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86の約束  作者: 仙道 神明


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Lap 19「山籠り」

── 12月初旬。


 悟はガレージ風馬にまったく顔を出していなかった。


「……もうっ!」


 早矢は、工具棚の前でスマホを睨みつけながら唸った。


「悟さん、全然返事くれないんですよ!

LINE既読になってるのに、スタンプだけとか、何それ!? 古川さん、何か知ってるでしょ?」


 向かいでタバコに火をつけようとしていた古川は、慌てて手を滑らせ、ライターを床に落とした。


「あー……うるさいうるさい。ちょ、ちょっと落ち着けって早矢」


「はい、じゃあ落ち着いたんで説明お願いします」


 早矢の視線が容赦なく突き刺さる。


 古川は数秒、渋い顔で天井を見つめてから、しぶしぶ口を開いた。


「あいつな……今、男を磨くために──山籠り中だとよ」


「……は?」


「いや、正確には“修行中”って言ってた。なんか、視力と反応速度を鍛えるとかなんとか……。俺にもあんまり詳しくは言わなかったけど、たぶん今、森の中で木の枝に囲まれてピンポン玉とか打ち返してると思う」


「……もういい、お疲れ様っ!」


 ぷいっと顔を背けて、早矢は事務所のドアをばたんと閉めた。


──だがその後、古川は静かに、あの時の会話を思い出していた。


数週間前の夜、ガレージ風馬の裏


「老化現象……か?」


 古川は黙って缶コーヒーを開けた。悟は、軽くため息をつきながら、壁にもたれかかっていた。


「なぁ古川。もう俺、目と手足の反応が落ちてきてる。落ちてきてる…って言うか、GT3のような高速マシンでは対応しきれないって事かな…」


「……」


「早矢が本気で300目指してるのに、俺が足引っ張っちゃ話にならん。だから……今さらだけど、やってみようと思ってさ。身体、作り直す」


「おい、無理すんなよ。年齢考えろ」


「無理は承知だ。でも、やらずに諦めるのは……性に合わん」


 古川は、悟の真剣な眼差しを見て、やれやれと肩をすくめた。


「……で? 早矢には言ったのか?」


「言うわけないだろ。心配させたくねぇんだよ」


「──ってことでさ」


 事務所のソファでフテ寝していた早矢に、古川がぽつりと声をかけた。


「悟から言伝あったんだわ。“24日、ここに来てくれ”ってよ」


「……!」


 ぱっと顔を上げた早矢は、さっきまでの不機嫌がウソのように、ぱあっと笑顔になった。


「24日ですね!? うん、うん! 来る! 行く! 朝からいます!」


「お、おう……」


 早矢のテンションについていけず、古川はそっと頭を掻いた。


(ま、バレるのも時間の問題だな……)


12月24日・朝──ガレージ風馬


 冬の空気は澄み切って、乾いた冷気があたりを包み込んでいた。

 まだシャッターも開いていない時間。ガレージ風馬の駐車場には、一台の赤いGR86が止まっていた。


──そのドライバー、早矢はエンジンを切ったあとも運転席でじっと空を見ていた。

 ひと足早い冬の朝陽が、ボンネットを淡く照らしていた。


 しばらくしてシャッターが開き、古川が顔を出す。


「お、お前……まだ開店前だぞ」


「うん、でも待ちきれなかった。……今日、悟さん来るんですよね?」


「来るよ。ちゃんと、来るさ」


 ストーブのきいた事務所でコーヒーを飲みながらくつろいでいると、静かに駐車場にもう一台のクルマが入ってきた。


「来た!」


早矢がガラス越しに声を上げた。


 見慣れたAE86が、かすかにエンジンを唸らせながら滑り込んできた。


 赤と白の新旧86が、ぴたりと並ぶ。


 時代を超えたツーショットに、3人は自然と笑顔になった。


 ガレージの一角に置かれた「グランツーリスモ」のコックピット。何気なくそのステアリングに手を伸ばした悟が、ぽつりとつぶやいた。


「なあ、ちょっと見てくれ」


「え? 今からやるの?」


 古川と早矢が興味深そうにのぞき込む。


 車種はLexus RC F GT3。コースは富士スピードウェイ。以前からシミュレータとして使用、記録を残していた。


一度目のラップ──


 画面のタイムが更新されるたび、2人の目が見開かれていく。


「……え、速い」


「おい、何だよこれ。前のタイムより……1秒以上詰めてるじゃねぇか」


「すごい悟さん!何かトレーニングしてたの?」


 悟は黙って画面を見つめ、しばらくしてポツリと答えた。


「ん?……山籠りで鍛えた」


「……はぁ〜〜、おっさんってほんと同じギャグ使うのね」


 早矢はあきれたような、でもどこか安心したような笑顔を浮かべた。


──ふと、悟が周囲を見渡しながら言った。


「てか、なんで早矢がここにいるんだ? 今日って約束してたっけか?」


 一瞬、空気が止まる。


「……」


 古川が妙にわざとらしい咳払いをして、テーブルのコーヒーカップを持ち上げた。


「おい悟、なんか……コーヒー飲みたいよな? なっ?

なぁ早矢ちゃん、悟にコーヒー淹れてあげてよ! お前、好きだよな、早矢が淹れるコーヒー」


「あっ、はいっ!」


 早矢は急にぱっと表情を明るくして、喜々として隣室の給湯スペースへ向かった。


 扉が閉まったのを確認して、古川がこっそり悟に近寄る。


「……で? どうだったよ、修行の成果は」


 悟は息を吐き、かすかに目を細めた。


「……目も反応も、若い頃には戻らんよ。でもな、ちょっとだけ……マシになった気がする。

少なくとも、諦める理由は減った」


 古川はうなずいた。


「じゃあ、次は“証明”だな」


「……あぁ。あいつの隣に立つために、な」


──静かに再始動の音が響く。


 ホリデーシーズンの朝、赤と白の86が同じ空を見上げていた。


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