Lap 25「限界の、その先へ」
他のマシンが次々とレインタイヤでピットアウトしていく中、ドライタイヤのまま悟のLEXUS RC F GT3は、リアを小さく滑らせながらコースへと飛び出していった。
その姿に、呆然と見送る早矢。
「え……ドライのまま?」
古川が横で静かに言った。
「悟の希望だ。……今から目を離すな。しっかりと、悟の走りを見るんだ」
小粒の雨がウィンドウを叩く。路面はじわじわと濡れ始め、グリップが不安定になる難しい状況──だが、悟の手には迷いがなかった。
「……いいぞ、もっとだ……!」
ステアリングを握る指に力がこもる。マシンはコーナーごとにリアをわずかに流しながらも、滑る寸前でグリップを取り戻す。
まるで限界の淵をなぞるような走り。
「調子が……いい。こんな感触……初めてだ」
ヘルメットの奥で、悟は自分でも驚くほど冷静だった。反射神経の衰えも、集中力の乱れもない。むしろ、すべての感覚が研ぎ澄まされていく。
一方その頃、ピットでは──
先ほど早矢のマシンに接触したGT500ドライバーが、深々と頭を下げていた。
「……申し訳ありませんでした。本当に、僕のミスです」
その顔は若く、悔しさと恐縮が入り混じった表情。
古川が一歩前に出かけたその時、早矢が静かに立ち塞がるように前へ出た。
「気にしないでください。……避けるのが下手だった私にも非がありますから」
その言葉に、500ドライバーは目を見開いたまま、しばし言葉を失った。だがすぐに、少し照れたように口を開く。
「……でも、それにしても……悟さん、このコンディションで……鬼の走りですね。すごすぎますよ、マジで……」
何かに取り憑かれたような走りだった。滑る路面をも恐れず、悟は攻めた。誰よりも深くブレーキを残し、誰よりも早くアクセルを踏んだ。
タイヤが悲鳴を上げ、マシンが吠える──
それでも悟は前へ出た。いや、前へ出ようとしていた。
「……まだだ。まだトップになってねぇ……!」
目の前には、今やトップのマシンがはっきりと見えている。周回遅れの処理も完璧だった。
気づけばモニターに「Fastest Lap」の表示。
実況ブースからは驚嘆の声。
「まさに鬼神の走り!!」
ピット全体がどよめくなか──
その画面を見つめていた早矢の唇が、かすかに震えた。
「……すごい……」
思わず漏れた感嘆。だがそのあとに続いたのは、恐れに近い感情だった。
「……でも……なんだろう……ちょっと……怖い……」
歯を噛みしめる。悟の走りは、確かに異次元だった。
でも、それはまるで──命を削っているようにも見えた。
シミュレーターでは見たこともないようなライン。誰も試さないタイミングでの加速。まるで、生き急ぐような──そんな走りだった。
だが──天は、ついに牙を剥いた。
雨足が急激に強まる。
古川がすぐさま指示を出す。
「この周で入れるぞ!準備だ!」
ワイパーが追いつかない。視界が滲む。だが、悟のアクセルは緩まない。
「……早矢……!お前と……表彰台の真ん中に、立ちてぇんだよ……!」
その瞬間だった──
S字の先、微妙に傾斜した路面に、雨が流れを作っていた。
──川。
悟のマシンが、その水の筋に乗った刹那、リアが浮いた。
「……くっ!」
滑る。斜めにずれ、コントロールを失う。
フロントがバリアへ向かい、次の瞬間、マシンは宙を舞った。
ぐるりと回転、逆さまでグラベルに叩きつけられ──
タイヤバリアへ、真っ逆さまに突き刺さるように止まった。
サーキットに、サイレンが鳴り響く。
「さ……悟ーっ!!」
「悟さんっ!!」
ピットが一気に騒然となる。古川の絶叫。早矢の悲鳴。
瞬間的に振られた赤旗。
レースは即座に中断された。
古川が無線で呼びかける。
「悟!さとるー!おい、大丈夫か?無事かー?」
逆さまとなったマシンのコックピット、意識がもうろうとする中、悟は力をふり絞り、
「……は……早矢……すまん……これが……俺の……限界だった……」
かすれた声に、早矢は首を振り、目から溢れる涙を止められなかった。
「……いや……違う……悟さん……!」
マシンから救出された悟は意識を失っていた。担架に乗せられ、ドクターヘリで空へ飛び立っていった。
早矢の涙と声が雨と共に降り続けていた──。




