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86の約束  作者: 仙道 神明


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17/26

Lap 17「異変」

 ガレージ風馬のチームは、岡山国際サーキットへとやって来た。


 早矢と悟の人気がスポンサーの数を増やし、トランポやピット装備も少しずつ整い始めている。

 早矢と悟のペアは、SNSでも「歳の差コンビ」「昭和と令和の奇跡」などと呼ばれ話題になっていた。


 ピットの壁には、先日スポンサーとなった化粧品メーカーの早矢ポスターが貼られており、メカニックたちが「マジで本人…?」と話題にしている。

 早矢は照れ笑いしながら、キャップで顔を隠すようにしていた。


古川「今回はのんびりやろうと思う。」


 チーム代表となった古川は、今回のレースを「実戦テスト」と位置づけていた。

 車両やチームの状態を確かめること、タイヤの消耗傾向やピット作業の精度を把握すること──それが目的だった。


 無理して結果を狙うのではなく、「まずは完走」。


 そんな空気がピットに流れていた。


 フリー走行が始まり、悟がステアリングを握ってコースインする。

 LEXUS RC F GT3は、チューニングカーとはまるで違う反応を示し、悟の感覚に新鮮な緊張感を与えた。

 だが、10周目。最終コーナーの立ち上がりで、軽くアウト側のグラベルにタイヤを落とす。幸い車体に大きな損傷はなく、そのままピットへ戻った。


 悟がヘルメットを脱ぎ、黙って車から降りると、古川と早矢がすぐに駆け寄ってくる。


「車は問題なさそうだ。しかし珍しいな悟、あそこでミスるとは」


「悟さんでもミスるんですね〜、ちょっと安心しました(笑)」


 悟は曖昧な笑顔で「そうかもな」と返したが、その目はどこか遠くを見ていた。


 一人ピット裏へ出ると、遠くコースの方を見やり、静かに息を吐く。

 最終コーナーの進入──ほんのわずか、だが確実にクリップを外していた。


 それが判断ミスだったのか、反応速度の低下なのか、自問する。

 悟は薄々気づいていた。身体の反応が、ほんの少しずつ鈍くなっていることを。

 だが、それを認めることが怖かった。目の衰えか、神経の伝達か──それを考えた瞬間、心がざわついた。


 それでも、今さら立ち止まるつもりはない。


 早矢がスーパーGTの舞台に立つその日まで──それまで、自分の身体が保ってくれればそれでいい。


 レース当日。岡山国際サーキットは、秋の澄んだ空気に包まれていた。


 決勝が始まると、まずは悟がステアリングを握った。しかしその走りは、これまでのような冴えを見せなかった。

 ラップタイムは安定せず、タイヤの摩耗も予定より早い。


 ピットウォールの周囲では、観客のざわめきが聞こえる。


「なんだ、普通以下じゃねーか」

「ネットで話題になってたから期待してたけど…なんか拍子抜け」

「結局、オジサンか…たいして速くねぇな」


 耳に入るたび、古川は眉をしかめたが、それでも冷静に状況を見守っていた。

 交代後、早矢は実に安定したラップを刻み、トラブルもなく走り切って初レースを終える。


 レース後のミーティングは、宿泊先のホテルに設けられた会議室で行われた。

 コーヒーの香りがほんのり漂うなか、モニターにはレースのデータログが映し出されている。


「いやあ、すまんすまん」


 会議室に入ってきた悟が、片手を挙げて笑った。


「古川が“勝ち負けじゃない”って言うから、ちょっと手抜きしすぎたかな」


「アホかお前は」


 古川が呆れ顔で肩をすくめる。


「……まあいい。今日はタイヤの消耗の仕方、セットアップの傾向、それにピット作業の課題も見えた。俺たちにとっては、十分意味のある一戦だったさ」


 ミーティングが終わったあと、悟はひとりホテルのロビーに降りていき、窓際の席でコーヒーを飲んでいた。

 静かな夜だった。街の明かりが、ガラス越しにぼんやりと滲んで見える。


「……悟さん?」


 少し遅れて降りてきた早矢が、静かに声をかけた。


「さっきから、ずっと考え事してる顔してました。なんか…いつもの悟さんと違うんです」


 悟は少し驚いたように顔を上げた。


「違う?」


「走りから出る“オーラ”っていうか……なんて言えばいいのかな、魂が薄かったっていうか」


 早矢は少し悩みながら言葉を選んだ。


「技術の問題じゃないんです。今日の悟さん、まるで何かを我慢してるような…そんな感じがしました」


 一瞬だけ、悟の表情が強張ったが──すぐに穏やかな笑みに変わった。


「心配かけてすまんな。大丈夫、大丈夫」


 悟はカップを置いて、笑いながら言った。


「古川の変な指示でテンション下がりすぎただけだって。たまには、のんびり走るのもいいもんだよ」


「……ほんとに?」


「ああ。ほんとに」


 そう言う悟の声に、少しだけ力がこもっていた。だが早矢は、それでもどこか拭いきれない不安を胸に抱えていた。


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