Lap 22「葛藤と絆」
スーパーGT公式テスト・岡山
3月初旬。まだ肌寒さが残る朝、岡山国際サーキットには、GT300のテスト走行を見守る関係者やメディアが集まっていた。
早矢、そして同期の悠斗が、ピット裏でデータや走行プランについて言葉を交わしていた。
そこへ、どこか軽薄そうな笑みを浮かべた男がひょっこり顔を出す。
「よお、お二人さん! しばらくだなあ!」
声の主は──椎名。
真新しいチームジャンパーを羽織り、GT300のエントリーリストにその名を刻んでいる。
「お? 悠斗! ……おいおい、早矢と仲良くしてんじゃねーよ! まさか、狙ってんじゃないだろうな~?」
からかうような椎名の調子に、早矢は呆れ顔でため息をついた。
「ばーか」
しかし、悠斗はニヤリと笑って一言。
「椎名、残念だったな。早矢にはちゃんと彼氏いるから──」
「な、なんだとー!?」
声を上げて椎名がのけぞると、早矢が思わず慌てて制止した。
「ちょっ、余計なこと言わなくていいからっ!」
耳まで赤くなりながらも、背を向けて歩き出す。
「……じゃ、お互い頑張ろうね!」
それだけ言って、椎名の返事も聞かずに早矢はピット方面へ戻っていった。
「お、おい、待てよー……!」
取り残された椎名が情けない声を漏らす中──悠斗が肩をすくめ、ぽつりと呟いた。
(……俺もお前のこと……)
彼はその先の言葉を胸の奥にしまい込み、静かに視線を早矢の背中に向けた。
──午後。
岡山国際サーキットの空気が、熱気を帯びはじめる。
GT300クラスの走行セッションが始まった。
エンジンの咆哮が響き渡る中、Lexus RC F GT3がピットレーンを滑り出す。ドライバーは早矢。
インスタレーションラップを終えた彼女は、即座にペースを上げていった。
「……悪くない、むしろ、いい感じ」
ステアリングを握る指先に伝わる振動。タイヤの接地感。挙動の予兆と応答──
彼女の身体が、マシンとシンクロしていく。
ピットでは古川がモニターを注視していた。セクタータイムは安定し、想定よりも速い。
そして数分後、交代した悟がステアリングを握る。
「行ってくるわ」
軽く手を挙げ、ヘルメット越しに笑みを浮かべる悟。その背中を見送りながら、早矢がぽつりと漏らした。
「……なんか今日、すごく落ち着いてる」
マシンは静かにコースインし、悟は淡々と周回を重ねた。
スムーズなライン取り、バランスのいいブレーキングと加速──
彼自身の操作というより、何かが身体に染み込んでいるかのような自然さだった。
「タイムも悪くない。セクターごとのバラつきも最小限……あいつ、ちゃんと進化してるな」
古川がにやりと笑った。
悟がピットに戻ってくると、車内から降りてヘルメットを脱ぎ、深呼吸を一つ。
「……いや、久しぶりに、いい走りができた気がする」
早矢と視線が合う。彼女は何も言わず、ただうなずいた。
確かに感じていた。この男は、まだ“先”を目指している──
その日のテストは、目立ったトラブルもなく、無難に終わった。
マシンの挙動は安定しており、データも良好。
ただ──何かが引っかかった。
それが明確に姿を現したのは、3月下旬、富士スピードウェイでのテストだった。
午前の走行枠、悟は周回を重ねながら、徐々にラップタイムを落とし始めた。
「クリップを外した……」
ステアリングを切るタイミングがわずかに遅れる。右手の修正が遅れ、アウトへ膨らむ──
わずかなズレが、神経をざらつかせる。
走行を終えた悟は無言でピットに戻り、ヘルメットを脱がず、そのままガレージの奥へと歩いていった。
タイヤラックの一角に背をもたれ、軽くうつむく。
「……ちくしょう……」
絞り出すような声が、誰にも聞かれず空気に溶けた。
一方、モニタを覗き込んでいた古川は、険しい顔でノートにペンを走らせながらつぶやいた。
「……目だな。いや……目だけじゃない。身体も……ついていかなくなってきてる……」
隣でメカニックが顔を上げた。
「古川さん、それって──」
古川はため息まじりに言った。
「あいつさ、年齢的に仕方ないんだけど……老化現象と戦ってんだよ。視力、反射神経、集中力──全部、落ちてきてる。それを技術とトレーニングで必死にカバーしてるだけだ」
後ろで聞いていた早矢の顔がこわばった。
「……うそ……」
あの穏やかな走りの裏に、そんな葛藤があったなんて──
気づかなかった。
いや、気づこうとしなかった自分を、強く責めた。
彼女は無言で、静かに歩き出す。ガレージ奥、悟のもとへ。
ヘルメットを被ったままの彼は、微動だにせずタイヤにもたれかかったままだった。
「……悟さん……」
その声に、ようやく彼がゆっくり顔を上げた。バイザー越しにのぞく目には、疲労と、悔しさがにじんでいた。
「ごめん……気づいてあげられなくて……」
そう言って、早矢はそっと彼の隣に立った。
ガレージの静かな空間で、しばらく沈黙が流れた。やがて早矢が、静かに口を開く。
「悟さん……無理しないで。あなたがここまで走ってきたこと、私は知ってる。すごいことなの。」
悟は視線を逸らしながら呟く。
「歳をとるのは仕方ない。でも、このままじゃ俺はお前の足を引っ張るだけだ。」
「そんなこと絶対にない!」
早矢は強く言い切った。
「私、悟さんと一緒に走りたい。だから、支え合いたいの。」
悟はその言葉に少し目を潤ませ、力強く頷いた。
「ありがとう、早矢。お前の言葉に甘えさせてもらうよ」
そう呟いた悟の表情には、少しだけ安堵の色が浮かんだ。
時は刻々と進み、春の風とともにレースシーズンが幕を開けようとしている。




