいなくて、ただ可笑しそうに首にヘッドホンをかけた笑子ちゃんが笑っている。
そんな笑子ちゃんの笑顔に、また一つトクンッと胸が高鳴る。
「笑子ちゃん、でしたよね。ズバリ廻君とはどこまでいったんですか!」
「っだからそんな関係じゃないわよ!話聞け!!!」
「ぉごっ」
メゴッと聞いたことのない音をさせながら、笑子ちゃんは悠太君の鳩尾にパンチをお見舞いした。そんな笑子ちゃんの顔は真っ赤で、誰が見ても照れているのが分かる。
「やば、お前フィジカル系の能力?」
「は?アンタと一緒にしないでくれる」
「そうだよ狼、女の子にそんな事言ったら失礼でしょ」
「…アンタは嘘ばっかりね。全てが胡散臭いわ」
「…………ん?」
長年彼女を縛り付けていた呪いが解けたかのように、ヘッドホンを外したまま狼君達と話す笑子ちゃんはとても楽しそうに見える。
その姿は、やっぱりどこからどう見ても、みんなと変わらない普通の女の子で。
「何してんのよ廻、一緒に帰るんでしょ」
「あっ、うん……!」
振り返って僕の名前を呼ぶ声に、僕は笑子ちゃんの元へと走った。ちらりと隣を歩く笑子ちゃんを見ると、もうその顔に曇りはなくて凛とした顔をしている。それでも、先程まで泣いていた目は少し赤くて。
「……泣き止んだ?」
彼女だけに聴こえるようにそう言うと、笑子ちゃんはやはり頬を赤らめて僕を睨み付けた。
「別に泣いてないわよ!!!」
僕はそれがやっぱり可笑しくて、声を上げて笑った。素直に感情が表情に出る笑子ちゃんが、僕はやっぱり可愛いと思った。
「……………………ありがと」
「何か言った?」
「別にっ何でもないわ!」
「そう……?」
ポツリと呟いた笑子ちゃんにそう問い掛けると、笑子ちゃんはフイっとそっぽを向いた。
彼女の二つに結んだ癖毛が揺れる。赤くなった耳が見えれば、何でか僕まで恥ずかしくなって。
「…………どういたしまして」
「っ」
バッと僕を見て顔を真っ赤にする笑子ちゃんは、恥ずかしそうにわなわなと口を動かしている。そんな笑子ちゃんに、僕は悪戯な笑顔を浮かべて笑った。
「やっぱり、聞こえてたんじゃない……っ」
雲から差し込むオレンジ色の光が、僕達の帰り道を照らしてくれているみたいだ。
水溜りに、笑う僕達が反射する。オレンジ色の光がそれを色付ければ、僕達はたちまち一枚の絵画みたいになる。
嘘ばかりのこの世界で、僕達はいつだって本当の心が知りたくて
だから僕達は、それを声に出して本当にするんだろう
「帰ろう、笑子ちゃん___」
ほら、学園はもうすぐそこだ____
第九話『真心込めて』-完-




