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86の約束  作者: 仙道 神明


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Lap 25「限界の、その先へ」

 他のマシンが次々とレインタイヤでピットアウトしていく中、ドライタイヤのまま悟のLEXUS RC F GT3は、リアを小さく滑らせながらコースへと飛び出していった。


 その姿に、呆然と見送る早矢。


「え……ドライのまま?」


 古川が横で静かに言った。


「悟の希望だ。……今から目を離すな。しっかりと、悟の走りを見るんだ」


 小粒の雨がウィンドウを叩く。路面はじわじわと濡れ始め、グリップが不安定になる難しい状況──だが、悟の手には迷いがなかった。


「……いいぞ、もっとだ……!」


 ステアリングを握る指に力がこもる。マシンはコーナーごとにリアをわずかに流しながらも、滑る寸前でグリップを取り戻す。


 まるで限界の淵をなぞるような走り。


「調子が……いい。こんな感触……初めてだ」


 ヘルメットの奥で、悟は自分でも驚くほど冷静だった。反射神経の衰えも、集中力の乱れもない。むしろ、すべての感覚が研ぎ澄まされていく。


一方その頃、ピットでは──


 先ほど早矢のマシンに接触したGT500ドライバーが、深々と頭を下げていた。


「……申し訳ありませんでした。本当に、僕のミスです」


 その顔は若く、悔しさと恐縮が入り混じった表情。


 古川が一歩前に出かけたその時、早矢が静かに立ち塞がるように前へ出た。


「気にしないでください。……避けるのが下手だった私にも非がありますから」


 その言葉に、500ドライバーは目を見開いたまま、しばし言葉を失った。だがすぐに、少し照れたように口を開く。


「……でも、それにしても……悟さん、このコンディションで……鬼の走りですね。すごすぎますよ、マジで……」


 何かに取り憑かれたような走りだった。滑る路面をも恐れず、悟は攻めた。誰よりも深くブレーキを残し、誰よりも早くアクセルを踏んだ。


 タイヤが悲鳴を上げ、マシンが吠える──

それでも悟は前へ出た。いや、前へ出ようとしていた。


「……まだだ。まだトップになってねぇ……!」


 目の前には、今やトップのマシンがはっきりと見えている。周回遅れの処理も完璧だった。

気づけばモニターに「Fastest Lap」の表示。


実況ブースからは驚嘆の声。


「まさに鬼神の走り!!」


ピット全体がどよめくなか──


 その画面を見つめていた早矢の唇が、かすかに震えた。


「……すごい……」


 思わず漏れた感嘆。だがそのあとに続いたのは、恐れに近い感情だった。


「……でも……なんだろう……ちょっと……怖い……」


 歯を噛みしめる。悟の走りは、確かに異次元だった。

 でも、それはまるで──命を削っているようにも見えた。


 シミュレーターでは見たこともないようなライン。誰も試さないタイミングでの加速。まるで、生き急ぐような──そんな走りだった。


だが──天は、ついに牙を剥いた。


 雨足が急激に強まる。


 古川がすぐさま指示を出す。


「この周で入れるぞ!準備だ!」


 ワイパーが追いつかない。視界が滲む。だが、悟のアクセルは緩まない。


「……早矢……!お前と……表彰台の真ん中に、立ちてぇんだよ……!」


その瞬間だった──


 S字の先、微妙に傾斜した路面に、雨が流れを作っていた。


──川。


 悟のマシンが、その水の筋に乗った刹那、リアが浮いた。


「……くっ!」


 滑る。斜めにずれ、コントロールを失う。

フロントがバリアへ向かい、次の瞬間、マシンは宙を舞った。


 ぐるりと回転、逆さまでグラベルに叩きつけられ──


 タイヤバリアへ、真っ逆さまに突き刺さるように止まった。


サーキットに、サイレンが鳴り響く。


「さ……悟ーっ!!」

「悟さんっ!!」


 ピットが一気に騒然となる。古川の絶叫。早矢の悲鳴。


 瞬間的に振られた赤旗レッドフラッグ

レースは即座に中断された。


 古川が無線で呼びかける。


「悟!さとるー!おい、大丈夫か?無事かー?」


 逆さまとなったマシンのコックピット、意識がもうろうとする中、悟は力をふり絞り、


「……は……早矢……すまん……これが……俺の……限界だった……」


 かすれた声に、早矢は首を振り、目から溢れる涙を止められなかった。


「……いや……違う……悟さん……!」


 マシンから救出された悟は意識を失っていた。担架に乗せられ、ドクターヘリで空へ飛び立っていった。


 早矢の涙と声が雨と共に降り続けていた──。


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