Lap 19「山籠り」
── 12月初旬。
悟はガレージ風馬にまったく顔を出していなかった。
「……もうっ!」
早矢は、工具棚の前でスマホを睨みつけながら唸った。
「悟さん、全然返事くれないんですよ!
LINE既読になってるのに、スタンプだけとか、何それ!? 古川さん、何か知ってるでしょ?」
向かいでタバコに火をつけようとしていた古川は、慌てて手を滑らせ、ライターを床に落とした。
「あー……うるさいうるさい。ちょ、ちょっと落ち着けって早矢」
「はい、じゃあ落ち着いたんで説明お願いします」
早矢の視線が容赦なく突き刺さる。
古川は数秒、渋い顔で天井を見つめてから、しぶしぶ口を開いた。
「あいつな……今、男を磨くために──山籠り中だとよ」
「……は?」
「いや、正確には“修行中”って言ってた。なんか、視力と反応速度を鍛えるとかなんとか……。俺にもあんまり詳しくは言わなかったけど、たぶん今、森の中で木の枝に囲まれてピンポン玉とか打ち返してると思う」
「……もういい、お疲れ様っ!」
ぷいっと顔を背けて、早矢は事務所のドアをばたんと閉めた。
──だがその後、古川は静かに、あの時の会話を思い出していた。
数週間前の夜、ガレージ風馬の裏
「老化現象……か?」
古川は黙って缶コーヒーを開けた。悟は、軽くため息をつきながら、壁にもたれかかっていた。
「なぁ古川。もう俺、目と手足の反応が落ちてきてる。落ちてきてる…って言うか、GT3のような高速マシンでは対応しきれないって事かな…」
「……」
「早矢が本気で300目指してるのに、俺が足引っ張っちゃ話にならん。だから……今さらだけど、やってみようと思ってさ。身体、作り直す」
「おい、無理すんなよ。年齢考えろ」
「無理は承知だ。でも、やらずに諦めるのは……性に合わん」
古川は、悟の真剣な眼差しを見て、やれやれと肩をすくめた。
「……で? 早矢には言ったのか?」
「言うわけないだろ。心配させたくねぇんだよ」
「──ってことでさ」
事務所のソファでフテ寝していた早矢に、古川がぽつりと声をかけた。
「悟から言伝あったんだわ。“24日、ここに来てくれ”ってよ」
「……!」
ぱっと顔を上げた早矢は、さっきまでの不機嫌がウソのように、ぱあっと笑顔になった。
「24日ですね!? うん、うん! 来る! 行く! 朝からいます!」
「お、おう……」
早矢のテンションについていけず、古川はそっと頭を掻いた。
(ま、バレるのも時間の問題だな……)
12月24日・朝──ガレージ風馬
冬の空気は澄み切って、乾いた冷気があたりを包み込んでいた。
まだシャッターも開いていない時間。ガレージ風馬の駐車場には、一台の赤いGR86が止まっていた。
──そのドライバー、早矢はエンジンを切ったあとも運転席でじっと空を見ていた。
ひと足早い冬の朝陽が、ボンネットを淡く照らしていた。
しばらくしてシャッターが開き、古川が顔を出す。
「お、お前……まだ開店前だぞ」
「うん、でも待ちきれなかった。……今日、悟さん来るんですよね?」
「来るよ。ちゃんと、来るさ」
ストーブのきいた事務所でコーヒーを飲みながらくつろいでいると、静かに駐車場にもう一台のクルマが入ってきた。
「来た!」
早矢がガラス越しに声を上げた。
見慣れたAE86が、かすかにエンジンを唸らせながら滑り込んできた。
赤と白の新旧86が、ぴたりと並ぶ。
時代を超えたツーショットに、3人は自然と笑顔になった。
ガレージの一角に置かれた「グランツーリスモ」のコックピット。何気なくそのステアリングに手を伸ばした悟が、ぽつりとつぶやいた。
「なあ、ちょっと見てくれ」
「え? 今からやるの?」
古川と早矢が興味深そうにのぞき込む。
車種はLexus RC F GT3。コースは富士スピードウェイ。以前からシミュレータとして使用、記録を残していた。
一度目のラップ──
画面のタイムが更新されるたび、2人の目が見開かれていく。
「……え、速い」
「おい、何だよこれ。前のタイムより……1秒以上詰めてるじゃねぇか」
「すごい悟さん!何かトレーニングしてたの?」
悟は黙って画面を見つめ、しばらくしてポツリと答えた。
「ん?……山籠りで鍛えた」
「……はぁ〜〜、おっさんってほんと同じギャグ使うのね」
早矢はあきれたような、でもどこか安心したような笑顔を浮かべた。
──ふと、悟が周囲を見渡しながら言った。
「てか、なんで早矢がここにいるんだ? 今日って約束してたっけか?」
一瞬、空気が止まる。
「……」
古川が妙にわざとらしい咳払いをして、テーブルのコーヒーカップを持ち上げた。
「おい悟、なんか……コーヒー飲みたいよな? なっ?
なぁ早矢ちゃん、悟にコーヒー淹れてあげてよ! お前、好きだよな、早矢が淹れるコーヒー」
「あっ、はいっ!」
早矢は急にぱっと表情を明るくして、喜々として隣室の給湯スペースへ向かった。
扉が閉まったのを確認して、古川がこっそり悟に近寄る。
「……で? どうだったよ、修行の成果は」
悟は息を吐き、かすかに目を細めた。
「……目も反応も、若い頃には戻らんよ。でもな、ちょっとだけ……マシになった気がする。
少なくとも、諦める理由は減った」
古川はうなずいた。
「じゃあ、次は“証明”だな」
「……あぁ。あいつの隣に立つために、な」
──静かに再始動の音が響く。
ホリデーシーズンの朝、赤と白の86が同じ空を見上げていた。




