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86の約束  作者: 仙道 神明


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Lap 22「葛藤と絆」

スーパーGT公式テスト・岡山


 3月初旬。まだ肌寒さが残る朝、岡山国際サーキットには、GT300のテスト走行を見守る関係者やメディアが集まっていた。

 早矢、そして同期の悠斗が、ピット裏でデータや走行プランについて言葉を交わしていた。


 そこへ、どこか軽薄そうな笑みを浮かべた男がひょっこり顔を出す。


「よお、お二人さん! しばらくだなあ!」


 声の主は──椎名。


 真新しいチームジャンパーを羽織り、GT300のエントリーリストにその名を刻んでいる。


「お? 悠斗! ……おいおい、早矢と仲良くしてんじゃねーよ! まさか、狙ってんじゃないだろうな~?」


 からかうような椎名の調子に、早矢は呆れ顔でため息をついた。


「ばーか」


 しかし、悠斗はニヤリと笑って一言。


「椎名、残念だったな。早矢にはちゃんと彼氏いるから──」


「な、なんだとー!?」


 声を上げて椎名がのけぞると、早矢が思わず慌てて制止した。


「ちょっ、余計なこと言わなくていいからっ!」


 耳まで赤くなりながらも、背を向けて歩き出す。


「……じゃ、お互い頑張ろうね!」


 それだけ言って、椎名の返事も聞かずに早矢はピット方面へ戻っていった。


「お、おい、待てよー……!」


 取り残された椎名が情けない声を漏らす中──悠斗が肩をすくめ、ぽつりと呟いた。


(……俺もお前のこと……)


 彼はその先の言葉を胸の奥にしまい込み、静かに視線を早矢の背中に向けた。


──午後。


 岡山国際サーキットの空気が、熱気を帯びはじめる。


 GT300クラスの走行セッションが始まった。


 エンジンの咆哮が響き渡る中、Lexus RC F GT3がピットレーンを滑り出す。ドライバーは早矢。

 インスタレーションラップを終えた彼女は、即座にペースを上げていった。


「……悪くない、むしろ、いい感じ」


 ステアリングを握る指先に伝わる振動。タイヤの接地感。挙動の予兆と応答──

 彼女の身体が、マシンとシンクロしていく。


 ピットでは古川がモニターを注視していた。セクタータイムは安定し、想定よりも速い。

 そして数分後、交代した悟がステアリングを握る。


「行ってくるわ」


 軽く手を挙げ、ヘルメット越しに笑みを浮かべる悟。その背中を見送りながら、早矢がぽつりと漏らした。


「……なんか今日、すごく落ち着いてる」


 マシンは静かにコースインし、悟は淡々と周回を重ねた。


 スムーズなライン取り、バランスのいいブレーキングと加速──

 彼自身の操作というより、何かが身体に染み込んでいるかのような自然さだった。


「タイムも悪くない。セクターごとのバラつきも最小限……あいつ、ちゃんと進化してるな」


 古川がにやりと笑った。


 悟がピットに戻ってくると、車内から降りてヘルメットを脱ぎ、深呼吸を一つ。


「……いや、久しぶりに、いい走りができた気がする」


 早矢と視線が合う。彼女は何も言わず、ただうなずいた。


 確かに感じていた。この男は、まだ“先”を目指している──


 その日のテストは、目立ったトラブルもなく、無難に終わった。

 マシンの挙動は安定しており、データも良好。


 ただ──何かが引っかかった。


 それが明確に姿を現したのは、3月下旬、富士スピードウェイでのテストだった。

 午前の走行枠、悟は周回を重ねながら、徐々にラップタイムを落とし始めた。


「クリップを外した……」


 ステアリングを切るタイミングがわずかに遅れる。右手の修正が遅れ、アウトへ膨らむ──

わずかなズレが、神経をざらつかせる。


 走行を終えた悟は無言でピットに戻り、ヘルメットを脱がず、そのままガレージの奥へと歩いていった。

 タイヤラックの一角に背をもたれ、軽くうつむく。


「……ちくしょう……」


 絞り出すような声が、誰にも聞かれず空気に溶けた。


 一方、モニタを覗き込んでいた古川は、険しい顔でノートにペンを走らせながらつぶやいた。


「……目だな。いや……目だけじゃない。身体も……ついていかなくなってきてる……」


 隣でメカニックが顔を上げた。


「古川さん、それって──」


 古川はため息まじりに言った。


「あいつさ、年齢的に仕方ないんだけど……老化現象と戦ってんだよ。視力、反射神経、集中力──全部、落ちてきてる。それを技術とトレーニングで必死にカバーしてるだけだ」


 後ろで聞いていた早矢の顔がこわばった。


「……うそ……」


 あの穏やかな走りの裏に、そんな葛藤があったなんて──


 気づかなかった。


 いや、気づこうとしなかった自分を、強く責めた。


 彼女は無言で、静かに歩き出す。ガレージ奥、悟のもとへ。


 ヘルメットを被ったままの彼は、微動だにせずタイヤにもたれかかったままだった。


「……悟さん……」


 その声に、ようやく彼がゆっくり顔を上げた。バイザー越しにのぞく目には、疲労と、悔しさがにじんでいた。


「ごめん……気づいてあげられなくて……」


 そう言って、早矢はそっと彼の隣に立った。


 ガレージの静かな空間で、しばらく沈黙が流れた。やがて早矢が、静かに口を開く。


「悟さん……無理しないで。あなたがここまで走ってきたこと、私は知ってる。すごいことなの。」


 悟は視線を逸らしながら呟く。


「歳をとるのは仕方ない。でも、このままじゃ俺はお前の足を引っ張るだけだ。」


「そんなこと絶対にない!」


 早矢は強く言い切った。


「私、悟さんと一緒に走りたい。だから、支え合いたいの。」


 悟はその言葉に少し目を潤ませ、力強く頷いた。


「ありがとう、早矢。お前の言葉に甘えさせてもらうよ」


 そう呟いた悟の表情には、少しだけ安堵の色が浮かんだ。


 時は刻々と進み、春の風とともにレースシーズンが幕を開けようとしている。


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